古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下小坂白鬚神社

 下小坂地域は、川越市北西部で入間川支流の一級河川である小畦川左岸に位置する。この地域は、『新編武蔵風土記稿 下小坂村』に「東西凡十三町、南北七町許、平坦の地なり」と記されているようにそのほとんどが低地である。但し、小畔川と入間川の合流地点を臨む地域南西部は台地面となっており、ここには弥生時代中期から人々が定住し、開発の進んだ地で、6世紀前半から7世紀にかけて「下小坂古墳群」と呼ばれた古墳が前方後円墳2基、帆立貝形古墳1基、円墳17基築造されたという。
 現在、下小坂
1号〜4号墳は破壊され既に存在はしていないが、これら古墳から出土された遺物が1988年(昭和63年)129日付で川越市指定有形文化財(考古資料)に指定されている。
        
              
・所在地 埼玉県川越市下小坂1002
              
・ご祭神 猿田彦命
              
・社 格 旧高麗郡下小坂村鎮守
              
・例祭等 例祭 715日前後の日曜日(下小坂の獅子舞)
 坂戸市中小坂地域に鎮座する中小坂神明神社から一旦南下し、埼玉県道256号片柳川越線を600m程進んだ小畦川に架かる「刺橋(とげばし)」の手前にあるY字路を左折し、小畦川に沿って北東方向に暫く進むと進行方向左手に下小坂白鬚神社が見てくる
*「刺橋(とげばし)」には興味深い伝説があるが、これは後ほど。
『日本歴史地名大系』 「下小坂村」の解説
平塚村の西、小畔川左岸の低地および台地に立地。高麗郡に属した(寛文四年の河越領郷村高帳ほかでは入間郡)。小田原衆所領役帳に小田原衆の松田筑前守の所領として「六拾二貫六百六拾壱文 下小坂」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。
 慶安元年(一六四八)の検地帳(平野家文書)が残り、田三九町一反余・畑三五町余・屋敷二町五反余、ほかに葭野など三町五反余。田園簿に村名がみえ、田高二一二石余・畑高一三五石余、ほかに野銭永二貫一二文、川越藩領。

        
                 下小坂白鬚神社正面
 参道を進み、社の鳥居のすぐ先には、二柱のご神木が聳え立つ。まるで寺社でいう随神門の如く、神域に邪気・邪悪なものが入るのを防ぐ阿吽の像、または門番のようで、両方とも幹周6m程あり並びたつ姿は圧倒的な存在感・重量感がある。樹齢500余年もある老木にも関わらず、樹勢は旺盛で隆起した根本はほとんど参道を塞いでしまっている。
             
 案内板によれば、社殿に向かって右側が「赤欅」で幹周り
600cm、高さ33m、左側は「青欅」と言われ幹周り595cmで、高さ26m。昭和47年(19722月に天然記念物の指定を受けた時、樹齢500余年と推定されたということから、現在は550余年となり、室町時代中期にはこの木は存在していたという事になろう。まさに下小坂のシンボル的な存在。
        
                 参道の先にある鳥居
           ケヤキのご神木の僅かな隙間から社殿か見える。
 因みに鳥居の左側には「下小坂の大ケヤキ(市指定天然記念物)」と「下小坂の獅子舞(市指定無形民俗文化財)」の案内板があるのだが、字が薄くて撮影してもはっきり見えないので、活字にて紹介する。
 下小坂の大ケヤキ(市指定天然記念物)
 神社境内にある二本のケヤキは、社殿に向かって右側が赤欅といわれ幹周り六〇〇センチで高さ三三メートル、左側は青欅といわれ幹周り五九五センチで高さ二六メートルである。昭和四七年に指定を受けた時、樹齢五〇〇余年と推定され、下小坂のシンボルといえよう。
 ケヤキは斎槻と呼ばれ、神聖な木として尊ばれてきた。
 昭和四十七年二月八日指定
 下小坂の獅子舞(市指定無形民俗文化財)
 現在は七月十五日前後の日曜日に行われる。悪疫退散を祈る天王さまの行事である。起源は元禄三年(一六九〇)とも、寛政年間(一七八九〜一八〇一)とも伝えられている。
 獅子は大獅子・女獅子・中獅子の三等で、仲立に先導され、その他花笠四人・棒使い二人など、全て男子によって演じられる。「トロヒャリホ」と呼ばれる女獅子隠しの曲目や小唄もあり、最後に獅子が走りぬけた後、千秋楽の歌を歌いながら、関係者が境内を一回り回って終了する。
 平成十四年二月二十五日指定                         案内板より引用

        
                   境内の様子
 参道付近は差し込む日光により眩しく感じられるのだが、目を転じて境内周囲一帯を眺めると、ここにも緑豊かな社叢林に覆われていて、村の鎮守様を連想するような社である。当初、ご神木である二基のケヤキの巨木・老木の存在感に圧倒された後に境内に入ったわけで、努めて冷静に参拝を行なおうと心に言い聞かせ、一呼吸した後に境内に入ったのが良かったのか、境内も静かに時間は流れ、なかなかの雰囲気ある社であることは確かである。
 
  参道左側に祀られている「石尊様」の石祠       石尊様の並びにある力石三基
                      左から45㎏(12貫)・80㎏(21貫)・101㎏(29貫)
        
               参道右側に祀られている(左より)神徳碑・大六天神・天神社
        
                                        拝 殿
 白鬚神社  川越市下小坂一〇〇二(下小坂字前谷)
 当地は川越市の北部、入間川支流の小畦川左岸に位置し、坂戸市と境をなす。そのほとんどが低地であるが、一部段丘となりこの上には市の文化財となっている鏡・刀子・馬具などが発掘された下小坂古墳群がある。
 当社は下小坂の東部に鎮座し、ここから西へ民家が広がっている。特に当社と並ぶ八軒は旧家で、八軒家と呼ばれている。
 また、地内を貫く秩父・川越・江戸を結ぶ街道が、小畦川を渡る荊橋の辺りには、小坂の河岸と呼ばれる船着き場が明治八年まであったという。
『風土記稿』には「白髭社 村の鎮守なり、永命寺の持」とあり、江戸時代真言宗薬樹山瑠璃光院氷命寺が別当であったことがわかる。
 当社創立にかかわる史料は、夕立ちが降ると水が出るほどの土地柄のためか残されていない。しかしながら、参道入口を挟んで、そびえるように並び立つ欅の大木があり、それぞれ目通り一六〇センチメートルあまり、樹齢五〇〇年といわれることからも当社創立の古さを物語っている。
祭神は猿田彦命であり、本殿は一間社流造り板葺きで、白幣を祀る。
『明細帳』には、境内社として八坂神社・三峰神社・稲荷神社・大六神社が載るが、現在三峰神社の所在が不明となっている。このほか明治四一年に字西尻より合祀した天神社が祀られている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                    本 殿
 
 社殿の左側に祀られている境内社・稲荷神社  本殿の左側脇に祀られている境内社・御嶽神社
        
      社殿右側に鎮座する境内社。「埼玉の神社」に載る八坂神社であろうか。

 嘗て小畔川は現在と違って屈曲が多いうえに流れが非常に速く、川を渡るのがたいへん難しかった。また、周辺の田も湿田が多くて、ちょっとした雨でもすぐ冠水してしまう状態だったという。
『川越の伝説』には小畔川に架かる「刺橋(とげばし)」に、伝承・伝説の類であるお話が残っている。
 刺橋(とげばし)のいわれ
 むかし、むかしのおはなしです。「でえだらぼう」といいます、山をつくることが得意な大男の神さまがおったそうです。富士山に腰をおろして、ひとやすみしたり、筑波山の男体女体をつくったり日本中を歩いておりました。ある時、秩父の方で山をつくることになり、川越の名細(なぐわし)あたりを通りかかりました。ドシッ! ドシッ! おおきな窪地をこさえながら歩いておりました。ちょうど小畔川(こあぜがわ)の近くまできたときです。とつぜん「いてて……!」とでえだらぼうがうずくまりました。なんと、足のうらに小さな刺がっさっていたのです。さすがのでえだらぼうもこれでは歩けません。すぐ刺をぬきまして小畔川の中ほどにつきさして、秩父へと向かいました。まだ、このころの小畔川は曲がりくねっておりまして川はばも広く、たいへんなあばれ川で、人々はなんとか、うまく渡れるように橋をかけようとおもっていました。ところが川のまん中におおきなクイがうってあるのでびっくり、すぐ村人を集め、りっぱな橋をかけました。あとで、これがでえだらぼうの刺だということがわかり、ありがたいことだと橋の名まえを「刺橋」とつけました。この刺のクイだけは、どんなに大水がでても、けっして流されはしませんでした。
            
 この伝承・伝説に出てくる「でえだらぼう」は、日本全国に伝承が残っている「ダイダラボッチ」に関連した説話と思われる。
 この「ダイダラボッチ」は、日本の各地で伝承される巨人で、山や湖沼を作ったという伝承が多く、元々は国づくりの神に対する巨人信仰がダイダラボッチ伝承を生んだと考えられたり、別説では、鬼や大男などの妖怪伝承が巨人伝承になったという説もある。
 名称の「ダイダラボッチ」も類似の名称が数多く存在し「でいらんぼう・でいだらぼっち・だいだらぼう・だいらぼう・デエダラボッチ・デイラボッチ・デイラボッチャ等」、漢字名としては、大太法師(だいだらぼっち)、大太郎坊(だいだらぼう)とも表記し、九州では大人弥五郎(おおひとやごろう)と呼ばれてもいる。
 また埼玉県内には、ダイダラボッチの伝説が秩父地方を中心にして、たくさん残っている。
 一説によると、「ダイダラボッチ」伝説とタタラ製鉄を行っていた「古代鍛冶集団」との関係を述べる方々もいるようだが、今のところその真相は筆者にも分からない。
             
                境内から見たご神木の威容


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「川越市HP」「川越の伝説」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等

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