高倉日枝神社
福信の同族には、東大寺写経所の官人などを勤めた広山や、造東大寺司の判官・次官、それに武蔵介などを勤めた大山などがいる。大山は天平宝宇五年、遣高麗大使となって渤海に渡ったが、帰途病にかかり、翌年没した。また同族の殿嗣(とのつぐ)も宝亀八年(七七七)、渤海使を送る使として渡海している。
このように肖奈公(高麗朝臣・高倉朝臣)の一族は、大陸文化の保持者として、また武力的才能にすぐれた者として、さらには高句麗の故地に建国した渤海国との交渉にあたる者として、各方面に活躍した。それは基本的には中央官人としての活躍と言えるが、彼らの中には武蔵守・武蔵介となった者も多く、また八世紀後半には、入間広成(いるまのひろなり)・丈部不破麻呂(はせつかべのふわまろ)などほかにも武蔵国の出身者が中央官人として活躍していたから、これらの人々の活躍は、武蔵国の政治的な動きにも大きな影響を与えたと考えられる。
高倉日枝神社の創建年代等は不詳ながら、その高倉朝臣(高麗福信)が近江国から武蔵国に移住した際に日吉大社を勧請したとも伝えられ、また別の伝承では、当地区が明暦年間(1655-1658)頃に高倉・上新田・中新田・下新田の4村に分村した際、上新田日枝神社を分祀したとも伝える。
・所在地 埼玉県鶴ヶ島市高倉36
・ご祭神 大山咋命
・社 格 旧高倉村鎮守・旧村社
・例祭等 例祭(高倉獅子舞) 11月2・3日
鶴ヶ島市・高徳神社からは、埼玉県道114号川越越生線を市役所方向に進行し、1.5㎞程先の「高倉派出所」交差点を左折する。この交差点は道路に面して北側は「西入間警察署 高倉交番」、南側にはコンビニエンスがあり、進路変更での目印にもなり、ルートの説明もしやすい。
この交差点を左折後、150m程先の道路沿いに高倉日枝神社は鎮座している。
高倉日枝神社正面
『入間郡誌』高倉
高倉は村の西部に当り、脚折三木の西方に接せり。 戸数七十。 或は曰く高倉は古高倉福信の生地なりと。 其証として挙ぐること甚だ不可なるもの多し。
曰く、旧松栄山高福寺は福信の菩提寺にて、其姓名の頭字を採りて高福と名けたりと。 然るに寺は江戸時代の始に創立せられたるものの如く、寺名説の如き索強附会たるを免れず。 曰く、寺に不動の仏書あり。 今之を不動堂に安置せり、福信の守本尊なりと。 然も其書正に古しと雖、さまで名書とも覚えず、殊に福信の頃果して斯く不動の仏書行はれしや否やを知らず。
曰く福信の古墳と覚しきものありと。 郡内至る処古墳のなきにあらず、然も頗る大なるものありて、而も到底其何人の噴墓たるやを知らざるを普通とす。
曰く高福寺墓地に貞治七年の板碑ありと。 郡内至る処、南北朝時代の板碑あり。 其高麗人移住の説は高麗村新堀に高麗の正統(?)の存するを無視し、日枝神社勧請説は福信の時代と延暦寺及日枝社全盛時代とを転倒し、高倉村の古大にして、屋敷と称する小名あり、又人家区画の整然たるを説くは徳川時代の諸村に往々珍らしからざる事実なるを如何せん。
脚折に白髭神社のあるも理曲とならず。 郡内には大凡二十有余の白髭あり、思ふに高倉村の成立は到底福信の頃にあらずして室町の頃にもやあらん。
参道も比較的長く、社の敷地も広そうである。 参道の途中にあるステンレス製の二の鳥居
高倉地域の地形は台地上にあるため、水田は少なく、耕地のほとんどは畑で、蔬菜(そさい)の栽培を中心とした農業が主体となっている。また戦前は養蚕も盛んに行われていたという。
地域南部には日光往還(現国道407号線)が通り、今も往時の面影を留めた松・杉の並木が残っている。ほぼ中央にある池尻池は脚折の雷電池とともに、入間川水系の飯森川・大谷川の水源になっている。
*蔬菜…本来は栽培作物を指す語。今日では慣用的に「野菜」(やさい)と同義となっている。「蔬」も「菜」も広く食用の草本を指しており、「野菜」の概念よりも広い意味を持っているという。
静まり返った境内
「埼玉の神社」によれば、高倉日枝神社の氏子の間に伝わる習俗は多いが、生活様式の変化により、次第に行われなくなってきている。例えば、嘗て1月15日に行われていた「七草粥の箸」と呼ばれる行事もその一つで、これは、この日に七草粥の箸を作る時に、両端を尖らせた箸を二本作り、紐で十文字にしばり、屋根に投げ上げるというもので、うまく屋根に突き刺さって箸が立てば「吉」で、その年は必ず良い事があるといわれていた。しかし、戦後、草葺きの屋根が減っていくにつれて、この行事も行われなくなり、現在では全く見ることができなくなってしまったという。
消えゆく行事に対して、現在でも引き続いて行われている行事もある。毎年、2月初午に行われる稲荷講はその一つである。これは、春日待ともいい、まず当社の末社である稲荷社の祭典を行ったあと、社務所で宴会を行うもので、この席上で、新人氏子の紹介、年行事(祭事の世話を行い、抽選で毎年2名ずつが奉仕をする)の交替、榛名講・御嶽講の代参の抽選などが行われる。
当社は「山王様」として氏子に親しまれているが、特に字山王の人々は当社を氏神様と呼び、その信仰が厚い。
拝 殿
日枝神社 鶴ケ島町高倉三六(高倉字山王)
大字高倉の北東部にある字山王に鎮座する。高倉の開発は古く、地内には、縄文中期から弥生時代の住居址である高倉遺跡もある。
また、隣接する上新田・中新田・下新田の三村(いずれも現在は鶴ケ島町の大字)は当地の住民によって開かれたといわれ、もとは高倉の一部であったが、明暦年間に分村した。
当社の創建については、『明細帳』に、「往古近江国から高倉朝臣(高麗福信)が武蔵国に移ってきた時に自ら崇敬する近江の日吉神社の神を、当地に勧請した」という話が古老の口碑として記載されている。この話を伝える勧請は定かではないが、伊勢湾台風で倒れた神木の樹齢は、ゆうに三〇〇年を超えていたことから、既に江戸初期には当地に奉斎されていたものと思われる。 古くは山王権現と称し、拝殿には今も「山王大権現」と書かれた享和二年奉納の額が掛けられている。
神仏分離により、別当であった真言宗長泉寺は廃寺となり、当社は社名を現在の日枝神社に改めた。明治五年に村社となり、同四〇年には字神明の神明社、字熊野の熊野神社、字富士塚の浅間神社及びその境内社下浅間神社の四社を合祀し、現在に至っている。
祭神は大山咋神で、一間社流造りの本殿を持つ。往時は剣と鏡を蔵していたが、剣は盗難に遭い紛失したため、現在は鏡だけである。
「埼玉の神社」より引用
拝殿向拝部等には精巧な彫刻が施されている。 拝殿上部に掲げてある扁額
本 殿
拝殿に対して左側に祀られている境内社・愛宕社 向かって右側には境内社・稲荷社が2基鎮座
本殿に対して右側に聳え立つ巨木(写真左・右)
ご神木かどうかは不明だが、十分な貫禄がある。
ところで、この高倉地域には、「高倉の獅子舞」という江戸時代から続く伝統行事が現在でも続いている。鶴ヶ島市内唯一の獅子舞であり、高倉日枝神社で毎年11月の例祭にて豊作感謝・疫病退散祈願のため獅子舞が奉納されている。
鶴ヶ島市市指定無形文化財(昭和四十九年十一月一日指定)
一の鳥居付近に設置されている「高倉の獅子舞」の案内板
高倉の獅子舞
市指定無形文化財(昭和四十九年十一月一日指定)
日枝神社の秋祭りに高倉の獅子舞が行われる。この獅子舞は遠い国から訪れた強力な神が、村人の幸福を守るために悪霊。悪疫を退散させてくれるといわれている行事で、村人にとっては国家安泰、天下泰平、五穀豊穣などを祈る行事でもある。
高倉の獅子舞は江戸時代から引き継がれている伝統ある行事で、昭和四十九年に、最初に鶴ヶ島市の文化財に指定された。
その構成は、万灯、天狗、花笠、はいおい(軍配を以て獅子を先導する)、前獅子(男獅子)、中獅子(女獅子)、後獅子(男獅子)などで、ほら貝を合図に数人の笛吹きと歌うたいに合わせて登場する。
花笠は女装した”ささらっこ”と呼ばれる童子四人が花笠をかぶり、”ささら”と呼ばれる楽器を奏でながら舞に参加するので、特に”ささら獅子”とも呼ばれている。
市内で数箇所あった獅子舞も、現在は高倉の獅子舞が唯一のものとなってしまい、たいへん貴重な伝統芸能である。
案内板より引用
ステンレス製の二の鳥居を過ぎた参道右側には、こんもりとした塚、ないし古墳の形状
をした盛り土部があり、その上には石碑と石祠が祀っている。詳細は不明。
社殿から鳥居方向を望む。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「埼玉の神社」「多摩市デジタルアーカイブ」
「Wikipedia」「境内案内板」等