古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小沼氷川神社


        
               
・所在地 埼玉県坂戸市小沼840
               
・ご祭神 素戔嗚尊
               
・社 格 旧小沼村鎮守 旧村社
               
・例祭等

 越辺川(おっぺがわ)が東流から南流に流路が変わる右岸部に島田・赤尾・小沼という地域が続いていて、小沼氷川神社は赤尾金山彦神社の南東で直線距離にして約2kmの場所に鎮座する。赤尾金山彦神社から一旦埼玉県道74号日高川島線に合流し、そこから南西方向に進み、約1km先の十字路を左折、そこから首都圏中央連絡自動車道 坂戸ICを目指し、小沼地区の集落中央部に小沼氷川神社は鎮座している。
 残念ながらこの社までのルートは一本道がなく、また道路も入り組んでいるため、正確を期すためには、より細かい説明となってしまうので、このような曖昧な表現となってしまったことをお詫びしたい。
 社に隣接して「小沼集会所」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                  小沼氷川神社正面
            社の正面鳥居からは日当たりもよく明るい雰囲気
 小沼地域は越辺川右岸の低地から台地に位置する。地域内には弥生後期の集落跡小沼新井遺跡、古墳後期の雷電山古墳群、雷電塚古墳(県文化財)があり、さらに元暦・正和・文和・貞和・永徳などの年号を刻む板碑が各所に点在し、古くから住居地になっていたらしい。
         
     鳥居の右側にある社号標柱        鳥居を過ぎると境内が左方向に見える。

『日本歴史地名大系』には「小沼村」の解説が載っている。全文紹介する。
[現在地名]坂戸市小沼
塚越村の東にあり、南西は青木村、東は南東流する越辺川を境に比企郡上伊草村(現川島町)。入間郡河越領に属した(風土記稿)。田園簿では田五〇七石・畑二二二石、川越藩領(六一〇石)と旗本酒井領(一一九石)。川越藩領分は寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高六三六石余、反別は田五四町四反余・畑四四町六反余。同帳に書き加えられた新田分は田九八石余、反別は田八町四反余・畑六町八反余。元禄一五年(一七〇二)には全村が川越藩領で(河越御領分明細記)、宝永元年(一七〇四)には同藩領を離れた。その後旗本島田領となり(国立史料館本元禄郷帳など)、化政期には川越藩領(文政一〇年「組合村々定方につき申上書」林家文書など)
        
                     拝 殿
八幡社
古は村の鎮守にて、民家も多く此社邊に住せしが、當社は越邊川の上にあれば、水溢の患ありとて今の所へ民家を移せしより、村内實蔵寺境内の氷川明神を産神とせり、村内東光寺持、
寶蔵寺
新義眞言宗、勝呂大智寺末、氷川山と號す、本尊は不動を安ぜり、
氷川社 村の鎮守なり
                               『新編武蔵風土記稿』より引用
 文化・文政年間に編集された「新編武蔵風土記稿」には小沼村の「産土神」として第一に「八幡神社」を載せている。しかし同時に氷川社も寶蔵寺境内に「村の鎮守なり」として祀られていた。「埼玉の神社」ではその経緯を次のように述べている「当地は慶長年間以前、二つの集落に分かれていて、越辺川の付近に一八戸が居住し八幡神社を産土の神と祀り、高台に三十数戸が居住し氷川神社を産土の神と祀る。常に両鎮守と称して崇敬されてきたが、越辺川は毎年水害を被り困難を来したために、寛永の頃高台の集落に全戸移転し、八幡神社はそのまま堤外に残した」と。
        
                       拝殿に掲げてある「正一位氷川大明神」の扁額
 その後、明治五年の社格制定にあたり、往時から住民は両社を鎮守としてきたところから、氏子一同話し合いの上、両社に氏子が分かれ、別々に村社に申し立てたが、同四〇年に八幡神社が氷川神社へ合祀され、同時に字西廊の八坂神社も合祀された。そのため、一間社流造りの本殿には、氷川大明神像とともに騎乗の八幡大明神像を安置している。
                                  「埼玉の神社」から引用
 
 境内社・稲荷神社・金刀比羅神社・神明神社       合祀社に掲げてある扁額
          合祀社

 ところで、島田天神社で紹介した伝承・伝説を改めて紹介する。そこには島田・赤尾・小沼という地域に共有する洪水に纏わる住民同士の対立を、「神様(竜神)の争い」としてぼかして語られているようにしか解釈できない説話であるからだ。
「島田のお諏訪さま」
 赤尾のお諏訪さまと島田のお諏訪さまは夫婦であるといわれていた(姉弟であるとも)。また、島田のお諏訪さまは小沼の方を睨むように耕地の中に建っており、島田と小沼は仲が悪く、未だに縁組みをしてはならないともいう。それは次のような話があるからだ。
 昔、越辺川が洪水となり、島田に大水が出そうになった時、島田のお諏訪さまと赤尾のお諏訪さまが竜神となって、小沼にある堤防を壊しに行った。または、二つのお諏訪さまから火の玉が上がり、小沼へと向かったともいう。
 そうして下流部の小沼の堤が竜神に切られ決壊すると、上手の島田や赤尾の水は引いて水害は無くなるのだった。この際、小沼のお諏訪さまからも竜神が出て、これを防ごうと大変な争いになったという。だから、島田と小沼は仲が悪かったのだ。

但し小沼地域にも上記の内容とは違った説話もあり、紹介したい。
「水害を救った梶坊」
 いつごろのことか定かではないが、まだ三芳野耕地が大雨のたびに水害になやまされていたころのこと、小沼の東光寺に梶坊という僧侶が住していた。この梶棒が洪水のたびになげき苦しむ里人の姿を見て、その害を除く祈禱をしたところ、対岸の赤尾と島田にある諏訪明神があばれ、堤を破壊するのだというお告げを得た。そこで梶坊は、自ら堤の守護神となって水害を防ぐことを決意し、八大龍王をまつり、生きながら龍神となるべく堤防下の沼に身を投げたという。それ以来、堤防の決潰はなくなったので、その徳を慕った里人は沼のほとりに梶房大権現として祀ったのである。

「島田のお諏訪さま」では結局のところ島田・小沼の仲違いの原因が、島田・赤尾のお諏訪さまが、小沼の堤防を壊したためとなっているが、「水害を救った梶坊」では、赤尾と島田の諏訪明神が堤を破壊することを小沼村の東光寺にいて、祈祷によるお告げで知った「梶坊」という僧侶が、自らを犠牲にして堤防下の沼に身を投げた。その僧侶の思いの根底には、島田、赤尾両村と小沼村の住民がいつまでも仲良く暮らしてほしい、という切実な願望からきているものであろう。そういう意味において水害を救った梶坊」は、小沼村サイドに立った優しい説話として、記されているように筆者は考える。
 因みに諏訪神社の神紋は「梶の葉」である。小沼村東光寺の梶坊」という人物は、本来「小沼のお諏訪さま」であったものが、「梶坊」という僧に変化して語られたものだったかもしれない。

 さて社殿の奥には、緑豊かな大木が覆うように育っている。
         
             
 坂戸市では、良好な自然と生活環境を増進するため、坂戸市環境保全条例を設け、一定基準に達した樹木や樹林などを保存樹木として指定し、樹木の保存と緑化に努めているとのことだ。


参考資料「新編武蔵風土記講」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「坂戸市環境政策課HP」
    「坂戸市史 民俗史料編 I 」等
                         

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赤尾金山彦神社


        
              
・所在地 埼玉県坂戸市赤尾1867
              
・ご祭神 金山彦命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等

 赤尾金山彦神社は、島田天神社から赤尾白山神社に向かう進路の途中で、偶々出会った社である。赤尾白山神社から直線距離にして800m程南方向に位置し、この社も南方向に流れる越辺川を背にして、三方は全て田畑が広がる中、ポツンと静かに祀れている。
 赤尾金山彦神社のご祭神は金山彦命。この神は日本神話に登場する神である。神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。『古事記』では金山毘古神・金山毘売神の二神、『日本書紀』の第三の一書では金山彦神のみが化生している。この神は古来より剣・鏡・鋤・鍬を鍛える守護神で、製鉄や鍛冶生産を守護する神として信仰されている。 
        
            越辺川を背にして静かに鎮座する赤尾金山彦神社

 同じ赤尾地域内の白山神社には一目連神社の石祠が祀られている。一目連神社は天目一箇神を祭神とする伊勢国二ノ宮多度大社の別宮名である。因みに多度大社は本宮である多度神社と共に、別宮である一目連神社の2社セットで多度両宮とも称している。
 この一目連神社のご祭神である天目一箇神は、天津彦根命の子である。鍛冶の神であり、『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶をしていると見られる天津麻羅と同神とされる。神名の「目一箇」(まひとつ)は「一つ目」(片目)の意味であり、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから、または片目を失明する鍛冶の職業病があったことからとされている。これは、天津麻羅の「マラ」が、片目を意味する「目占(めうら)」に由来することと共通している。
『坂戸市史 民俗史料編 I 』には「片目になった赤尾のお諏訪さま」という伝承・伝説が今に語り継がれている。
 昔、大雨が降り、越辺川が氾濫し島田が危なくなった時、島田のお諏訪さまと赤尾のお諏訪さまの姉弟が竜神となってあらわれ、小沼にある附島の土手をきろうとした。すると、小沼のお諏訪さまが槍を持ってあらわれ、大ゲンカとなった。そのとき、赤尾のお諏訪さまは槍で目をつかれたのがもとで、片目になったといわれている。
「赤尾のお諏訪さま」とは同じ地域に鎮座し、埼玉県道74号を挟んで南方向に鎮座する諏訪神社のことであるが、同じく越辺川右岸に鎮座する社でもあり、お互い距離も近いため、民衆レベルの交流は当然あったと思われ、赤尾地域として同じ伝承・伝説を共有していたと考える。
 ともあれ赤尾地域は嘗て鍛冶・金属加工が盛んな地だったのではないかと、勝手に想像を膨らましてしまいそうな社名である。
 
 
       赤尾金山彦神社正面               鳥居の社号額
 おそらく社殿と共に鳥居も近年改修されているのであろう。朱色の両部鳥居は、周囲が田畑風景の中において、ひと際目立ち、社号額も目新しくなっている。境内もきれいに手入れされており、この地域の方々の社に対する思いを感じた次第だ。
        
                     拝 殿
 金山彦神社 坂戸市赤尾一八六七
 当社は入間郡の北端、越辺川流域の低湿地に位置する農業地帯である赤尾に鎮座し、金山彦命を祀る。
 その創建については、寛延年間の洪水により、社殿とともに由緒書など、ことごとくを流失してしまったため明らかではないが、氏子の間では、南北朝時代に赤尾開村の折、鎮守として勧請したもので、それゆえ鎮座地の地名を本村と呼ぶのだといわれている。(中略)
 当社は、金山様の通称で氏子に親しまれているが、年配の人々は氏神様とも呼び、毎月一日・十五日には月参りに来る人もある。このほかオビアゲ(初宮詣)・帯解き(七五三詣)・新婚宮参りなど、祝事があった時には必ず当社に参詣し、神恩に感謝するとともに、より一層の幸を祈願する。
 赤尾は、川沿いの低地であるため、往古より「蛙の小便で水が出る」といわれるほど、度々水害を被り、家屋や田畑が流出した。そこで、水害を防ぐため、昭和三四年に越辺川の河川改修が行われることとなったが、この際、当社の境内地が堤塘敷となることになった。このため、字本村から字川久保の現在の鎮座地へ遷宮が行われ、また、これを機に社殿も新築された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   社殿右側に鎮座する境内社・御嶽神社。       御岳神社と社殿の間には
  社の中には不思議な石編が祭られている。      桜の老木・巨木が聳え立つ。
        
             社の東側には真っすぐに越辺川の土手が続く。

 ところで金山彦神の神格は、『古事記・天の石屋』の段において「天の金山の鉄を取りて、鍛人の天津麻羅を求めて、伊斯許理度売命に科せ、鏡を作らしめ」とあり、この段の文脈や同時に生まれた神々全体の理解のしかたによって異なる解釈が導き出されている。
(1)この神々の誕生を火山の噴火の表象と捉え、嘔吐が溶岩の流出を表して、その中に鉱石が存在することを金山の二神が表しているとする説。
(2)鎮火祭に由来する神話と捉え、火を鎮める刀剣関連の神々が次に生まれてくるのに先立って、刀剣の材料としての鉄を表しているとする説。
(3)金属の中でも生活に重要な鍬を司る神であるとする説。
(4)誕生した神々がみな火の効用を表すと捉え、この神は冶金のための火の効用を表しているとする説。
(5)この神々を、伊耶那美神の復活を祈る神招ぎの香具山祭祀における一連の呪具の神格化とし、天の石屋の段で呪具の材料の拠り所となる「天の金山」と対応した神名とみる説。
等がある。


『新編武蔵風土記稿』には、越辺川の上流域から坂戸市の市域には鍛冶などの小字名が、広範囲に分布していて、越辺川の流域では金属の精錬が行われていた可能性がある。
白山神社や金山彦神社が鎮座する赤尾地区。「赤尾」の「赤」を冠に持つ地名や川や沼は、古来から砂鉄に関連しているという。恐らく、鉄が酸化すると酸化鉄として赤くなることに由来するのであろう。
 
赤尾地域に近い坂戸市石井地域には勝呂神社が鎮座しているが、そもそも「勝呂」という地名は朝鮮語の村主(すくり)からきているという。村主とは、渡来人技術者集団の統率者を意味する語であり、つまりは、技術に優れた集団が、しっかりとした目的をもって「村主=勝呂」を目指し、移住したと考える。その一派が赤尾地域に移住したのではあるまいか。



参考資料「新編武蔵風土記
稿」「埼玉の神社」「國學院大學 古事記学センターウェブサイト」
    「
坂戸市史 民俗史料編 IWikipedia」等
 

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赤尾白山神社


        
              
・所在地 埼玉県坂戸市赤尾1688
              
・ご祭神 菊理媛命 伊奘諾尊 伊奘冉尊
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 

 島田天神社から一旦埼玉県道74号線日高川島線方向に進み、越辺川の土手に架かる橋の300m手前にある十字路を左折、その1km程先に赤尾白山神社は鎮座している。社に通じる道路が狭いが、鳥居脇に駐車スペースは確保されていて、そこの一角に止めてから参拝を行った。
 
社の北側で背後には越辺川の土手がすぐ目視でき、嘗て何度も水害等の被害を受けたそうであるが、実際に来てみると成程と頷ける。やはり自らの目で見て初めて分かるものもある、としみじみと感じた。
 今はそんな事は感じさせない位穏やかで長閑な風景が似合う社である。
        
                  赤尾白山神社正面
 島田地域に鎮座する島田天神社の北東方向に赤尾地域はある。この赤尾地域は坂戸市の最北端に位置し越辺川を境として、東松山市早俣、川島町長楽と接している。この地域は都幾川が越辺川に合流した下流に位置し、越辺川の流路が北東方向から北端で流れを南東に転じていて、堤防が切れやすく水害の常襲地帯でもあった。
 この赤尾白山神社は丁度北部付近で越辺川に都幾川が合流している地に鎮座している。
        
                            木製の朱がひときわ目立つ両部鳥居
『日本歴史地名大系 』には「赤尾村」の解説が紹介されている。
 赤尾村 [現在地名]坂戸市赤尾
 島田村の東にある。北西境を北東へ流れる越辺川が北端で流れを南東に転じ、東境を流れ下る。東は同川を隔て比企郡中山村(現川島町)、北は同川を境に同郡正代村(現東松山市)。承元四年(一二一〇)三月二九日の小代行平譲状(小代文書)には、行平から養子俊平へ譲られた小代郷(現同上)の村々のうちに「みなみあかをのむら」がある。
 現越生町最勝寺旧蔵の応永三年(一三九六)の大般若経奥書に「赤尾阿弥陀堂海禅」とある(武蔵史料銘記集)。
戦国期に当地に来住したと伝える安野・森田・林・池田・山崎・新井の六家が草分百姓とされる(元禄一二年「田畑町歩村高覚」森田家文書)。林家は信州諏訪地方から来住した土豪ともいわれている。近世には入間郡河越領に属した(風土記稿)。(以下略)
        
                     拝 殿
『鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料』には、『日本歴史地名大系 』と重複する内容も多いが、戦国時代での内容が細かく記されているので、そちらも紹介する。
坂戸市赤尾「六人の侍」
赤尾の森田家に伝わる「森田文書」には「天文七年、安野・森田・林・池田・山崎・新井の侍六人が石井の台地に住む。元亀三年、六人は石井の支配を逃れ、越辺の川端へ移り住み赤尾村と名をつける。赤尾村の古き家に安田・田中・浅黒、此外天正慶長の頃、大塚・兼子等、其外もあり。慶長十四年から元和元年までに浪人六人、岡野・水沢・大沢・坂巻・浅見・大久保十郎左衛門が所々から移住す」

但し赤尾村の名は、鎌倉時代初期の承元四年(1210)に書かれた「小代行平譲状」(永青文庫所蔵写による。)に、「みなみあかおのむら(南赤尾ノ村)」と載っているので、元亀三年(1572)に遡る362年前から、赤尾村の地名はあった。故にこの年に初めて地名が誕生したわけではない。
        
        境内に祀られている石祠。左より「○○○大権現」「一目連神社」
        
          境内に祀られている正面中央に梵字を配した特異な塔
        
 赤尾白山神社の左側には鳥居が並立し、その先には境内社・八坂神社 愛宕神社が鎮座している。

           境内社・八坂神社               境内社・愛宕神社 

(赤尾村)白山社
村の鎮守なり、本地佛は十一面観音にて銅の華曼に彫たる物なり、村内修験明王院の持、
                               「新編武蔵風土記稿」より引用


 白山神社 坂戸市赤尾一六六八
 当社は都幾川の合流する越辺川の南岸に鎮まる。村は低地のため古くから水害に見舞われ、社の壁面には水害の痕跡も残されている。
 創立について社記は文亀年間と伝え、『風土記稿』によると村の鎮守であり、本地仏は十一面観音を彫った銅の華鬘であった。ただしこれは現存していない。
 祭神は、菊理媛命・伊奘諾尊・伊奘冉尊の三柱である。
 別当は修験明王院であったが、これは本山派修験か当山派修験か明らかでない。しかし、村内にあって村人のために諸祈禱を修していたことは伝えられている。
 また、社記に「元禄水帳ニハ白山社免除地二反六畝壱歩福寿院支配」とあり、明和五年から白山諏訪明王供米として米七斗を領主から賜っている。これは天保年間からは米七升五合になり、明治四年まで続けられたとあるが、福寿院および諏訪明王について、現在では明らかにできない。
 本殿は一間社流造りである。覆屋及び拝殿の造営年代は安政五年と言われ往時幣殿はなく土間に踏み石を置いた形であった。
 明治初めの神仏分離により別当は廃され、明治五年には古くから村鎮守であったことにより村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料」等

                     

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島田天神社

 
        
             
・所在地 埼玉県坂戸市島田7223
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 島田天神社祭 4月上旬 夏祭り 7月17日

 勝呂神社と同様に国道407号線を熊谷市、東松山市を抜けて南下し、「関越自動車道 鶴ヶ島IC」方向に進路をとる。越辺川を超えた直後にある「高坂橋」交差点を左折し、1.5km先の十字路を左折し400m程進むと島田天神社に到着することができる。
 越生町にある「臨済宗建長寺派・大慈山正法禅寺末寺」にあたる「天林山東蔵寺」が社に隣接しており、そこの専用駐車場をお借りしてから参拝を開始した。
        
                   島田天神社正面
 坂戸市島田地域は越辺川に隣接した土地で、昔から越辺川が氾濫し水害に見舞われていた。残念ながら度重なる水害と大正時代の火災で古記録等は失ったが、坂戸市史の嶋田の天神社の項によれば、”『入間神社誌』に「元禄年間に西京北野社を分祀し。鎮守として尊崇した由、口碑に伝える」とある。はじめは天神社別当と称される人が祀職をしていたが、元和二年に越生町の臨済宗正法寺から丈雪という僧が来て一寺を開創し、天神山東蔵寺と号し明治五年まで別当寺をしていた。(坂戸市史 第2編 中世)”とあり、元々、島田村にあった天神社の境内に置かれる寺として開創され住職が神官より上の社僧として行事が行われていたようだ。
        
    当日は雨交じりの中での参拝。木製の鳥居にも雨が滴り落ちているのがわかる。

この地域には雨や水・河川に纏わる伝承・伝説「島田のお諏訪さま」が今なお語り継がれている。今回の参拝も神様の思し召しといえようか。
○島田のお諏訪さま
赤尾のお諏訪さまと島田のお諏訪さまは夫婦であるといわれていた(姉弟であるとも)。また、島田のお諏訪さまは小沼の方を睨むように耕地の中に建っており、島田と小沼は仲が悪く、未だに縁組みをしてはならないともいう。それは次のような話があるからだ
昔、越辺川が洪水となり、島田に大水が出そうになった時、島田のお諏訪さまと赤尾のお諏訪さまが竜神となって、小沼にある堤防を壊しに行った。または、二つのお諏訪さまから火の玉が上がり、小沼へと向かったともいう
そうして下流部の小沼の堤が竜神に切られ決壊すると、上手の島田や赤尾の水は引いて水害は無くなるのだった。この際、小沼のお諏訪さまからも竜神が出て、これを防ごうと大変な争いになったという。だから、島田と小沼は仲が悪かったのだ

 島田の方のお諏訪さまは建前としては現在の島田の鎮守・天神社に合祀されているようだが、『新編武蔵風土記稿』著作時の文化・文政期(1804年~1829年)では諏訪明神が島田の鎮守となっていたようだ。
        
                     拝 殿
        
                         境内社 諏訪社・稲荷社・九頭龍社合祀社
 天神社 坂戸市島田七二二(島田字本天神町)
 当地は越辺川右岸の低地に位置する。口碑に「村の開拓は六軒百姓と呼ばれた時代にさかのぼる」という。古くから頻繁に大水に見舞われる所で、そのたびに大きな災害を被っている。特に、明治四三年秋の大水害の時には土地の様相が一変したという、
 社伝によると当社の創祀は、草分けの六軒が入った永禄年中、度重なる災害を恐れた村人が、天神に祈り開拓の成就を願って京都の北野神社を勧請したという。
 社記によると天正一八年火災により社殿を焼失する。この火災により古記録を失ったが、寛永一六年に旗本の知行地となった時の検地水帳に社地五畝十歩除地とあり、往時の社の状態が推察できる。
 本社再建棟札に「元文二年正月 別当東蔵寺七世天叟宗領代」とある。東蔵寺は元和二年に越生町今市村正法寺四世大雪の開基した寺で天神山と号し、俗に“天神別当”と呼ばれていた。
 明治五年に村社となり、同一九年に本殿・拝殿を再建する。同四一年には道免の神明社・勝呂の諏訪社・稲荷本町の稲荷社・町西の九頭竜社を合祀する。
 一間社流造りの本殿内には、一〇センチメートルの天神座像があり「正徳五歳川越町法梁鑑全」の銘がある。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
         社殿と境内社諏訪社・稲荷社・九頭龍社合祀社との間に祀られている
                 富士浅間大神等の石祠群。

 ところで、この地域には昭和5年(1930年)頃に塚越から伝授されたという「島田ばやし」といわれる伝統芸能が存在していて、坂戸市の無形民俗文化財に指定されている。
○島田ばやし
指定年月日:昭和52223
日時:7月中旬
場所:坂戸市大字島田 天神社
 昭和5年(1930年)頃に塚越から伝授されたという。屋台に乗って演じられ、地域を巡回するという。大事な伝統芸能を大切に守って頂きたいものだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「入間神社誌」「坂戸市HP」「大慈山 正法寺HP」


   


   

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勝呂神社

 嘗て大和王権初期、崇神天皇時代において、全国平定のため四方に派遣されたと伝えられる4人の皇族将軍がいたという。『日本書紀』では北陸に大彦(おおひこ)命,東海に武渟川別(たけぬなかわわけ)命,西道(山陽)に吉備津彦(きびつひこ)命,丹波(山陰)に丹波道主(たにわのみちぬし)命を派遣している。
 その皇族将軍の中で武渟川別(たけぬなかわわけ、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古墳時代の皇族。『日本書紀』では「武渟川別」「武渟河別」、『古事記』では「建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)」と表記されている。
 第8代孝元天皇皇子の大彦命の子で、阿倍臣(阿倍氏)の祖。四道将軍の1人として東海に派遣されたほか、垂仁天皇朝では五大夫の1人に数えられる。
『日本書紀』崇神天皇1099日条では武渟川別を東海に派遣するとあり、同書では北陸に派遣された大彦命、西道に派遣された吉備津彦命、丹波に派遣された丹波道主命とともに「四道将軍」と総称されている。その後、将軍らは崇神天皇101022日に出発し、崇神天皇11428日に平定を報告した。
 一方『古事記』では、四道将軍としての4人の派遣ではないが、やはり崇神天皇の時に大毘古命(大彦命)は高志道に、建沼河別命は東方十二道に派遣されたとする。そして大毘古命と建沼河別命が出会った地が「相津」(現・福島県会津)と名付けられた、と地名起源説話を伝える。
 坂戸市石井地域に鎮座する勝呂神社は、第十代崇神天皇代に当地を拠点にして活躍した四道将軍の一人建渟河別命が当地古墳に祀られ、寛和2年(986年)、陵墓上に北陸鎮護の神として知られる加賀の白山比咩神社の分霊を勧請して創建したという。
        
             
・所在地 埼玉県坂戸市石井226
             ・ご祭神 (主)菊理姫命 伊奘諾尊 伊奘冉尊 
                  (配)建渟河別命 豊城入彦命
             
・社 格 旧村社
             ・例祭等 春祭(祈年祭)224日 例大祭 315日 
                  秋祭 
1016
 国道407号線を熊谷市、東松山市を抜けて南下し、「関越自動車道 鶴ヶ島IC」方向に進路をとる。IC手前の「片柳」交差点を左折、埼玉県道74号日高川島線合流後、1km程東方向に進むと、「石井下宿」交差点のT字路となり、そこを右折し、すぐ直後の信号をさらに左折する。左折後600m程道なりに進むと左側に勝呂神社が見えてくる。
 鳥居右側には参拝者用の駐車入口もあり、そこから境内に入る。撮影に邪魔のならない場所に車を止めてから参拝を開始した。
       
                   勝呂神社正面
 
    鳥居の左側に設置された案内板        鳥居に掲げられている社号額
 勝呂神社
 勝呂神社の社は、大きな円墳の上に建っています。石段を登り拝殿前から見渡すと、景色の良さに驚きます。加賀国(石川県)の一宮である白山比咩神社が祀られていることから、「白山さま」とも呼ばれ地域の信仰を集めています。
 円墳は高さが四・二メートルもあり、拝殿の脇には石室の一部とみられる大きな川原石が露出しています。
 神社が鎮座する石井の地は、縄文時代から人が住んだ痕跡が認められ、古墳時代から中世には入間郡の中心として発展しました。豊かな自然と肥沃な大地に恵まれ、早くから人々の生活が営まれてきました。
 神社の記録によれば、第十代崇神天皇の時代に伝説上の人物と言われる四道将軍の一人、建渟河別命が勝呂神社古墳に葬られていると伝わっています。直径およそ五十メートル、高さ四・二メートルの円墳に、東海鎮護の神としてお祀りし、千年以上も前から神地として崇拝されてきました。
 寛和二年(九八六年)、古墳の上に北陸鎮護の神として知られる加賀一宮白山比咩神社の御分霊が勧請されました。その後、武蔵七党の村山党に属した須黒太郎恒高が勝呂に本拠を構え、建保元年(一二一三年)には社殿を再営して勝呂白山権現としました。
 明治時代に社号を白山神社と改め、明治四十二年(一九〇九年)に現在の勝呂神社になりましたが、今も「白山さま」として信仰を集めています。
 発掘調査の成果では、神社の東を東山道武蔵路が通っていたことが確認され、七世紀後半に建立された埼玉県最古の寺院の一つ勝呂廃寺との関連も注目されています。 坂戸市教育委員会
                                      案内板より引用

 勝呂神社が鎮座する坂戸市石井地域は市の北東部に広がる坂戸台地の端部にあたり、社周辺には古代官道である東山道武蔵路が南北に通っており、奈良時代前記の寺跡である勝呂廃寺後や、平安時代の館跡である勝呂屋敷、また三〇基近い古墳もあるところから察して、かなり古い時代から有力な豪族がこの地に住んでいたものと推測できる。
        
               陽光をいっぱい浴びた明るい境内
       境内は綺麗に玉砂利が敷かれ、日頃の手入れも行き届いているようだ。
          当日の天候も良く、気持ちよく参拝に臨むことができた。
        
           一段高い場所に玉垣が並び、その先にも参道が続く。
 
       参道左側には手水社          右側にはやや小ぶりな神楽殿を配置
        
           参道の先にある石段を登りきると拝殿に到着できる。
 この地域は市の北東部に広がる坂戸台地の端部にあるので、周辺一帯は標高20mにも満たない沖積平地が広がり、この拝殿を頂く地のみこのような塚上のテラスがあるのは不自然と感じたのが第一印象で、確認するとやはりこの塚は古墳(円墳)とのことだ。勝呂神社古墳(すぐろじんじゃこふん)という。
 現状で直径50m、高さ4.2m。平成11年に周溝の発掘調査が行われた。神社の境内には緑泥片岩の板3枚があるが、2枚はこの古墳から出土したものと伝えられている。
 
 石段の登り口両側に鎮座する境内社。左側には金守稲荷社・八幡社合社(写真左)、右側には名札はないが、置物から推測するに、境内社稲荷社と思われる(同右)。
        
        やはり石段登り口右側に設置された「勝呂神社本社周辺の図」。
        
                     拝 殿
 由緒
 社記によると、第十代崇神天皇の御代に四道将軍の一人、東海道将軍として派遣された建渟河別命は東夷平定にあたり、この地を本拠に活躍しました。その功を遂げると都へ戻りましたが、後年再び来住して村人たちの文化を高めました。命が薨ずると、村人たちは広大な陵墓を築き(築造期は、今からおよそ一五○○年前)、東海鎮護の神としてここに命を奉斎しました。これが今日の勝呂神社古墳です。
 当社は、第六十五代花山天皇の御代、寛和二年(九八六)、加賀国一の宮の白山比咩神社の御霊を勧請し創建されたことによるもので、主祭神として菊理姫命・伊邪那岐命・伊邪那美命を、配神として建渟河別命・豊城入彦命を奉斎します。
 その後、平安時代後期、鎮守府将軍として奥州の逆徒追討に向かった八幡太郎の通称でも知られる、武門の誉れ高き武将「源義家」は、建渟河別命の故事に倣い、当社に参拝して戦勝を祈願したところ、霊験大いにあり、後三年の役終結(一○八七)の後、凱旋の折に報賽し社領を定められました。
 鎌倉時代になると武蔵七党の村山党に属した須黒(勝呂)氏は、「吾妻鏡」にその名を残すほどの勢力となっていました。とりわけ「須黒太郎恒高」は、当社を氏神として厚く信仰し、社領を加増するとともに、建保九年(一二一三)に社殿を再営して「強い神」として尊崇し、社号を勝呂白山権現に改めました。
 江戸時代においては、寛永十九年(一六四二)に御社殿が再建され、その七年後、慶安二年 (一六四九)には、三代将軍家光公から五石の朱印状を受け、以後代々の将軍家より社領を賜わるとともに、古河領及び地頭から、それぞれ「玄米一石永七五文供米一俵」が毎年祭祀料として寄進されました。更に延宝九年(一六八一)には、郷人すべての崇敬の志を集めて立派な本殿の造営(現存の本殿)がなされています。
 明治時代に入ると社号を白山神社と改め、勝呂村の指定村社に列せられました。明治四十一年(一九〇八)には地内の無格社十五社を合祀したのを機に、社号も古来の地名をとり「勝呂神社」とし、勝呂郷総鎮守として現在に至っています。
 信仰

 白山比咩大神とも呼ばれ、「はくさんさま」の呼称で里人に親しまれている菊理姫命は、縁結び、安産の神・水利の神、更には病気平癒の神としての信仰を集めています。
 また、建渟河別命は、東海道将軍であり、殊のほか強い神です。その大いなる霊験により「勝負の神」としての信仰を集めています。 ※社殿の東側に「勝運霊石」があります。
 これら、当社に祀るすべての神々を尊称して「勝呂太神」と申します。(以下略)
                                    拝殿掲示版より引用

        
                 拝殿に掲げてある扁額
          額に刻まれた龍の彫刻が精巧で見事というしかない。

 勝呂神社は「勝虫」つまりトンボがシンボルとされている。トンボは素早く飛び回り害虫を捕らえ、前にしか進まず退かない「不退転」の精神を表すものとして、「勝ち虫」と呼称され、当時の武士に珍重された。
 この社に奉斎されている東海道将軍・建渟河別命は大変強い将軍で、源義家公も戦勝祈願をして大いなる霊験を頂いており、このご神威に肖り、勝運の神として広く信仰されたという。
 
 社殿の左側に祭られている境内社、合祀社(写真左)。合祀社には「熊野権現」「熊野神社」「稲荷社」「氷川神社」の札がある。合祀社等の並びに祭られている境内社・末社(同右)。詳細不明。
                
              社殿の右隣に祀られている「勝運霊石」

 ところで「勝呂(スグロ)」という地名は特色ある名である。由来を調べると、鎌倉時代の入間郡内の勝呂荘勝呂郷。古くは勝または須黒とも書いたようだ。また「すぐろ」は朝鮮語で村長(むらおさ)て、村主(すぐり)の転訛ともいう。
『古代氏族系譜集成』には嘗て入間郡勝郷に存在していた「勝氏」の系譜が載っている。
○古代氏族系譜集成
「高麗貞正(高麗郡司判官代)―勝権守純豊―貫主純安―井上大夫純長―勝二郎大夫季純―勝大夫純実、弟高麗麗純(正治元年卒、八十二歳)」
「高麗永山(応永十三年卒)―女子(勝住、右京妻)」
「高麗良道(慶長五年卒。母勝呂筑後守女)、弟伊勢守某(勝呂大宮司養子)」
        
                  社殿から境内を望む
 その後平安時代後期となり、それまでは親族・重臣とばかり縁組をしていた高麗族であったが、武蔵七党・丹党から「須黒氏」が現れて、この地に移住・居住することになる。そして高麗族もその武蔵七党・丹党と婚姻関係を結ぶ。武蔵国守でもあり、当時政治を仕切っていた鎌倉幕府執権家との絆を構築しようとしたのではなかろうか。
『武蔵七党系図』
「山口六郎家俊―右兵衛尉家恒―勝太郎恒高―須黒左衛門尉頼高(又号勝呂)―左衛門尉行直(実直忠子、頼高養為子)。恒高の弟六郎右馬允直家―直忠、弟国家。直家の弟左衛門尉家時(承久乱有戦功)―太郎安家
「勝」一族は、一般的にその出自として「百済系」「秦氏系」の帰化した一族、また「物部氏系」ともいわれ、その他には源平藤橘以降でいえば、清和源氏の村上氏・武田氏、藤原北家道兼流あるいは賀茂姓の本多氏、桓武平氏北条氏の系統とする異流も多いという
 摂津・和泉・山城・備前・美濃、出雲などに勝姓が多いとされていて、ともあれ謎の多い一族である。



参考資料「古代氏族系譜集成」「武蔵七党系図」「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」
    「鶴ヶ島市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等
        

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