古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小和瀬稲荷神社


              ・所在地 埼玉県本庄市小和瀬1
              ・ご祭神 倉稲魂命
              ・社 格 旧小和瀬村鎮守・旧指定村社
              ・例 祭 祈年祭 32日 例祭 1019日 新嘗祭 122
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2458914,139.2265005,16z?hl=ja&entry=ttu    
 小和瀬稲荷神社は国道17号バイパスを本庄方向に進み、岡(西)交差点を右折、旧中山道を利根川方向に進み、埼玉県道45号(本庄妻沼線)から258号(中瀬牧西線)に合流、藤田小学校交差点を右折する。
長閑な田園地帯を道なりに進むと1㎞程で小和瀬交差点に到着し、その交差点先の右側に小和瀬稲荷神社が鎮座している。この社のすぐ東側には備前渠用水が流れていて、河川に関連した社である事は確かである。
 小和瀬交差点を右折して、1本目のT字路を左折する。細い道路の先にやや広い空間があり、そこに車を停めて参拝を行う。因みにこの社の住所は「小和瀬1」。この小和瀬地区の中心地であることもこの住所地で分かる。
        
               県道沿いにある社号標と鳥居
        
                               社号標石の傍にある案内板
 62回伊勢神宮式年遷宮記念
 稲荷神社御由緒     本庄市小和瀬一

 □縁起
 『風土記稿』小和瀬村の項に「稲荷社 村の鎮守にて宝蔵寺の持」と載るように、当社は江時代には真言宗の宝蔵寺の管理下にあった。この宝蔵寺は、神仏分離によって明治初年に廃されたものと思われ、今ではその跡地さえ定かではないが、同寺に伝えられていた「小和瀬村鎮守稲荷大明神縁起」(『埼玉叢書』第六巻所収)を要約すると、次のようになる。
 天慶年聞(九三八~九四七)平将門征討のため東国に下向した源経基が、利根川の辺りにたむろしていた将門の弟三栗三郎将頼と小阿波瀬の河原で戦い、ついに将頼を討ち払うことができた。この勝利に際し、経基が京都伏見稲荷を村の西方に勧請したのが当社の始まりであり、弘安年間(一二七八~八八)にこの地に住した小阿波瀬野五郎重弘が当社を守護神となし、更に寛正年間(一四六〇~六六)に上杉管領房顕が五十子城にあった時、当社を東方に遷すと共に社殿を五十子城に向けて再建し、城の鬼門守護の神として祀ったという。
 その後も、当社は様々な武将によって崇敬され、永禄五年(一五六二)の小阿波瀬合戦では、当社の森に宿陣した新田方が上杉方に大勝利を収めたことから、新田家より神領を差し置かれた。慶長九年(一六〇四)の備前渠用水の掘割りに際して、一旦は村の西方に遷座したが、寛永二年(一六二五)に現在の社地に移り、今に至っている(中略)

                                    境内案内板より引用
        
         社殿、神楽殿等に続く参道。この参道はほぼ西向きでもある
 案内板でも記述されているが、平将門征討のため東国に下向した源経基が、利根川の辺りにたむろしていた将門の弟三栗三郎将頼と小阿波瀬の河原で戦い、ついに将頼を討ち払うことができた。この勝利に際し、経基が京都伏見稲荷を村の西方に勧請したのが当社の始まりであり、弘安年間(1278~88)にこの地に住した小阿波瀬野五郎重弘が当社を守護神となし、更に寛正年間(1460~66)に上杉管領房顕が五十子城にあった時、当社を東方に遷すと共に社殿を五十子城に向けて再建し、城の鬼門守護の神として祀ったという。
   
   参道途中左側に鎮座する境内社(写真右・左)。風土記稿等調べたが、詳細は不明。
 ただ案内板では、御祭日として、「祖霊社例祭」「八坂祭」「手長男祭」が記載されているので、祖霊社・八坂社・手長男社が鎮座していることは確かである。また『風土記稿』において、稲荷社は当時「宝臓寺」持ちであり、このお寺には「飯玉明神社」も鎮座していたという。
 どなたか詳細分かる方がいましたら、教えて頂きたいと思います。
        
                                       拝  殿
 稲荷神社が鎮座する「小和瀬」の地名は、中世の時代には既に使われていたようで、『松陰私語』(上野国世良田長楽寺住職の家記)には五十子陣の記述の所に「小波瀬」と記録されている。思うに利根川と烏川の下流の氾濫原という意味で「川瀬」がその由来となっていると思われる。
 この「小和瀬」は「強瀬」との意味にもとれ、利根川の水勢の強い場所としている。「強瀬」の名前の由来として、山梨県である甲斐国都留郡強瀬村が起源(ルーツ)であり、小長谷部(こはせべ)氏子孫という説もあるようだ(武烈天皇の御名代部を小長谷部と称していた)。埼玉県利根川流域には「「小和瀬」の他「中瀬」「横瀬」「滝瀬」瀬」のつく地名が多く、やはり河川由来の地名ではなかろうか。
 
           拝殿向拝部・木鼻部の見事な彫刻(写真左・右)
 
     社殿の手前左側には神楽殿               社殿の奥にある境内社・末社の石祠

 小和瀬稲荷神社の東側には利根川水系の備前渠用水が東南方向に流れている。この備前渠用水は「備前堀」の愛称で親しまれているが、慶長91604)年に関東郡代伊奈備前守が江戸幕府の命で開削した埼玉県最古の用水路である。この大工事により、北武蔵利根川右岸一帯を一挙に潤し、北武蔵農業の生命線となった。
          
       
小和瀬稲荷神社のすぐ東側に流れる備前渠用水(写真左・右)
 この備前渠用水路は利根川から取水し、埼玉県北部の本庄市、深谷市、熊谷市を流れ、利根川右岸約
1,400ヘクタールの水田にかんがい用水を供給する延長約23キロメートルの農業用水路であり、現在でも素掘りの区間が多く、当時の面影を残している。

                      

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