古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

牧西八幡大神社

 牧西八幡大神社が鎮座する「牧西」と言う地名の由来では、古い資料には「目西」と書かれている物もある(戦国時代の古文書・上田文書)が、『風土記稿』によると、嘗てこの地の東側に「櫛引(くしびき)」と言う名の野牧(現、深谷市櫛引)があり、その西端に位置したことから「牧の西(櫛引野牧の西)」の意味で村名が生じたとされる。
「牧西村ハ村東櫛引野二古エ牧アリ、ソコヨリ西二当ル地ナレハ斯呼ヘリ」(風土記稿)
 したがって、鎌倉時代の人物である弘季以前からあった地名である。字は木西とも書き、読みは「もくさい」。大寄郷藤田庄に属する。
 この地の八幡神社(現、八幡大神社)は四郎弘季が相模国鎌倉宮を当地に奉祀し、建立したことから始まると伝えられる。
 
        
              ・所在地 埼玉県本庄市牧西557
              ・ご祭神 誉田別尊・神功皇后・中比売神(応神天皇后)
              ・社 格 旧牧西村鎮守・旧村社
              ・例祭等 1015日 金鑚神楽・宮崎組
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2336503,139.2184289,17z?hl=ja&entry=ttu  
 牧西八幡大神社は国道17号バイパスを本庄方面に進み、岡(西)交差点を右折する。この丘(西)交差点を横断するルートは「中山道」と言われた江戸時代に整備された五街道の1つで、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道である。大井川などを渡る東海道に比べて川止めが少なく、旅程が計算できたことから、利用する旅人も多かった。木曽路など山間の道も通るため、「木曾街道」や「木曽路」との別名もある。また京都の宮中から将軍家に嫁ぐ際、通行していたため、姫街道とも呼ばれていた。
 17号国道バイパス・丘(西)交差点を右折して、小山川に架かる橋(滝岡橋)を過ぎ、暫く道なりに進む。
その後埼玉県道45号本庄妻沼線と合流し、左折後牧西(西)交差点で埼玉県道・群馬県道258号中瀬牧西線に変わり、そのまま真っ直ぐ進み、藤田小学校を越えるとすぐ左側に牧西八幡大神社に到着する。県道も短い区間で2か所変わり、藤田小学校前交差点からも厳密にいうと県道にも属していないルートとなり、簡潔に説明するのが難しいが、ルートは至って単調で分かりやすく、この社も道路に沿って鎮座しているので、所在地も比較的分かりやすい場所にある。
 駐車スペースは社を過ぎてすぐ隣に火の見櫓が設置されている場所に広いスペースもあり、そこに車を停めて参拝を行った。
        
               道路沿いに鎮座する牧西八幡大神社
       
社号標石は2か所あり。道路沿い・鳥居手前右側(写真左)と、境内入りすぐ右側(写真右)にもあり
       
           
社号標石の近くには神木が聳え立つ(写真左・右)
        
                 道路沿いにある案内板
 ○八幡大神社 所在地 本庄市大字牧西五五七番地
 祭神 誉田別尊(応神天皇) 神功皇后 中比売神(応神天皇后) の三柱
 当社は、建久年間(一一九五)に児玉党の一族・牧西四郎広末が武運長久の守護神・相州鎌倉の鶴岡八幡宮を奉遷して当所に祭ったものである。こえて文明三年(一四七ー)五十子合戦のとき兵火にかかって焼失。その後は廃社になっていたが、慶長十七年(一六一二)ごろ信州佐久郡依田荘の住人・依田五郎左衛門が当地に来て在住したが八幡大神社を再興ふかく信仰した。依田氏は後に姓を宮崎と改め、当社の神主として代々奉仕した。徳川時代には領主より神田五畝二十五歩の寄進があった。明治四十一年本県より神饌幣帛料供進社の指定があった。
 なお、当社奉納の宮崎組神楽は、市の指定文化財になっている。
 この神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話が、その起りとされており神をよろこばせる舞楽として各地にそれぞれのいわれをもって伝えられてきた。金鑚神楽・宮崎組の起りについてはまだ明らかでないがつかわれている面は江戸時代正徳年間(一七一一年~一七一五年)以前の作であり、この地の神楽が古くから行なわれてきたことを物語っている。宮崎組は変わり面などの珍らしい舞い方も伝えられ、また遠くは信州上諏訪など各地に出かけて神楽を奉納してきた。なお座(出し物)はいま二十五座伝えられている。
 昭和六十一年三月     埼玉県  本庄市               境内案内
板より引用
 
        
 牧西八幡大神社の二の鳥居を越えて更に参道を進むと(写真左)、正面に神楽殿があり(同右)、そこから直角に曲がると拝殿が鎮座する位置的な特徴を持つ社。

 宮崎組の金鑚神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話が、その起こりとされており、神を喜ばせる舞楽として各地にそれぞれのいわれをもって伝えられてきた。金讃神楽・宮崎組の起こりについては、まだ明らかではないが使われる面は江戸時代の正徳年間(17111715年)以前の作であり、この地の神楽が古くから行われていたことを物語っている。
 宮崎組は変わり面など珍しい舞い方なども伝えられ、また遠くは信州上諏訪など各地に出かけて奉納してきた。
なお、座(出し物)は今でも二十五座伝えられている。
 昭和35年11月10日 本庄市教育委員会
                                 道路沿いの案内板より引用
        
                      拝 殿

「金鑽神楽」とは、児玉郡神川町二ノ宮にある金鑚神社を核として埼玉県北部に形成された
13組の神楽組による神楽の総称である。
 本庄市域では、金鑚神楽の「5組の神楽」が本庄市無形民俗文化財に指定されている。
 神楽とは神様の心を慰めるために演じられる舞楽であり、一般には里神楽と呼ばれ、古くは神社ごとに特色ある神楽が演じられていたが、現在本庄市域で行われている神楽は全て『金鑚神楽』である。
 一社相伝の由緒深いこの神楽は、専門の神楽師ではなく、神社の氏子達によって代々伝承されているのだそうだ。かつては埼玉県北部の各神社ごとに別々の組が設けられ、個々に別々の演目、様式で伝えられていたが、明治時代に13の組に再編された。
 尚、伝承系統は大きく大宮住吉神社(現坂戸市)系と深谷市鼠八幡社(旧藤沢村)系の2つの系統と考えられる。
 
       拝殿向拝部の彫刻                本 殿

 
   正面鳥居右側に鎮座する境内社八坂社    八坂社の隣に
三笠山大神御嶽山大神等の石碑
 
三笠山大神御嶽山大神の隣に境内社・末社あり     社殿奥には屋台・神輿倉庫か


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