古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

両神薄両神神社

 両神村は、埼玉県西部、秩父郡にあった旧村名で、秩父郡の西部中央、秩父盆地の西端に位置し、北・東は小鹿野町、南は荒川村・大滝村、西は大滝村。2005年(平成17)秩父郡小鹿野町へ合併し、小鹿野町の南部を占めることになる。
 荒川水系の薄(すすき)川、小森川の流域を除くと、旧村域の総面積の約90%を山林が占める。採石や林業が盛んだったが、最近ではコンニャクイモ・シイタケ栽培とワイン製造が行われ、観光農園がある。
 旧村域東部を主要地方道皆野両神荒川線が走る。村の最西端には標高1724mの両神山がそびえ、同山よりやや北寄りの東に延びる尾根上にある天理岳(1083.6m)、さらに東に向かう尾根が北の村境となり、南東方の御岳山(1080.5m)に続く尾根が南の村境となっている。この二つの尾根にほぼ並行して、両神山より分岐した尾根が東に延び四阿屋山(772m)に続き、村を南北に分断している。
        
            
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄2267
            
・ご祭神 罔象女神 他五十余柱
            
・社 格 旧両神村総鎮守・旧村社
            
・例祭等 例大祭 928
 国道299号線と埼玉県道37号皆野両神荒川線が交わる「黒海土バイパス前」交差点を県道に合流して南方向に3.5㎞程進むと、進行方向右側に両神薄両神神社の鳥居と社号標柱が見えてくる。
        
                 両神薄両神神社正面
『日本歴史地名大系 』「薄村」の解説
 四阿屋山の北、赤平川支流薄川の流域に位置する。現両神村域の北半を占め、南は小森村。「風土記稿」によれば、古くは薬師堂村ともいわれたという。村内は上・中・下の三郷と薬師堂組の四区に分れ、それぞれに名主が置かれ、高札場も上郷の竹平、中郷の穴辺、下郷の前原、薬師堂組の上宿と四ヵ所にあった。また承応二年(一六五三)当村新小森組分が分れ、同組分は小森村と一村になったという。地内法養寺薬師堂の天正一三年(一五八五)五月四日銘の棟札に「武州秩父郡薄谷盤戸村大檀那猪俣丹波守本願円覚」「願主竹内某」「大工荒舟藤五郎、同和田太郎等」などとみえ、盤戸村は現在の字坂戸にあたる。また同一五年一一月一五日銘の同堂鰐口には「秩父郡薄之郷薬師堂」「願主聖乗坊成範大旦那北条安房守氏邦」などとある。
 近世初めは幕府領、天明四年(一七八四)から同七年まで下総関宿藩領となるが、その後再び幕府領となり幕末に至ったと思われる(「風土記稿」「寛政重修諸家譜」など)。
        
                 石段上に鎮座する社
 当社は、はじめ「丹生明神」と称し、丹党薄氏の氏神社であった。一方、四阿屋山中腹に「四阿屋明神社」及び「四阿屋権現社」の二社があり、明治期に、四阿屋山の二社に村名を冠して両神神社と改称した。その後、山上のため氏子が不便を感じていたことと、大正六年に、国策により、各耕地に鎮座する社、計四十四社を麓の「丹生明神」に合併して村社とした。その結果、奥社は四阿屋山に、里宮は薬師堂に置くこととし、大胡桃耕地の稲荷神社の社殿を移し、更に社務所、神楽殿を造り両神神社と改称したという。
 当社の眷属が犬といわれるのは、四阿屋山権現及び四阿屋山明神のお犬様の信仰が合祀と共に当社に集合したからという。
 因みに、隣接する法養寺薬師堂は、古くから山岳信仰の対象である両神山・四阿屋山(あずまやさん)の麓に平安時代に創建されたと伝わり、堂名を「四阿屋山法養寺薬師堂」といった。
        
                    拝 殿
 両神神社 埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄二二六七(薄字並木)
 四阿屋山(771.6m)の名は、その山容が東屋のような形をしていることによる。古くから「お犬様」の信仰を伝えるこの山は修験を感じさせる。『風土記稿』は四阿屋山中腹に四阿屋明神社及び四阿屋権現社の二社があり、日本武尊・乙橘姫尊、あるいは伊弉諾・伊弉冉の二柱を祀るという。
 一方、四阿屋山の麓には、丹党の薄氏が祀ったと伝える丹生神社が鎮座していた。祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)で、水とかかわりのある信仰であったと思われる。なお、薄氏の館跡は、一説には当社近くの殿ヶ谷戸(とのがやと)としている。
明治期、まず四阿屋山の二社に村名を冠して両神神社と改称し、村社として長く当村繁栄の祭祀を行うことを定め、祭りは山上で執行していた。しかし、山上のため氏子が不便を感じていたことと、当時の時勢により、大正六年、村社両神神社も含め、各耕地に鎮座する社、計四十四社を麓の丹生神社に合祀、丹生神社を両神神社に改称、山上に残された社は、両神神社の奥社となり、現在の当社が成立した。なお、この時当社覆屋として字大胡桃(おおぐるみ)の宇賀神社覆屋が移設された。
 当時の合祀の模様については古老の話に、猿田彦の面をつけた者が神輿の戦闘をし、笛や太鼓を奏しながら神様を迎えにいったという。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿に掲げてある扁額           境内に設置されている案内板

 当地で大正期実施された合祀の経緯についての詳細は明らかではないが、村内各耕地の社を四十四社合祀する大規模なものであった。しかし、この時、合祀祭は行ったものの遷座したのは御幣のみで、各耕地には依然社が残り、昔ながらのお日待が続けられていた。なお、当社の祭事には、戦前までは両神村総鎮守として、村内各耕地より氏子が参列したが、戦後は宮本である字薬師堂の氏子が中心となっている。
 年中行事
 元旦祭 節分祭 祈年祭 春祭り 大祓 例大祭 新嘗祭 大祓の計8回。
 春祭りは416日。以前は151617日と3日間かけて行っていた。
 15日は「お旗立て」と呼び、幟立ての後、社務所で前日待と称して会食する。夕刻から境内に丹生神社と書いた行灯を飾り付けて灯をともす。
 16日は「本祭り」で祭典があり、この後、薬師堂耕地内の役員引継ぎを行う。
 17日は「お旗返し」といわれ、幟を納める。
 例大祭は928日。
 花火が打ち上げられ、盛大に祭りが行われる。以前は付け祭りとして柏沢と浦島の太々神楽を一年交替で頼んでいた。
 
   社殿に向かって右側手前には神楽殿     神楽殿の参道を挟んで反対側には社務所
        
                社殿から参道方向を望む。
 嘗て、畑作地の多い当地では、6月から7月にかけて降雨が少ない時、雨乞いの行事があった。これには二通りのやり方があり、薬師堂の境内に村人が集まり、輪になって親方が幣を担ぎ、鉦や太鼓を鳴らしながら「雨だんべい、竜王なあ、降るだんべい」と唱えてぐるぐる回る。
 もう一つは、白井差(しろいざす)の不動滝まで、お水をもらいに出かけ、リレー式に竹筒に水を入れて運び、当社に供えてから境内に水を撒くものである。
 更にこれでも雨が降らない時は、小森の諏訪神社の氏子と合同で四阿屋山に登り、祈雨祈願を行ったという。
 雨乞いとは逆に、雨が降り続くと、小麦がダメになるので、「天気祭り」を薬師堂で行った。この時は、薬師様に麦こがしを供え、止雨祈願の後、男衆が境内で百万篇の数珠を回しながら「サンセン、ショウブツ、ナンマイダ」と唱えた。


 両神神社と法養寺薬師堂は隣接している法養寺薬師堂は秩父十三仏・第7番札所でもあり、日本三大薬師尊ともいう。
        
                       法養寺薬師堂仁王門 小鹿野町指定有形文化財
        
           法養寺薬師堂 埼玉県指定有形文化財(建造物)
        
                                法養寺薬師堂の案内板
 埼玉県指定有形文化財(建造物)
                              所在地 秩父郡小鹿野町両神薄二三〇一番一
                              指 定 昭和四十九年三月八日
 法養寺薬師堂 一棟
 薬師堂は、古くから山岳信仰の対象である両神山(一七二四メートル)・四阿屋山(あづまやさん・七七一・六メートル)の麓に平安時代に創建されたと伝わり、堂名を「四阿屋山法養寺薬師堂」といいます。山の薬師、目の病気に霊験あらたかな薬師として広く庶民の信仰を集め、日向薬師 (神奈川県伊勢原市)、鳳来寺薬師 (愛知県新城市) とともに「日本三体薬師」の一つに数えられています。
 縁日は毎年一月八日で多くの参詣者で賑わい、秩父神社大祭、飯田八幡神社祭りと並び「秩父三マチ(祭り)」といわれていました。
 建物は石積みの基壇上に建ち、間口十一・七メートル、奥行十一・二七メートルを測り、外廻りに幅一・三九メートルの縁・勾欄が付く三間四面の堂です。構造は、桁行(けたゆき)・梁間(はりま)とも三間、一間の向拝(ごはい)が付きます。屋根は、建造当初は茅葺きと推定され ますが、享保年間(一七一六~三六)に向拝を付けた際、瓦葺きに改められ、その後昭和五十三年に銅板葺きに改修しています。
 建築様式は和様に唐様が入り交じり、寄棟造りで円柱が立ち並ぶ軸部の木割りは太いものですが、斗供(ときょう・柱上にあって軒を支える組み物)は繊細なものといわれます。木鼻(きばな・柱の上部をつなぐ貫の端)の文様や外壁に打ち付けられていた天正年間(一五七三~九二)の納札から天正頃の移築改造と推定されています。床は槍鉋(やりがんな)で仕上げられ、堂内外に残る墨書が注目されます。古い柱配置などの特徴をもち、県内に残る中世の代表的な建造物の一つです。
 薬師堂の由来については明らかではありませんが、永禄十二年(一五六九) から元亀元年(一五七〇)にかけての武田信玄の秩父侵攻の際、兵火で焼失したといわれています。その後、北武蔵の有力な軍事拠点であった鉢形城主の北条氏邦が由緒ある薬師堂を再建したといいます。(以下略)。
                                      案内板より引用
 

               法養寺薬師堂内部(写真左・右)



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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下小鹿野小鹿神社

 小鹿野町には町名「小鹿」を冠した社が二社比較的近距離に鎮座している。一社は小鹿野地域に鎮座する旧郷社・小鹿神社で、こちらは格式の高さもあり町を代表する社で、オートバイの安全祈願を行っている全国でも珍しい社である
 もう一社は小鹿野地域の西側に接している下小鹿野地域に鎮座する小鹿神社である。この社は「紫陽花神社」と表記したほうがより有名な社のようで、社の近辺でアジサイの植樹活動している地元有志のみなさんの日々の努力で、町のHPにも7月の第1日曜日に開催される「あじさい祭り」が掲載されている。
 余談ではあるが、この「あじさい祭り」には歌舞伎も奉納されるようだが、その役者の中には現小鹿野町町長も参加されていて、なんでもこの町長は約25年の役者歴がある方だそうだ。
 小鹿野歌舞伎は、1975年には埼玉県無形民俗文化財の指定を受けている。
        
             
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町下小鹿野1302
             
・ご祭神 諏訪尊(推定)
             
・社 格 旧下小鹿野村泉田鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 43日 秋祭り 1010
                  
*どちらも祭典日に近い日曜日
 小鹿野町・小鹿神社の大鳥居がある場所から国道299号線を3㎞程東行すると、国道沿いで進行方向左手に木製の鳥居と「小鹿神社」と表記された社号標柱が見えてくる。
 社の周囲が「あじさい公園」となっていて、近郊には専用駐車場があるようなのだが、今回は正面鳥居の東側200m程先にあるコンビニエンスストアがあるので、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
             国道沿いに鎮座する下小鹿野小鹿神社
『日本歴史地名大系』には「下小鹿野村」の解説があり、「赤平川の左岸、上小鹿野村の東に位置する。同村からの往還が地内泉田で分岐し、一方は赤平川に沿い北の下吉田村(現吉田町)に、もう一方は赤平川を越え対岸の長留村に向かう。古くは上小鹿野村と一村で小鹿野村・小鹿野郷などと称していたが、元禄郷帳作成時までに分村したという。元禄郷帳に下小鹿野村が載り、高七九六石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。ほかに当地鳳林寺領(高五石)があった。明和二年(一七六五)旗本松平領となり、以後同領で幕末に至る(「風土記稿」「郡村誌」「寛政重修諸家譜」など)。「風土記稿」によれば家数二九八、農間に男は山稼をしたり、女は養蚕や絹・木綿織などを行っていた」との記載がある。
 
   参道入口の右側に安政6年に建てられた      「安積良斎の小鹿野碑」案内板 
    「安積良斎の小鹿野碑」が立っている。
 小鹿野町指定史跡(昭和三十七年九月二十日指定)
 安積艮斎(あさかごんさい)の小鹿野碑
 両神山は、秩父を代表とする名峰として古くから親しまれ、人々の長く尊い信仰の歴史を伝える山です。山頂部には鋸(のこぎり)の歯のような険しい姿を見せますが、周囲の山々を従えて四季折々に美しい山容を見せる様は、地域の象徴的なものといえます。標高は一七二三m、一帯は秩父多摩甲斐国立公園として指定を受けています。両神山は古くは「八日見山(ようかみやま)」といわれ、その由来を伝える碑が下小鹿野の小鹿神社参道入口にある「安積艮斎の小鹿野碑」です。巨香郷と呼ばれた小鹿野・両神地域の美しい伝説を伝える石碑として知られ、
 「日本武尊神詠 つくばねをはるかへだててやふかみし つまこひかぬるをしかのの原(筑波嶺を遙か隔てて八日見し妻恋いかぬる小鹿野の原)
 と刻まれ、裏面に碑を建てた由来が漢文で記されています。これによると、安政6年(一八五九)下小鹿野村の森為美が日本武尊神詠の由来を伝えるため、安積艮斎に撰文を依頼し、碑を建てたものといいます。同じ歌を刻んだ碑は河原沢の龍頭神社境内にも建てられています。
 秩父地方には日本武尊に関する伝説が多く残されています。日本武尊は伝説上の人物で、景行天皇の命で東国の征伐におもむき、戦勝祈願のため常陸国筑波山に登りました。その折、西の方角に剣の形をした秀でた山が見え、この山を八日間眺めながら西へ向かい、秩父へたどりついたということから両神山は八日見山と名付けられたといいます。また、日本武尊が秩父に入る途中、道に迷った折、どこからか神鹿があらわれて一行の先頭に立って導いた後、小鹿野に至って精魂尽きて倒れたのでこれを哀れんで塚を作ったのが「小鹿塚」であるといいます。
 さて、碑の書と撰文を記した安積艮斎(一七九一〜一八六〇)は、江戸時代後期の儒学者で、岩代郡山安積(福島県郡山市)の出身で、佐藤一斎・林述斎に学び、詩文に長じ多くの著書を残しています。江戸幕府が江戸湯島に開いた官立の学問所「昌平黌」の教官になり、多くの門人を育てました。私財を投じて碑を建てた森為美は熱心な安積艮斎の門人で、当代一流の学者である安積艮斎に撰文を依頼し、永く後世に伝えようとしたものです。書は、幕府に仕える川上由之によるものです。当時名声の高い儒学者の撰文とともに、美しい小鹿野の伝説を伝える碑として広く親しまれています。
 昭和十七年三月三十一日に埼玉県史蹟として指定されましたが、現在は小鹿野町指定史跡となっています。幅六七㎝、高さ一二二㎝。
令和三年三月三日 小鹿野町教育委員会
                                      案内板より引用

        
    周囲が長閑な田畑風景の中、真っ直ぐに伸びる参道の先に社殿が見えてくる。

 安積安積艮斎の小鹿野碑に載っている「小鹿塚」とは、下小鹿野小鹿神社から南東方向で直線距離にして600m程の場所にあり、同じ下小鹿野地域内にある「小鹿塚古墳」で、小鹿原古墳群を構成する1基といわれている。
 古くから日本武尊の伝説を顕彰する聖地として親しまれていて、昭和29年(1954)には秩父宮の染筆による「小鹿野碑」が建立され庭園として整備され、その際に大刀が出土している。また嘗て墳丘西側の畑から平板石が大量に掘り出され、大刀が出土したとの記録がある。小鹿野の歴史の深さを物語り、町民の誇りとする美しい場所でもあるという。
 小鹿塚古墳が前方後円墳であるか否かについては、現状では公園化され不明であるが、1994(平成6)1221日付けで町指定史跡に指定されている。
 
 境内に入る手前にあるあじさい公園のマップ     マップの近くにある「黒澤の池」
        
                                       拝 殿
 小鹿神社   埼玉県秩父郡小鹿野町下小鹿野一三〇二(下小鹿野字春日山)
 天正十八年、東から前田利家、南から上杉景勝、西から本多忠勝、更に対岸の寄居から真田昌幸らの大軍に包囲された鉢形城は、籠城1ヵ月を経てついに落城し、多くの武士たちは散り〃に落ち延びていった。
 この落ち武者の一人に、当地の泉田耕地に住んでいた「小菅(こすげ)」氏がいる。小菅氏は、敗戦後土着し、氏神としてここに諏訪神社(当社)を祀った。この小菅氏の子孫は、「お諏訪氏子」と称する小菅一家で、先祖の徳を偲びつつ祭りを行っていた。
 当社について『風土記稿』は、「諏訪社 祭神諏訪尊、例祭二月二七日、七月二七日、小名泉田の鎮守なり、同配下、泉蔵院持」と載せている。なお、文中の「同配下」というのは、入間郡越生郷にあった本山派修験山本坊配下を示す。
 明治に入り、神仏分離により当社は泉蔵院から離れ、明治六年に村社となり、社名も小鹿(おじか)神社と改められた。次いで同四十一年には、小鹿原(おかはら)の八幡社・豊受社、金園の山の神社、春日山の豊受社・春日社・高良社、西宿後の山の神社、同天山の十二天社を、大正二年には黄金平の琴平社、東宿後の納蔵社を合祀した。また、大正九年には、神饌幣帛料供進神社に指定され、境内整備を進められた。しかし、終戦を機に、各耕地持ちの合祀社は次々と旧地に戻され、統合された氏子も離れてしまった。
                                                                    「埼玉の神社」より引用

        
                        社殿右側並びに鎮座する境内社・諏訪社
 当社は、明治期に社名を変更し、下小鹿野にある各耕地の社を合祀して村社となったが、終戦を機に社格も廃され、合祀された社も戻っていった。しかし、当社は元来お諏訪氏子と称する一族が氏神として祀っていた社であるが、所謂「一村一社制」によって形式的に村社にされたことを考えると、今日の姿が本来に近いともいえる。
 年間の祭事は、春祭りが四月三日、秋祭りが一〇月一〇日と定められていたが、昭和五五年からは氏子の都合により、祭典日に近い日曜日が祭日とされている。
 春祭りには、氏子から赤飯や煮しめを重箱に入れて持ち寄り、赤飯は、作物が良く実ることを祈って柏の葉に盛って神前に供えられる。付け祭りは村社であったころは盛んで、境内に麦藁屋根の立派な歌舞伎舞台を掛け、長若の大和座などを頼んで歌舞伎を行っていた。お日待(おひまち)と呼ばれる直会は、社務所で行われ、二十人鍋と称する大きな鍋を掛けて、煙い思いをしながらまぜ飯を作った。一人宛三合の米を集めるが、以前は、すぐに食い帰ってしまい、三合では足らない程であったという。こうした、本来のお諏訪氏子の祭りの名残を留めたお日待も、昭和五〇年を最後に行われなくなった。なお、秋祭りにもお日待が行われた。
 
 社殿の左側から斜面を登るルートがあり「名石参道」という立札が設置されていた(写真左)。暫く道なりに進むと縄で巻かれ、注連縄で祀られている「カメ石 オカメ石」と表記されている石も置かれていた(同右)。不思議な空間である。
        
                社殿から参道方向を望む。
 当社が鎮座する泉田地区には、上・下に分かれており、上にはお諏訪氏子の祀る当社が、下には高橋一家で祀る高良社が鎮座している。当地区の夏祭りは、七月二〇日に行われ、祭りの日になると氏子は「お祇園」と称して当社の社務所に祭壇を設け、これにキュウリを供えて無病息災を祈る。また、以前は神興を担いで各耕地を回って厄を祓い、最後は赤平川の中に入る「お川瀬行事」も行われていた。
 なお、その祭場は赤平川から一〇〇メートル上流の所であったという。
        
             一の鳥居の延長線上に聳える武甲山



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
 

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飯田八幡神社

 小鹿野町の飯田八幡神社で開催される「鉄砲まつり」(県指定無形民俗文化財)は、江戸時代から秩父地方で数々行われる祭りの締めくくりの祭りともいわれ、地域の人々に親しまれてきた祭りである。
「鉄砲まつり」の始まりは200年以上前の江戸時代に遡ると言われている。当時、畑を荒らす鹿や猪に困っていた人々がそれらの獣を追い払う豊猟祈願として始めたという説や、猟師の試し撃ちが起こりとの説など、その起源には様々な言い伝えがある。
 1日目の宵宮(よみや)では、八幡神社への「若衆の宮参り」、笠鉾や屋台の曳き廻しが行われ、町の郷土芸能である、小鹿野歌舞伎も上演される。
 祭りの本番である2日目には、街を練り歩く大名行列や境内で奉納される神楽が見られる。夕方になると、メインの「お立ち」という、参道の両脇から火縄銃と猟銃の空砲が発せられる中、二頭の御神馬(ごじんば)が社殿への石段を一気に駆け上がるという名場面を見ることができる。
 因みに2日目に行われる「大名行列」は、元文年間(1740頃)上飯田領主の旗本古田大膳が行列を仕立てて参拝したのが起源とされている。
 その後も御輿渡御・川瀬神事が執り行われ、夜には歌舞伎の奉納、花火の打ち上げも行われ、秩父地方で開かれる一年間の祭りは幕を閉じる。
 このお祭りを一目見ようと例年、県内外から多くの参観者が訪れるという。
        
             
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町飯田2756
             
・ご祭神 応神天皇
             
・社 格 旧上飯田村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祈年祭 315日 大祓 731日 新嘗祭 1123
                  
例大祭(鉄砲祭) 12月第2土・日曜日
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0286479,138.9648692,16.25z?hl=ja&entry=ttu
 小鹿野町・小鹿神社の大鳥居がある場所から国道299号線を3㎞程西行すると、進行方向右手に社の社号標柱がみえ、そこを右折すると、飯田八幡神社の石製の鳥居が見えてくる。
 概略としての国道299号線について、一般国道の路線を指定する政令に基づく起点は長野県茅野市であり、群馬県多野郡上野村、埼玉県秩父市を経由し、入間市が終点となる総延長 204.6 kmの国道である。しかし小鹿野町にとってこの国道は、地形的に見ても町の主要部を縦断している。またこの国道から何本もの県道や町道が枝分かれしていて、いわば町の大動脈的な役割があり、町民にとっても生活するための欠かせない重要な幹線道路となっている。
        
                県道沿いに立つ社号標柱
『日本歴史地名大系』 「上飯田村」の解説
 赤平川流域に位置し、北は中飯田村、東から南にかけて山の峰を境に薄村(現両神村)、西は三山村。中飯田村からの往還が村の中央を通り三山村に向かう。元文五年(一七四〇)飯田村が上・中・下の三ヵ村に分村して成立したという(「風土記稿」「郡村誌」など)。同年、当村は旗本古田領となり、同領で幕末に至ったと考えられる(「風土記稿」「郡村誌」「寛政重修諸家譜」など)。「風土記稿」によれば家数六三、農間稼には男は山稼、女が養蚕や絹織を行い、産物には絹・煙草・大豆などがあった。
          
                            
飯田八幡神社 石製の大鳥居
 
  長閑な西秩父の風景を愛でながら200m程の     参道途中からやや上り斜面となり、
   長い参道を進むと社に行きつく。       進行方向右手に社務所が見えてくる。
『新編武蔵風土記稿 上飯田村』
上飯田村は、郡の中央より少し西北に寄れり、矢畑庄三山鄕に屬す、上中下飯田村は元一村なり、正保元祿の國圖にも一村に見へ、御入國より御料所にて正保の頃は伊奈半十郎支配し、慶安五年伊奈半左衛門檢地して貢を定む、夫より御代官遷替ありて、元文五年飯田村を上中下の三村に割て、上飯田村を吉田大膳采邑に賜ひ、中飯田村及び下飯田村の半を割て、深津彌七郎采邑に賜ひ、其半は元の如く御料所なりしが、明和二年松平因幡守采地に賜はり、今は上中下飯田の三村皆私領所となり、上飯田村は吉田大膳が子孫、吉田平三郎今も知行せり、元文五年の分鄕なれば、上中
の二村は民戸及び田畠駁雜せり、下飯田村は一村に區別せり、江戸日本橋を距ること中山道通り三十里、川越通り二十八里の行程なり、四比東より南に廻り、山を界として薄村に隣り、西は三山村に續き、北は中飯田村に接す、東西凡十町、南北七町許、民戸六十三、多くは北の方川根に因て所々に散住す、陸田多く、水田は陸田に比すれば、十が一なり山林尤多し、土症は東南の方は石交りの眞土、西北は黒眞土なり、地形西の方高く、東の方へ漸下し、南北に山々連れり、農の隙に男は山稼、女は蠶を養ひ絹織ることを業とす、土産には絹・煙草・大豆等なり、村内に一の街道係れり、北の方中飯田村より來り、凡十町許をへて西の方三山村に達す、道幅凡六尺、此道上州山中領にかゝり、信州への往來なり、村の西の方三山村界に、上中下飯田村三村の入會秣場あり、
        
                境内に入る手前にある石段
 飯田八幡神社が鎮座する飯田地域は、荒川水系赤平川の支流である河原沢に沿って位置し、その地名については『秩父志』に「八幡社、神饌田(しんせいでん)有之称」とある。
 この地域は、地形上、川が集落の下方を流れているため、『郡村誌』に「水利不便時々旱(ひでり)に苦しむ」とあるように、水利の整備がされるまでは干損の地であった。この為古くから雨乞いが盛んにおこなわれていたようだ。
「埼玉の神社」にはその経緯が記されてあって、雨乞いに当たっては、まず「お水借り」といい、武甲山か両神山に竹筒を持参し、水を受けに来る。これは夜中に行われ、若衆が三班に分かれ、一番手・二番手と中継地点を定めてリレー方式で水を運ぶものである。
 若衆が村に着くと、この水を八幡社の本来の社地であった「八幡淵」に注ぎ、藁で作った竜を入れ「アーメダンベエ、リュウゴーナー、アノクロクモヲコッチニヒキヨセロ」と叫び、鉦で囃し立てたという。
        
                     拝 殿
 当社は『新編武蔵風土記稿 上飯田村』の項に「八幡社 例祭二月・十一月十五日、村中の鎭守 神職近藤紀守吉田家の配下なり」とあり、『郡村志』には「八幡社、村社々地東北廿間南北十五間面積三百坪村の西にあり応神天皇を祭る、祭日一月十一日十五日」とある。
 創建を伝える社蔵文書としては、文化十三年に神主近藤紀守が差し出した『八幡宮由来並官職覚』があり、その中に次の文が見られる。
「大同年中播磨国より御鎮座有之と申伝謂三山郷半平村休石有之其村当社之氏子夫より一里程下村に休石有之其所に七軒当社の氏子夫より村内百姓万之助地内休石有之此所より当社江御鎮座毎年十一月十五日川瀬江鎮座之神事有之右万之助地内石に上下御休有之神轡伝母之犠者住 昔より播磨国より御供之氏子当村に七軒有之此者供其謂を以家名を播磨と申来り云々」
 
拝殿正面上部には細やかな彫刻が施されている。 側面部上部にはまだ彩色も残り、奉納された
                            額等も飾られている。

 一方、当社「鉄砲祭」の鍵取を務めている播磨家本家の播磨義男は、その私記である『昭和四六年 我が家の言ひ傳へと八幡様のお祭り』の中で、「吾祖先は平家の落人で、修験者となり、信州路・上州路と安住の地を求めて流浪し、やがて主従は当地に落ち着いた。氏神八幡神社は平氏の信仰した神で、落人となり神体を笈に入れ、「懺悔 懺悔」と唱えつつ旅したという」と、その創始を伝えている。
 大同年中(806年〜810)と平家の滅亡した文治元年(1185)とでは四百年近い隔たりがあるが、それは平安前期に勧請されたものに、平家落人伝説が付会したものであろうか、または大同年中がまったくの作為なのであろう。
        
                 重厚感のある神楽殿
           例大祭等では、歌舞伎が奉納されるのであろう。

 当地に着いた八幡神は人目を恐れて八幡淵の岩屋に密かに安置され、一族で祭祀を行って来た。その後風風雨の為、その岩屋が崩れたのを機に現在地に近い所に移し、更に月日が流れ、周囲の人も不審に思わなくなったので、天狗様の境内に社を移したものが現在の社殿である。
 この時、神社の傍らに「サフリト」と称し、代々神に仕える家があったので祭礼を依頼した。これが現在の「近藤宮司家」の祖先であるという。   
 神体については、戦後まで鍵取りであった播磨家に拝むと目が潰れるという言葉が残り、やむを得ず拝む時は片目を閉じるという。また明治期に御神体がどこかに飛んでしまったという話が伝わり、改めた時に御神体は尺二寸ほどの立像であったともいわれている。
        
             社殿の奥にある「神興庫」と「神札授与所」
        
                     社殿の右手奥に祀られている境内社・合祀社
 左より「住吉神社」「琴平神社」「正一位稲荷神社」「諏訪神社」「高根神社」「稲荷神社」。
       
           合祀社の右側に聳え立つ御神木の大杉(写真左・右)
 社殿に向かって右側に、注連縄のついた御神木である大杉が見える。樹齢は1,300年と伝えている。幹の中央部には、大きな焼け跡ある空洞が見える。昭和19813日の落雷により、中央部は裂けてしまい、幹下部は洞となったようだ。
 以来この813日を神木祭りとして祀っているとの事だ。
        
                              社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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長留羽黒神社(宗吾神社)

   佐倉惣五郎(さくらそうごろう)は、江戸前期の下総(しもうさ)佐倉藩領下の義民。木内惣五郎,宗吾とも。彼の事跡を伝える史料は《地蔵堂通夜物語》(実録物)等すべて江戸後期のものであるが,それらによると,藩主堀田正信の重税に耐えかねて佐倉領200ヵ村の村民が郡奉行所・国家老に税の軽減を訴えたが拒否され,ついに惣五郎は将軍へ直訴に及んだため子供4人と共に死刑に処せられたという。
 惣五郎非実在説もあるが,名主を務めたという公津(こうづ)村(現在の千葉県成田市)の名寄帳に惣五郎という高持百姓がいたこと,
1660年に正信が改易されていることなどから事実であった可能性は高い。なお,惣五郎を題材としたものに歌舞伎《東山桜荘子(さくらそうし)》(3世瀬川如皐(じょこう)作,1851年初演),講談《佐倉義民伝》がある。
 小鹿野町・長留地域には、佐倉惣五郎(宗吾)を羽黒神と共に主祭神として祀る社があり、通称「宗吾神社」ともいう。今でも宗吾への信仰心が中心となっていて、参拝時も「南無宗吾様」と唱えて祈願する人が多いという。
        
             
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町長留3537
              ・ご祭神 羽黒大神 諏訪大神 宗吾大明神
              ・社 格 長留中郷鎮守
              ・例祭等 春祭り 428日 例大祭 10月体育の日(長留の獅子舞)
 日本武神社から埼玉県道209号小鹿野影森停車場線を2㎞程南下し、「蕨平」交差点を直進する。「Wikipedia」によると、「長若」交差点から「蕨平」交差点までは埼玉県道43号皆野荒川線との重複区間であるようだ。「蕨平」交差点からは県道43号線となり、南西方向に800m程進むと右手に立派な藁葺屋根の歌舞伎舞台が見え、その手前にどっしりとした長留羽黒神社の木製の鳥居が立っている。長留羽黒神社はその北側に伸びる参道の先で、山の中腹に鎮座している。
        
                   長留羽黒神社正面
 
  鳥居の左側にある藁葺屋根の歌舞伎舞台      町指定文化財の標柱
 小鹿野町・長留地域は、『新編武蔵風土記稿』に「土地西南東の三方は山ありて、北は自然と卑き村なり、土症は眞土多く又砂交りありて、野土は十が一ありと云ふ、水田は僅かにして陸田多し、山林は田畠にひとし、當村は南に山ありて除地の村なれば、雨多き年は作りものみのり惡く、又旱りする時は砂地の邊は痛み易しと云、又猪・鹿多くして耕地を荒すとなり」と記されているような土地であったため、氏子の困窮も並大抵ではなく、苦しい年がしばしばあった。農民の救済者であった佐倉宗吾郎に厚い信仰心が寄せられた背景には、このような事情も大きくかかわっていたと思われる。
 因みに氏子数は、氏子区域長留仲組の世帯数が明治末年40戸あったが、その後過疎化が進み、現在では30戸余りに減少している。また全戸は農家で、現在養蚕・椎茸・しめじ栽培が中心である。
 
鳥居上部には「諏訪・羽黒・
宗吾」と並列する   この石柱から長い参道が山の中腹まで続く
     社号額が掲げられている。          とは、当初は考えもしなかった。
       
            参道手前に設置されている文化財の案内板
・町指定有形民俗文化財 羽黒神社(宗吾神社)の舞殿 平成21126日指定
 長留仲組の鎮守、羽黒神社は、一般に宗吾様と親しまれています。これは、幕末に下総の宗吾霊堂(義民・佐倉宗吾郎を祀る)から勧請し、占いがよく当たることで近隣に知られた宗吾大明神を合祀しているためです。仲組はもと蕨平の羽黒神社の氏子でしたが、慶応年間(186568)に獅子舞をめぐって争いが起こり、羽黒大神、諏訪大神を分祀し、宗吾大明神とともに3神を祀りました。それ以来仲組が獅子舞を継承し、参道中腹に舞殿を建造しました。建造年代は、明治初期と推定され、大正4年山崩れのため現在地に移転改築されました。
 舞殿は、寄棟造・藁葺きの平屋の建物で、問口9.13m、奥行5.52m、棟の高さ7.57mを測り、南側に土間と八畳間の控えを付設しています。二重舞台の回転装置は、昭和3年に設けられました。歌舞伎上演時には花道が付き、舞台両側に桟敷席、前面には露よけの張り出し屋根と花が飾られました。4月と10月に年2回祭りが行われており、舞殿ではかつては、春は歌舞伎や映画上映、秋には獅子舞が行われたほか集会にも利用されました。現在は体育の日に獅子舞が、奉納されます。秩父地方には、二十数棟の歌舞伎舞台が残っていますが、藁葺きのものは数少なく貴重な建造物です。
・町指定有形民俗文化財 羽黒神社(宗吾神社)の笠鉾 平成21126
日指定
 この笠鉾は、明治初年に大宮郷中村(現秩父市)の宮大工、久番匠(長留神の原出身)が建造したものです。当時秩父から長尾根峠を人の肩で運んだと伝えられています。4個の車輪は松材で、ひび割れを防ぐため池に浸して保存し、4月の春祭りでは、氏子の地域内を曳行していました。明治41年、長若小学校建設に際して土台部分を資材運搬に使用したところ、車輪が破損し、曳航が中断しました。昭和22年に車輪が復元され、春祭りに組み立てた後、翌年盆踊りの櫓として使われて以来、舞殿に保管されています。その後は、昭和63年に飾り置きされています。
 笠鉾の反り木の長さは約3.5m、正面の幅1.45m、高さは約12mを測ります。勾欄下の腰支輪の彫刻は波に菊、登り勾欄下は波に亀・鯉でいずれも極彩色がよく残り、正面の4段の登り勾欄や勾欄は白木造りとなっています。笠に付く花は、上笠が48本、中笠が68本、下笠が78本で、各粒に緋羅紗の水引幕を付けます。その上に方燈、波形のせき台、天道が立ちます。笠鉾で建造当初の三層を残すものは少なく、保存状態も良好で貴重なものといえます。
町指定無形民俗文化財 長留の獅子舞 昭和35121
日指定
 この獅子舞は、毎年10月体育の日の羽黒神社の祭りに奉納されています。起源については、数百年前ササラ三平という人物が当地で教えたとの伝説が残され、嘉永4(1851)の記録には、数代前から獅子舞が行われていたと記されています。獅子は、先獅子、中獅子、後獅子の3頭で、花笠を男性2人がつとめ、他に道化、増え、大太鼓、小太鼓、万燈持ちで構成されます。
 祭り当日早朝、氏子区域内の詞や堂など6か所を順番に回って獅子舞を奉納する宮参りが行われます。この時、祠では、幣掛、堂では花掛を舞います。その後、山の中腹にある神社拝殿で幣掛の舞を奉納します。午後は、舞殿で座敷廻り、岡崎、骨っ返し、毬掛、太刀掛、竿掛、牝獅子隠し、曽状、平簓の9庭を舞います。獅子の衣装は、襦袢に袴を付けますが、拝殿では足袋、舞殿では裸足で舞います。獅子の優雅な舞いぶりから御殿ササラともいわれています。
 長留仲組では地域をあげて獅子舞の保存伝承に取り組み、年1回の祭りのほか、町内外での催し物等で上演しています。
平成133月 小鹿野町教育委員会
                                      案内板より引用
        
         参道も当初は民家もあり、緩やかな緩やかな上り坂を進む。
       
          手作業と思われる石段が注連縄     一対の柱付近から丸太材の階段が
           の先まである。                    暫く続く。
        
            斜面は長い階段が続く。さすがに山岳修験の羽黒神社。
           はっきりと分かる踊り場があるわけでもなく、自らの体力を計算しながら、
                    途中休憩を挟まないとさすがに筆者の体力が続かない。
        
                    拝 殿
 羽黒神社 小鹿野町長留三五三七(長留字皆谷)
 当社の鎮座地である長留は、荒川水系の上流部の長留川に沿って集落が点在する山村である。当社はこの長留の一耕地である仲組の中腹に奉斎され、伊氐波神(いではのかみ)・建御名方神・宗吾霊神(木内宗吾郎。俗に佐倉宗吾郎という)の三柱を祀っている。
 当社は、幕末に当所の住人の倉林森造が、下総国佐倉から宗吾霊神を勧請したことに始まる。森造はこの神を邸内に祀り、占いを行っていたが、これが実によく的中した。そこで、この神の霊験あらたかなることを感じた仲組の人々は森造と話し合い、宗吾霊神を仲組の鎮守として譲り受け、竜神山中腹に境内を定め、仲組全体でこれを祀ることとなった。慶応元年のことである。更に慶応三年には、久那平仁田の宮大工による社殿も落成し、宗吾神社として広く信仰を集めるところとなった。
 一方、仲組の人々は、蕨平(わらびたいら)・上ノ原の両耕地の人々とともに蕨平鎮座の羽黒神社の氏子として同社の獅子舞を奉納してきたが、慶応年間にはその継承権を巡って紛争が起き、その結果、仲組は同社の氏子を離れると同時に、羽黒神社及び、その境内社であった諏訪神社を分祀し、宗吾神社とともに祀ることになった。この際、神格が高いという理由から、明治二年に羽黒神社と改称し、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
           社殿左側にポツンと鎮座する境内社。詳細不明。
 明治2年に社号が羽黒神社に改められても、宗吾霊神への信仰心が中心となっているため、通称は「宗吾様」であり、参拝時も「南無宗吾様」と唱えて祈願する人が多い。講組織はないが、多くの崇敬者を持ち、「長留の宗吾様」として、西秩父方面では広く知られている。
 そのためか、多くの地図にも羽黒神社ではなく、「宗吾神社」と表記されている。
 氏子、崇敬者の間では、「宗吾様が困っている農民の為に働いて死んだ立派な人だ」といわれ、様々な願いが掛けられている。今でも拝殿内には願い事が書かれた絵馬や願果たしに奉納された旗が多数みられるという。
        
                社殿から眼下の参道を望む。



 ところで、長留地域には「羽黒神社」がもう一社近くに鎮座している。「埼玉の神社」にもこの社に関しての説明はされていないので、詳細は全く不明。
        
             所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町長留3056
             御祭神 羽黒権現(推定)
             社格・例祭等 不明
                          *参拝日 2024年7月5日
 
  鳥居の先の山の斜面入口からのスタート     なかなか野性味あふれる登り階段
        
 斜面を登りきると平坦な場所が広がり、真新しい拝殿が横を向くような形で鎮座している。
 社の創建等は不明ながら『新編武蔵風土記稿 長留村』には、この社に関しての記述がほんのりと記されている。
新編武蔵風土記稿 長留村』
 諏訪兩社合殿 例祭七月廿七日、中鄕の鎭神なり、神職吉田家の配下、宮澤左門斎藤淡路、
 羽黒社 宮澤左門が持、
 羽黒社 例祭八月十五日、村民持、祀官斎藤淡路、
 上段二社は通称「宗吾神社」と呼ばれている羽黒神社であるのだが、最下段の羽黒社は、当社ではないかと思われる。この二社は近距離に鎮座していて、神職・祀官は「斎藤淡路」という人物が共有しているため、何かしら関連性のある社ではないかと考えられる。
        
                   社殿の東側に祀られている境内社群
 境内社が五社祀られていて、そのうち一番左側の社は狐の置物が多数奉納されている所から、稲荷社ではないかと思われる。また拝殿同様に境内社も改築もされている。よく見ると紙垂が巻かれていて、その巻かれ具合から、つい最近「祭り」の類が行われたと考えられるが、詳細が全く分からないのが残念。
       
                 拝殿の南側で、一段低い場所に鎮座している境内社・二社。
        
                                 社殿からの眺め


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「百科事典マイペディア」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

 

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三山古鷹神社

「雨ニモマケズ」や「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」などの作品で有名な詩人であり、童話作家でもある宮沢賢治は、大正51916)年95日に小鹿野町を訪れている。
 盛岡高等農林学校の2年(20歳)の大正593日から8日までの間(推定),関豊太郎教授(1868-1955)の引率で,秩父の地質巡検(見学旅行)に来ている。元々小さいころから岩石・植物・昆虫などに興味を示し、特に岩石が好きな賢治は、家族から「石こ賢さん」とあだ名をつけられている。当時の秩父地域は,明治341901)年,神保小虎(1867- 1924)が「我が国の地質学者が一生に必ず一度は行きて見るべき」と記した、巡検案内が地質学雑誌に載り、全国の地質学徒が訪れる、巡検の聖地となっていた。
 この見学旅行では、92日に出発し、熊谷、寄居、皆野町と宿泊し、94日には皆野町金崎地域を見学、その後馬車に乗り,正午前に小鹿野町に到着,午後,皆本沢から赤平川を見学している。
 宮沢賢治短歌群「唄稿A」には「小鹿野」と題し、「さはやかに半月かゝかる薄明の秩父の峡のかへり道かな」という短歌がある。これらは、94日小鹿野町三山の皆本沢から赤平川の地層を観察し,寿屋に向かう途中の情景を詠まれたものと考えられている。
        
             
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町三山1195
              
・ご祭神 日本武尊 建御名方尊
             
・社 格 旧三山村小名間明平鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 3月第2日曜日 例大祭 10月第1土曜日
                  
秋祭り 11月第3日曜日
   
地図 https://www.google.com/maps/@36.0339957,138.928443,16.29z?hl=ja&entry=ttu
 飯田天満神社から一旦南下して国道299号線に合流し、そこを右折し赤平川左岸に沿って西行する。陽光差し込む夏空の元、秩父山系の緑豊かな風景を愛でながら進むこと5㎞程、目の前に山々の緑林とは違った雰囲気のある林が見え、その林の中でも一際目立つ、数本の大杉が聳え立っている。その場所こそ今回の参拝地である三山古鷹神社である。
「三山」と書いて「さんやま」と読むのだが、この周辺の白石山・八日見(両神)山・二児(二子)山を合して三山と称し、これが地名の由来となっているようだ。
        
                  
三山古鷹神社正面
『新編武蔵風土記稿 三山村』において、当村に関して以下の記載がある。
 三山村は郡の西にあり、矢畑の庄に屬す、四此東は上飯田村に續き、西は河原澤村に隣り、南は薄村に接し、北は藤倉村に界へり、東西二里に餘り、南北一里許、東西の隣村へは谷間續き、南北の方は山々連り山の頂を界となせり、民戸は三山川の左右、或は山根によりて二百八十五烟所々に散在せり、男は農隙に山稼をなし、女は蠶を養ひ、紡績し、絹・紬・横麻等を織ことを成業とす、
 水田は僅にして、陸田多く山林は尤多し、村内山澤より出る溪流を水田の便とす、土症砂土眞土、或は赤黑野土等なり、土産には絹・煙草を第一とし、大豆・菎蒻是に繼ぐ、
 またこの地域は、古来から秩父より上州(群馬県)を結ぶ街道沿いにあり、信州へも通じていて、人馬の往来が多かったという。
 村内に一の街道かゝれり、東の方上飯田村より来り、二里許にして西の方河原澤村に達す、道幅凡六尺、此街道は上州甘樂郡山中領にかゝり、信州への道なり、

 因みに三山古鷹神社が鎮座している地は、嘗て小名「間明平」と称していた。読むことが難しい難解地名の類となるが、「武蔵志」には「「字間明平・マミョウタイラ、一村の如し」と記されていて、「まみょうたいら」と読むようだ。
 この「間明平」の地名由来は正直分からない。但しこの三山地域には「半平」「挮木平」「桃木平」「軍平」と「平」を共有している小名もあり、地形上の名称由来の類とも考えられる。
         
          鳥居の右隣にある案内板     案内板の並びに社号標柱あり
 
 鳥居を過ぎて、参道を進むとすぐ左側に詩人・童話作家として名高い宮沢賢治の歌碑(写真左)と案内板(同右)がある。なんでも賢治が盛岡高等農林学校に在籍していた、大正5年(1916)の秩父地質巡検(見学旅行)で当地に訪れていたということだ。
*写真左歌碑
霧晴れぬ分れて乗れる三台のガタ馬車は行く山岨のみち 宮沢賢治
同右案内板
岩手県花巻市生まれの詩人・童話作家として名高い宮沢賢治が盛岡高等農林学校二年生の時関豊太郎教授に引率されて地質調査の目的で秩父地方を訪れたことは早くから知られている
平成二十三年に発見された旧本陣寿旅館館主田隝保日記によって宮沢賢治が同旅館へ宿泊し皆本沢へ向かったことが判明した
これを記念して皆本沢近くに賢治一行来訪時の様子を彷彿させる新たな歌碑を建て賢治がこの地を訪れ優れた歌を詠み遺したことを永く後世に伝え先に建立した歌碑(三基)詩碑とともに 町の教育・文化の向上と観光の振興に寄与する目的で小鹿野町と 有志の浄財により歌碑を建立する
本碑の建立は株式会社田嶋造園土木より碑身の寄贈を受け古鷹神社の御好意により宮沢賢治小鹿野町来訪百年及び生誕百二十年を記念して行った(以下略)

       
  鳥居を過ぎるとすぐ目の前に2本の大杉が参道左側に並んで聳え立っている(写真左・右)。
             
                鳥居から大杉方向に撮影
              天空に聳え立つかのような大杉の威容
        
                    拝 殿
        社殿は「三角山」と称する小高い山を背にして鎮座している。
 古鷹神社 御由緒  小鹿野町三山一一九五
 ◇日本武尊を祀り古代上州との往来をうかがわせる
 当社は三角山と称する神名備 (神体山)を思わせる小高い山を背にして鎮座し、境には杉の大木が並び立ち、鎮守の杜にふさわしい景観を見せている。
 創祀については、口碑に「名主を務めていた斎藤家の氏神として祀られたことにはじまる」とある。この斎藤家は鉢形城主・北条氏邦の家臣だが、天正十八年(一五九〇)当地に落居したと伝える家柄で、氏邦の感状を所蔵している。
 本殿の造営について棟札に「奉建立小鷹大明神 宝暦十歳庚辰 八月吉日 当村名主斎藤儀右衛門」とあり、口碑との関連が窺える。
 当社は戦前まで「お諏訪様」とも呼ばれて、『新編武蔵風土記稿』にも「諏訪社 例祭七月二十五日 小名間明平の鎮守」とある。「こたか」の社名は埼玉では珍しいが、隣接する群馬県に多くあり、小高あるいは武尊と当てている。
 明治二年(一八六九)には諏訪社 (小鷹大明神)の社号を現行に改め、同五年(一八七二)村社となる。
 当地は往古より秩父と上州(群馬県)を結ぶ街道沿いにあり、人馬の往来が多かった為、この街道を経て入ってきた上州文化の影響で社殿の裏に神秘的な山頂()を立てる三角山の信仰が伝えられたと考えられる。(以下略)
                                      案内板より引用

       
        社殿の左側にもご神体と思われる大杉が聳え立つ(写真左・右)。
              
 鳥居を過ぎた先にある2本の杉と、社殿左側にある杉を加えたこの3本の杉は、小鹿野町指定天然記念物となっていて、その記念柱も立っている。
            小鹿野町指定天然記念物 古鷹神社の杉 3
                 昭和48110日指定
 
 社殿左側に祀られている境内社等、詳細不明。       神楽殿(歌舞伎舞台)
 この歌舞伎舞台は昭和初期の建造で、二重舞台や奈落・花道を具え、客席は約50坪、天井の高い木造平屋建、両側に桟敷(さじき)席が付いている。昭和時代、地芝居が華やかだった頃の熱気や雰囲気を感じさせてくれる建物である。
        
                 社殿方向からの一風景
            町指定天然記念物の杉の大きさが良く分かる。

 
 古鷹神社の右側隣に招魂祠が祀られている。         招魂祠



参考資料「新編武蔵風土記稿」「小鹿野町HP」「西秩父商工会HP」「ジオパーク秩父HP
    「Wikipedia」「埼玉苗字辞典」等

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