古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

高倉日枝神社

 高倉福信(たかくらの-ふくしん. 709789)は、奈良時代の公卿で、高句麗王族と伝承される背奈福徳の孫という。武蔵国高麗郡出身。渡来人系の地方豪族の出身でありながら孝謙(称徳)天皇の側近として、橘諸兄・藤原仲麻呂・道鏡の各政権で要職を占めながら失脚することなく、また最終官位も従三位・弾正尹まで大出世し、桓武天皇の時代まで活躍して天寿を全うした異色の人物である。
 福信の同族には、東大寺写経所の官人などを勤めた広山や、造東大寺司の判官・次官、それに武蔵介などを勤めた大山などがいる。大山は天平宝宇五年、遣高麗大使となって渤海に渡ったが、帰途病にかかり、翌年没した。また同族の殿嗣(とのつぐ)も宝亀八年(七七七)、渤海使を送る使として渡海している。
 このように肖奈公(高麗朝臣・高倉朝臣)の一族は、大陸文化の保持者として、また武力的才能にすぐれた者として、さらには高句麗の故地に建国した渤海国との交渉にあたる者として、各方面に活躍した。それは基本的には中央官人としての活躍と言えるが、彼らの中には武蔵守・武蔵介となった者も多く、また八世紀後半には、入間広成(いるまのひろなり)・丈部不破麻呂(はせつかべのふわまろ)などほかにも武蔵国の出身者が中央官人として活躍していたから、これらの人々の活躍は、武蔵国の政治的な動きにも大きな影響を与えたと考えられる。
 高倉日枝神社の創建年代等は不詳ながら、その高倉朝臣(高麗福信)が近江国から武蔵国に移住した際に日吉大社を勧請したとも伝えられ、また別の伝承では、当地区が明暦年間(1655-1658)頃に高倉・上新田・中新田・下新田の4村に分村した際、上新田日枝神社を分祀したとも伝える。
        
              
・所在地 埼玉県鶴ヶ島市高倉36
              
・ご祭神 大山咋命
              
・社 格 旧高倉村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例祭(高倉獅子舞) 1123
 鶴ヶ島市・高徳神社からは、埼玉県道114号川越越生線を市役所方向に進行し、1.5㎞程先の「高倉派出所」交差点を左折する。この交差点は道路に面して北側は「西入間警察署 高倉交番」、南側にはコンビニエンスがあり、進路変更での目印にもなり、ルートの説明もしやすい。
 この交差点を左折後、150m程先の道路沿いに高倉日枝神社は鎮座している。
        
                                  高倉日枝神社正面
『入間郡誌』高倉
 高倉は村の西部に当り、脚折三木の西方に接せり。 戸数七十。 或は曰く高倉は古高倉福信の生地なりと。 其証として挙ぐること甚だ不可なるもの多し。
 曰く、旧松栄山高福寺は福信の菩提寺にて、其姓名の頭字を採りて高福と名けたりと。 然るに寺は江戸時代の始に創立せられたるものの如く、寺名説の如き索強附会たるを免れず。 曰く、寺に不動の仏書あり。 今之を不動堂に安置せり、福信の守本尊なりと。 然も其書正に古しと雖、さまで名書とも覚えず、殊に福信の頃果して斯く不動の仏書行はれしや否やを知らず。
 曰く福信の古墳と覚しきものありと。 郡内至る処古墳のなきにあらず、然も頗る大なるものありて、而も到底其何人の噴墓たるやを知らざるを普通とす。
 曰く高福寺墓地に貞治七年の板碑ありと。 郡内至る処、南北朝時代の板碑あり。 其高麗人移住の説は高麗村新堀に高麗の正統(?)の存するを無視し、日枝神社勧請説は福信の時代と延暦寺及日枝社全盛時代とを転倒し、高倉村の古大にして、屋敷と称する小名あり、又人家区画の整然たるを説くは徳川時代の諸村に往々珍らしからざる事実なるを如何せん。
 脚折に白髭神社のあるも理曲とならず。
郡内には大凡二十有余の白髭あり、思ふに高倉村の成立は到底福信の頃にあらずして室町の頃にもやあらん。
 
 参道も比較的長く、社の敷地も広そうである。    参道の途中にあるステンレス製の二の鳥居

 高倉地域の地形は台地上にあるため、水田は少なく、耕地のほとんどは畑で、蔬菜(そさい)の栽培を中心とした農業が主体となっている。また戦前は養蚕も盛んに行われていたという。
 地域南部には日光往還(現国道407号線)が通り、今も往時の面影を留めた松・杉の並木が残っている。ほぼ中央にある池尻池は脚折の雷電池とともに、入間川水系の飯森川・大谷川の水源になっている。
*蔬菜…本来は栽培作物を指す語。今日では慣用的に「野菜」(やさい)と同義となっている。「蔬」も「菜」も広く食用の草本を指しており、「野菜」の概念よりも広い意味を持っているという。
        
                  静まり返った境内
「埼玉の神社」によれば、
高倉日枝神社の氏子の間に伝わる習俗は多いが、生活様式の変化により、次第に行われなくなってきている。例えば、嘗て115日に行われていた「七草粥の箸」と呼ばれる行事もその一つで、これは、この日に七草粥の箸を作る時に、両端を尖らせた箸を二本作り、紐で十文字にしばり、屋根に投げ上げるというもので、うまく屋根に突き刺さって箸が立てば「吉」で、その年は必ず良い事があるといわれていた。しかし、戦後、草葺きの屋根が減っていくにつれて、この行事も行われなくなり、現在では全く見ることができなくなってしまったという。
 消えゆく行事に対して、現在でも引き続いて行われている行事もある。毎年、2月初午に行われる稲荷講はその一つである。これは、春日待ともいい、まず当社の末社である稲荷社の祭典を行ったあと、社務所で宴会を行うもので、この席上で、新人氏子の紹介、年行事(祭事の世話を行い、抽選で毎年2名ずつが奉仕をする)の交替、榛名講・御嶽講の代参の抽選などが行われる。
 当社は「山王様」として氏子に親しまれているが、特に字山王の人々は当社を氏神様と呼び、その信仰が厚い。
        
                    拝 殿
 日枝神社  鶴ケ島町高倉三六(高倉字山王)
 大字高倉の北東部にある字山王に鎮座する。高倉の開発は古く、地内には、縄文中期から弥生時代の住居址である高倉遺跡もある。
 また、隣接する上新田・中新田・下新田の三村(いずれも現在は鶴ケ島町の大字)は当地の住民によって開かれたといわれ、もとは高倉の一部であったが、明暦年間に分村した。
 当社の創建については、『明細帳』に、「往古近江国から高倉朝臣(高麗福信)が武蔵国に移ってきた時に自ら崇敬する近江の日吉神社の神を、当地に勧請した」という話が古老の口碑として記載されている。この話を伝える勧請は定かではないが、伊勢湾台風で倒れた神木の樹齢は、ゆうに三〇〇年を超えていたことから、既に江戸初期には当地に奉斎されていたものと思われる。 古くは山王権現と称し、拝殿には今も「山王大権現」と書かれた享和二年奉納の額が掛けられている。
 神仏分離により、別当であった真言宗長泉寺は廃寺となり、当社は社名を現在の日枝神社に改めた。明治五年に村社となり、同四〇年には字神明の神明社、字熊野の熊野神社、字富士塚の浅間神社及びその境内社下浅間神社の四社を合祀し、現在に至っている。
 祭神は大山咋神で、一間社流造りの本殿を持つ。往時は剣と鏡を蔵していたが、剣は盗難に遭い紛失したため、現在は鏡だけである。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
 拝殿向拝部等には精巧な彫刻が施されている。        拝殿上部に掲げてある扁額
        
                    本 殿
 
拝殿に対して左側に祀られている境内社・愛宕社  向かって右側には境内社・稲荷社が2基鎮座
       
           本殿に対して右側に聳え立つ巨木(写真左・右)
           ご神木かどうかは不明だが、十分な貫禄がある。

 ところで、この高倉地域には、「高倉の獅子舞」という江戸時代から続く伝統行事が現在でも続いている。鶴ヶ島市内唯一の獅子舞であり、高倉日枝神社で毎年11月の例祭にて豊作感謝・疫病退散祈願のため獅子舞が奉納されている。
 鶴ヶ島市市指定無形文化財(昭和四十九年十一月一日指定)
        
          一の鳥居付近に設置されている「高倉の獅子舞」の案内板
 高倉の獅子舞 
 市指定無形文化財(昭和四十九年十一月一日指定)
 日枝神社の秋祭りに高倉の獅子舞が行われる。この獅子舞は遠い国から訪れた強力な神が、村人の幸福を守るために悪霊。悪疫を退散させてくれるといわれている行事で、村人にとっては国家安泰、天下泰平、五穀豊穣などを祈る行事でもある。
 高倉の獅子舞は江戸時代から引き継がれている伝統ある行事で、昭和四十九年に、最初に鶴ヶ島市の文化財に指定された。
 その構成は、万灯、天狗、花笠、はいおい(軍配を以て獅子を先導する)、前獅子(男獅子)、中獅子(女獅子)、後獅子(男獅子)などで、ほら貝を合図に数人の笛吹きと歌うたいに合わせて登場する。
 花笠は女装した”ささらっこ”と呼ばれる童子四人が花笠をかぶり、”ささら”と呼ばれる楽器を奏でながら舞に参加するので、特に”ささら獅子”とも呼ばれている。
 市内で数箇所あった獅子舞も、現在は高倉の獅子舞が唯一のものとなってしまい、たいへん貴重な伝統芸能である。
                                      案内板より引用

        
      ステンレス製の二の鳥居を過ぎた参道右側には、こんもりとした塚、ないし古墳の形状
     をした盛り土部があり、その上には石碑と石祠が祀っている。詳細は不明。
        
                            社殿から鳥居方向を望む。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「埼玉の神社」「多摩市デジタルアーカイブ」
    Wikipedia」「境内案内板」等
 

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高徳神社

 鶴ヶ島市は埼玉県の中部に位置する市で、人口は約7万人(推計人口、2024101日)。埼玉県の中央やや南寄りに位置しているが、通常は埼玉県西部と見なされている。入間台地(武蔵野台地の北端から入間川を挟んだ対岸)の先端部に位置しており、標高は30mから50m程度で、南西から北東に向けてなだらかに下っている。嘗ては畑・田・林が大部分を占めていたが、高度経済成長期以降人口の流入が著しく、現在も宅地化・商業地化が進展し続けている。また川越市・坂戸市とは連続した市街地を形成している。
 古墳時代にはいくつかの古墳が築造されており、なかでも鶴ヶ丘稲荷神社古墳は古墳時代末期としては大きなものである。富士見地区の若葉台遺跡は8 9世紀にかけて比較的大規模に発達した遺跡であり、律令体制下における地域拠点(一説には入間郡衙)となっていたことが想像されている。
        
             
・所在地 埼玉県鶴ヶ島市太田ヶ谷6171
             
・ご祭神 伊邪那美命  速玉之男命  事解之男命
                  
素戔嗚尊  櫛稲田姫命  猿田彦神
             
・社 格 旧指定村社
             
・例祭等 例大祭48日 夏祭り724
 高徳神社は関越自動車道鶴ヶ島JTの西側近郊にあり、埼玉県道114号川越越生線沿いに社は鎮座し、県道を少し東行すれば鶴ヶ島市役所に達する。高速道路や幹線道路に囲まれているにも拘らず、社の空間は至って静か。長い参道の両脇には杉の大木等の樹木が鬱蒼と繁っていて、昼でも薄暗いのだが、それが却って社の神聖さ・荘厳さを上げているようにも感じる。
        
                                 
高徳神社正面
 ここで失敗談を一つ。埼玉県道114号川越越生線からのアプローチで、実際社は目視にて社は確認できたのだが、「高徳神社」交差点がY字路となっていて、そのまま通り過ぎてしまい、市役所方向に達してしまった。地図を確認すると、上記交差点を左後方向に進み、曲がった直後の右側に専用駐車場がある事を知った。目標地までのルート設定において、ナビゲーションシステムは非常に便利ではあるが、細かい場所までの指定はできず、そこは本人の努力義務しかない。
 また駐車場に車を停めてから、改めて感じたことだが、駐車場から南東方向に200m程の長い参道があり、正面鳥居は圏央道に面した場所にあった。
        
                         令和5年3月に設置された社の案内板
 高徳神社
 高徳神社は、太田ヶ谷の熊野神社、三ツ木の白髭神社、藤金の氷川神社、上広谷・五味ヶ谷の鎮守である氷川神社が、大正二年(一九一三)、本殿内に合祀され、新たに創立した神社です。
 社地の多くは、当時、村長であった太田ヶ谷の
野重右衛門が自らの土地を寄進したものです。本殿裏手の境内社については、それぞれの母地の方向を向いて建てられているという特徴を持っています。
 また、この広い社叢林には、野鳥も多く生息し、武蔵野の面影を残す市民の憩いの場所となっています。

 当社の年間の祭事は、元旦祭、元始祭、祈年祭、例大祭、境内社祭、日待祭、新嘗祭の七回です。
 神職は創立以来、尾崎神社(川越市)宮司が兼務しており、太田ヶ谷、三ッ木、藤金、上広谷、五味ヶ谷の各地区から選出された氏子総代とともに、社の維持、運営にあたっています。(以下略)
                                      案内板より引用

 案内板に記されている「内野氏」は、『鶴ヶ島村郷土誌』に「大字太田ヶ谷満福寺末寺常福寺は内野常福の発起にて創起す。元禄頃は満福寺現住兼勤せり」と記されている。また天正十八年前後に作成された「内野四十二軒」には「内野図書(本邑屋敷、文正元年死す、常福と号す)。〇長子三郎右衛門(相続人)―三郎右衛門、弟甚六、其の弟半助。〇二子亀之助―亀之助、弟元右衛門、其の弟平七―平七、弟安左衛門。〇三子半蔵―半蔵、弟重右衛門―重右衛門」と記され、「内野図書」なる人物は、文正元年(1466)室町時代中期頃に亡くなったといい、その後この内野図書一族が当村を開発し、天正末頃に「内野姓四十二軒」となったという。
 
               200m程ある長い参道(写真左・右)
 この神社の神域は広く、境、境外の面積は、5,619坪もある。広い境内は、杉・檜・赤松等の老樹が鬱蒼と生い茂り、清浄且つ森厳な聖域となっている。
 また、この広い神域を利用して、市の「野鳥の森」が設定されており、人の手によって造られた「人工の森」とはいえ、武蔵野の面影を残す樹林には、留鳥、漂鳥、旅鳥など野鳥の数も多い。この森のすぐ西側には清い小川があり、また、境のところどころに餌箱を設置してあるので、鳥たちの聖域となっている。
        
     長い参道を抜けるとポッカリと明るい空間となり、奥に社殿が見えてくる。
『新編武蔵風土記稿 太田ヶ谷村』
 熊野社 村の鎭守なり、例祭三月十六日、萬福寺持、稻荷社
『同 三ツ木村』
 白髭社 村の社守にて、例祭三月十五日なり、慈眼寺の持、下の四社も皆同じ、
『同 藤金村』
 氷川社 村の鎭守なり、例祭三月十四日、法昌寺持、下同、辨天社、稻荷社、
『同 上廣谷村』
 氷川社 當村及五味ヶ谷村の鎭守なり、例祭八月廿五日、正音寺持、
天神社、
 嘗ては風土記稿に記されたように、各村に祀られていた社であった。その後、大正2年(19136月に創立した高徳神社は、現在の鶴ヶ島市の南東部地域の神社を1つに纏めたという経緯がある。それ故に、鶴ヶ島市内の神社として最も規模の大きい神社であるという。
 
      参道左側にある神楽殿        境内に設置されている「御大典記念事業碑」
 御大典記念事業碑
 高徳神社は鶴ヶ島市 太田ヶ谷 三ツ木 藤金 上広谷 五味ヶ谷の各地区内に鎮座していた神社を大正二年太田ヶ谷の富豪内野重右衛門翁の境内地寄贈により合祀して創立したものである
 爾来郷人はもとより近隣住民の深い崇敬を集め老樹鬱蒼とした広大な神域は埼玉県指定「高徳神社ふるさとの森」野鳥の森として親しまれている
 此の神域に建設省の計画による首都圏中央連絡自動車道の建設とこれに伴う県道川越越生線拡幅用地に境内地の一部を提供する事になり役員氏子総代相計り拝殿幣殿社務所改築境内整備工事を御大典記念事業の一環として二ヶ年の歳月を以てここに竣工する
                                     記念碑文より引用
        
                    拝 殿
 高徳神社の氏子区域は、いわゆる一村一社制により神社合祀が行われた結果、鶴ヶ島村全域となるはずであったが、実際は合祀社の多くが書類上の合祀に終わったため、現在は太田ヶ谷・三ッ木・藤金・五味ヶ谷・上広谷の五地域となったという。
 ところで、創立時、新しい神社名が話題となったようだ。最初鶴ヶ島神社案があったが、他からの反論があり取りやめとなり、南鶴ヶ島神社名も話題にのぼったがこれも他から適当でないとの声があがった。結論として、多くの神社が1ヶ所に集まるので、神徳の高いのをたたえて高徳神社と社名が決定したのだと、地元の古老は語っている。
        
                    本 殿
 また、高徳神社は合祀されたそれぞれの神社が母地の方角を向いて建てられているという特長を持っている。中央に太田ヶ谷の神社が太田ヶ谷に向き、その左側に三ツ木の神社が西方三ツ木を向き、右側に藤金・上広谷・五味ヶ谷の神社が東方藤金・上広谷・五味ヶ谷の方向を向いて建てられているのである。
 
           境内社・氷川神社                           境内社・天満天神社
 
      境内社・熊野神社               境内社・白髭神社 
      境内社・浅間神社                    社殿東側には合祀記念碑が立つ
       
                  社殿からの風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「鶴ヶ島市デジタル郷土資料HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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浅羽野土屋神社


        
             
・所在地 埼玉県坂戸市浅羽野2211
             
・ご祭神 不明(一説には大山祇神)
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
 地図 https://www.google.com/maps/@35.952725,139.3804772,17z?hl=ja&entry=ttu

 森戸国渭地祇神社から埼玉県道74号日高川島線を坂戸市街地方向に東行、途中1.6㎞先にある「二本松」交差点から更に1.5㎞程直進すると、左側に浅羽野土屋神社の鳥居が見えてくる。参道の西側隣には専用駐車場も完備されているので、参拝前の駐車スペース確保の心配をしなくて済むのは大変ありがたいことだ。
        
                     県道と一般道が交わるY字路の先端部に建つ鳥居
        
   浅羽野土屋神社の鳥居の側に、「摩利支尊天(摩利支天・まりしてん)」の石碑がある。

 この摩利支天は、仏教の守護神である天部の一尊。梵天の子、または日天の妃ともいわれ、摩里支菩薩、威光菩薩とも呼ばれている。摩利支天(マーリーチー)は陽炎、太陽の光、月の光を意味する「マリーチ」を神格化したもので、由来は古代インドの『リグ・ヴェーダ』に登場するウシャスという暁の女神であると考えられている。陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の神通力を有すとされる。これらの特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があった。
 この神は、日本において、護身や蓄財などの神として中世以降信仰を集めた。楠木正成は、兜の中に摩利支天の小像を篭めていたという。また、毛利元就や立花道雪は「摩利支天の旗」を旗印として用いた。山本勘助や前田利家や立花宗茂といった武将も摩利支天を信仰していたと伝えられていて、一方、禅宗や日蓮宗等の日本仏教の一宗派でも護法善神として重視されている。
        
          街中にありながら、趣のある
浅羽野土屋神社の参道

新編武蔵風土記稿 上淺羽村条』では、この社のことを「土屋権現社」と記載している。「権現(ごんげん)」は、日本の神の神号の一つで、日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示すという
 現在は廃寺となっている「本山派修験山本坊配下大蔵院」が土屋権現社の別当寺である。「本山派修験山本坊」は、天台宗系の修験道の一派で、「越生山本坊」とも呼ばれ、京都聖護院本山派修験二十七先達の一つにも数えられ、最盛時には傘下に150ヶ寺を治め、入間・秩父・比企三郡のみならず、越後国や常陸国郡を支配する程の寺勢を示したという。本山派修験山本坊配下の大蔵院の管理下の元、浅羽野土屋神社の信仰形態も影響を与えていたと考えられよう。
        
                 二の鳥居付近を撮影。
 土屋神社の基壇部となっている古墳は,「土屋神社古墳」別名「浅羽野1号墳」とも呼ばれている。石室の形態から7世紀前半の築造(推定)と考えられていて、直径50mの円墳または帆立貝式前方後円墳とされている。坂戸市内でも大きな古墳の部類に入り,現在でもかなり大きな墳丘が残っている事が、二の鳥居付近からでも分かる
 
     二の鳥居を過ぎると境内となる。     二の鳥居の左側にある「神木スギ」の案内板
        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上淺羽村条』
・土屋権現社
 高さ一丈五尺許、四方七八間の塚の南面を深さ八尺程、高さ七尺程、洞の如くに穿ち、三方は石を壘で垣とし、屋の裏には長さ一丈許、文字をも失へる古碑を東西に渡し、茅を以て覆屋を設く、内に丈二尺七八寸なる恵美須の如き坐像のさまを、石にて作れるものを神體として置こは何等の神にて何の頃鎮座せしや、土屋の神號も詳ならず、されど此塚上に淺間の小祠を置、傍に凡六圍の老杉一樹あり、塚のさまは疑ふべきもなき古墳なれば、昔ここを領せし淺羽氏の墳にて彼神體は時の領主を石像とせしにや、又土屋某なんと云る人領せしこと有て、其人の石像を安じ、土屋の神號を加へしや或は土を穿てかかる屋を設けたれば、それらの名によるにや、すべて土人の傳へを失ひたれば、今よりはそれと定むべからず、村内大蔵院の持なり
・大蔵院
 清神山と號(号)す、本山派、西戸山本坊配下、開山明光延文三年八月三日寂せり、本尊不動を安ず、土屋神社は當(当)院の持にて、其社の物なりとて永正年中の鰐口を持傳ふれど、其彫たる文を以て考れば、當(当)村の物に非ることは議なく且七社宮と彫たれば、土屋神社のものに非ること明けし、さはあれ彼栗生田村に小名山王と云あり、昔山王の社ありしといへば、其所に掛しものにや、其鰐口の形をうつして左にいだせり

 上記『風土記稿』において、土屋神社に関する説明の中で古墳や石室について述べられているが、「文字をも失へる古碑」は板碑に使用される緑泥片岩(秩父石)の天井石であると思われる。内部に安置されている石像については「恵比須」のような石像としているが、これが何の像でいつ頃安置されたかは不明であると述べている。また、この塚は疑いなく古墳であるとしているが、この古墳が浅羽氏によって築造したものか、それとも嘗てこの地を所領としていた土屋某が築造したものか、地元の言い伝えも途絶えており、不明であるとしている。
        
                     本 殿
 本殿の真下は、コンクリートで固められていて、その中央部には横穴式石室への入口が開口している。その先に凝灰岩の切石積みの横穴式石室があるのだが、現在非公開であるという。
『埼玉の神社』では以下の解説が載せられている。
石室は本殿真下にあり中に石像がある。この石像は冠を着け合掌した座像で、高さが一・七メートルほどある。石室天井部石版には「武州入間郡浅羽郷別當大蔵院 奉修覆土屋大権現御寳前敬白 寛永四年丁亥九月一五日信州石屋藤沢忠兵衛」とあるが、これは前年に起こった大地震のために崩れた石室を修理したもので、石室内の神像はこの時修理に使用した石材と同様のものを使用していることから、忠兵衛が大蔵院の命を受けて土屋に坐す神として鑿をふるったものであろう。
社の創建については、村人が昔からある古木に囲まれた塚に対して畏敬の念を感じ、村鎮守として小祠を建てたのに始まると思われるが、そのほかにも、本山派修験山本坊配下大蔵院が当社の別当として、信仰的にも影響を与えていると考えられる。これは本社の土屋権現社よりも末社浅間社の信仰に端的に表れ、塚上にある社を浅間山に見立てて盛んに加持祈祷を行った。また、古墳を修理した時代には浅間山・富士山の噴火が続き、関東一円に多くの灰を降らせている。このことを考え併せると、塚上にあった社と修験者の活動は無関係とは思われないものがある。
 
     社殿の左側に鎮座する境内社       天満宮等の手前に祀られている石祠等
      天満宮(左)・稲荷神社(右)

    社殿右側にある出羽三山神の石碑        出羽三山神の石碑から石段を登ると境内社 
                           浅間神社が祀られている。
      
      本殿の奥には樹齢千年を超えると伝えられている神木スギが立っている。
             埼玉県指定天然記念物に指定されている。

 土屋神社神木スギ 埼玉県指定天然記念物
 古墳時代の終わりごろ(一四〇〇年ぐらい前)に造られた円墳の上に、土屋神社の社殿があり、その後ろに神木スギが立っています。樹齢が千年を超えると言われ、古墳と神社を長い間、見守ってきました。
 樹齢千年を超えると伝えられている神木スギは、高さ二八m、幹まわり八・五m、根回り一一・三mとまさに巨木と言えます。七世紀に築造された円墳の頂上に、土屋神社の社殿があり、この後ろに神木スギが立っています。円墳は七世紀後半に築造されていますので、樹齢千年を超えるというのも大げさではありません。
 写真のように天上に張り出した枝の多くは葉をつけていないので、枯死したように見えますが、いくつかの枝には青々とした葉が息づいています。樹齢からかなり高齢のスギではありますが、坂戸の移り変わりを静かに見守ってきたのでしょう。
 枯れ枝の伐採を行なったり、樹勢回復のために根元の土壌を栄養のある土に替えたり、根を保護するために柵を設けたりしました。
 老木のため、太い幹といくつかの枝を残すだけになりましたが、春には新しい芽吹きも見られます。(以下略)
                                      案内板より引用

 古墳時代から悠久の時を経て、満身創痍の状態になっている現在でありながらも、尚この地の護り神である事には間違いない。神々しさすら覚えてしまう絶対的な存在感がそこにはある。
        
                                  境内右側にある神楽殿 

『坂戸市史・民俗資料編」には、この神木スギに関わる伝説が今でも残されている。昔、土屋神社の神木スギには「テンマサ」という化け物が住んでおり、弓矢を以って、当時2つあった太陽の1つを退治したといわれている。
 退治された太陽は、ばらばらになって地上に落ちたのだが、欠片の一部が天に残り、それがお月様になったと言われている。
 また、坂戸の北西に太陽の欠片が落ちたので、村の人々はそれを神様として祀り、「日を祀る」と書いて、「ニッサイ」と読み、後の入西(現坂戸市西部の辺り)村になったと言われている。

このような伝説が、史実であるかどうかは別にして、この地域に残る貴重な財産であることには間違いなく、これからも長く伝承して頂きたいと、切に願うものである。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「坂戸市史・民俗資料編」
    「坂戸市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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森戸国渭地祇神社

 森戸地域に鎮座する国渭地祇神社の創建は不詳。延暦年間(782年~806年)に坂上田村麻呂が東征の帰途に社殿を造立したとも、奥州藤原秀平が創建したとも伝えられている。社号は「国一熊野大権現」が訛ったものではないかと言われ、江戸時代には「熊野社」と称し、江戸幕府から朱印地10石を下賜され、森戸村の鎮守とされた。明治初年に別当を務めた修験大徳院の大徳氏によって、現在の国謂地祗神社と改称された。また、別名「森戸神社」と呼ばれている。
 平安時代927年の『延喜式神名帳』に記載のある「武蔵国 入間郡 国渭地祇社 小」の論社とされているが、一般には北野天神社(埼玉県所沢市小手指元町)が有力とされる。しかし、当社の社地から鎌倉期と思われる古瓦が出土していることや、樹相が古いということを考えると、古社であることは間違いない。
        
              
・所在地 埼玉県坂戸市森戸616
              
・ご祭神 八千矛命 天照皇大神 伊弉諾尊 伊弉冉尊
              
・社 格 『延喜式神名帳』武蔵国入間郡・五座の一
                   「国渭地祇社」の論社。旧
森戸村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例大祭 1015
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9352871,139.3551212,17z?entry=ttu

 厚川大家神社から一旦埼玉県道114号河越越生線を南東方向に進み、「一本松」交差点の五差路を右折する。同県道74号日高川島線に合流後、1.5㎞程南西方向に進むと、東武越生線・西大家駅の約100m手前で、進行方向右側に森戸国渭地祇神社の鳥居が見えてくる。
 因みに「国渭地祇」と書いて「くにいちぎ」と読む。変わった名称だ。
        
 今回所用があり、急ぎ参拝をしたこともあり、県道沿いに建つ鳥居や社号標等の撮影ができなかった中、「森戸の獅子舞」の看板のみ撮影していた。

 森戸の獅子舞  坂戸市指定無形民俗文化財
 秋になると豊年を祝う獅子舞が、市内の各地で行われます。竹で作った「ささら」と呼ばれる楽器を使って獅子舞を踊るので、「ささら舞」とも言われ、昔から地元の人々によって受継がれてきました。
 森戸の獅子舞は、江戸時代に始まったと伝えられ、国渭地祇神社と周辺の神社のお祭りに舞われます。
 獅子は悪霊払いの霊獣として崇められ、古来、祭りの主役として、獅子舞が全国各地で行われてきました。森戸の獅子舞は、江戸時代の安永六年(一七七七年)に始まったと伝わっていますが、記録などは残っていません。国渭地祇神社と周辺の神社へ、毎年十月十五日に奉納されます。
 獅子舞の演者は、雄獅子、雌獅子、中獅子の三頭で、これに山の神の天狗、軍配を振って舞いを盛り上げる配追い、花笠をかぶったささら子、これにほら貝、笛吹き、唄うたいが加わります。演目は「すり違い」、「竿がかり、「花すい」、「秋葉社の舞」、「宮まいり」があります。   獅子舞の当日は、ほら貝の合図で社殿を一周する「宮まいり」から始まり、境内で「すり違い」を舞います。四日市場、森戸の秋葉社へ行列を組んで行き、それぞれの神社に舞を奉納します。神社への行き来の間、国渭地祇神社の境内にもどり、「竿かがり」を舞い、最後に神社境内で「花すい」を奉納して舞納めとなります。行列の先頭を行く万燈には、天下泰平、五穀豊穣、風雨順調、氏子繁昌との願いが記されています。
 祭の当日に立てられるのぼり旗の文字は、巌谷修(児童文学者巌谷小波の父)の書によるものです。 平成十九年三月 坂戸市教育委員会
                                      案内板より引用 
      
        
               森戸国渭地祇神社  境内の様子
 高麗川の南側南岸に位置する。ここは川沿いが低地で、南に行くほどゆるやかに台地上になっていく。森戸国渭地祇神社はこの村の鎮守として鎮座し、社前の往来は旧鎌倉街道であると伝えている。
『日本歴史地名大系』 「森戸村」の解説
萱方(かやがた)村の南西、高麗川両岸にある。南東は中新田村・上新田村(現鶴ヶ島市)、西は市場村(現毛呂山町)。南西の四日市場村境を鎌倉街道が南北に、北寄りを川越越生道が東西に通る。小田原衆所領役帳には御馬廻衆久米玄蕃の所領として河越筋の森戸三五貫文がみえる。田園簿では田二九二石余・畑一七七石余、旗本藤掛領(二五九石余)と同朝比奈領(二〇九石余)。元禄一〇年(一六九七)川越藩領となり(「御知行替物控日記」大徳家文書)、宝永元年(一七〇四)上知され、その後一部が旗本深津領となる。残りは宝暦一二年(一七六二)から寛政七年(一七九五)まで三卿の清水領となり、「風土記稿」成立時には幕府領、文政五年(一八二二)下総古河藩領(「古河御家中并御加増地村高帳」比留間家文書)
        
  鳥居の正面に見えるお社は、森戸国渭地祇神社の社殿ではなく、境内社・八幡神社である。
 県道沿いにある鳥居の西側にも鳥居があり、そこからの参道正面に社殿が見える。もしかしたら本来はそこが嘗て正面入り口ではなかったのではなかろうか。

「埼玉の神社」において、当社は国一熊野大権現と称していた。この社名の国一は美称で、国で一番すばらしい社であるという意味が込められ、これが後に国渭地祇に転化されたものと思われる。このため社の創立は、越生の本山派修験山本坊と直接結びついていた別当三宮山大徳院の活動にかかわるものではないかと考えられる。
 社記には、延暦年中、坂上田村麻呂が東征の帰途、報賽のため社殿を再営し、下って奥州藤原秀衡が再建したと伝えている。
        
           境内社・八幡神社の右側に並ぶ「秋葉神社」「神庫」
 
        境内社・秋葉神社                神 庫
        
                     拝 殿
                    理由は不明だが、社殿は南西方向に向いている。
『新編武蔵風土記稿 森戸村条』
 熊野社
 當村の鎮守なり、慶安二年社領十石の御朱印を賜り、鎮守府将軍秀衡の勧請なりと傳るのみにて、證すべき記録もなければ信ずるに足らず、鳥居の前に一條の往来あり、往古は此街道を隔てて西に鳥居ありし由、今もそこを字して鳥居を云、往来北の方市場村より入、高麗川を渡て社の前に至れり、當村と四日市場村の間を過て、高麗郡中新田に貫けり、鎌倉古街道なりといへり、
末社。疱瘡神社、三島社、石尊社、秋葉社
 観音堂
 別當大徳院。三宮山と號す、本山修験山本坊の配下本尊不動を安ず、開山権律師月證と云、寂年は傳へず、されど本社の傍に觀應二年辛卯三月三日、右志者大檀那當住権律師月證逆修願予普及及法界自陀冏證無上菩提沙彌道妙彌尼妙安敬白と彫たる碑を建つ、此の月證當院の草創ならんには開山の年歴も推考すべし

             社殿右奥に聳え立つご神木の「シイの木」

 国渭地祇神社の社記には、延暦年中、「坂上田村麻呂」が東征の帰途、報賽のため社殿を再営し、下って奥州「藤原秀衡」が再建したと伝えている。何故奥州から遙かに離れた森戸の地に「藤原秀衡」が再建したと語られるようになったのだろうか。
 鍵となるキーワードは「国一熊野大権現」、つまり「熊野信仰」ではなかろうか。

 史実の上での藤原秀衡は平安後期の陸奥の豪族で、陸奥守・従五位上・鎮守府将軍。平家滅亡後は、源義経を匿って頼朝に対抗。奥州藤原氏の3代目として,奥羽一円に及ぶ支配を確立し、砂金の産出や大陸との貿易等により莫大な経済力を蓄え、京都の宇治平等院鳳凰堂を凌ぐ規模の無量光院を建立するなど、北方の地にまさに王道楽土を現出させるかの如き所業を遂げ、奥州藤原氏の最盛期を築いた人物である。
 藤原秀衡は冷静沈着にして豪胆な人物であったという。事実、秀衡が健在の間、頼朝は平泉に朝廷を通じて義経追討を要請し、「陸奥から都に貢上する馬と金は自分が仲介しよう」との書状を秀衡に送り牽制をかけるという書面上での行動しか起こしておらず、軍事行動には至っていない。これは頼朝が秀衡の君主としての器量を認めざるを得なかったことを示している。それほどまでに頼朝は秀衡を怖れていた。      
        
                    境内の様子

 東北地方では、平安時代末期から熊野信仰が広がったと言われており、全国に3000社以上ある熊野神社のうちおよそ700社が東北地方に存在する。ことに秀衡は信仰が篤かったと伝えられており、名取熊野三社(宮城県名取市に存在する熊野神社(熊野新宮社)・熊野本宮社・熊野那智神社の総称)と密接な関係を有していたという
 名取熊野三社は、東北地方の熊野信仰の中心的存在にあり、仙台湾を熊野灘、名取川を熊野川、高舘丘陵を熊野連山に模し、本宮・新宮・那智の三社が他の地域とは異なりそれぞれ別に勧請されている。紀伊熊野の三社それぞれを地理的・方角的に同様にセット状態で勧請しているのは非常に珍しく、全国の熊野神社の中でもここだけであるとされる
 三代藤原秀衡のとき、名取熊野別当の金剛別当秀綱が強大な武士団を率い、更に藤原泰衡の後見人になるなど、軍事的・宗教的に大きな力を持つようになった。奥州合戦の際も秀綱は平泉方につき、源頼朝の軍に抗戦した。伝承によると、秀綱は本吉四郎高衡(藤原高衡)や日詰五郎頼衡と共に高舘山の高舘城に籠り、20000の兵をもって頼朝を迎え撃ったという。最終的に泰衡が死亡した後も秀綱と高衡は生き残り、投降したのちに秀綱は赦され、高舘山に祭神を藤原秀衡とする高舘神社を建立したという。
 奥州藤原氏滅亡後も名取熊野三社は信仰を集め、多くの宿坊を擁する一大聖地として隆盛を誇った。特に熊野新宮社が中心を成すようになり、やがて新宮社には本宮社と那智社も合祀され、熊野神社と称するようになった。

 また熊野信仰の布教的な役割を担う「山伏」の存在も忘れてはならない。平安末に熊野山の末端機構の一員として、関東・東北の熊野信仰の発展を、主として山伏が広汎に地方に散在していたからこそ、短期間に、同時に大規模にその信仰を広げたのではなかろうか。

「義経記」によれば
…越後直江の津は北陸道の中途にて候へば、それより比方にては、羽黒山伏の熊野へ参り下向するぞと申すべき、それより彼方にては、熊野山伏の羽黒に参ると申すべし…
とあり、羽黒、熊野間を結ぶ山伏の多かった事を伝えている。叉修験道では、日本総国66ヶ国を東西に両分し、西24ケ所は熊野、東33国は羽黒権現鎮護の地となすとあり、羽黒山との関係が東北地方の熊野信仰の発展を考える上に無視しがたい。

『新編武蔵風土記稿 森戸村条』には「観音堂」は「別當大徳院」で別名「三宮山」と呼ばれていた。この「三宮」とは熊野三神であり、越生の本山派修験山本坊と直接結びついていた別当三宮山大徳院の活動は、つまり「熊野信仰」の出先機関ではなかったのではないだろうか。その信仰の過程で「藤原秀衡」という強力な信仰心のある大物が社記に記されてしまったのではないかと考察する次第である。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「坂戸市HP」
        「Wikipedia」「境内案内板」等

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坂戸神社

 坂戸市は、埼玉県のほぼ中央に位置し、地勢はおおむね平坦であり、秩父山系から清流として知られる高麗川が南西から東へ流れている。
 昔から交通の要衝に位置し、江戸時代には八王子から日光に至る街道の宿場町として繁栄していた。その後、肥沃な土地を活かした農業が盛んとなり、明治2912月に町制が施行された。昭和297月には、坂戸町、三芳野村、勝呂村、入西村、大家村の5町村が合併して新生坂戸町となり、この後、人口は安定的に推移し、農業中心の町として順調な発展を遂げてきた。昭和40年代の後半には、都心から45キロメートル圏という利便性から、大規模な住宅団地などの相次ぐ開発で人口増加は著しくなり、昭和50年から昭和55年までの人口の伸びは、市の中で全国一となる。
 そして、昭和5191日に埼玉県で39番目、全国で644番目の市として坂戸市が誕生した。市制施行時55,000人であった人口は、都市化とともに増加し、平成1810月には、10万人都市の仲間入りをした。
        
            
・所在地 埼玉県坂戸市日の出町726
            ・ご祭神 
白髪武広国押稚日和根子天皇(清寧天皇)
            
・社 格 旧坂戸村鎮守 旧村社
            
・例祭等 例祭 415日 天王様 715日を中心とした土・日曜日
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9592817,139.3900288,18z?entry=ttu

 国道407号線を坂戸市街地方向に進み、「坂戸陸橋」交差点を右折、1㎞程先の「日の出町」交差点を左折し200m程進むと、進行方向右側に坂戸神社の鳥居や境内が見えてくる。地図を確認すると、東武東上線坂戸駅(北口)や、市役所などもすぐ近くにあり、市の中心部に鎮座しているようだ。駐車場は神社の敷地内にあるのだが、程々に交通量もあり、駐車場での出入りの際には周囲の道路状況を確認する等の注意が必要だ。
        
                    坂戸神社正面
「坂戸」地名由来として『新編武蔵風土記稿 坂戸村条』では、「勝呂郷浅羽庄に属せり、村名の起りを尋るに康平の頃、坂戸判官教明といへる人住せしより始れる由を云と、坂戸教明のことを據(よりどころ)とすべき記録なければ、今よりは考べからず」「常泉寺 薬師堂 本尊薬師は木の立像にて、胎中に長二尺許の薬師を納り、こは坂戸判官教明と云し者守り本尊なりしを、康平六年に此處へ安置せしとのみ傳へて、この外のことは詳ならず」「常泉寺蹟 村の南小名道願山にあり、往古坂戸判官教明の開基なりしに、しばゝ兵火の為に烏有となりし後は廢寺となる」との記載がある。
 
     鳥居の右側に建つ社号標柱            鳥居上部の社号額
        
             社号標の近くに設置されている社の由来書

 ご祭神である白髪武広国押稚日本根子天皇は、22代清寧天皇である。大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)の第三皇子で、母は葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。生来「白髪」という身体的な特徴であったため父帝・雄略天皇は霊異を感じて皇太子にしたという。但し白髪皇子は末子であり、異母兄には吉備稚媛の子の磐城皇子と星川皇子がいた。
 雄略天皇238月に大泊瀬天皇は崩御する。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が権勢を縦(ほしいまま)にしようと大蔵を占拠したため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させ、(星川皇子の乱)翌年正月に即位する。
 即位2年、皇子がいないことを気に病んでいたところ、大泊瀬天皇(雄略天皇)が即位前に暗殺した市辺押磐皇子の子で行方不明になっていた億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟が播磨で発見されたと報告を受ける。翌年に天皇のはとこに当たる二人を宮中に迎え入れ億計王を東宮、弘計王を皇子とし、即位5年正月に崩御する。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳といい、陵(みささぎ)の名は河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)という。
 実際に行政を行った記録は全く無く、存在感の大変薄い天皇でもあるが、生来の「白髪」という身体的な特徴であるがため、多くの伝説が後代尾ひれをつけて伝承された人物でもあろう。
        
                            独特の形状をした石製の二の鳥居
 白髪神社は調べると大きく3系統の由来があり、またそれぞれ「白鬚」「白髭」「白髪」等記載も微妙に違っている。詳しくは「上原白髭神社」を参照。

「坂戸神社御由緒略記」によると、以前は「白髪社」と称し、元坂戸に鎮座していた。創建に関して、源頼義が奥州討伐(前九年の役「永承六年(一〇五一)~康平五年(一〇六二)」の際に従軍した家臣、坂戸判官教明(坂戸判官後藤太教明)によって、白髪明神が奉斎されたと伝えられている。
 また『風土記稿』には「村名の起りを尋ねるに康平の頃、坂戸教明といへる人住せしより始れる」とあり、更に「教明の生国は河内国坂門原(坂戸原)で、この地には清寧天皇の御陵があり、古くから天皇を白髭明神と崇敬して来たことから、当地移住に伴い同神を氏神として勧請した」という。
        
                     拝 殿
 坂戸神社御由緒略記  お拾神(とかみ)の宮
 主祭神 清寧天皇(白髪武広国押稚日和根子天皇)・猿田彦命
 合祀神 神祖熊野大神櫛御気野命・建御名方命・菅原道真公・大山咋命・菊理姫命
     須佐之男命・倉稲魂命・誉田別命
 鎮座地 埼玉県坂戸市日の出町七の二六(坂戸字日枝前)
 交 通 東武東上線:坂戸駅(北口)より徒歩五分
 例 祭 四月十五日
 由 緒
 当神社は、高麗川・越辺川右岸の台地部分にあたる市街地中心部に鎮座します。
 社伝によると、ご創建の来由は第七十代後冷泉天皇の御代、朝廷軍である鎮守府将軍、源頼義が奥州討伐(前九年の役「永承六年(一〇五一)~康平五年(一〇六二)」の際に従軍した家臣、坂戸判官教明(坂戸判官後藤太教明)によって、白髪明神が奉斎されたと伝えられています。
 白髪社創祀のことは、『新編武蔵風土記稿』に「村名の起りを尋るに康平の頃、坂戸判官教明といへる人住せしより始れる」とあり、「教明の生国は河内国坂戸原で、この地には清寧天皇の御陵があり、古くから天皇を白髭明神と崇敬して来たことから、当地移住に伴い同神を氏神として勧請した」と記載され、平安時代末期の康平年間(一〇五八〜一〇六五)と伝えています。
 創建当時、白髪社は元坂戸に鎮座し、古来より郷人たちの尊崇に篤き一村の鎮守であることから、明治五年(一八七二)には太政官布告の社格制定により、村社に列せられました。

 また、同一七年(一八八四)には、坂戸駅付近の導願山に遷座して清寧天皇(白髪明神)・猿田彦命(白髭明神)の二神を主祭神とし、同時に稲荷前の熊野社、堀ノ内の諏訪社、天神前の天神社の三社を合祀し、五社様と尊称され、氏子区域も広がり盛大に祭祀を営みました。更に、同四十年(一九〇七)には日枝前の日枝・白山社、八坂社、これに加え、粟生田の稲荷社、上吉田の諏訪社・天神八幡社を合祀し、現在の鎮座地である字日枝前に遷座し、氏子区域は広大となり、祭祀も更に増え、厳粛・盛大に執行されました。本殿は神明造りで御扉が五箇所ある、いわゆる相殿五座で一座ごとに二神を奉斎します。第一座は主祭神、壱番神「清寧天皇」、弐番神「猿田彦命」。第二座よりは合祀神、参番神「神祖熊野大神櫛御気野命」、四番神「建御名方命」。第三座は五番神「菅原道真公」、六番神「大山咋命」。第四座は七番神「菊理姫命」、八番神「須佐之男命」。第五座は九番神「倉稲魂命」、拾番神「誉田別命」の十神(拾神 とかみ)です。そして、同年には社号も「白髪社」から現在の「坂戸神社」に改められ、境内も一段と整備されました。(中略)
                              「坂戸神社御由緒略記」より引用

        
                拝殿左側手前にある神楽殿
 
         社殿の奥には数多くの山車屋台格納庫が並ぶ(写真左・右)。
 坂戸神社では毎年7月15日を中心とした土曜日・日曜日に「天王様」と呼ばれる祭礼が執り行われている。山車を引き廻し、神輿がねり歩く。指定は一丁目から四丁目に分かれている。一丁目の囃子は日の出町・本町で、昭和23年(1948年)夏、消防団員を中心とした一心会が結成された。越生町本町から伝授された神田囃子大橋流。二丁目の囃子は仲町で、昭和24年(1949年)越生町黒岩から伝授された。三丁目の囃子も仲町で、昭和23年(1948年)川島町から伝授され、翌年「三若会」が組織された。四丁目の囃子は昭和3年(1928年)に塚越から伝授された。昭和12年に戦争のため解散、昭和21年に再組織した。
 坂戸市無形民俗文化財 指定年月日 昭和49211日。
        
     
拝殿手前で、参道右側には手水舎と共に「重軽石(おもかるいし)」がある。
         石を持ち上げて思ったより軽く感じると願いが叶うといわれているとの事だ。
        
                     本 殿
 本殿は神明造りで御扉が五箇所ある、いわゆる相殿五座で一座ごとに二神を奉斎している。第一座は主祭神、壱番神「清寧天皇」、弐番神「猿田彦命」。第二座よりは合祀神、参番神「神祖熊野大神櫛御気野命」、四番神「建御名方命」。第三座は五番神「菅原道真公」、六番神「大山咋命」。第四座は七番神「菊理姫命」、八番神「須佐之男命」。第五座は九番神「倉稲魂命」、拾番神「誉田別命」の十神(拾神 とかみ)である。
        
                      社殿左側隅にひっそりと鎮座する「皇国神社」
 
        参道右側にある手水舎奥に聳え立つご神木(写真左・右)



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「坂戸市HP」
    「Wikipedia」「境内案内板・御由緒略記」等

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