古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

長沖飯玉神社

 本庄市児玉町長沖地区は、児玉地域のほぼ中央あたり、市街地の南側に位置する。北側と東側は児玉、西側は金屋、南側は小山川を挟んで秋山・小平に接する位置関係にある。長沖地区の全域はほぼ平地で、南側が小山川に面していて、河川流域は北側に対して一段地面が低く、林や荒地が続く。
 この地区の小山川河川敷には遊歩道が整備されていて、西側に位置する秋山地区まで桜の木が延々と続いている。いわゆる「こだま千本桜」と言われ、河畔両側に約1,100本の桜が5㎞に渡り美しく咲き誇り、本庄市内でも有名なお花見スポットで有名な場所である。こだま千本桜は埼玉県内8位の人気の高いお花見スポットで、4月上旬には「こだま千本桜まつり」が開催され、ステージイベントや模擬店の出店など様々なイベントが開催されているという。
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町長沖331
             ・ご祭神 宇迦之御魂命
             ・社 格 旧長沖村鎮守・旧村社
             ・例 祭 祈年祭 315日 大祓式 6月・12月 例大祭 1015
                  新嘗祭 1129日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1811596,139.1280162,18z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉町方向に向かい、国道254号線と交差する「大天白」交差点を左折する。八高線を越えてコンビニエンスを右手に見ながら、2番目の信号である「身馴川橋」交差点を右折、暫く道なりに西行する。その後同県道287号長瀞児玉線との交点「第一金屋」交差点を左折し、500m程県道を南下すると、右手に長沖飯玉神社の社叢や南北に広がる境内が見えてくる。
 駐車スペースは一旦県道を南下して、社叢が途切れる地点に右折する道があり、鳥居の左手に数台分駐車できる空間が確保されていて、そこの一角に車を停めてから参拝を行う。
 
      
長沖飯玉神社一の鳥居          一の鳥居を先には石段があり
                       その先に二の鳥居及び境内が見えてくる。
        
                             石段の手前に案内板あり。
飯玉神社 御由緒
□御縁起(歴史)  本庄市児玉町長沖三三一
当地は塚(古墳)が多く、『風土記稿』長沖村の項に、地内の恵日寺の境内から 「鼻目そなはり人の形をなし」た人物埴輪の出土が記される。また、当社付近からは、二階造家型埴輪が出土している。
飯玉は、飯が稲であり玉が魂の意であるから、一般には稲霊と解釈されるほか、飯には斎火の意もあり、斎火の飯の神、つまり御饌の神を祀ったものとも考えられる。ところが飯玉神社が鎮座する地内から古遺物が出土する例が多く、江南町千代では古墳群と窯跡、寄居町末野の末野神社も元は飯玉神社で、地内に国分寺瓦を焼いた奈良時代の窯跡があり、地名も須恵器にちなむとされる。吉見町の横見神社は元飯玉氷川神社で古墳群に鎮座し、地内には須恵器窯跡が無数にある。群馬県多野郡吉井町岩井も古墳群の地で縄文土器・須恵器・土師器が出土、新田郡新田町上田中も古墳群があり縄文遣物と兵庫塚古墳からは埴輪馬具が出土した。群馬県内の鎮座地には、飯塚・出塚(尾島町の飯霊神社)など塚の付く地名が多く、古墳との関連も考えられる。
当社は、『風土記稿』に「飯玉明神社 村の鎮守にて、神主を山中能登と云」とある。また、『児玉郡誌』には、享保年中(一七一六~三六)に山中兵庫が京都の吉田家の配下となり、同家が明治維新まで数代にわたり奉仕したことや、社殿は享保年間に再興されたことなどが記されている。
□御祭神と御神徳  宇迦之御魂命…五穀豊穣・商売繁盛
                                      案内板より引用
 
        
                  社号標柱、及び二の鳥居を仰ぎ見る。                  
 
  両部鳥居である朱色で木製の二の鳥居         二の鳥居の社号額には
                       「正一位 飯玉大明神」と表記されている。

 長沖飯玉神社周辺の地形を確認すると小山川のすぐ北側に鎮座していて、標高が社の南側で小山川左岸地点、東側、北側がそれぞれ108m109m程度、それに対して長沖飯玉神社の社殿地点が110.1mであるので、若干微高地に鎮座していて、一の鳥居付近は石段で補強しているようだ。但し社殿西側は西方向に進むにつれて標高は高くなっていて、社の北西部に位置する「消防本部中央消防署児玉署」で113mである。

 長沖飯玉神社の鎮座地はこのように河川災害に対して、決して最適な場所とは言えない。但し「太駄岩上神社」項で述べたが、長沖・小平(秋山)・太駄地区の地域的な特徴として、交通の要衝地である事があげられ、現在の埼玉県道44号線秩父児玉線そのままが古代から近世における交通の主体を成していた。古代から近世においては寄居町の風布や東秩父村の定峰峠越えの道路が用いられており、秩父・吉田・皆野を経て太駄地区を北上し、小山川を越えたすぐ北側に長沖飯玉神社は鎮座しており、絶妙な位置関係にあったと考えられる。

 なお長沖飯玉神社が鎮座する場所は、長沖本地区から少し東に離れた飛地である。何故飛地がポツンとこの社周辺にあるのであろうか。交通上の要衝地である事は言うまでもないことだが、長沖地区に住む方々にとってこの少し離れた飛地に鎮座する社が如何に神聖な場所であったか、窺い知ることができよう
       
        二の鳥居を過ぎて、すぐ参道右手にケヤキのご神木が聳え立つ。
        
                                       拝 殿

 長沖という地名の起こりははっきりとは分からないらしいが、伝承ではこの地域に入り江があり、入り江の真ん中が突き出ていたので、それを「中沖」と呼び、後代「長沖」になったとも伝えている。
 中世の資料によれば、『安保文書』中、建武4年(1337)武蔵国守護高重茂(こうのしげもち)奉書(ほうしょ)によれば「建武四年四月十二日、武蔵国瀧瀬郷・枝松名長茎郷中院宰相中将家跡事、為勲功之賞所被預置也、安保丹後入道殿、高重茂花押」とあり、暦応3年(1340)安保光阿(光泰)譲状に「暦応三年八月二十二日、惣領中務丞泰規分、賀美郡安保郷・児玉郡枝松名内宮内郷・榛沢郡瀧瀬郷・児玉郡枝松名内長茎郷・秩父郡横瀬郷・崎西郡大井郷。二男、三男分は同じ」。「享徳二十七年四月七日、安保中務少輔氏泰申、武州児玉郡塩谷郷塩谷源四郎跡、足利成氏花押」と見える。また延文4年(1359)紀州那智山『米良文書』の『旦那願文』には「延文四年十二月八日、武蔵国少(児)玉郡之内しをのや(塩谷)の住人彦五郎入道行印、又ハなかくきとも申候、はしめて京都にて師旦の契約申候、是は畠山殿紀伊国攻めの御時」と見える。
 この「長茎」が「長沖」と同じ場所かどうか、そもそも同じ名称だったかどうか、現在分かっていないが、可能性の範囲としては高いと考えられている。
 
   社殿の奥に整然と並んである石碑群。         石碑群の右隣には合祀された石祠群、
                           境内社、石碑が並ぶ。詳細不明。

 長沖飯玉神社、社殿の背後には土塁を石で補強し、石垣のような形状をしており,本殿北側には上記の多数の境内社や石祠群、石碑群が並んでいる。
                 
                                     飯玉神社之碑

飯玉神社之碑     貴族院議員正四位子爵白川資長篆額
武藏國兒玉郡金屋村大字長沖ニ鎮座セル村社飯玉神社ハ宇迦之御魂命ヲ祀リ往昔ヨリ當地ノ鎮守タリ享保年間京都吉田家ノ配下山中兵庫神主トナリ爾来其子孫継承シテ明治マテ奉仕ス社殿ハ享保年間ノ修築ニ係ル明治五年村社ニ列セラル同卅二年境内神社ヲ改修シ同卅五年石垣ヲ修築シ同卅八年無格社稲荷神社ヲ境内ニ移轉シ土地參畝貳拾歩ヲ買収シテ境内ヲ擴張ス大正三年御即位大典記念トシテ社殿ヲ増築ス同六年社務所ヲ新築シ竝ニ石燈籠弐基ヲ建設シテ大ニ神域ノ威嚴ヲ加フルニ至レリ尚神社基本財産ノ増殖ヲ企畫シツツアリ本年十一月御即位ノ盛事ニ當リ記念碑ヲ建ントテ氏子惣代來リテ文ヲ需ム嗚呼氏子等ノ敬神ノ意一ニ何ソ篤キヤ余仍テ其事略ヲ揚クルコト如斯
昭和三年十一月十日 官幣中社金鑚神社宮司從五位勲六等金鑚宮守撰(以下略)
                                     記念碑文より引用
 
         
 二の鳥居の右側には、境内社である稲荷神社の鳥居が並んで立っている(写真左)。同じ両部鳥居ながら長沖飯玉神社の鳥居よりサイズは小さい。その鳥居の先にはこんもりとした高台があるが、後で確認すると古墳であり、正式名称は長沖45号墳。その墳頂に稲荷神社が鎮座している(同右)。

 この地域には本庄市児玉町長沖・高柳・金屋・児玉の各地区にわたって古墳群が分布しており、長沖古墳群、別名「梅原古墳群」とも呼ばれている。小山川の左岸に沿うように概ね東西方向に展開していて、その区域内に5世紀中頃から7世紀後半にかけて築造されたと推定されている。
 古墳群の範囲は、東西 2.3 ㎞、南北最大幅で760mの区域に古墳が前方後円墳や帆立貝式を含む総数180基を超す大規模な古墳群を形成している
 特に長沖32号墳は、全長32m、高さ3mの前方後円墳で、円筒埴輪や朝顔形円筒埴輪等が出土しており、市指定史跡となっている。現在は「長沖古墳公園」として、綺麗に整備されている。
        

 案内板に記載されているが、飯玉神社が鎮座する地内から古遺物が出土する例が多く、江南町千代では古墳群と窯跡、寄居町末野の末野神社も元は飯玉神社で、地内に国分寺瓦を焼いた奈良時代の窯跡があり、地名も須恵器にちなむとされる。吉見町の横見神社は元飯玉氷川神社で古墳群に鎮座し、地内には須恵器窯跡が無数にある。群馬県多野郡吉井町岩井も古墳群の地で縄文土器・須恵器・土師器が出土、新田郡新田町上田中も古墳群があり縄文遣物と兵庫塚古墳からは埴輪馬具が出土した。群馬県内の鎮座地には、飯塚・出塚(尾島町の飯霊神社)など塚の付く地名が多く、古墳との関連も考えられるという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「本庄市観光協会公式HP」
    「Wikipedia」等

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