古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

笠幡尾崎神社

 寛永一三年の棟札に「高麗郡笠幡之鄕惣社大明神」とあるように、当社は笠幡地域(川越市合併前の笠幡村)の総鎮守で、芳地戸・新町・山伝・倉ヶ谷戸・協栄・本町・西部から成り、当社は芳地戸に鎮座する。また、各字ごとに字鎮守の社があり、新町は三島日光社、山伝は御嶽社、倉ヶ谷戸は箱根神社、協栄は八坂社、本町は宣言者、西部は金比羅社を祀っている。各社ごとに祭典が行われ、殊に浅間社は七月一四日に初山と称して母親が子供に連れて参詣し、その子の丈夫な成育を祈る信仰がある。
 当所は高麗から川越に通じる高麗街道が村内を通るため、大町・新町・本町に宿があった。一方、小畔川沿いには水田が広がり、ほかは陸田で養蚕が盛んな頃は一面の桑畑であったという。
 社の裏手には幹回り6m余りの大杉があり、御神木にしていた。その根本には50㎝位の空洞があり大蛇が住んでいると伝えられ、周囲を3回まわると大蛇が出るといわれていたため、氏子は近寄らなかった。なお、その大蛇は当社の神の使わしめであるといわれていた。しかし、この木も昭和四六年に枯死し、伐採してしまったという。
        
              
・所在地 埼玉県川越市笠幡1280
              ・ご祭神 素戔嗚尊 奇稲田姫命
              ・社 格 旧笠幡村総鎮守 旧村社
              ・例祭等 元旦祭 道饗祭 321日 春祈祷 415
                   秋日待 1015日 例祭 1115
              (*秋日待は川越市合併前には17日。例祭は従来の929日の九日
               祭りをこの日に移したという)
 笠幡箱根神社から南北に通じる道路を北上し、小畔川に架かる「田谷橋(たやはし)」を渡る。小畔川流域周辺の肥沃な田畑風景を愛でながら200m程北上し、住宅街が並ぶ十字路を右折、小畔川と並行して暫く進むと、信号のある十字路に達するので、そこを左折する。緩やかな上り斜面を進むと、すぐ左手に笠幡尾崎神社の入口、及び駐車場が見えてくる。因みに、社に面した道路は通称「さざんか通り」というようだ
 参拝日は20255月中旬で、建て替え工事を行っていた関係で、正面参道入口に通じる駐車場一帯にはバリケードが敷いてあり、また境内も一部散策できなかった場所もあって、その点は少々残念。
 この社には「正面参道入口」「北側参道入口」、そして一番西側にある「西側参道入口」と、それぞれ鳥居が設置されているのだが、建て替え工事の関係や、駐車場から一番近いところから「北側参道入口」から出発することになった。
        
                                                     笠幡尾崎神社北側参道入口
『日本歴史地名大系』 「笠幡村」の解説 
 [現在地名]川越市笠幡・的場・川鶴・三芳野・伊勢原町、鶴ヶ島市太田ヶ谷
 安比奈(あいな)新田の北西、小畔川流域の低地および台地に立地。高麗郡に属した。貞治二年(一三六三)六月二五日の鎌倉府政所執事奉書(町田文書)に「武蔵国高麗郡笠縁」とみえ、年貢帖絹代を長井庄の定使給物として森三郎に給付し、残余および未進分などについては直納すべき旨が北方地頭に命じられている。また翌年九月一八日にもほぼ同内容の命令が高麗彦四郎経澄に下されている(「鎌倉府政所執事奉書」同文書)。「笠縁」は「笠幡」の誤記と考えられる。地内の尾崎神社に伝存する天文二〇年(一五五一)六月一五日の年紀がある懸仏の銘に「武州高麗郡笠幡尾崎宮」とみえ、また同年六月吉日の年紀がある懸仏銘には「大日本国武州高麗郡笠幡郷尾崎」とみえる。

       
             鳥居の右側にある社号標柱には    正面参道の様子。この参道は途中で
           「笠幡郡惣社」と表記されている。
     左側に曲がり、社殿に達する。
        
                 西側にある参道入口
 笠幡尾崎神社は古社であるのだが、その創建年代等はハッキリとは分からない。日本武尊が当所を通った折に、台地はずれの見晴らしのよい所ゆえ、尾崎の宮と称えて二神を祀ったと伝えている。当社には宝徳4年(1451)銘・大永8年(1528か?)銘の板碑や天文20年(1551)銘の懸仏など中世の信仰が残されており、室町時代の宗教的遺物として貴重なものとして、共に市指定文化財となっていて、近世・江戸時代には笠幡村の鎮守社として祀られてきた。
『新編武蔵風土記稿 笠幡村』
 尾崎明神社 素戔嗚尊を祭と云、神體は圓鏡に鑄造す、その銘に武州高麗郡笠幡鄕尾崎、于時天文二十年六月吉日敬白とあり、外に慶長十二年の棟札あり、猶舊き棟札もあれど文字分たず、村中の鎭守なり、例祭九月二十九日、神職伊藤長門なり、
 稻荷社、疱瘡社
『入間郡誌』
 尾崎神社
 古社なれど勧請年暦不明、棟札の文字読むべからず。 但社号に大日本国高麗笠幡大明神と記し、又一の棟札には慶長十二年修理を記し、又一棟札に寛永十三年十二月笠幡郷惣社大明神とあり、同十五年の棟札には笠幡郷惣社尾畸大明神とあり。 其他寛文九年十二月再興元禄二年修理の棟札あり。 之れ現今の社殿也。 尚古来円経六寸表に仏体を凸出せる鋳板に天文二十年鋳造と記せる掛物二面あり。

        
       西側鳥居を過ぎて、参道を進むと両部鳥居の二の鳥居が見えてくる。
 両部鳥居の両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残というのだが、この鳥居があるという事は、この社も神仏習合系の社であったのであろうか。
        
                                 社殿に続く参道の様子
                       老杉古檜が豊かに茂る尾崎の森
 
        参道途中にある手水舎                境内に入り、すぐ右手にある神楽殿
        
                    拝 殿
 尾崎神社(みょうじんさま)  川越市笠幡一二八〇(笠幡字宮前)
 当社は南に小畔川を臨み、老杉古檜が茂る広大な境内は野鳥の楽園ともなっている古社である。祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫命で、その創始については、日本武尊が当所を通った折に、台地はずれの見晴らしのよい所ゆえ、尾崎の宮と称えて二神を祀ったと伝えている。
 宝徳四年及び大永八年の銘がある五〇センチメートル余りの板碑と、市指定文化財となっている「大日本國武州高麗郡笠幡尾崎宮」と刻む天文二〇年の懸仏二面を蔵している。このほか神宝として天文五年銘祐定作の太刀、榎本武揚奉納の銅製社号額がある。
 棟札も数枚あり、最も古いものは「慶長拾二年三月十五日禰宜伊藤刑部」と判読でき、以下、寛永一三年・貞享二年・元禄二年・寛文九年と続く。また、『明細帳』には天保九年にも再興したとある。現在の社殿は明治一八年に再営したもので、この時に草葺き屋根を瓦葺きとし、更に近年老朽化が進んだため昭和五六年に修復した。
 祀職は神社に隣接している伊藤家である。同家は室町時代より二〇代以上続く社家であり、当社とともにその歴史は古く、慶長の棟札に伊藤刑部とあり、『風土記稿』にも「神職伊藤長門なり」とあるほか、元禄七年・享保九年・延享四年・寛政七年・文政八年・嘉永三年・慶応三年の裁許状が残っている。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
【参考 埼玉苗字辞典より】
・入間郡塚越村大宮住吉神社文書 「貞享三年・笠幡村尾崎社家伊藤刑部」
・尾崎神社文書「元禄七年・高麗郡笠幡村尾崎大明神之祠官伊藤長門守藤原吉勝、享保九年・祠官伊藤播磨守藤原好博、延享四年・祠官伊藤長門守藤原安清、嘉永三年・神主藤原安武、慶応三年・神主藤原安教」
        
             拝殿に掲げてある「尾崎神社」の扁額
        
                境内に設置されている「芳地戸のふせぎ・懸仏二面」の案内板 

 芳地戸のふせぎ(市指定・無形民俗文化財)
 懸 仏 二 面(市指定・工芸品)
 悪魔払いの神事である「ふせぎ」を笠幡の芳地戸では、毎年春の彼岸の中日に行なっている。その日の午前中、神社でおみこしを作る。四角の木製の枠に榊や樫の小枝などを取付けただけの古風なもので中に神社の御本体を納める。神社でふせぎの祈禱を行なったあと、芳地戸の全部の家を廻る。村廻りの行列の先頭は太鼓である。「ヨーイド・マーダー」とはやし、「ドコデン・カッカ」と太鼓を打ちながら進む。次にみこし。昭和四十二~三年ぐらいまでは、一家の中まで入って清めていたが、今は庭まで。次に村境にたてる辻札八組と尾崎神社の幟一本。それに子供達が大勢従って行く。
 又、この神社に保管されている懸仏は、神の本体という意味の御正体を仏像で現したものである。二面ある懸仏はどちらも直径十八・六センチメートルの円板状の板金でつくられ、釣手が二つある。中央に鋳造した半肉の仏像一体が取付けられており、室町時代の宗教的遺物として貴重なものである。
 昭和五十七年七月
 川越市教育委員会
                                      案内板より引用

 この「ふせぎ」は「道饗祭」とも称し、享保六年から始まった神事であるという。四角の木製枠に榊の枝を取り付けた神輿に神霊を移して担ぎ、男女の性器を模したわら細工をつるした竹の棒を先頭に、太鼓をたたきつつ、村境の八カ所にこの竹の棒を立てる行事とのことだ。
 
        境内社・祖霊社                            本 殿
                         (建て替え工事中にて遠くから撮影)
        
                綺麗に手入れされている社
 工事中のため、一部境内を散策することができなかったことは残念だったが、それ以外は気持ちよく参拝を行うことができた。改めて素晴らしい社との出会いに感謝した次第だ。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等
 

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