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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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折原白髭神社

 寄居町折原地区は、その昔は「織原」と書き、戦国時代後北条氏の家臣であった丹党織原氏の屋敷が折原地区に存在していた。この丹党は武蔵七党の一党で、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国入間郡・秩父郡・および 児玉郡西部(旧賀美郡)にわたって繁栄した 武士団で、宣化天皇の後裔と言われ、その皇子殖栗王よりでたと称されている。天皇の曾孫彦武王の産湯にたじひ(いたどり)の花が浮いていたので多治彦と称し、その子孫は多治比・多治・丹遅・丹治等を名乗った。
 殖栗王の12代孫という武信が、陽成天皇の元慶年中、武蔵国に配流され、賀美郡、秩父郡に住んだが、その子桑名峯信は丹二を称して京都と秩父の間を往来した。その子峰時は初めて石田牧の別当となり、土着して丹貫首(丹党首)と称したという。。その後、武峯の子に至って郡の内外に拡散して一大勢力を持つようになった。
 武峯の嫡男経房は秩父中村郷に住んで、その孫の時重が丹党嫡流中村氏を名乗った。また、武峯の二男長房は秩父郡両郡に分かれて薄氏を名乗り、三男基房秩父五郎と称し、四男行房は秩父皆野へ分かれて白鳥氏を名乗った。薄長房の二子泰房が大里郡折原村に住した事により織原丹五郎を称したのが始まりという。
所在地   埼玉県大里郡寄居町折原469
御祭神   猿田彦命
社  挌   旧村社
例  祭   不明


 折原白髭神社は寄居町の荒川南岸に位置し、埼玉県道30号飯能寄居線、古くは「相模街道」と呼ばれていたらしいが、寄居方面に進み、荒川に架かる正喜橋の手前の信号を左折する。
 この地域一帯は有名な鉢形城址が存在する。鉢形城は関東の中世史を語る上では欠かせない城郭であり、その歴史は古く文明8年(1476)に長尾景春により築城されたと伝わる。荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしており、またこの地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でもあった。戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となっていて指定面積は約24万㎡。一昔は古城という響きがよく似合う荒れ果てた城址だったが、城址公園化に伴う整備が施され、美しい城址となっている。

 鉢形城跡を見ながら道なりに真っ直ぐ進み、八高線の踏切を越え、5、600m進むと右側に小さいが白髭神社の鳥居が見えてくる。但し専用駐車場はなく、適当な駐車スペースもないので路上駐車をして急ぎ参拝を行った。
 
            鳥居と社号標                       鳥居から正面を撮影
 
こんもりとした社叢林に囲まれた気持ちよい神社で、拝殿も思った以上に立派である。
 
   拝殿に掲げられた「白髭太神」の扁額       社殿の左側には巨石を祀っているのか石祠あり
 
     社殿の左側に並んでいる石祠群              境内社2社、天神社、八坂神社
 
        社殿の右側にある末社               境内社3社、若宮八幡宮、?、大神宮

                    本   殿

 折原白髭神社の祭神は猿田彦命といい、日本神話に登場する神である。『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。『古事記』では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記されている。
  猿田彦命は天照大御神の孫にあたる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が高天原(タカマガハラ)から葦原の中国(地上)に降臨するとき、天宇受売命も供として一行に加えられていた。
 一行が天津八街
(アマツヤチマタ)と呼ばれる、多方面に道が分かれる要所に至ると、そこに魁偉な顔をした大男が立ちはだかって、行くてを塞いでいたので、兵を出したが敗れて帰ってきた。
 そこで天宇受売命が派遣され、「天津神が地上にお降りになる道をなぜ塞いでいるのか」と問うと、(天宇受売命に一目惚れした)大男はそれまでの態度を一変して、素直に「私は国津神の猿田彦命と申す。天津神の御子が降臨されると聞いたので、道案内をしようとお出迎えにきたのだ」と答えた。瓊瓊杵尊の一行は、猿田彦命の先導で無事に筑紫の日向の高千穂の峰に到ることが出来たという。

 猿田彦命の特徴は、鼻は天狗のように長く、目は鏡のように丸く、赤ら顔で、身体は毛深かったので、ちょうど猿のようで、また国津神でありながら天孫族の降臨の道案内をしたことにより「道祖神」となり、集落のはずれや道の辻に祀られ、”道を護る神””行人を護る神”として現在に至っている為、神々の中でもある意味ユニークな存在であるといえる。


                折原白髭神社遠景

 折原白髭神社が鎮座する寄居町「折原」、この地名に関して埼玉苗字辞典には以下の記述がある。

折原 オリハラ 神功紀に意流村(漢城の地)と見え、三国史記に尉礼城(百済の王都漢城)と見ゆ。雄略天皇二十年紀に「百済記に云はく、狛の大軍来りて、大城(こにさし)を攻めること七日七夜にして、王城(漢城、今の広州)陥り、遂に尉礼国を失ふ」とあり。意流(おる)のヲル・ヲリは大の意味で、大城(古代朝鮮語のコニサシ)・ヲル村は大ノ国のことで、クダラ(大邑、大国)と同じなり。原のハラ・ハルは邑・国・城(都)の意味で、特に非農民の職業集団居住地を云う。すなわち、折原は鍛冶・木工・石工等の百済渡来人の居住地を称す。男衾郡折原村寄居町)あり、織原とも記す。

 また、近隣には「鉢形」という地名もあるがこれも不思議な地名だ。

鉢形 ハチガタ 男衾郡鉢形村(寄居町)あり。八方にて、八(あま)・海(あま、ばた)族の渡来地なり。和名抄の男衾郡幡多郷(はた)にて、後世の和田郷なり。


 この「和田」に関しても、海(ばた、はた)の転訛であり、海(あま)族居住地であるとの説もある。それに加え、「折原」、「鉢形」両地区の荒川を挟んだ対岸には「宗像神社」が鎮座している。言わずと知れた海上・交通安全の神であり、古代のある時期、海洋族が移住してきたと考えられ、その道案内役をした地元出身の人物を没後祀った神社がこの「折原白髭神社」だったのかもしれない。あくまでも推測の域ではあるが。


 ところで折原白髭神社の北西約300m位の場所には佐太彦神社が鎮座している。もちろん御祭神は猿田彦命だ。

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