古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

戸宮八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県坂戸市戸宮60
             
・ご祭神 (主)天御中主大神 (相)応仁天皇
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春祭り 225日 例祭 101日 秋祭り 1123
 片柳飯盛神社参拝後、一旦国道407号線に合流し、暫く南方向に進路をとる。約1㎞先にある「坂戸ろう学園前」交差点を左折し、埼玉県道269号上伊草坂戸線を東方向に道なりに進む。2㎞程進んで正面にコンビニエンスストアに到着するY字路手前の大きく右カーブする先の十字路を右折し、400m先にある信号のある交差点を左折すると左手に戸宮八幡神社の社叢林、及び社号標柱が見えてくる。
 グーグルマップを確認すると、そこは四差路の交点にあたり、社はその四差路の北側に鎮座している。社の東側には「戸宮東集会所」があるが、集会所沿いにはロープが張ってあり、駐車スペースはあってもそこに停めることができず、道路沿いにある集会所から社入り口の僅かのスペースに路駐し、急ぎ参拝を行った。
        
                  
戸宮八幡神社遠景
 戸宮地域は、坂戸市の南東部に位置する農業地域である。『風土記稿』によれば、本は「富屋」と書いたが、いつのころか「戸宮」の文字になったという。
 
 南北に参道が通り、その間には社叢林が広がる。  参道を少し進むと石製の鳥居がある。
『日本歴史地名大系』 「戸宮村」の解説
 [現在地名]坂戸市戸宮・栄・千代田五丁目、鶴ヶ島市富士見六丁目、川越市下広谷(しもひろや)

 塚越(つかごし)村の南にあり、南は高麗郡下広谷村(現川越市)。川越秩父道が南東から北西に通る。小田原衆所領役帳に玉縄衆間宮豊前守の所領として「入西郡富屋」二一貫五六三文があり、弘治元年(一五五五)に検地が行われていた。近世には高麗郡に属した(風土記稿)。田園簿には戸宮村とあり、高五九石余で皆畑、ほかに野銭永三貫八三文。川越藩領で幕末に至る。慶安元年(一六四八)・寛文元年(一六六一)に検地が行われた(風土記稿)。
        
     入口右側には戸宮八幡神社の由緒書きが記されている案内板が設置されている。
        残念なことに長い歳月により、字が薄くなり見えない所もある。
 八幡神社
 当社の祭神は天御中主大神であり、鎮座年代は不詳であるが、往古より一村一社の鎮守として創立され、永承七年(一〇五二年)二月十五日に社殿が再建されたと伝えられ、明治五年村社となった。明治四十三年、大塚野新田に鎮座した八幡神社、御嶽神社を合祀し、現在に至っている。
 またこの地には、昭和五十一年一月二十九日坂戸市の無形民俗文化財に指定された獅子舞が伝えられている。
 詳しい記録はないが、元治阿使用中の道具や古老の口伝えによれば、徳川中期頃から一村融和団結のシンボルとして華麗な装束によって行われたが、最近、時代とともにやや簡素化されたという。しかし獅子舞そのものの演技は、古い伝統をよく守って独特な郷土芸能として保存されている。
 毎年十月一日が例祭、一月一日が元朝祭、二月二十五日が春祭り、十一月二十三日が秋祭りである。
 獅子舞の実演は、毎年十月一日の例祭当日午後二時頃から社前で行われる(以下略)
                                      案内板より引用

        
                  鳥居の左側に設置されている「戸宮の獅子舞」の案内板
 戸宮の獅子舞(坂戸市指定無形民俗文化財)
 秋になると豊年を祝う獅子舞が、市内の各地で行われます。竹で作った「ささら」と呼ばれる楽器を使って獅子舞を踊るので、「ささら舞」とも言われ、昔から地元の人々によって受継がれてきました。
 戸宮の獅子舞は、江戸時代に八幡神社のお祭りに演じられたのが始まりと言われています。
 戸宮の獅子舞は、江戸時代に五穀豊穣を祈って八幡神社の例祭に奉納されるようになったと言われています。例祭は以前、十月一日でしたが、現在は十月の第三土曜日になりました。
 獅子舞の演者は、高張・天狗・花笠・笛吹き・仲立・雌獅子・中獅子・大獅子・唄うたいで、演目は「竿がかり」・「新ささら」・「角平」の三曲です。例祭の当日は、集会場で準備を整え、ほら貝の三つの合図で行列を組み、笛、太鼓をならしながら八幡神社に向かいます。この行列を「道中ささら」と呼びます。八幡神社の前で、獅子舞を奉納して、戸宮の地区内をゆっくり舞いながら集会場へともどります。夜、ふたたび集会場の庭で、獅子舞が行われます。
 獅子舞は、笛・唄・ささらに合わせて、太鼓をたたきながら踊ります。舞の内容は、仲立の先導で、大獅子と中獅子が花笠に隠れた雌獅子を探すというもので、神話を題材にしています(以下略)。
                                      案内板より引用
        
        豊かに生い茂っている社叢林の中に社殿は静かに鎮座している。
        自然と一体感となっているこの雰囲気が心地よく感じられる社。
        
                     拝 殿
 八幡神社 坂戸市戸宮六〇(戸宮字屋原)
 当社は、この戸宮の鎮守として、開村と時を同じくして勧請されたと伝えられ、応仁天皇と天御中主大神を祀る
 社殿によると、永承七年二月一五日の再建というが、現存する棟札は、天保一二年・嘉永七年・安政四年の三枚だけで、残念ながら永承のものは失われてしまっている。
 明治五年に村社となり、同四三年には、大字大塚野新田から字八幡裏の村社八幡神社、字御嶽の御嶽神社の二社を合祀した。なお大塚野新田は八戸しかない小さな村で、昭和一五年に陸軍坂戸飛行場用地として、村全域が買収され、住民はことごとく代替地の鶴ケ島村脚折の一天狗地区に移住し、これを機に新しく神社を奉斎している。ちなみに、戦後、坂戸飛行場は廃止され、工業団地となっている。
 本殿は一間社流造りで、内陣には幣束が納められている。境内には、様々な記念碑が立ち並び、社殿を取り囲むように杉・松・檜の混淆林がある。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
        社殿右側で、幣殿部近くに立派に聳え立つ大杉(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「坂戸市HP」
    「境内案内板」等


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片柳飯盛神社

 鶴ヶ島市脚折地域に雷電池(かんだちがいけ)がある。現在は「雷電池(らいでんいけ)児童公園」と名称は変わったが、この公園内には「雷電神社」が鎮座している。この雷電池で4年に1回開催される、江戸時代から続く神事「脚折雨乞」が有名で、大きな龍神が街中を練り歩く地域伝統芸能「雨乞い祭り」がある。
「脚折雨乞」の由来として鶴ヶ島市HPには以下の伝承を載せている。
「昔から日照りのとき、脚折の雷電池(かんだちがいけ)のほとりにある脚折雷電社(らいでんしゃ)の前で雨乞いを祈願すると、必ず雨が降った。特に安永・天明(17721789)の頃には、その効験はあらたかで近隣の人の知るところであった。 しかし、天保(18301844)の頃には、いくら雨を祈ってもほとんどおしるしがなくなってしまった。
 それは、雷電池には昔、大蛇がすんでいたが、寛永(16241644)の頃、この池を縮めて田としたため、大蛇はいつしか上州板倉(群馬県板倉町)
にある雷電の池に移ってしまった。そのため雨乞いをしても、雨が降らなかった」
この雷電池(かんだちがいけ)等を水源(実は水源の本流は、関越自動車道・鶴ヶ島IC付近で二手に分かれる西側の上流部には池尻池ともいわれていて、雷電池同様に湧水となっている)とする飯盛川は、鶴ヶ島市と坂戸市との境界付近からほぼ一貫して北流し続けるのだが、飯盛神社北西地点付近で突然流れを直角に東へと変える。また水源から飯盛神社まで北方向に流れているのだが、そこまでは「山田川」。そこから東方向に進み、越辺川へと合流する4㎞程の流路が「飯盛川」といわれていた。
『新編武蔵風土記稿』「坂戸村」
「山田川 高麗郡臑折村内雷神池より流出、當村に入、隣村片柳へ沃げり」と記載があり、
山田川は飯盛川の旧名と思われる。現在はどちらも「飯盛川」で統一されているようだ。
        
              ・所在地 埼玉県坂戸市片柳1829
              ・ご祭神 豊保食姫命
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 祈年祭 226日 例大祭410日 秋祭り 1017日
                   勤労感謝祭 1126日 大祓い 1228日
 片柳飯盛神社は国道407号線を南下し、越辺川に架かる「高坂橋」を過ぎてから1㎞程先にある信号のある交差点を右折する。この交差点右側にはコンビニエンスもあるので分かりやすい。その後200m先の十字路を再度右折すると、正面に社叢林、及び境内の風景が見えてくる。
 南側正面には鳥居が立っており、そこから北方向に一色線の参道があり、その真ん中付近には「片柳第一集会所」がある。集会所近辺で参道を含む境内において、撮影に支障のきたさない場所に駐車させて頂き、その後参拝を開始した。
        
                  片柳飯盛神社正面
 
        正面石製の鳥居                鳥居の社号額
 いつものように『日本歴史地名大系』には「片柳村」の解説が以下のように載せられている。
 [現在地名]坂戸市片柳・芦山(あしやま)町・伊豆の山(いずのやま)町・末広町
 
坂戸村の北東にあり、北は北東流する越辺(おつぺ)川を隔て比企郡田木(たぎ)村(現東松山市)。飯盛(いいもり)川が北東へ流れる。中世には鎌倉街道が通っていた。承元四年(一二一〇)三月二九日の小代行平譲状(小代文書)には養子俊平へ譲られた小代(しようだい)郷(現東松山市)内「をつへの村」の南境として「かたやきのさかひ」がみえる。文明一九年(一四八七)二月甲斐国吉田(現山梨県富士吉田市)から武蔵国へ入った聖護院道興は「かた柳といへる所をとをるとて」として「一しほのみとりになひく糸ハけに春のくるてふかた柳かな」と詠じている(廻国雑記)。この「かた柳」を当地に比定して歌碑が建てられている。休台(きゆうたい)寺の過去帳に伝えられたという元亀二年(一五七一)九月二三日の紀年のある飯盛神社棟札銘写には「入西郡ノ内片柳郷長柳山妙慶寺」とある(風土記稿)。
承元四年小代文書「越辺村の四至、南はかたやきのさかひをかきる」
鎌倉光触寺文書 「貞治三年六月二十五日、成田下総守泰直と玉井蔵人入道覚道は、片楊長門入道の押領を退け、鎌倉大慈寺新釈迦堂領武蔵国横沼郷(坂戸市)の下地を寺家雑掌に打ち渡す」とあり、片柳「カタヤナギ」は、元は「片楊 カタヤギ」と呼んでいたようだ。
 
      鳥居の先に立つ社号標柱          静かで落ち着きのある境内
        
                 片柳飯盛神社由来の碑
 由来
 片柳の地は康安年間片柳長門入道の草蒼の土地なり。産土神として飯盛大明神を祀る。
 御魂は伊勢の國外宮豊保食姫命(保食神)なり伊勢の國外宮の地形に類似して西側に山田川北側に流るるを御神号を以って飯盛川と唱えり。
 元亀貳年當所の地頭岩槻城太田氏の被官にて恒岡入道大林軒道會日勢と片柳の長柳山妙慶寺創建開山の祖相州比企ヶ谷妙本寺住持本行院日慶上人を請じて社殿を建立し飯盛大明神、三十番神を併祀し神佛混淆の神社とす。爾来約参百有餘年を経て明治に入り混淆の制度廃止となり三十番神を正覺山休寺に遷座する。
 明治五年に村社に列せられる。後明治四拾年五月村の無格社、稲荷社、荒神社、熊野社、天神社、八坂社、白山社の六社を合祀し飯盛神社と號す。
 拜殿は安政貳年の再建である。
        
                     拝 殿
 飯盛神社 坂戸市片柳一八二九(片柳字宮の前)
 片柳の鎮守である当社は、通称飯盛様と呼ばれ、また神仏混淆時代に三十番神を祀っていた名残で番神堂ともいう。社殿の建築については棟札写しに「安政二年九月 大工棟梁武州高麗郡的場村柴原建五郎藤原規守」とある。
 伝承として康安年間に創立というが確たる資料はない。『風土記稿』に「飯盛明神社 当社は旧き鎮座の由伝へり、元亀年中三十番神を配すと云、休臺寺の持」とあり、更に休臺寺の項に「当寺に飯盛神社の古棟札を蔵せしが、何の頃か失へる由」と載せる。また、元亀二年、地頭岩槻城太田氏被官恒岡入道大林軒道会日勢という者が、片柳郷長柳山妙慶寺(現休台寺)の開祖、鎌倉比企谷妙本寺住持日慶上人に請て三十番神を勧請したとも伝える。恐らくは、農耕神として祀られていた神に三十番神を配したものであろう。
 主祭神は豊保食姫命で、伊勢の外宮と同じであると伝え、外宮の鎮座地である山田原にちなみ、当社近くの川を山田川と称している。
 明治初めの神仏分離により三十番神を休臺寺に遷座、明治五年に村社となり、同四〇年には熊野神社をはじめとする六社を合祀した。
                                   「埼玉の神社」を引用

 休臺寺
 日蓮宗、房州小湊誕生寺の末、正覺山と號す、本尊三寶祖師を安ず、開山日慶天正八年八月十三日示寂、中興開基横田次郎兵衛延寶七年正月廿三日卒す、法名正覺院一乗日臺居士と云、當寺飯盛神社の古棟札を蔵せしが、何の頃か失へる由、過去帳の端に寫を殘せり、其あらまし當所の地頭松山の旗下、恒岡入道大林軒道會日勢といへる人、三十番神を勧請せりと、又武州入西郡の内片柳郷長柳山妙慶寺日慶上人の勧請也、相州鎌倉比企ヶ谷妙本寺住本行院日慶、元亀二年辛未九月廿三日とあり、是をもて考れば往古は山號・寺號も今とは違ひしに、延寶年中中興開基横田氏の法謚を取て山號とし、其おりから寺號も改めしものなるべし、文中松山の旗下と記せるによれば、松山は則比企郡松山にて、彼恒岡大林軒と云人、もしくは松山城主上田氏の臣に恒岡氏ありてそれ等をさすにや、いまだつまびらかなるを知ず、
 祖師堂
 此堂は元毘沙門堂にて毘沙門を安ぜしに、近き頃傍に日蓮の像を並べ置しかば、今は祖師堂とのみ稱せり、堂の傍に元亀二年の古碑一基あり、
鍾樓。寶永五年十一月の銘を彫し鐘を掛たり。
                             『新編新編武蔵風土記稿』より引用
        
               拝殿向拝部の細やかな彫刻の細工。
         製作者は「武州高麗郡的場村柴原建五郎藤原規守」という。
 
     拝殿手前右手にある神楽殿       拝殿右隣に祀られている境内社・稲荷社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「鶴ヶ島市HP」
    「境内掲示板」等


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小沼氷川神社


        
               
・所在地 埼玉県坂戸市小沼840
               
・ご祭神 素戔嗚尊
               
・社 格 旧小沼村鎮守 旧村社
               
・例祭等

 越辺川(おっぺがわ)が東流から南流に流路が変わる右岸部に島田・赤尾・小沼という地域が続いていて、小沼氷川神社は赤尾金山彦神社の南東で直線距離にして約2kmの場所に鎮座する。赤尾金山彦神社から一旦埼玉県道74号日高川島線に合流し、そこから南西方向に進み、約1km先の十字路を左折、そこから首都圏中央連絡自動車道 坂戸ICを目指し、小沼地区の集落中央部に小沼氷川神社は鎮座している。
 残念ながらこの社までのルートは一本道がなく、また道路も入り組んでいるため、正確を期すためには、より細かい説明となってしまうので、このような曖昧な表現となってしまったことをお詫びしたい。
 社に隣接して「小沼集会所」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                  小沼氷川神社正面
            社の正面鳥居からは日当たりもよく明るい雰囲気
 小沼地域は越辺川右岸の低地から台地に位置する。地域内には弥生後期の集落跡小沼新井遺跡、古墳後期の雷電山古墳群、雷電塚古墳(県文化財)があり、さらに元暦・正和・文和・貞和・永徳などの年号を刻む板碑が各所に点在し、古くから住居地になっていたらしい。
         
     鳥居の右側にある社号標柱        鳥居を過ぎると境内が左方向に見える。

『日本歴史地名大系』には「小沼村」の解説が載っている。全文紹介する。
[現在地名]坂戸市小沼
塚越村の東にあり、南西は青木村、東は南東流する越辺川を境に比企郡上伊草村(現川島町)。入間郡河越領に属した(風土記稿)。田園簿では田五〇七石・畑二二二石、川越藩領(六一〇石)と旗本酒井領(一一九石)。川越藩領分は寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高六三六石余、反別は田五四町四反余・畑四四町六反余。同帳に書き加えられた新田分は田九八石余、反別は田八町四反余・畑六町八反余。元禄一五年(一七〇二)には全村が川越藩領で(河越御領分明細記)、宝永元年(一七〇四)には同藩領を離れた。その後旗本島田領となり(国立史料館本元禄郷帳など)、化政期には川越藩領(文政一〇年「組合村々定方につき申上書」林家文書など)
        
                     拝 殿
八幡社
古は村の鎮守にて、民家も多く此社邊に住せしが、當社は越邊川の上にあれば、水溢の患ありとて今の所へ民家を移せしより、村内實蔵寺境内の氷川明神を産神とせり、村内東光寺持、
寶蔵寺
新義眞言宗、勝呂大智寺末、氷川山と號す、本尊は不動を安ぜり、
氷川社 村の鎮守なり
                               『新編武蔵風土記稿』より引用
 文化・文政年間に編集された「新編武蔵風土記稿」には小沼村の「産土神」として第一に「八幡神社」を載せている。しかし同時に氷川社も寶蔵寺境内に「村の鎮守なり」として祀られていた。「埼玉の神社」ではその経緯を次のように述べている「当地は慶長年間以前、二つの集落に分かれていて、越辺川の付近に一八戸が居住し八幡神社を産土の神と祀り、高台に三十数戸が居住し氷川神社を産土の神と祀る。常に両鎮守と称して崇敬されてきたが、越辺川は毎年水害を被り困難を来したために、寛永の頃高台の集落に全戸移転し、八幡神社はそのまま堤外に残した」と。
        
                       拝殿に掲げてある「正一位氷川大明神」の扁額
 その後、明治五年の社格制定にあたり、往時から住民は両社を鎮守としてきたところから、氏子一同話し合いの上、両社に氏子が分かれ、別々に村社に申し立てたが、同四〇年に八幡神社が氷川神社へ合祀され、同時に字西廊の八坂神社も合祀された。そのため、一間社流造りの本殿には、氷川大明神像とともに騎乗の八幡大明神像を安置している。
                                  「埼玉の神社」から引用
 
 境内社・稲荷神社・金刀比羅神社・神明神社       合祀社に掲げてある扁額
          合祀社

 ところで、島田天神社で紹介した伝承・伝説を改めて紹介する。そこには島田・赤尾・小沼という地域に共有する洪水に纏わる住民同士の対立を、「神様(竜神)の争い」としてぼかして語られているようにしか解釈できない説話であるからだ。
「島田のお諏訪さま」
 赤尾のお諏訪さまと島田のお諏訪さまは夫婦であるといわれていた(姉弟であるとも)。また、島田のお諏訪さまは小沼の方を睨むように耕地の中に建っており、島田と小沼は仲が悪く、未だに縁組みをしてはならないともいう。それは次のような話があるからだ。
 昔、越辺川が洪水となり、島田に大水が出そうになった時、島田のお諏訪さまと赤尾のお諏訪さまが竜神となって、小沼にある堤防を壊しに行った。または、二つのお諏訪さまから火の玉が上がり、小沼へと向かったともいう。
 そうして下流部の小沼の堤が竜神に切られ決壊すると、上手の島田や赤尾の水は引いて水害は無くなるのだった。この際、小沼のお諏訪さまからも竜神が出て、これを防ごうと大変な争いになったという。だから、島田と小沼は仲が悪かったのだ。

但し小沼地域にも上記の内容とは違った説話もあり、紹介したい。
「水害を救った梶坊」
 いつごろのことか定かではないが、まだ三芳野耕地が大雨のたびに水害になやまされていたころのこと、小沼の東光寺に梶坊という僧侶が住していた。この梶棒が洪水のたびになげき苦しむ里人の姿を見て、その害を除く祈禱をしたところ、対岸の赤尾と島田にある諏訪明神があばれ、堤を破壊するのだというお告げを得た。そこで梶坊は、自ら堤の守護神となって水害を防ぐことを決意し、八大龍王をまつり、生きながら龍神となるべく堤防下の沼に身を投げたという。それ以来、堤防の決潰はなくなったので、その徳を慕った里人は沼のほとりに梶房大権現として祀ったのである。

「島田のお諏訪さま」では結局のところ島田・小沼の仲違いの原因が、島田・赤尾のお諏訪さまが、小沼の堤防を壊したためとなっているが、「水害を救った梶坊」では、赤尾と島田の諏訪明神が堤を破壊することを小沼村の東光寺にいて、祈祷によるお告げで知った「梶坊」という僧侶が、自らを犠牲にして堤防下の沼に身を投げた。その僧侶の思いの根底には、島田、赤尾両村と小沼村の住民がいつまでも仲良く暮らしてほしい、という切実な願望からきているものであろう。そういう意味において水害を救った梶坊」は、小沼村サイドに立った優しい説話として、記されているように筆者は考える。
 因みに諏訪神社の神紋は「梶の葉」である。小沼村東光寺の梶坊」という人物は、本来「小沼のお諏訪さま」であったものが、「梶坊」という僧に変化して語られたものだったかもしれない。

 さて社殿の奥には、緑豊かな大木が覆うように育っている。
         
             
 坂戸市では、良好な自然と生活環境を増進するため、坂戸市環境保全条例を設け、一定基準に達した樹木や樹林などを保存樹木として指定し、樹木の保存と緑化に努めているとのことだ。


参考資料「新編武蔵風土記講」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「坂戸市環境政策課HP」
    「坂戸市史 民俗史料編 I 」等
                         

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赤尾金山彦神社


        
              
・所在地 埼玉県坂戸市赤尾1867
              
・ご祭神 金山彦命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等

 赤尾金山彦神社は、島田天神社から赤尾白山神社に向かう進路の途中で、偶々出会った社である。赤尾白山神社から直線距離にして800m程南方向に位置し、この社も南方向に流れる越辺川を背にして、三方は全て田畑が広がる中、ポツンと静かに祀れている。
 赤尾金山彦神社のご祭神は金山彦命。この神は日本神話に登場する神である。神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。『古事記』では金山毘古神・金山毘売神の二神、『日本書紀』の第三の一書では金山彦神のみが化生している。この神は古来より剣・鏡・鋤・鍬を鍛える守護神で、製鉄や鍛冶生産を守護する神として信仰されている。 
        
            越辺川を背にして静かに鎮座する赤尾金山彦神社

 同じ赤尾地域内の白山神社には一目連神社の石祠が祀られている。一目連神社は天目一箇神を祭神とする伊勢国二ノ宮多度大社の別宮名である。因みに多度大社は本宮である多度神社と共に、別宮である一目連神社の2社セットで多度両宮とも称している。
 この一目連神社のご祭神である天目一箇神は、天津彦根命の子である。鍛冶の神であり、『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶をしていると見られる天津麻羅と同神とされる。神名の「目一箇」(まひとつ)は「一つ目」(片目)の意味であり、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから、または片目を失明する鍛冶の職業病があったことからとされている。これは、天津麻羅の「マラ」が、片目を意味する「目占(めうら)」に由来することと共通している。
『坂戸市史 民俗史料編 I 』には「片目になった赤尾のお諏訪さま」という伝承・伝説が今に語り継がれている。
 昔、大雨が降り、越辺川が氾濫し島田が危なくなった時、島田のお諏訪さまと赤尾のお諏訪さまの姉弟が竜神となってあらわれ、小沼にある附島の土手をきろうとした。すると、小沼のお諏訪さまが槍を持ってあらわれ、大ゲンカとなった。そのとき、赤尾のお諏訪さまは槍で目をつかれたのがもとで、片目になったといわれている。
「赤尾のお諏訪さま」とは同じ地域に鎮座し、埼玉県道74号を挟んで南方向に鎮座する諏訪神社のことであるが、同じく越辺川右岸に鎮座する社でもあり、お互い距離も近いため、民衆レベルの交流は当然あったと思われ、赤尾地域として同じ伝承・伝説を共有していたと考える。
 ともあれ赤尾地域は嘗て鍛冶・金属加工が盛んな地だったのではないかと、勝手に想像を膨らましてしまいそうな社名である。
 
 
       赤尾金山彦神社正面               鳥居の社号額
 おそらく社殿と共に鳥居も近年改修されているのであろう。朱色の両部鳥居は、周囲が田畑風景の中において、ひと際目立ち、社号額も目新しくなっている。境内もきれいに手入れされており、この地域の方々の社に対する思いを感じた次第だ。
        
                     拝 殿
 金山彦神社 坂戸市赤尾一八六七
 当社は入間郡の北端、越辺川流域の低湿地に位置する農業地帯である赤尾に鎮座し、金山彦命を祀る。
 その創建については、寛延年間の洪水により、社殿とともに由緒書など、ことごとくを流失してしまったため明らかではないが、氏子の間では、南北朝時代に赤尾開村の折、鎮守として勧請したもので、それゆえ鎮座地の地名を本村と呼ぶのだといわれている。(中略)
 当社は、金山様の通称で氏子に親しまれているが、年配の人々は氏神様とも呼び、毎月一日・十五日には月参りに来る人もある。このほかオビアゲ(初宮詣)・帯解き(七五三詣)・新婚宮参りなど、祝事があった時には必ず当社に参詣し、神恩に感謝するとともに、より一層の幸を祈願する。
 赤尾は、川沿いの低地であるため、往古より「蛙の小便で水が出る」といわれるほど、度々水害を被り、家屋や田畑が流出した。そこで、水害を防ぐため、昭和三四年に越辺川の河川改修が行われることとなったが、この際、当社の境内地が堤塘敷となることになった。このため、字本村から字川久保の現在の鎮座地へ遷宮が行われ、また、これを機に社殿も新築された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   社殿右側に鎮座する境内社・御嶽神社。       御岳神社と社殿の間には
  社の中には不思議な石編が祭られている。      桜の老木・巨木が聳え立つ。
        
             社の東側には真っすぐに越辺川の土手が続く。

 ところで金山彦神の神格は、『古事記・天の石屋』の段において「天の金山の鉄を取りて、鍛人の天津麻羅を求めて、伊斯許理度売命に科せ、鏡を作らしめ」とあり、この段の文脈や同時に生まれた神々全体の理解のしかたによって異なる解釈が導き出されている。
(1)この神々の誕生を火山の噴火の表象と捉え、嘔吐が溶岩の流出を表して、その中に鉱石が存在することを金山の二神が表しているとする説。
(2)鎮火祭に由来する神話と捉え、火を鎮める刀剣関連の神々が次に生まれてくるのに先立って、刀剣の材料としての鉄を表しているとする説。
(3)金属の中でも生活に重要な鍬を司る神であるとする説。
(4)誕生した神々がみな火の効用を表すと捉え、この神は冶金のための火の効用を表しているとする説。
(5)この神々を、伊耶那美神の復活を祈る神招ぎの香具山祭祀における一連の呪具の神格化とし、天の石屋の段で呪具の材料の拠り所となる「天の金山」と対応した神名とみる説。
等がある。


『新編武蔵風土記稿』には、越辺川の上流域から坂戸市の市域には鍛冶などの小字名が、広範囲に分布していて、越辺川の流域では金属の精錬が行われていた可能性がある。
白山神社や金山彦神社が鎮座する赤尾地区。「赤尾」の「赤」を冠に持つ地名や川や沼は、古来から砂鉄に関連しているという。恐らく、鉄が酸化すると酸化鉄として赤くなることに由来するのであろう。
 
赤尾地域に近い坂戸市石井地域には勝呂神社が鎮座しているが、そもそも「勝呂」という地名は朝鮮語の村主(すくり)からきているという。村主とは、渡来人技術者集団の統率者を意味する語であり、つまりは、技術に優れた集団が、しっかりとした目的をもって「村主=勝呂」を目指し、移住したと考える。その一派が赤尾地域に移住したのではあるまいか。



参考資料「新編武蔵風土記
稿」「埼玉の神社」「國學院大學 古事記学センターウェブサイト」
    「
坂戸市史 民俗史料編 IWikipedia」等
 

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赤尾白山神社


        
              
・所在地 埼玉県坂戸市赤尾1688
              
・ご祭神 菊理媛命 伊奘諾尊 伊奘冉尊
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 

 島田天神社から一旦埼玉県道74号線日高川島線方向に進み、越辺川の土手に架かる橋の300m手前にある十字路を左折、その1km程先に赤尾白山神社は鎮座している。社に通じる道路が狭いが、鳥居脇に駐車スペースは確保されていて、そこの一角に止めてから参拝を行った。
 
社の北側で背後には越辺川の土手がすぐ目視でき、嘗て何度も水害等の被害を受けたそうであるが、実際に来てみると成程と頷ける。やはり自らの目で見て初めて分かるものもある、としみじみと感じた。
 今はそんな事は感じさせない位穏やかで長閑な風景が似合う社である。
        
                  赤尾白山神社正面
 島田地域に鎮座する島田天神社の北東方向に赤尾地域はある。この赤尾地域は坂戸市の最北端に位置し越辺川を境として、東松山市早俣、川島町長楽と接している。この地域は都幾川が越辺川に合流した下流に位置し、越辺川の流路が北東方向から北端で流れを南東に転じていて、堤防が切れやすく水害の常襲地帯でもあった。
 この赤尾白山神社は丁度北部付近で越辺川に都幾川が合流している地に鎮座している。
        
                            木製の朱がひときわ目立つ両部鳥居
『日本歴史地名大系 』には「赤尾村」の解説が紹介されている。
 赤尾村 [現在地名]坂戸市赤尾
 島田村の東にある。北西境を北東へ流れる越辺川が北端で流れを南東に転じ、東境を流れ下る。東は同川を隔て比企郡中山村(現川島町)、北は同川を境に同郡正代村(現東松山市)。承元四年(一二一〇)三月二九日の小代行平譲状(小代文書)には、行平から養子俊平へ譲られた小代郷(現同上)の村々のうちに「みなみあかをのむら」がある。
 現越生町最勝寺旧蔵の応永三年(一三九六)の大般若経奥書に「赤尾阿弥陀堂海禅」とある(武蔵史料銘記集)。
戦国期に当地に来住したと伝える安野・森田・林・池田・山崎・新井の六家が草分百姓とされる(元禄一二年「田畑町歩村高覚」森田家文書)。林家は信州諏訪地方から来住した土豪ともいわれている。近世には入間郡河越領に属した(風土記稿)。(以下略)
        
                     拝 殿
『鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料』には、『日本歴史地名大系 』と重複する内容も多いが、戦国時代での内容が細かく記されているので、そちらも紹介する。
坂戸市赤尾「六人の侍」
赤尾の森田家に伝わる「森田文書」には「天文七年、安野・森田・林・池田・山崎・新井の侍六人が石井の台地に住む。元亀三年、六人は石井の支配を逃れ、越辺の川端へ移り住み赤尾村と名をつける。赤尾村の古き家に安田・田中・浅黒、此外天正慶長の頃、大塚・兼子等、其外もあり。慶長十四年から元和元年までに浪人六人、岡野・水沢・大沢・坂巻・浅見・大久保十郎左衛門が所々から移住す」

但し赤尾村の名は、鎌倉時代初期の承元四年(1210)に書かれた「小代行平譲状」(永青文庫所蔵写による。)に、「みなみあかおのむら(南赤尾ノ村)」と載っているので、元亀三年(1572)に遡る362年前から、赤尾村の地名はあった。故にこの年に初めて地名が誕生したわけではない。
        
        境内に祀られている石祠。左より「○○○大権現」「一目連神社」
        
          境内に祀られている正面中央に梵字を配した特異な塔
        
 赤尾白山神社の左側には鳥居が並立し、その先には境内社・八坂神社 愛宕神社が鎮座している。

           境内社・八坂神社               境内社・愛宕神社 

(赤尾村)白山社
村の鎮守なり、本地佛は十一面観音にて銅の華曼に彫たる物なり、村内修験明王院の持、
                               「新編武蔵風土記稿」より引用


 白山神社 坂戸市赤尾一六六八
 当社は都幾川の合流する越辺川の南岸に鎮まる。村は低地のため古くから水害に見舞われ、社の壁面には水害の痕跡も残されている。
 創立について社記は文亀年間と伝え、『風土記稿』によると村の鎮守であり、本地仏は十一面観音を彫った銅の華鬘であった。ただしこれは現存していない。
 祭神は、菊理媛命・伊奘諾尊・伊奘冉尊の三柱である。
 別当は修験明王院であったが、これは本山派修験か当山派修験か明らかでない。しかし、村内にあって村人のために諸祈禱を修していたことは伝えられている。
 また、社記に「元禄水帳ニハ白山社免除地二反六畝壱歩福寿院支配」とあり、明和五年から白山諏訪明王供米として米七斗を領主から賜っている。これは天保年間からは米七升五合になり、明治四年まで続けられたとあるが、福寿院および諏訪明王について、現在では明らかにできない。
 本殿は一間社流造りである。覆屋及び拝殿の造営年代は安政五年と言われ往時幣殿はなく土間に踏み石を置いた形であった。
 明治初めの神仏分離により別当は廃され、明治五年には古くから村鎮守であったことにより村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料」等

                     

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