小沼氷川神社
・所在地 埼玉県坂戸市小沼840
・ご祭神 素戔嗚尊
・社 格 旧小沼村鎮守 旧村社
・例祭等
越辺川(おっぺがわ)が東流から南流に流路が変わる右岸部に島田・赤尾・小沼という地域が続いていて、小沼氷川神社は赤尾金山彦神社の南東で直線距離にして約2kmの場所に鎮座する。赤尾金山彦神社から一旦埼玉県道74号日高川島線に合流し、そこから南西方向に進み、約1km先の十字路を左折、そこから首都圏中央連絡自動車道 坂戸ICを目指し、小沼地区の集落中央部に小沼氷川神社は鎮座している。
残念ながらこの社までのルートは一本道がなく、また道路も入り組んでいるため、正確を期すためには、より細かい説明となってしまうので、このような曖昧な表現となってしまったことをお詫びしたい。
社に隣接して「小沼集会所」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
小沼氷川神社正面
社の正面鳥居からは日当たりもよく明るい雰囲気
小沼地域は越辺川右岸の低地から台地に位置する。地域内には弥生後期の集落跡小沼新井遺跡、古墳後期の雷電山古墳群、雷電塚古墳(県文化財)があり、さらに元暦・正和・文和・貞和・永徳などの年号を刻む板碑が各所に点在し、古くから住居地になっていたらしい。
鳥居の右側にある社号標柱 鳥居を過ぎると境内が左方向に見える。
『日本歴史地名大系』には「小沼村」の解説が載っている。全文紹介する。
[現在地名]坂戸市小沼
塚越村の東にあり、南西は青木村、東は南東流する越辺川を境に比企郡上伊草村(現川島町)。入間郡河越領に属した(風土記稿)。田園簿では田五〇七石・畑二二二石、川越藩領(六一〇石)と旗本酒井領(一一九石)。川越藩領分は寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高六三六石余、反別は田五四町四反余・畑四四町六反余。同帳に書き加えられた新田分は田九八石余、反別は田八町四反余・畑六町八反余。元禄一五年(一七〇二)には全村が川越藩領で(河越御領分明細記)、宝永元年(一七〇四)には同藩領を離れた。その後旗本島田領となり(国立史料館本元禄郷帳など)、化政期には川越藩領(文政一〇年「組合村々定方につき申上書」林家文書など)
拝 殿
八幡社
古は村の鎮守にて、民家も多く此社邊に住せしが、當社は越邊川の上にあれば、水溢の患ありとて今の所へ民家を移せしより、村内實蔵寺境内の氷川明神を産神とせり、村内東光寺持、
寶蔵寺
新義眞言宗、勝呂大智寺末、氷川山と號す、本尊は不動を安ぜり、
氷川社 村の鎮守なり
『新編武蔵風土記稿』より引用
文化・文政年間に編集された「新編武蔵風土記稿」には小沼村の「産土神」として第一に「八幡神社」を載せている。しかし同時に氷川社も寶蔵寺境内に「村の鎮守なり」として祀られていた。「埼玉の神社」ではその経緯を次のように述べている「当地は慶長年間以前、二つの集落に分かれていて、越辺川の付近に一八戸が居住し八幡神社を産土の神と祀り、高台に三十数戸が居住し氷川神社を産土の神と祀る。常に両鎮守と称して崇敬されてきたが、越辺川は毎年水害を被り困難を来したために、寛永の頃高台の集落に全戸移転し、八幡神社はそのまま堤外に残した」と。
拝殿に掲げてある「正一位氷川大明神」の扁額
その後、明治五年の社格制定にあたり、往時から住民は両社を鎮守としてきたところから、氏子一同話し合いの上、両社に氏子が分かれ、別々に村社に申し立てたが、同四〇年に八幡神社が氷川神社へ合祀され、同時に字西廊の八坂神社も合祀された。そのため、一間社流造りの本殿には、氷川大明神像とともに騎乗の八幡大明神像を安置している。
「埼玉の神社」から引用
境内社・稲荷神社・金刀比羅神社・神明神社 合祀社に掲げてある扁額
合祀社
ところで、島田天神社で紹介した伝承・伝説を改めて紹介する。そこには島田・赤尾・小沼という地域に共有する洪水に纏わる住民同士の対立を、「神様(竜神)の争い」としてぼかして語られているようにしか解釈できない説話であるからだ。
「島田のお諏訪さま」
赤尾のお諏訪さまと島田のお諏訪さまは夫婦であるといわれていた(姉弟であるとも)。また、島田のお諏訪さまは小沼の方を睨むように耕地の中に建っており、島田と小沼は仲が悪く、未だに縁組みをしてはならないともいう。それは次のような話があるからだ。
昔、越辺川が洪水となり、島田に大水が出そうになった時、島田のお諏訪さまと赤尾のお諏訪さまが竜神となって、小沼にある堤防を壊しに行った。または、二つのお諏訪さまから火の玉が上がり、小沼へと向かったともいう。
そうして下流部の小沼の堤が竜神に切られ決壊すると、上手の島田や赤尾の水は引いて水害は無くなるのだった。この際、小沼のお諏訪さまからも竜神が出て、これを防ごうと大変な争いになったという。だから、島田と小沼は仲が悪かったのだ。
但し小沼地域にも上記の内容とは違った説話もあり、紹介したい。
「水害を救った梶坊」
いつごろのことか定かではないが、まだ三芳野耕地が大雨のたびに水害になやまされていたころのこと、小沼の東光寺に梶坊という僧侶が住していた。この梶棒が洪水のたびになげき苦しむ里人の姿を見て、その害を除く祈禱をしたところ、対岸の赤尾と島田にある諏訪明神があばれ、堤を破壊するのだというお告げを得た。そこで梶坊は、自ら堤の守護神となって水害を防ぐことを決意し、八大龍王をまつり、生きながら龍神となるべく堤防下の沼に身を投げたという。それ以来、堤防の決潰はなくなったので、その徳を慕った里人は沼のほとりに梶房大権現として祀ったのである。
「島田のお諏訪さま」では結局のところ島田・小沼の仲違いの原因が、島田・赤尾のお諏訪さまが、小沼の堤防を壊したためとなっているが、「水害を救った梶坊」では、赤尾と島田の諏訪明神が堤を破壊することを小沼村の東光寺にいて、祈祷によるお告げで知った「梶坊」という僧侶が、自らを犠牲にして堤防下の沼に身を投げた。その僧侶の思いの根底には、島田、赤尾両村と小沼村の住民がいつまでも仲良く暮らしてほしい、という切実な願望からきているものであろう。そういう意味において「水害を救った梶坊」は、小沼村サイドに立った優しい説話として、記されているように筆者は考える。
因みに諏訪神社の神紋は「梶の葉」である。小沼村東光寺の「梶坊」という人物は、本来「小沼のお諏訪さま」であったものが、「梶坊」という僧に変化して語られたものだったかもしれない。
さて社殿の奥には、緑豊かな大木が覆うように育っている。
坂戸市では、良好な自然と生活環境を増進するため、坂戸市環境保全条例を設け、一定基準に達した樹木や樹林などを保存樹木として指定し、樹木の保存と緑化に努めているとのことだ。
参考資料「新編武蔵風土記講」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「坂戸市環境政策課HP」
「坂戸市史 民俗史料編 I 」等