古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大野原愛宕神社

 
        
             
・所在地 埼玉県秩父市大野原3391
             
・ご祭神 軻具土命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例大祭 424日 七五三祈願祭 1115日 
                  新穀感謝祭 
1124日 大祓いの式 1231
 秩父市黒谷地域に鎮座する聖神社から国道140号線で南下すること4㎞程、「愛宕神社前」交差点の斜向かいに大野原愛宕神社は鎮座する。この社は秩父鉄道大野原駅から徒歩5分程度の国道沿いにあり、遠目から見ても境内一帯に広がる豊かな社叢林は、その社の神聖さを物語ると同時に、地域の方々が如何にこの社を大切に守っているかを推し量ることができよう。
 境内北側には社務所があり、「愛宕神社前」交差点を右折し、すぐ先には交差点角地付近に設置されている「多機能トイレ」と社務所との間に境内に入る道が見え、そこに入ると広々とした駐車スペースも確保されている。一応他の参拝等の客(と言っても参拝する者は筆者だけだが)に迷惑のかからない場所に停めてから参拝を開始した。
        
             大野原愛宕神社入口付近の社号標柱と鳥居
 交通量もそこそこに多い国道沿いに鎮座しているのも関わらず、境内はひっそりと静まり返っている。境内周囲を覆っている豊かな社叢林が下界との境界線を敷いているようにも感じた。午後の参拝時間で学生の帰宅時間に重なり、帰路を急ぐ学生や、境内の一角で語り合う数名の姿も見られたが、騒ぐこともなく雑談を交わしながら過ごされていて、何とも微笑ましい風景がそこにはある。不思議とこれ程広い境内にも関わらず、境内にはゴミ等も落ちていなく、日々の手入れも行き届いているようだ。
        
               参道途中に設置されている案内板
 御由緒
 愛宕神社は、一六一九(元和五)年未歳正月二十四日に現在地に建立し、杉や檜を植えて愛宕の森を作った 。祭神には、軻遇突智神と伊邪那美神を祭っている 。その後検地により、東西四十間南北五十二間の五反九畝十一歩に縮小された。
 そして、一七五五(宝暦五)年に現在の上屋を造営し、一八七一(明治四)年に大野原村の村社となる。また、一九二八(昭和三)年に拝殿を建設した。当神社は、大野原の鎮守として信仰されるとともに、火防火傷除けの神として近郷近在から信仰を集めてきた。
 当社の年中行事は、元旦祭・追難祭 (節分)・祈年祭・例大祭(四月二十四日)・七五三祈願祭(十一月十五日)・新穀感謝祭(十一月二十四日)・大祓いの式(十二月三十一日)となっている。中でも一番賑やかなのが、毎年四月二十四日の例大祭で、神楽などが行われる。
                                    境内案内板より引用
 大野原愛宕神社のご祭神である「軻具土命」は、日本神話にみえる神の名であり、火の神。『古事記』では迦具土神と記し、『古事記神話』ではヒノカグツチノカミ,ヒノカカビコノカミ,ヒノヤギハヤオノカミなど,火の光輝,燃焼などの機能に基づく異名を掲げる。
 この火神は伊奘冉尊(イザナミノミコト)が神生みの最後に生んだ神で,イザナミは陰部を焼かれて死ぬ。夫の伊邪那岐尊(イザナキノミコト)は怒って火神を斬る。その血(火の色)から刀剣,雷神,水神が生まれ,また死体から山の神々(山焼きの表象か)が生まれたという。
 母神に大火傷を負わせただけでなく、死に至らしめた神であり、生まれてすぐに父神に殺されてしまう、可哀想な神であるのだが、後世において火を扱う業者からの崇敬が高く、鍛冶業や焼き物業といった業者から高く崇敬され、防火の神、鍛冶の神、陶器の神の神格を持つ特異な神である。
 秋葉山本宮秋葉神社(静岡県浜松市)を始めとする全国の秋葉神社や愛宕神社、野々宮神社(京都市右京区、東京都港区、大阪府堺市ほか全国)などで祀られている。
       
           参道途中には1本の御神木が聳え立つ(写真左・右)
 
       参道左手にある神楽殿           右手には社務所もある。
『日本歴史地名大系 』「大野原村」の解説
 [現在地名]秩父市大野原
 
横瀬川を境に黒谷村の南、荒川右岸に位置する。南は大宮郷、東は山田村、西は荒川を境に寺尾村。秩父往還・川越秩父道の分岐点にあたる。地名は、原野が多かったことに由来するとされる(秩父志)。縄文時代中期・後期の集落跡、古墳群などがある。田園簿では高一八七石余・此永三七貫五八九文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となり、同領で幕末に至る。元禄郷帳では高四一七石余。天明六年(一七八六)秩父郡村々石高之帳(秩父市誌)によると反別は田三町一反余・畑一四七町五反余。
        
                                  静かな境内
 案内板によると嘗てはもっと広い社地であり、その後検地により縮小されたと記載があるが、今でも十分に広い。
 鎮座地大野原の地名は、『秩父志』に「此村古昔ヨリ原野多ケレパ名トナルベシ」とあり、また、『風土記稿』に「墾開の年代を伝へずといへども、原野の地をひらきし村なり」とあるところから、古くはこの地に原野が広がっていたことにちなんだものという
        
                                      拝 殿
 大野原愛宕神社は、口碑によれば、元来は村の東に位置する字峰沢にある前山の山上に祀られていたが、1619年に字宮崎にある現在の境内へ遷座したという。この話に出てくる前山には、往古、妙見宮(現秩父神社)が祀られていたと伝えられ、妙見宮は、その後、宮崎、柞の森と社地を移していったという。これらの伝説と、秩父神社文書の「嘉禎の火雷後妙見宮を柞森に祭祀されその宮籬の辺りに火神愛宕の神祠を営みける」という記事と合わせて考えると、当社は、四条天皇の嘉禎元年(一二三五)九月の落雷による秩父神社が社殿焼失のために遷座した妙見宮の跡地に火防の神として祀られた社で、妙見宮がその土地を移すにしたがって、当社も前山から宮崎に社地を移したと見ることもできるが、いまだ推論の域を出ないとの事だ。
 
          本 殿             本殿東側奥には秩父鉄道の線路が見える。
        
                 社殿を横側から見る。
 拝殿は基壇上にあり、また本殿に移るにつれて高台となっている。調べてみるとこの高台は古墳のようで、周辺には「大野原古墳群」と呼ばれる古墳群が存在している。
 大野原古墳群は、横瀬川左岸の段丘上に形成され、78基の古墳が確認されている。かつては「百八塚」とも呼ばれ、立地する地区の名前をとって「黒草支群」、「大野原支群」、「蓼沼支群」、「下小川支群」の4支群に分けられている。築造時期は7世紀後半から8世紀初頭と見られている。黒谷に鎮座する聖神社には大野原古墳群出土の鉄刀、鐔、鉄鏃、蕨手刀、円筒埴輪、和同開珎が保存されている。
 この古墳群の一つである大野原愛宕神社の基壇下周辺には「大野原24号墳」があり、径13.0mの円墳という。
        
             境内南東部に鎮座する境内社・王子稲荷社
 
  稲荷社特有の赤い鳥居の列が目を引く。          王子稲荷社
        
        鳥居の右側並びに祀られている「弁財天」「浅間大神」の石祠。
 屋根付きの「囲」に丁重に祀られている。「囲」と表現したが、正式名は何であろうか。知っている方はご教授願いたい。それにしても意外と立派である。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「秩父鉄道HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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