古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

加納氷川天満神社

 加納氷川天満神社は埼玉県桶川市にある神社で、全国の天満宮の一つでありながら、氷川神社の分社の一つでもある。
 嘗ては菅原道真を祭る天満宮の一つとして「加納天満宮」という名前であり、当時の上加納村の鎮守であった。1868年に上加納村と下加納村が合併した際に下加納村の鎮守の氷川神社をこの神社に合社したことから氷川天満神社という特異な名称となったという。
 但し、元からこの地に天満社があったことや、江戸期に鎮守であった氷川神社よりも天満社のほうが信仰を集めていたことから、二社合殿となった今も、古くからの通称である「天神様」の名で親しまれている。
         
               
・所在地 埼玉県桶川市加納771
               
・ご祭神 素戔嗚尊 菅原道真公
               
・社 格 旧上加納村、下加納村鎮守・旧村社
               
・例祭等 例大祭 2月25日 春祭り 3月25日 ふせぎ 5月7日
                    夏越の祓 6月25日 新嘗祭 11月23日 大祓 12月25日
         
 小針領家氷川諏訪神社から南行し、埼玉県道311号蓮田鴻巣線との交点を右折、同県道を西行する。2㎞程過ぎると圏央道に達し、そこを更に北西方向に800m程進んだ先の路地を左折すると、進行方向右手に加納氷川天満神社の神明系の一の鳥居が見えてくる。
 実は県道をそのまま道なりに直進した最初の十字路を左折しても、道幅の狭い道路ながら同系統の鳥居が見える。上記に紹介した一の鳥居が南側にあり、このルートの先には中山道から続く「天神道」といわれる昔からある道につながっている。これに対して、もう一方の鳥居は東側にあり、この鳥居の先の参道は狛犬等があり、より社の参道らしさを感じる。専用駐車場もこの東側の鳥居から進むと近くにあり、この駐車場に停めたのち南側の一の鳥居に向かう。
         
             赤を基調とした両部鳥居である二の鳥居
 平安時代の貞観11年(869年)の創建と伝えられ、古くから近隣の人々に知られ、信仰されてきた。
 江戸時代には「木曾街道道懐宝図鑑」に掲載され、参拝者が後を絶たなかった。また境内の井戸の水で作った薬湯は多くの病気に効くといわれていたことから中山道を通る旅人が疲れを癒すために訪れたという。桶川宿から天神道と呼ばれる道がありその道を通って加納天神社に参拝する人がいたという。
 現在は二社の合殿となっているが、元は別々に祀られていて、加納天満社が現在地にあり、氷川社が今よりも1㎞ほど東方に離れた字宮ノ脇の地に鎮座していたという。その後、明治8年(1875)に上加納村と下加納村が合併し、この天満宮に下加納村の鎮守であった氷川神社を合祀したことから「氷川天満神社」と称するようになったとの事だ。
        
             二の鳥居の前にある重厚感のある手水舎
 
       二の鳥居の右側に並んで設置されている案内板(写真左・同右)
 氷川天満神社と文化財
 この神社は「加納の天神様」として親しまれ、古くから近郷近在の人々の信仰を集めていました。江戸時代の天保2年(1841)刊行の「木曽街道懐宝図鑑」にもその名が記されており、参詣者が絶えなかったといいます。また、境内の井戸水を用いた薬湯は諸病に効くと有名であったことから、多くの参詣者が浸かってきました。この薬湯に使用した井戸は、ご神水の井戸として現在も境内地で水を湛えています。
 神社の縁起は、「宝徳2年(1450」正月24日の夜に社の森に光が差し、コウノトリが尊像を背負って飛来し、社に安置して飛び去った」というものです。その後の正徳2年(1712)正月、菅原道真を祭神として、上加納村の鎮守としたと伝えられています。明治8年(1875)に上加納村と下加納村が合併し、この天満宮に下加納村の鎮守であった氷川神社を合祀したことから「氷川天満神社」と称するようになりました。
 この神社には「天満宮」と記された木製の社号額があります。これは、梵語学者として有名な真言宗の僧・盛典(16621747)が加納の光照寺で修行中であった元禄元年(1688)に奉納したもので、現在は桶川市指定文化財に指定されています。表面は黒漆を塗り、縁を朱塗りにし、中央の「天満宮」の文字は金色に塗られています。裏には「江戸愛宕真福寺一代日向所生超然房性遍法印御自筆元禄元年辰十一月吉日武州足立郡鴻巣内加納村願主
釈盛典敬白」と刻まれています。かつては拝殿か鳥居に掲げられていたと考えられますが、現在は取り外され保管されています。

 氷川天満神社 御由緒  桶川市加納七七一
 □御縁起(歴史)
『埼玉県地名誌』によると、加納は中世荘園である深井荘の追加開墾地であるところから生じた地名である。地内には、室町-戦国期の加納城跡があり、岩槻太田氏の旗下木本氏が居城したと伝えられる。この木本氏の後裔が江戸期に上・下加納村の名主を務めたという。
 当社は二社の合殿となっているが、元は別々に祀られていて、天満社が現在地にあり、氷川社が今よりも一キロメートルほど東方に離れた字宮ノ脇の地(現在のタカハシプレス工業の敷地)にあった。『風土記稿』によると、氷川社は上・下加納両村の鎮守で、天満宮と共に真言宗光照寺が別当であった。一説にこの光照寺は、戦死した加納城主の長男が出家して城の近くに庵を設けたのに始まるという。
 神仏分離を経て、明治六年四月に、氷川社・天満社共に村社となった。次いで、明治四十年五月に氷川社と字本村の無格社八雲社を天満社に合祀したのを機に社名を氷川天満神社と改めた。天満社の方が合祀先に選ばれた理由としては、その周辺に有力者が居住していたことが挙げられよう。このときの御遷宮に際しては、氏子の各戸の庭先で「餅搗き踊り」を行うなど村を挙げて祝ったとの話が残されている。
 神仏分離後の祀職は、合祀を経たころまでは、地元の加藤周蔵が務め、その跡を桶川の稲山家が継いだ。更仁昭和初年からは地元の桜井家が継ぎ奉仕している。
 
     参道左側にある神楽殿              参道右側にある力石
         
                               力石のすぐ隣にある井戸
 嘗ては薬湯に使われたようだが、現在はその機能を果たしておらず、鯉などが放されている。
             またこの井戸はとても深いといわれている。
         
                     拝 殿
         
                   拝殿上部、向拝部等には細やかな彫刻が施されている。
 加納氷川天満神社には年2回の例大祭がある。2月の例大祭は「天神様のお祭り」と呼ばれ、嘗ては前日の晩に当社を中心に四里四方の小学生たちが地区ごとに年長者の家を宿として泊まり込み、そこで習字を行い、当日は朝早く銘々で「正一位関白太政大臣菅原道真公」などと墨書した旗を持ってお参りし、境内にある池の周囲にその旗を立てて、筆を池に投げ入れたという。
         
                                         本 殿
 一方、8月の例大祭は本来は氷川社の祭礼で、夜830分から9時にかけて当地の伝統芸能である「餅搗き踊り」が盛大に行われる。
この「餅搗き踊り」は祭礼のほかに、昭和30年ごろまでは氏子の中で七五三のお祝いや家の落成祝いがあると頼まれて行っていたとの事だ。 

  社殿左側に祀られている境内社・山王社    社殿左側奥に祀られている神武・明治天皇
                           遙拝所、並びに稲荷大明神
        
                          社殿から南側にある二の鳥居を望む
 
      因みにこちらは東側の鳥居(写真左)とその先の参道の風景(同右)
     こちらはこちらで落ち着いた雰囲気でもあり、個人的には好みである。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「桶川市HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等
 

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