古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小針領家氷川諏訪神社

 桶川市・小針領家という地名は平安時代の荘園のゆかりの地域名という。小針は小さい荘園といわれていて、平安時代の開発を示す村名であると考えられていて、歴史の古い由緒ある地域名である。小針領家村は、元禄11年(1698)に小針領家村上分と下分に分かれていたようであるが、明治期に再び小針領家村に戻っている。
 桶川市の有形文化財で古文書である「旧小針領家村松川家文書」は、小針領家村上分の名主家の一つであった松川家に伝わるものである。小針領家は綾瀬川の源流があり、嘗てはこの排水に関して非常な不便があった地域であった。松川家に残る文書では、元禄7年(1694)の地検改正に係わるものが最も古く、その他、安永2年(1773)を始めとする綾瀬川排水関係のものが多くを占めている。また、文政7年(1823)の「備前堤一件」の文書は、当時の伊奈氏によって築かれた備前堤を巡って起きた治水に関する争いや訴訟の記録をとどめるものとして貴重であるという。
        
              
・所在地 埼玉県桶川市小針領家762
              
・ご祭神 素戔嗚尊 建御名方神
              
・社 格 旧小針領家村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 2月中旬 春祭り 45日 例大祭 914
                   
日待 1015日 新嘗祭 11月下旬
 倉田氷川神社から一旦高架橋を南側に抜け、すぐ先の路地を右折し細い農道を進む。倉田地域同様に南北に長い小針領家地域は、地形上地域南部は大宮台地上にあるそうなのだが、この場所は元荒川流域に近いため、低地帯となっていて、田畑風景の中に豊かな雑木林も所々にあり、長閑な日本の原風景を見ているような心持で気持ちも不思議と和む。
 その農道を250m程進むと、進行方向右手に小針領家氷川諏訪神社の赤い両部鳥居が見えてくる。
        
            小針領家氷川諏訪神社正面の赤い両部鳥居
『日本歴史地名大系』 「小針領家村」の解説
 舎人(とねり)新田の南東にあり、南部は大宮台地上、北部は元荒川の低地を占める。備前堤が台地の先端から北東埼玉郡高虫(たかむし)村へ延びている。田園簿に領家村とみえ、田一二八石余・畑一一二石余、岩槻藩領。延宝八年(一六八〇)の家数四〇(うち本百姓二〇)、人数二四六(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。元禄七年(一六九四)の検地で上田五町八反余・中田七町八反余・下田四町五反余・下々田一二町九反余の計三一町二反余。畑方は上畑一〇町二反余・中畑一一町三反余・下畑一三町二反余・下々畑四町三反余・屋敷一町五反余の計四〇町七反余、高四六九石余となっている(「検地帳」川家文書)。
        
              入り口付近に設置されている案内板
 氷川諏訪神社 御由緒  桶川市小針領家七六二
 □御縁起(歴史)
 小針領家は、小針村からの分村で、初めは単に領家村と称した。その地名から中世に荘園の領家職が居住したことを物語る。慶安二-三年(一六四九-五〇)の『田園簿』に領家村として記されているため、これ以前に小針村から分村したと思われる。その後、小針村は貫文年間(一六六一-七三)に小針内宿村・小針新宿村に分村した。各村が分村する以前からの小針村の惣鎮守は小針内宿の氷川社(明治四十年に羽貫の八幡社に合祀し、小針神社となった)で、文永元年(一二六四)の創建と伝える。
 当社の創建については、中世の荘園の鎮守として祀られたとも考えられるが、江戸初期に小針村から分村の際に本村の鎮守を勧請したとするのが妥当であろう。『風土記稿』小針領家村の項には、「氷川社 村の鎮守なり、薬師寺持、末社 荒脛社、疱瘡神社、太子堂」とある。
 明治初年の神仏分離により薬師寺は廃寺となり、当社は明治六年に村社となった。大正十五年には、境内の諏訪社を本社に合祀し、社号を氷川諏訪神社と改め、本殿の改築と幣殿・拝殿の新築を行った。同年の「神社合祀社号改称之記」の碑には、合祀以前から氷川・諏訪両社の草葺の同型社殿が並立していたと記されている。現在は覆屋内に両社の本殿があり、氷川社には往時の本地仏十一面観音像が安置される。(以下略)
                                      案内板より引用

        
           境内は思った以上に広く手入れも行き届いている。
 正面の鳥居は赤を基調として目立っているが、境内に入ると、程よい寂れた感が風情を醸し出している。

 氷川諏訪神社の創建年代は不明。所在地である「小針領家」の由来となった荘園の鎮守として創建された説、江戸時代初期に小針村から「領家村」として分村した際に鎮守として創建された説の二通りが推測される。江戸時代までは「薬師寺」が別当寺であった。薬師寺は明治初期の神仏分離により、廃寺となる。
 1873年(明治6年)の近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により境内にあった「諏訪社」を合祀した。その際に「氷川諏訪神社」に改称したという。
        
                    拝 殿

      拝殿上部に掲げてある扁額               本 殿
        
               拝殿前の参道右手にある「土俵」
「桶川市HP」や市が配信している「You Tube」等で確認すると、この土俵上において無形民俗文化財である「小針領家のささら獅子舞」を奉納しているようである。
 この小針領家のささら獅子舞は北埼玉郡種足村(現加須市騎西)から伝えられたとされているが、その由来については定かではない。しかし、獅子舞用具が保存されている長持ちのうちで最古のものの蓋裏には享保4年(1719)の墨書きがあることから、今からおよそ280年前には小針領家で獅子舞が舞われていたと考えられる。
 天下泰平、五穀豊穣、悪病退散を祈願する勇壮な舞は、嘗て「領家のささら」と近郷でも親しまれていたが、昭和34年(1959)を最後に一度途絶えた。しかし、平成11年(1999)に復活へ向けた活動が開始され、困難を乗り越え、平成14年(2002)には旧埼玉県立民俗文化センター主催の民俗芸能公演への出演を果たし、復活した。
 演技は獅子舞と棒使いで構成されている。役割は、大獅子、中獅子、女獅子の3頭の他、舞の先導役である天狗、花笠、笛方、棒使いがある。獅子舞の前に、舞の場を清めるための棒使いの演技が行なわ、棒使いでは、木太刀を使った「一打ち」や、六尺棒を使った「四人棒」などの演技が主に行なわれる。獅子舞には、若者の舞う「草神楽」と熟練者の舞う「正神楽」があるという。
 嘗ての獅子舞の伝承者は、氷川諏訪神社の氏子男子に限られ、獅子役などは代々世襲で氏子長男とされ、厳密に守られてきた。現在では老若男女の区別なく、多くの人が獅子舞を支えている。主に4月と9月の氷川諏訪神社の祭礼で披露されており、子ども達による棒使い、獅子舞も披露された。40年の時を超えて復活した獅子舞は、現在も着実に伝承の道を歩んでいるとの事だ。

 また小針領家のささら獅子舞の用具等一式も市の有形民俗文化財に指定されていて、獅子舞用具が保存されている長持ちのうちで最古のものの蓋裏には享保4年(1719)の墨書きがあり、昭和34年に獅子舞が一時中断されるが、それ以降も氷川諏訪神社の祭礼では「虫干し」と称して獅子頭を社前に並べていたため、用具の保存は良好な状態を保っているようだ。
 
    境内東側に祀られている太子社             境内東側外れに祀られている庚申塔
  中に彩りが鮮やかな太子様が祀られている。
 
         境内に祀られている境内社(写真左・右)。詳細不明。
『新編武蔵風土記稿』小針領家村の項には、「氷川社 村の鎮守なり、薬師寺持、末社 荒脛社、疱瘡神社、太子堂」とあり、荒脛社や疱瘡神社が祀られているのであろう。
       
                    境内の一風景
     
            鳥居の手前に一際聳え立つ巨木(写真左・右) 
                      注連縄等がないので、ご神木ではないようだが、
              それでも正面の鳥居が小さく見えてしまう程の迫力ある存在感だ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地舞体系」「埼玉の神社」「桶川市HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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