古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

浅羽野土屋神社


        
             
・所在地 埼玉県坂戸市浅羽野2211
             
・ご祭神 不明(一説には大山祇神)
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
 地図 https://www.google.com/maps/@35.952725,139.3804772,17z?hl=ja&entry=ttu

 森戸国渭地祇神社から埼玉県道74号日高川島線を坂戸市街地方向に東行、途中1.6㎞先にある「二本松」交差点から更に1.5㎞程直進すると、左側に浅羽野土屋神社の鳥居が見えてくる。参道の西側隣には専用駐車場も完備されているので、参拝前の駐車スペース確保の心配をしなくて済むのは大変ありがたいことだ。
        
                     県道と一般道が交わるY字路の先端部に建つ鳥居
        
   浅羽野土屋神社の鳥居の側に、「摩利支尊天(摩利支天・まりしてん)」の石碑がある。

 この摩利支天は、仏教の守護神である天部の一尊。梵天の子、または日天の妃ともいわれ、摩里支菩薩、威光菩薩とも呼ばれている。摩利支天(マーリーチー)は陽炎、太陽の光、月の光を意味する「マリーチ」を神格化したもので、由来は古代インドの『リグ・ヴェーダ』に登場するウシャスという暁の女神であると考えられている。陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の神通力を有すとされる。これらの特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があった。
 この神は、日本において、護身や蓄財などの神として中世以降信仰を集めた。楠木正成は、兜の中に摩利支天の小像を篭めていたという。また、毛利元就や立花道雪は「摩利支天の旗」を旗印として用いた。山本勘助や前田利家や立花宗茂といった武将も摩利支天を信仰していたと伝えられていて、一方、禅宗や日蓮宗等の日本仏教の一宗派でも護法善神として重視されている。
        
          街中にありながら、趣のある
浅羽野土屋神社の参道

新編武蔵風土記稿 上淺羽村条』では、この社のことを「土屋権現社」と記載している。「権現(ごんげん)」は、日本の神の神号の一つで、日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示すという
 現在は廃寺となっている「本山派修験山本坊配下大蔵院」が土屋権現社の別当寺である。「本山派修験山本坊」は、天台宗系の修験道の一派で、「越生山本坊」とも呼ばれ、京都聖護院本山派修験二十七先達の一つにも数えられ、最盛時には傘下に150ヶ寺を治め、入間・秩父・比企三郡のみならず、越後国や常陸国郡を支配する程の寺勢を示したという。本山派修験山本坊配下の大蔵院の管理下の元、浅羽野土屋神社の信仰形態も影響を与えていたと考えられよう。
        
                 二の鳥居付近を撮影。
 土屋神社の基壇部となっている古墳は,「土屋神社古墳」別名「浅羽野1号墳」とも呼ばれている。石室の形態から7世紀前半の築造(推定)と考えられていて、直径50mの円墳または帆立貝式前方後円墳とされている。坂戸市内でも大きな古墳の部類に入り,現在でもかなり大きな墳丘が残っている事が、二の鳥居付近からでも分かる
 
     二の鳥居を過ぎると境内となる。     二の鳥居の左側にある「神木スギ」の案内板
        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上淺羽村条』
・土屋権現社
 高さ一丈五尺許、四方七八間の塚の南面を深さ八尺程、高さ七尺程、洞の如くに穿ち、三方は石を壘で垣とし、屋の裏には長さ一丈許、文字をも失へる古碑を東西に渡し、茅を以て覆屋を設く、内に丈二尺七八寸なる恵美須の如き坐像のさまを、石にて作れるものを神體として置こは何等の神にて何の頃鎮座せしや、土屋の神號も詳ならず、されど此塚上に淺間の小祠を置、傍に凡六圍の老杉一樹あり、塚のさまは疑ふべきもなき古墳なれば、昔ここを領せし淺羽氏の墳にて彼神體は時の領主を石像とせしにや、又土屋某なんと云る人領せしこと有て、其人の石像を安じ、土屋の神號を加へしや或は土を穿てかかる屋を設けたれば、それらの名によるにや、すべて土人の傳へを失ひたれば、今よりはそれと定むべからず、村内大蔵院の持なり
・大蔵院
 清神山と號(号)す、本山派、西戸山本坊配下、開山明光延文三年八月三日寂せり、本尊不動を安ず、土屋神社は當(当)院の持にて、其社の物なりとて永正年中の鰐口を持傳ふれど、其彫たる文を以て考れば、當(当)村の物に非ることは議なく且七社宮と彫たれば、土屋神社のものに非ること明けし、さはあれ彼栗生田村に小名山王と云あり、昔山王の社ありしといへば、其所に掛しものにや、其鰐口の形をうつして左にいだせり

 上記『風土記稿』において、土屋神社に関する説明の中で古墳や石室について述べられているが、「文字をも失へる古碑」は板碑に使用される緑泥片岩(秩父石)の天井石であると思われる。内部に安置されている石像については「恵比須」のような石像としているが、これが何の像でいつ頃安置されたかは不明であると述べている。また、この塚は疑いなく古墳であるとしているが、この古墳が浅羽氏によって築造したものか、それとも嘗てこの地を所領としていた土屋某が築造したものか、地元の言い伝えも途絶えており、不明であるとしている。
        
                     本 殿
 本殿の真下は、コンクリートで固められていて、その中央部には横穴式石室への入口が開口している。その先に凝灰岩の切石積みの横穴式石室があるのだが、現在非公開であるという。
『埼玉の神社』では以下の解説が載せられている。
石室は本殿真下にあり中に石像がある。この石像は冠を着け合掌した座像で、高さが一・七メートルほどある。石室天井部石版には「武州入間郡浅羽郷別當大蔵院 奉修覆土屋大権現御寳前敬白 寛永四年丁亥九月一五日信州石屋藤沢忠兵衛」とあるが、これは前年に起こった大地震のために崩れた石室を修理したもので、石室内の神像はこの時修理に使用した石材と同様のものを使用していることから、忠兵衛が大蔵院の命を受けて土屋に坐す神として鑿をふるったものであろう。
社の創建については、村人が昔からある古木に囲まれた塚に対して畏敬の念を感じ、村鎮守として小祠を建てたのに始まると思われるが、そのほかにも、本山派修験山本坊配下大蔵院が当社の別当として、信仰的にも影響を与えていると考えられる。これは本社の土屋権現社よりも末社浅間社の信仰に端的に表れ、塚上にある社を浅間山に見立てて盛んに加持祈祷を行った。また、古墳を修理した時代には浅間山・富士山の噴火が続き、関東一円に多くの灰を降らせている。このことを考え併せると、塚上にあった社と修験者の活動は無関係とは思われないものがある。
 
     社殿の左側に鎮座する境内社       天満宮等の手前に祀られている石祠等
      天満宮(左)・稲荷神社(右)

    社殿右側にある出羽三山神の石碑        出羽三山神の石碑から石段を登ると境内社 
                           浅間神社が祀られている。
      
      本殿の奥には樹齢千年を超えると伝えられている神木スギが立っている。
             埼玉県指定天然記念物に指定されている。

 土屋神社神木スギ 埼玉県指定天然記念物
 古墳時代の終わりごろ(一四〇〇年ぐらい前)に造られた円墳の上に、土屋神社の社殿があり、その後ろに神木スギが立っています。樹齢が千年を超えると言われ、古墳と神社を長い間、見守ってきました。
 樹齢千年を超えると伝えられている神木スギは、高さ二八m、幹まわり八・五m、根回り一一・三mとまさに巨木と言えます。七世紀に築造された円墳の頂上に、土屋神社の社殿があり、この後ろに神木スギが立っています。円墳は七世紀後半に築造されていますので、樹齢千年を超えるというのも大げさではありません。
 写真のように天上に張り出した枝の多くは葉をつけていないので、枯死したように見えますが、いくつかの枝には青々とした葉が息づいています。樹齢からかなり高齢のスギではありますが、坂戸の移り変わりを静かに見守ってきたのでしょう。
 枯れ枝の伐採を行なったり、樹勢回復のために根元の土壌を栄養のある土に替えたり、根を保護するために柵を設けたりしました。
 老木のため、太い幹といくつかの枝を残すだけになりましたが、春には新しい芽吹きも見られます。(以下略)
                                      案内板より引用

 古墳時代から悠久の時を経て、満身創痍の状態になっている現在でありながらも、尚この地の護り神である事には間違いない。神々しさすら覚えてしまう絶対的な存在感がそこにはある。
        
                                  境内右側にある神楽殿 

『坂戸市史・民俗資料編」には、この神木スギに関わる伝説が今でも残されている。昔、土屋神社の神木スギには「テンマサ」という化け物が住んでおり、弓矢を以って、当時2つあった太陽の1つを退治したといわれている。
 退治された太陽は、ばらばらになって地上に落ちたのだが、欠片の一部が天に残り、それがお月様になったと言われている。
 また、坂戸の北西に太陽の欠片が落ちたので、村の人々はそれを神様として祀り、「日を祀る」と書いて、「ニッサイ」と読み、後の入西(現坂戸市西部の辺り)村になったと言われている。

このような伝説が、史実であるかどうかは別にして、この地域に残る貴重な財産であることには間違いなく、これからも長く伝承して頂きたいと、切に願うものである。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「坂戸市史・民俗資料編」
    「坂戸市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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森戸国渭地祇神社

 森戸地域に鎮座する国渭地祇神社の創建は不詳。延暦年間(782年~806年)に坂上田村麻呂が東征の帰途に社殿を造立したとも、奥州藤原秀平が創建したとも伝えられている。社号は「国一熊野大権現」が訛ったものではないかと言われ、江戸時代には「熊野社」と称し、江戸幕府から朱印地10石を下賜され、森戸村の鎮守とされた。明治初年に別当を務めた修験大徳院の大徳氏によって、現在の国謂地祗神社と改称された。また、別名「森戸神社」と呼ばれている。
 平安時代927年の『延喜式神名帳』に記載のある「武蔵国 入間郡 国渭地祇社 小」の論社とされているが、一般には北野天神社(埼玉県所沢市小手指元町)が有力とされる。しかし、当社の社地から鎌倉期と思われる古瓦が出土していることや、樹相が古いということを考えると、古社であることは間違いない。
        
              
・所在地 埼玉県坂戸市森戸616
              
・ご祭神 八千矛命 天照皇大神 伊弉諾尊 伊弉冉尊
              
・社 格 『延喜式神名帳』武蔵国入間郡・五座の一
                   「国渭地祇社」の論社。旧
森戸村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例大祭 1015
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9352871,139.3551212,17z?entry=ttu

 厚川大家神社から一旦埼玉県道114号河越越生線を南東方向に進み、「一本松」交差点の五差路を右折する。同県道74号日高川島線に合流後、1.5㎞程南西方向に進むと、東武越生線・西大家駅の約100m手前で、進行方向右側に森戸国渭地祇神社の鳥居が見えてくる。
 因みに「国渭地祇」と書いて「くにいちぎ」と読む。変わった名称だ。
        
 今回所用があり、急ぎ参拝をしたこともあり、県道沿いに建つ鳥居や社号標等の撮影ができなかった中、「森戸の獅子舞」の看板のみ撮影していた。

 森戸の獅子舞  坂戸市指定無形民俗文化財
 秋になると豊年を祝う獅子舞が、市内の各地で行われます。竹で作った「ささら」と呼ばれる楽器を使って獅子舞を踊るので、「ささら舞」とも言われ、昔から地元の人々によって受継がれてきました。
 森戸の獅子舞は、江戸時代に始まったと伝えられ、国渭地祇神社と周辺の神社のお祭りに舞われます。
 獅子は悪霊払いの霊獣として崇められ、古来、祭りの主役として、獅子舞が全国各地で行われてきました。森戸の獅子舞は、江戸時代の安永六年(一七七七年)に始まったと伝わっていますが、記録などは残っていません。国渭地祇神社と周辺の神社へ、毎年十月十五日に奉納されます。
 獅子舞の演者は、雄獅子、雌獅子、中獅子の三頭で、これに山の神の天狗、軍配を振って舞いを盛り上げる配追い、花笠をかぶったささら子、これにほら貝、笛吹き、唄うたいが加わります。演目は「すり違い」、「竿がかり、「花すい」、「秋葉社の舞」、「宮まいり」があります。   獅子舞の当日は、ほら貝の合図で社殿を一周する「宮まいり」から始まり、境内で「すり違い」を舞います。四日市場、森戸の秋葉社へ行列を組んで行き、それぞれの神社に舞を奉納します。神社への行き来の間、国渭地祇神社の境内にもどり、「竿かがり」を舞い、最後に神社境内で「花すい」を奉納して舞納めとなります。行列の先頭を行く万燈には、天下泰平、五穀豊穣、風雨順調、氏子繁昌との願いが記されています。
 祭の当日に立てられるのぼり旗の文字は、巌谷修(児童文学者巌谷小波の父)の書によるものです。 平成十九年三月 坂戸市教育委員会
                                      案内板より引用 
      
        
               森戸国渭地祇神社  境内の様子
 高麗川の南側南岸に位置する。ここは川沿いが低地で、南に行くほどゆるやかに台地上になっていく。森戸国渭地祇神社はこの村の鎮守として鎮座し、社前の往来は旧鎌倉街道であると伝えている。
『日本歴史地名大系』 「森戸村」の解説
萱方(かやがた)村の南西、高麗川両岸にある。南東は中新田村・上新田村(現鶴ヶ島市)、西は市場村(現毛呂山町)。南西の四日市場村境を鎌倉街道が南北に、北寄りを川越越生道が東西に通る。小田原衆所領役帳には御馬廻衆久米玄蕃の所領として河越筋の森戸三五貫文がみえる。田園簿では田二九二石余・畑一七七石余、旗本藤掛領(二五九石余)と同朝比奈領(二〇九石余)。元禄一〇年(一六九七)川越藩領となり(「御知行替物控日記」大徳家文書)、宝永元年(一七〇四)上知され、その後一部が旗本深津領となる。残りは宝暦一二年(一七六二)から寛政七年(一七九五)まで三卿の清水領となり、「風土記稿」成立時には幕府領、文政五年(一八二二)下総古河藩領(「古河御家中并御加増地村高帳」比留間家文書)
        
  鳥居の正面に見えるお社は、森戸国渭地祇神社の社殿ではなく、境内社・八幡神社である。
 県道沿いにある鳥居の西側にも鳥居があり、そこからの参道正面に社殿が見える。もしかしたら本来はそこが嘗て正面入り口ではなかったのではなかろうか。

「埼玉の神社」において、当社は国一熊野大権現と称していた。この社名の国一は美称で、国で一番すばらしい社であるという意味が込められ、これが後に国渭地祇に転化されたものと思われる。このため社の創立は、越生の本山派修験山本坊と直接結びついていた別当三宮山大徳院の活動にかかわるものではないかと考えられる。
 社記には、延暦年中、坂上田村麻呂が東征の帰途、報賽のため社殿を再営し、下って奥州藤原秀衡が再建したと伝えている。
        
           境内社・八幡神社の右側に並ぶ「秋葉神社」「神庫」
 
        境内社・秋葉神社                神 庫
        
                     拝 殿
                    理由は不明だが、社殿は南西方向に向いている。
『新編武蔵風土記稿 森戸村条』
 熊野社
 當村の鎮守なり、慶安二年社領十石の御朱印を賜り、鎮守府将軍秀衡の勧請なりと傳るのみにて、證すべき記録もなければ信ずるに足らず、鳥居の前に一條の往来あり、往古は此街道を隔てて西に鳥居ありし由、今もそこを字して鳥居を云、往来北の方市場村より入、高麗川を渡て社の前に至れり、當村と四日市場村の間を過て、高麗郡中新田に貫けり、鎌倉古街道なりといへり、
末社。疱瘡神社、三島社、石尊社、秋葉社
 観音堂
 別當大徳院。三宮山と號す、本山修験山本坊の配下本尊不動を安ず、開山権律師月證と云、寂年は傳へず、されど本社の傍に觀應二年辛卯三月三日、右志者大檀那當住権律師月證逆修願予普及及法界自陀冏證無上菩提沙彌道妙彌尼妙安敬白と彫たる碑を建つ、此の月證當院の草創ならんには開山の年歴も推考すべし

             社殿右奥に聳え立つご神木の「シイの木」

 国渭地祇神社の社記には、延暦年中、「坂上田村麻呂」が東征の帰途、報賽のため社殿を再営し、下って奥州「藤原秀衡」が再建したと伝えている。何故奥州から遙かに離れた森戸の地に「藤原秀衡」が再建したと語られるようになったのだろうか。
 鍵となるキーワードは「国一熊野大権現」、つまり「熊野信仰」ではなかろうか。

 史実の上での藤原秀衡は平安後期の陸奥の豪族で、陸奥守・従五位上・鎮守府将軍。平家滅亡後は、源義経を匿って頼朝に対抗。奥州藤原氏の3代目として,奥羽一円に及ぶ支配を確立し、砂金の産出や大陸との貿易等により莫大な経済力を蓄え、京都の宇治平等院鳳凰堂を凌ぐ規模の無量光院を建立するなど、北方の地にまさに王道楽土を現出させるかの如き所業を遂げ、奥州藤原氏の最盛期を築いた人物である。
 藤原秀衡は冷静沈着にして豪胆な人物であったという。事実、秀衡が健在の間、頼朝は平泉に朝廷を通じて義経追討を要請し、「陸奥から都に貢上する馬と金は自分が仲介しよう」との書状を秀衡に送り牽制をかけるという書面上での行動しか起こしておらず、軍事行動には至っていない。これは頼朝が秀衡の君主としての器量を認めざるを得なかったことを示している。それほどまでに頼朝は秀衡を怖れていた。      
        
                    境内の様子

 東北地方では、平安時代末期から熊野信仰が広がったと言われており、全国に3000社以上ある熊野神社のうちおよそ700社が東北地方に存在する。ことに秀衡は信仰が篤かったと伝えられており、名取熊野三社(宮城県名取市に存在する熊野神社(熊野新宮社)・熊野本宮社・熊野那智神社の総称)と密接な関係を有していたという
 名取熊野三社は、東北地方の熊野信仰の中心的存在にあり、仙台湾を熊野灘、名取川を熊野川、高舘丘陵を熊野連山に模し、本宮・新宮・那智の三社が他の地域とは異なりそれぞれ別に勧請されている。紀伊熊野の三社それぞれを地理的・方角的に同様にセット状態で勧請しているのは非常に珍しく、全国の熊野神社の中でもここだけであるとされる
 三代藤原秀衡のとき、名取熊野別当の金剛別当秀綱が強大な武士団を率い、更に藤原泰衡の後見人になるなど、軍事的・宗教的に大きな力を持つようになった。奥州合戦の際も秀綱は平泉方につき、源頼朝の軍に抗戦した。伝承によると、秀綱は本吉四郎高衡(藤原高衡)や日詰五郎頼衡と共に高舘山の高舘城に籠り、20000の兵をもって頼朝を迎え撃ったという。最終的に泰衡が死亡した後も秀綱と高衡は生き残り、投降したのちに秀綱は赦され、高舘山に祭神を藤原秀衡とする高舘神社を建立したという。
 奥州藤原氏滅亡後も名取熊野三社は信仰を集め、多くの宿坊を擁する一大聖地として隆盛を誇った。特に熊野新宮社が中心を成すようになり、やがて新宮社には本宮社と那智社も合祀され、熊野神社と称するようになった。

 また熊野信仰の布教的な役割を担う「山伏」の存在も忘れてはならない。平安末に熊野山の末端機構の一員として、関東・東北の熊野信仰の発展を、主として山伏が広汎に地方に散在していたからこそ、短期間に、同時に大規模にその信仰を広げたのではなかろうか。

「義経記」によれば
…越後直江の津は北陸道の中途にて候へば、それより比方にては、羽黒山伏の熊野へ参り下向するぞと申すべき、それより彼方にては、熊野山伏の羽黒に参ると申すべし…
とあり、羽黒、熊野間を結ぶ山伏の多かった事を伝えている。叉修験道では、日本総国66ヶ国を東西に両分し、西24ケ所は熊野、東33国は羽黒権現鎮護の地となすとあり、羽黒山との関係が東北地方の熊野信仰の発展を考える上に無視しがたい。

『新編武蔵風土記稿 森戸村条』には「観音堂」は「別當大徳院」で別名「三宮山」と呼ばれていた。この「三宮」とは熊野三神であり、越生の本山派修験山本坊と直接結びついていた別当三宮山大徳院の活動は、つまり「熊野信仰」の出先機関ではなかったのではないだろうか。その信仰の過程で「藤原秀衡」という強力な信仰心のある大物が社記に記されてしまったのではないかと考察する次第である。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「坂戸市HP」
        「Wikipedia」「境内案内板」等

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坂戸神社

 坂戸市は、埼玉県のほぼ中央に位置し、地勢はおおむね平坦であり、秩父山系から清流として知られる高麗川が南西から東へ流れている。
 昔から交通の要衝に位置し、江戸時代には八王子から日光に至る街道の宿場町として繁栄していた。その後、肥沃な土地を活かした農業が盛んとなり、明治2912月に町制が施行された。昭和297月には、坂戸町、三芳野村、勝呂村、入西村、大家村の5町村が合併して新生坂戸町となり、この後、人口は安定的に推移し、農業中心の町として順調な発展を遂げてきた。昭和40年代の後半には、都心から45キロメートル圏という利便性から、大規模な住宅団地などの相次ぐ開発で人口増加は著しくなり、昭和50年から昭和55年までの人口の伸びは、市の中で全国一となる。
 そして、昭和5191日に埼玉県で39番目、全国で644番目の市として坂戸市が誕生した。市制施行時55,000人であった人口は、都市化とともに増加し、平成1810月には、10万人都市の仲間入りをした。
        
            
・所在地 埼玉県坂戸市日の出町726
            ・ご祭神 
白髪武広国押稚日和根子天皇(清寧天皇)
            
・社 格 旧坂戸村鎮守 旧村社
            
・例祭等 例祭 415日 天王様 715日を中心とした土・日曜日
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9592817,139.3900288,18z?entry=ttu

 国道407号線を坂戸市街地方向に進み、「坂戸陸橋」交差点を右折、1㎞程先の「日の出町」交差点を左折し200m程進むと、進行方向右側に坂戸神社の鳥居や境内が見えてくる。地図を確認すると、東武東上線坂戸駅(北口)や、市役所などもすぐ近くにあり、市の中心部に鎮座しているようだ。駐車場は神社の敷地内にあるのだが、程々に交通量もあり、駐車場での出入りの際には周囲の道路状況を確認する等の注意が必要だ。
        
                    坂戸神社正面
「坂戸」地名由来として『新編武蔵風土記稿 坂戸村条』では、「勝呂郷浅羽庄に属せり、村名の起りを尋るに康平の頃、坂戸判官教明といへる人住せしより始れる由を云と、坂戸教明のことを據(よりどころ)とすべき記録なければ、今よりは考べからず」「常泉寺 薬師堂 本尊薬師は木の立像にて、胎中に長二尺許の薬師を納り、こは坂戸判官教明と云し者守り本尊なりしを、康平六年に此處へ安置せしとのみ傳へて、この外のことは詳ならず」「常泉寺蹟 村の南小名道願山にあり、往古坂戸判官教明の開基なりしに、しばゝ兵火の為に烏有となりし後は廢寺となる」との記載がある。
 
     鳥居の右側に建つ社号標柱            鳥居上部の社号額
        
             社号標の近くに設置されている社の由来書

 ご祭神である白髪武広国押稚日本根子天皇は、22代清寧天皇である。大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)の第三皇子で、母は葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。生来「白髪」という身体的な特徴であったため父帝・雄略天皇は霊異を感じて皇太子にしたという。但し白髪皇子は末子であり、異母兄には吉備稚媛の子の磐城皇子と星川皇子がいた。
 雄略天皇238月に大泊瀬天皇は崩御する。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が権勢を縦(ほしいまま)にしようと大蔵を占拠したため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させ、(星川皇子の乱)翌年正月に即位する。
 即位2年、皇子がいないことを気に病んでいたところ、大泊瀬天皇(雄略天皇)が即位前に暗殺した市辺押磐皇子の子で行方不明になっていた億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟が播磨で発見されたと報告を受ける。翌年に天皇のはとこに当たる二人を宮中に迎え入れ億計王を東宮、弘計王を皇子とし、即位5年正月に崩御する。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳といい、陵(みささぎ)の名は河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)という。
 実際に行政を行った記録は全く無く、存在感の大変薄い天皇でもあるが、生来の「白髪」という身体的な特徴であるがため、多くの伝説が後代尾ひれをつけて伝承された人物でもあろう。
        
                            独特の形状をした石製の二の鳥居
 白髪神社は調べると大きく3系統の由来があり、またそれぞれ「白鬚」「白髭」「白髪」等記載も微妙に違っている。詳しくは「上原白髭神社」を参照。

「坂戸神社御由緒略記」によると、以前は「白髪社」と称し、元坂戸に鎮座していた。創建に関して、源頼義が奥州討伐(前九年の役「永承六年(一〇五一)~康平五年(一〇六二)」の際に従軍した家臣、坂戸判官教明(坂戸判官後藤太教明)によって、白髪明神が奉斎されたと伝えられている。
 また『風土記稿』には「村名の起りを尋ねるに康平の頃、坂戸教明といへる人住せしより始れる」とあり、更に「教明の生国は河内国坂門原(坂戸原)で、この地には清寧天皇の御陵があり、古くから天皇を白髭明神と崇敬して来たことから、当地移住に伴い同神を氏神として勧請した」という。
        
                     拝 殿
 坂戸神社御由緒略記  お拾神(とかみ)の宮
 主祭神 清寧天皇(白髪武広国押稚日和根子天皇)・猿田彦命
 合祀神 神祖熊野大神櫛御気野命・建御名方命・菅原道真公・大山咋命・菊理姫命
     須佐之男命・倉稲魂命・誉田別命
 鎮座地 埼玉県坂戸市日の出町七の二六(坂戸字日枝前)
 交 通 東武東上線:坂戸駅(北口)より徒歩五分
 例 祭 四月十五日
 由 緒
 当神社は、高麗川・越辺川右岸の台地部分にあたる市街地中心部に鎮座します。
 社伝によると、ご創建の来由は第七十代後冷泉天皇の御代、朝廷軍である鎮守府将軍、源頼義が奥州討伐(前九年の役「永承六年(一〇五一)~康平五年(一〇六二)」の際に従軍した家臣、坂戸判官教明(坂戸判官後藤太教明)によって、白髪明神が奉斎されたと伝えられています。
 白髪社創祀のことは、『新編武蔵風土記稿』に「村名の起りを尋るに康平の頃、坂戸判官教明といへる人住せしより始れる」とあり、「教明の生国は河内国坂戸原で、この地には清寧天皇の御陵があり、古くから天皇を白髭明神と崇敬して来たことから、当地移住に伴い同神を氏神として勧請した」と記載され、平安時代末期の康平年間(一〇五八〜一〇六五)と伝えています。
 創建当時、白髪社は元坂戸に鎮座し、古来より郷人たちの尊崇に篤き一村の鎮守であることから、明治五年(一八七二)には太政官布告の社格制定により、村社に列せられました。

 また、同一七年(一八八四)には、坂戸駅付近の導願山に遷座して清寧天皇(白髪明神)・猿田彦命(白髭明神)の二神を主祭神とし、同時に稲荷前の熊野社、堀ノ内の諏訪社、天神前の天神社の三社を合祀し、五社様と尊称され、氏子区域も広がり盛大に祭祀を営みました。更に、同四十年(一九〇七)には日枝前の日枝・白山社、八坂社、これに加え、粟生田の稲荷社、上吉田の諏訪社・天神八幡社を合祀し、現在の鎮座地である字日枝前に遷座し、氏子区域は広大となり、祭祀も更に増え、厳粛・盛大に執行されました。本殿は神明造りで御扉が五箇所ある、いわゆる相殿五座で一座ごとに二神を奉斎します。第一座は主祭神、壱番神「清寧天皇」、弐番神「猿田彦命」。第二座よりは合祀神、参番神「神祖熊野大神櫛御気野命」、四番神「建御名方命」。第三座は五番神「菅原道真公」、六番神「大山咋命」。第四座は七番神「菊理姫命」、八番神「須佐之男命」。第五座は九番神「倉稲魂命」、拾番神「誉田別命」の十神(拾神 とかみ)です。そして、同年には社号も「白髪社」から現在の「坂戸神社」に改められ、境内も一段と整備されました。(中略)
                              「坂戸神社御由緒略記」より引用

        
                拝殿左側手前にある神楽殿
 
         社殿の奥には数多くの山車屋台格納庫が並ぶ(写真左・右)。
 坂戸神社では毎年7月15日を中心とした土曜日・日曜日に「天王様」と呼ばれる祭礼が執り行われている。山車を引き廻し、神輿がねり歩く。指定は一丁目から四丁目に分かれている。一丁目の囃子は日の出町・本町で、昭和23年(1948年)夏、消防団員を中心とした一心会が結成された。越生町本町から伝授された神田囃子大橋流。二丁目の囃子は仲町で、昭和24年(1949年)越生町黒岩から伝授された。三丁目の囃子も仲町で、昭和23年(1948年)川島町から伝授され、翌年「三若会」が組織された。四丁目の囃子は昭和3年(1928年)に塚越から伝授された。昭和12年に戦争のため解散、昭和21年に再組織した。
 坂戸市無形民俗文化財 指定年月日 昭和49211日。
        
     
拝殿手前で、参道右側には手水舎と共に「重軽石(おもかるいし)」がある。
         石を持ち上げて思ったより軽く感じると願いが叶うといわれているとの事だ。
        
                     本 殿
 本殿は神明造りで御扉が五箇所ある、いわゆる相殿五座で一座ごとに二神を奉斎している。第一座は主祭神、壱番神「清寧天皇」、弐番神「猿田彦命」。第二座よりは合祀神、参番神「神祖熊野大神櫛御気野命」、四番神「建御名方命」。第三座は五番神「菅原道真公」、六番神「大山咋命」。第四座は七番神「菊理姫命」、八番神「須佐之男命」。第五座は九番神「倉稲魂命」、拾番神「誉田別命」の十神(拾神 とかみ)である。
        
                      社殿左側隅にひっそりと鎮座する「皇国神社」
 
        参道右側にある手水舎奥に聳え立つご神木(写真左・右)



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「坂戸市HP」
    「Wikipedia」「境内案内板・御由緒略記」等

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坂戸八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県坂戸市山田町585
              
・ご祭神 誉田別尊
              
・社 格 旧片柳新田村鎮守 旧村社
              
・例祭等 不明
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9585773,139.3998195,18z?entry=ttu

 国道407号線を坂戸市街地方向に進み、「坂戸陸橋」交差点を右折し、その後コンビニエンスのある丁字路を右折すると、すぐ正面左側に坂戸八幡神社の鳥居が見えてくる。
 
鳥居の左隣には参拝者専用駐車場もあり、そこに停めてから参拝を行う。
        
                街中に鎮座する坂戸八幡神社
『日本歴史地名大系』 「片柳新田」の解説
片柳村の南にあり、西は坂戸村。享保期(一七一六―三六)代官川崎平右衛門の計画で片柳村民によって開墾された。名主役は片柳村名主が兼帯した(風土記稿)。開墾後は幕府領。明和九年(一七七二)検地が行われている。化政期の家数二〇(同書)。文政四年(一八二一)の小前名寄帳(関口家文書)によると高四四石余・反別三五町一反余
新編武蔵風土記稿 片柳新田村条』
片柳新田は元原野にして東西十町餘、南北も大抵同じ程の地なるを、享保年中川崎平右衛門計ひにて、片柳村の民新開して一村と成り」  
        
                             こじんまりと纏まっている境内
 坂戸八幡神社は、江戸時代・享保年中に新田開発された片柳新田の鎮守として八幡社と号して建立、別当は片柳村の日蓮宗休臺寺が務めた。明治5年には村社となったが、昭和15年旧陸軍による坂戸飛行場建設のため、当地へ遷座したという。
        
                     拝 殿
 八幡神社 坂戸市坂戸八一八
 当社の鎮座する片柳新田は、越辺川右岸の台地上に位置する。地内には縄文から平安期にかけての遺跡が確認されており、古くから人が居住した地域であると思われる。しかし、村が成立し、行政的に一村をなしたのは江戸期の新田開発からで、それまでは原野であった。これを開いたのが川崎平右衛門を中心とする片柳村の人たちであったため、片柳新田の名が付けられた。
このことから当社の創立は享保のころと考えられ、村人が鎮守として社を建立したものであろう。また、新田開発の地であることから作神としての信仰もあったといわれる。
 祭神は、誉田別尊で、内陣に騎乗の八幡大明神像を安置している。
 別当は神仏分離まで片柳村の日蓮宗休臺寺が務め、明治五年には長く村鎮守であったことから村社となった。
 下って太平洋戦争開戦の前年である昭和一五年二月五日には、当社は政府の政策により、社殿の移転を余儀なくされた。これは坂戸飛行場建設のためで、当時、境内地約六反を一千五百円で買収された。このため現在の神社地を坂戸市本町に住む井上とよから譲り受け、氏子二〇戸は移転のために勤労奉仕をした。村人たちは長く祭りを続けた社の敷地から戦闘機が舞いあがるのをみて、武運長久を祈ったという。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿左側奥に祀られている境内社・山王神社    
拝殿右側奥に祀られている境内社・稲荷神社

 坂戸八幡神社は江戸時代の享保年間に新田開発された新しい村の鎮守様として創建、社の管理は江戸時代を通じて片柳村鎮守・片柳飯盛神社と共に「片柳村の日蓮宗休臺寺」が務めたという。

 休臺寺は戦国乱世も真っただ中の天正8年(1580)に長柳山妙慶寺として開山された古刹であり、江戸時代に横田次郎兵衛述松(のぶとし)という人物が中興開基したという。
「日蓮宗、房州小湊誕生寺の末、正覺山と號す、本尊三寶祖師を安ず、開山日慶天正八年八月十三日示寂、中興開基横田次郎兵衛延寶七年正月廿三日卒す、法名正覺院一乗日臺居士と云」
 ところで横田次郎兵衛の先祖は、武田二十四将にも名を連ねた猛将横田(備中)高松である。
『寛政呈譜』
「横田備中守高松(武田信玄につかへ、天文十五年信濃国戸石合戦討死す)―十郎兵衛綱松(信玄・勝頼につかへ、天正三年長篠の役に戦死)―甚右衛門尹松(武田家没落後、天正十年家康に仕へ、武蔵国高麗、比企、入間郡等五千石知行、寛永十二年死す、法名道本)―次郎兵衛述松(法名日台、入間郡片柳村日蓮宗休台寺に葬る、のち代々葬地とす)―由松(法名日松)―清松(法名日翁)―準松(九千五百石、法名日能)―以松(法名日通)。家紋、四目結、釘抜、矢羽車」
        
                          街中にありながら静かに佇むお社

 横田高松(たかとし)は、戦国時代の武将で甲斐武田氏の家臣。武田の五名臣の一人として有名な人物である。武田信虎、晴信(信玄)2代に仕え、信虎の代では足軽大将、信玄の代では敵の動きを察知し、戦術を先読みする軍師的な重鎮であったようだ。しかし天文1999日(1550年)に信濃村上氏の拠点である砥石城攻略の際、先鋒として参加するが、戦局は不利となって殿で退却中、追撃を受け戦死した。享年64歳。後に当主信玄は「武偏者なら横田や原美濃のようになれ」と話していたという。
 共に信玄の重鎮であった原虎胤の長男・康景(綱松)は高松の婿養子となってその跡を継ぐ。
武田信玄の没後は勝頼に仕えたが、天正
3年(1575年)521日、長篠の戦いで戦死した。享年51。
 横田氏は康景(綱松)の子・尹松の時に江戸幕府の旗本となり、5000石を領し、述松、由松(側衆・従五位下備中守)、栄松と続き、準松(のりとし、側衆・従五位下筑後守)の時、加増され9500石を領し、旗本最高位となっている。


参考資料「寛政呈譜」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」 
    「鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島デジタル郷土資料Wikipedia」等



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多和目天神社

 徳川家旗本である稲生家は、三河国譜代の旗本であり、「稲生家系譜(稲生家文書)」によれば、藤原鎌足の末流で、その14代後尾張國住人平賀十郎俊親の5代後平賀次郎左衛門光定のとき、尾張國春井郡山田莊稲生村に住し姓を「稲生」と改名し、その5代後稲生七郎右衛門光房のとき、三河国に移り、その子光実は家康の父松平広忠に仕えた。その後正吉・吉重・光正・正信・正倫と代を重ねるが、正倫以降のほとんどの当主は「七郎右衛門」を名乗っている
 光正のとき、武蔵国高麗郡(のち入間郡)多和目・和田善能寺・同国足立郡円笠木・堀崎計五ヶ村五〇〇石を知行し、その後替地や加増が行なわれ、正倫の子である正盛以降は一五〇〇石を知行している
 同時に江戸城勤番として重要な役職にもついて、正盛から6代目の正興は日光奉行・大目付等歴任しているように、地味ながらも旗本として徳川家の土台を支えている一族といえよう。
        
                          ・所在地 埼玉県坂戸市多和目384
                          ・ご祭神 菅原道真公
                          ・社 格 旧村社
                          ・例祭等 例大祭(多和目天神社の獅子舞)1017
 坂戸市多和目地域は市南西端部に位置し、すぐ南側は日高市が、そして西側から北側にかけては毛呂山町が多和目地域に覆い被さるような形で接している。途中までの経路は厚川大家神社を参照。厚川大家神社は「一本松」交差点の5差路を右折するが、そのまま埼玉県道74号日高河越線を直進。東武越生線「西大家」駅近くの踏切を越えてから700m先の変電所が見えるY字路を右方向に進む。そこから南西方向に進路をとり、「多和目」交差点を直進してすぐ先にある路地を右折して暫く進むと、進行方向右手に多和目天神社の鳥居が見えてくる。
 社の東側には「多和目普御世会館」が隣接してあり、そこの入り口付近の駐車スペースに車を停めてから参拝を行う。
        
                                   
多和目天神社正面
 多和目天神社が鎮まるこの地域は、高麗川がS字蛇行しながら南西から北東へ流れるその両岸に位置していて、高麗川の左岸は河川敷や河岸段丘が広がる低地面で標高50m程であるのに対して右岸は平均標高55mと左岸に対してやや高めであり、社が鎮座している場所は、その右岸である。
 因みに多和目という地名は[たわむ]に由来するそうで、この付近では高麗川は頻繁に蛇行(撓み)を繰り返して流れている。「多波目」「田波目」とも記される。
 後日編集時点で気づいたことだが、この地域は日高市との境となっていて、地域名は田波目(たばめ)である。隣接する地域名に「上」「下」と表記することはあるが、ほぼ同じ名前の地域が、違う行政区域となっているのは、少々紛らわしい。
*坂戸市多和目地域…「新編武蔵風土記稿」では入間郡に所属。
 日高市田波目地域…「新編武蔵風土記稿」では「上多波目村」として高麗郡に所属。
        
                ひっそりと静まり返った境内
『日本歴史地名大系』 「多和目村」の解説
 [現在地名]坂戸市多和目・西坂戸一―五丁目・けやき台、日高市田波目
 四日市場(よつかいちば)村の西にあり、南は高麗郡上田波目(うわたばめ)村・平沢村(現日高市)、北は下河原村(現毛呂山町)。高麗川が蛇行しながら南西から北東へ流れる。
 村名は多波目・田波目とも記される。小田原衆所領役帳には半役被仰付衆左衛門佐殿の所領として、河越三三郷の「多波目葛貫」一四六貫六三六文がみえ、弘治元年(一五五五)に検地が行われていた。元和三年(一六一七)五月二六日稲生次郎左衛門(正信)は「高麗郡日西之内多和目」など三ヵ村計三五五石余を宛行われた(「徳川秀忠朱印状」稲生家文書)。以後旗本稲生氏は当村内に陣屋(現天神社社地)を構えて当村・和田村・善能寺(ぜんのうじ)村などを幕末まで領し、大目付・日光奉行・長崎奉行など幕府の重職についている。稲生正信の住んだ正信(しようしん)庵が城山の中腹に現存する。田園簿には下田波目村とみえ田一七三石余・畑一八七石余、旗本稲生領(一八〇石余)・同河村領(一八〇石余)の二給で、ほかに恵眼寺(現永源寺)領一〇石があった。
        
                     拝 殿
 多和目天神社は、徳川家康が関東に入国した天正18年(1590)から明治維新まで当地の領主だった稲生次郎左衛門光正が、氏神と崇敬する天神を当地に勧請したという。稲生家は当初当地近辺及び西方に陣屋を構えていたとされ、後年江戸屋敷へ移り、陣屋跡に祀られていた当社がいつしか村の鎮守として祀られるようになったものと思われる。明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格、明治41年字平の白山神社、字岩口後の熊野神社、同境内社稲荷神社・愛宕神社を合祀している。

『新編武蔵風土記稿 田波目村』には、稲生家に関連した記載を載せている。
 田波目村 天神社
 地頭稲生が陣屋跡にあり、其處の鎮守西福寺持(中略)
 稲生某陣屋跡
 村の東にあり、八段許の地なり、四方にかた許のまがきをなし、門をも南向に立り、されど近傍にある天神社のあたりも、陣屋跡なりと傳れば、このまがきは纔に古の様を殘せしものなるべし、按に村名の條に載しごとく、先祖次郎右衛門光正御入國の時、武州にて五百石を賜りし由、家譜に載たれば、そのかみ居宅を爰に構へ、後江戸に移りしものなるか、

 
     拝殿正面に掲げてある扁額              本 殿
        
        拝殿前に設置されている「多和目天神社の獅子舞」の案内板
「多和目天神社の獅子舞」 坂戸市指定無形民俗文化財
 江戸時代、多和目の領主だった稲生家によって、天神社に奉納されたのが始まりと言われています。毎年、秋の天神社のお祭りに、村人の安全を護り、豊年を祝う獅子舞が演じられます。
 獅子舞は、昔から地元の人々によって受継がれてきました。
 江戸時代の天保の頃(一八三〇年~一八四三年)、高萩村女影(現在の日高市)から伝えられたと言われ、多和目の領主稲生家より天神社へ奉納されたのが始まりとされています。昭和五七年(一九八二年)太鼓の張替えを行った時、胴の内側に「天保四年(一八三三)年江戸浅草」と記されているのを発見しました。言い伝えによる獅子舞の開始時期は大きく間違っていないようです。
 獅子舞を舞うのは小・中学生から高校生と氏子の有志で、演者は天狗、大獅子、中獅子、女獅子、軍配を振って舞いを盛り上げる大狂(へいおい)、花笠をかぶりささらを擦るささらっ子、舞の合図をするほら貝などから構成され、笛方と唄い方が演奏をします。演目は「すり違え」の唄、「シバ掛り」の唄、「竿掛り」の唄の三曲です。
 獅子舞の当日、獅子の宮参りは天下泰平、五穀豊穣、氏子の繁栄、お祭りの成功を願って、舞いながら社殿を三周します。その後、獅子舞行列を組んで西郷へ向かい、火の見広場で一番の「すり違え」を舞います。再び天神社にもどって、獅子舞を奉納します。
 秋も深まる十月に、多和目の里に流れる笛やささらの音に合わせて、三頭の獅子が太鼓を打ち鳴 らして踊る姿は、勇壮の中に優美な趣をたたえています。
                                      案内板より引用
 
 本殿の奥には「天然記念物 多和目の大杉跡」の石碑がある(写真左)。県天然記念物で、幹周9m、樹高35m、樹齢は石碑を奉納した昭和56年時点で1032年とあり、碑文によれば、途中で2幹に岐いるところから「夫婦杉」と呼ばれていた。しかし昭和34年に発生した伊勢湾台風の為先端10m程が折られ、その後、年月が経過すると共に樹勢が弱まってしまう。そこで氏子総会による決議を経て、県神社本庁に天然記念物指定の解除、並びに伐採の許可を承認され、ここに多和目地域での一つの象徴であった大杉は終焉を迎えたという。
 現在ある2本の杉は埼玉県林業試験場の協力を得て、その大杉の二世を植樹したという(同右)。
 
  境内に祀られている境内社。詳細不明。     同じく境内にある神興庫だろうか。

 社殿の右側には境内社・稲荷社が祀られており、その奥にはご神木であるカゴノキ(鹿の子木)が聳え立っている。かごの木はクスノキ科の樹木で、南方には結構な大きさのものも存在するが、北関東でこれまでの大きさに育ったものは希有な例との事。各地で呼び名も特徴があり、こがのきと呼ばれたり、この木のように鹿に見立てて「鹿子木」と呼ばれる例もあるようだ。
        
             社殿右側に祀られている境内社・稲荷社。
        
        稲荷社の隣に設置されている「カゴノキ(鹿の子木)」の案内板
 坂戸市指定天然記念物 カゴノキ(鹿の子木)
 この樹木は、正式名称が判明するまで「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれていました。
 昭和五十九年に埼玉大学の永野教授の鑑定により、学名をクスノキ科に属する「カゴノキ」で、名勝は「鹿の子木」と判明しました。
 この樹木は暖地性の常緑喬木で、沖縄・九州・四国を中心に分布している樹木で、関東以北ではほとんど生育していない、植生上も貴重な樹木であることがわかりました。
 樹木の名称の由来は、淡褐色を帯びた樹皮が円形に点々と剥落し、この部分に次々と白い木肌が現れます。この様子が、鹿の子の斑点と同じように見えることから、この名称がつけられたと考えられます。
 樹木の規模は、樹高十五メートルを測り、樹齢千年といわれていますが。樹木医の診断では、八〇〇年程とされています。
                                      案内板より引用
 

        
                カゴノキ(鹿の子木)遠景

 樹齢800年とは思えないぐらいの樹勢は良好で、ともかく小鹿の毛並みのような珍しい斑点模様の木肌が特徴的である。樹容は社殿奥に嘗て聳え立っていた大杉と同じく双幹であり、紙垂も巻かれているところをみるとご神木として祀られているのであろう。
 嘗てこの社には
カゴノキは勿論のこと、社殿奥の大杉も存在していて、その並び立つ姿は如何ばかりだっただったろう。今大杉は伐採されてこの地にはないが、同じ場所にその子供である若木がすくすく成長している。そしてカゴノキは傍にいて、その成長を親代わりに見守っているようにも見える。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「坂戸市HP」
    Wikipedia」「境内案内板・記念碑文」等
 

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