古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

滝ノ入住吉神社

 ゆず(柚/柚子)はミカン科の常緑樹で,日本の代表的な調味用かんきつ類である。中国原産。長江(揚子江)上流が原産地といわれ、奈良時代に中国から朝鮮を経て渡来したと推定されている。古くから薬用として、また調味料として、ゆずの持つ独特な香りと酸味は人々に広く愛用されてきた。しかし、多くは屋敷の周りや畑の畦に実生のゆずが植えられ、本格的な栽培は、毛呂山町を始め、京都市水尾、大阪府箕面市止々呂美など、23の地域に限られていた。
 毛呂山町のなかでも、滝ノ入・阿諏訪・大谷木地域は、南斜面で風当たりが弱く、霜がほとんど降らない、ゆず栽培に適した条件がそろっていたため、ゆず栽培が盛んに行われてきたという。毛呂山町のゆず栽培の歴史は古く、『新編武蔵風土記稿』には、毛呂山町の滝ノ入地域(当時は瀧野入村)の土産として「柚子を数十駄(一駄は135g)を産出している」と紹介されていて、日本で最古の産地のひとつといわれている。
 昭和初期、ゆず栽培は、毛呂山町滝ノ入地区全域に広まる。毛呂山のゆずは、香りが強く「桂木ゆず」の銘柄として全国に名を売るまでになった。その後、阿諏訪・大谷木両地域の生産農家も本格的に栽培を行うようになり、昭和30年代には全国有数の産地となったという。
        
            
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町滝ノ入909
            
・ご祭神 底筒之男命 中筒之男命 表筒之男命
                 
神功皇后 大山津見命 菅原道真公
            
・社 格 旧瀧野入村鎮守・旧村社
            
・例祭等 祈年祭 211日 秋季例大祭 10月第3日曜日(古式ささら獅子舞)
                 
新穀感謝祭 1123
 毛呂山町・出雲伊波比神社の西側を通る埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線を南西方向に進み、JR八高線の踏切を越えた先にある「毛呂本郷」交差点を更に直進する。因みにこの県道39号線は、「毛呂本郷」交差点で終点となり、民家の立ち並ぶその先の道路の道幅は地元の酒造会社までの約300m程までは狭くなるので、道路状況を確認しながら進む必要がある。
 酒造会社先の二又路を右斜め方向に進路変更し、「滝ノ入集会所」を右手に見ながら1㎞程道なりに進むと、「毛呂山町ゆずの里 オートキャンプ場」の看板があり、その先に滝ノ入住吉神社の社号標柱が見えてくる
        
         長閑な里山風景を眺めながら進む先に見える社の社号標柱
『日本歴史地名大系』 「滝野入村」の解説
 毛呂本郷の西、越辺川支流の毛呂川(滝ノ入川)上流域の山間村。慶長二年(一五九七)と思われる検地帳(毛呂山町史)は一部を欠くと思われるが、田・畑・屋敷合せて高辻四五貫三〇一文で、本辻三三貫九〇〇文。田園簿に村名がみえ、田高七〇石余・畑高一三五石余で幕府領、ほかに紙舟役一貫七四文がある。寛文八年(一六六八)に検地があり(風土記稿)、元禄郷帳では高二三七石余。
 滝ノ入地域を含む毛呂山町西側は黒山自然公園に指定された外秩父山地、北東は岩殿丘陵にはさまれた地形により、町全体に美しい川や緑・田畑の景色が広がっていて、キャンプや川遊びなどを通じ、豊かな自然を満喫できる地である。またこの地域は、柚子の名産地としても知られ、日本最古の栽培柚子である「桂木ゆず」といった特産品もあり、町のトレードマークともなっている。
        
                道の傍らに建つ社号標柱
 周囲は山で囲まれ、社と道路の間を綺麗な毛呂川が沢となって流れていて、自然と一体化したような美しい場所。参拝した時期は2月中旬でありながら、天候も小春日和で風もあまり冷たくなく心地良い。参拝時、サイクリングで訪れていた方も、暫しその風景に眺めながら一時の休憩を楽しんでいる様子で、すれ違いざまに挨拶するその言葉一つにも温かさが感じられた。
 
 社に通じるルートは社号標柱がある場所の手前にある路地に入り、そこから下るように進む一本道があり(写真左)、そのすぐ先にある橋を渡る(同右)。橋を渡った先の二又路を右折すると、社の正面に到着する。因みに、橋の先に見える小高い丘上に建っている建物は社の社務所であると思われる。
 
   参道の橋上から眺めると、社殿の右側に綺麗な毛呂川が沢となって流れている(写真左・右)。
        
                 滝ノ入住吉神社正面
 鳥居の左に『滝ノ入・ローズガーデン』があり、右の木の奥に綺麗な毛呂川が流れている。

『滝ノ入ローズガーデン』は、平成12年(2000)に滝ノ入地域の活性化を目指した「もろもろ町おこし事業」の一環として、ボランティアによって始められたバラ園である。平成20年に現在の場所に移転し、平成21年にリニューアルオープンした。
・面積 約2,800平方メートル
・バラの本数 約1,500
・バラの品種数 約350
・バラの品種名 ダマスク、アルバ、ケンティフォリア、ガリカ、モス、チャイナ、ポートランド、ノアゼットなどのオールドローズやハイブリット・ティー、フロリバンダ、ポリアンサ、イングリッシュローズ等
 周囲の自然と一体になった美しいバラ園で、長いバラのアーチの中を歩いたり、変化に富んだ散策道を楽しめる。また期間中は、農産物の加工品販売、バラの苗木販売もあるという。
 暖かい季節となった時期にもう一度再来したいものだ。
 
   正面鳥居の手前で左側に建つ手水舎     手水舎の屋根上部に設置されている案内板
        
                    拝 殿
 滝ノ入住吉神社
 神社名 住吉神社 住吉さま
 祭神  底筒之男命 中筒之男命 表筒之男命
     神功皇后 大山津見命 菅原道真公
 由緒

 創立未詳 神体はなく 古老の口碑に別当行蔵寺中興開山教由が永禄年間に勧請し村内鎮守として崇敬した 元和六年二月吉日造営 明暦元年九月造営 宝永三年九月造営 明治五年村社に列せられる 明治四十年字広見山神社 字谷ツ天神社を合祀す 元和六年西暦一六二十年
 入間神社誌より
 住吉神社祭典日 年五回
 一月一日    元旦祭 区長主催
 二月十一日   祈年祭 建国記念日
 十月吉日    秋季例大祭 十月第三日曜日 古式ささら獅子舞
 十一月二十三日 新穀感謝祭 勤労感謝祭
 十二月三十一日 大祓い(以下略)
                           手水舎に設置されている案内板より引用

『新編武蔵風土記稿 瀧野入村』
 住吉社 村の鎭守なり、神體はなく、本地正觀音の立像長五寸餘なるを安ず、慈覺大師の作と云、行藏寺の持、 末社 辨天社 稻荷社 天神社 百姓の持、
 行藏寺 新義真言宗、今市村法恩寺末、愛宕山清林院地藏坊と號す、当寺開基は應永二十一年正月十六日寂せし僧とのみ傳へて、法諡等は失せり、中興開山数祐永禄十一年二月十二日示寂せり、本尊地藏坐像にて、長一尺餘、定朝の作と云、この餘弘法大師彫刻の毘沙門あり、立像にて長一尺五寸、 藥師堂 長一尺餘、恵心の作なり、

        
             境内に祀られている境内社・雷電社

 毛呂山町では、獅子舞が町内4ヵ所の地域(大類地域・十社神社、葛貫地域・住吉四所神社、川角地域・八幡神社、滝ノ入地域・住吉神社)で、毎年10月に行われている。
 獅子舞は五穀豊穣や無病息災を祈願し、また人々の安全や幸運を守る地域信仰として、その土地ごとに伝えられてきた文化的にも貴重な財産である。
 滝ノ入獅子舞は、平成23322日 町無形民俗文化財に指定されている。
        
                社殿から見た境内の様子


参考資料「新編む先風土記稿」「入間神社誌」「日本歴史地名大系」「毛呂山町HP」
    「日本大百科全書(ニッポニカ)」「Wikipedia」「事典 日本の地域ブランド・名産品」
    「境内案内板」等
           

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市場神社

『鎌倉街道』は、鎌倉時代から室町時代にかけて整備された鎌倉と関東諸国を経て各地を結んだ主要街道の総称で、鎌倉から武蔵国・上野国を経て信濃国・越後国へ向かう街道を「上道(かみつみち)」と呼んでいた。埼玉県毛呂山町の各所には、その遺構が残っており、2022年に埼玉県毛呂山町市場の上道約1.3㎞とその周辺の遺跡が国の史跡に指定された。宿場や墓域などが良好に保存されていることが評価されたとのことで、街道の遺跡が国の史跡になるのは初めてで、毛呂山町では初の国の史跡である。
 市場地域周辺で発掘された「仏坂遺跡」の街道跡は台地から高麗川に向かう地形の変換点にあたり、掘割の形を見ることができる。街道跡の西側にかつて三島社と呼ばれた市場神社が鎮座している。
 市場の由来は、九の日に市が立ったことによるといわれており、対岸にある四日市場地域と合わせて六斎市が開かれていたと伝わっている。
        
             
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町市場51
             
・ご祭神 事代主神 大山祇神
             
・社 格 旧市場村鎮守 旧村社
             
・例祭等 勧学祭 33日(大利天神社) 天王様 728
                  
秋祭り 1028
 東武越生線川角駅出入口から北方向に進路をとり、350m程先の十字路を右斜め方向に進む。その後、道幅の狭い農道を周囲の状況を確認しながら道なりに進むこと500m程、周囲は長閑な田畑風景の中に時折民家がチラホラと見える中、丁字路の達するのだが、その左前方方向に市場神社の正面鳥居が見えてくる。
        
                 市場神社正面一の鳥居
      周囲の長閑な風景にも溶け込んでいて、正に「村の鎮守様」の印象通りの社 
                 不思議と子供の頃を懐かしく思い起こしてくれるような感覚 
『入間郡誌』による「市場村」の解説
「市場は村の東南部に位し、古の鎌倉街道に沿ひて、宿駅たりしが如く、古九日市場の名あり。即ち九の日を以て市を開きし也。旧名主山崎氏に就て尋ね頗る該街道の跡と、当時の盛観を詳にすることを得たり」
「鎌倉街道は今の川角、西大久保境界に当れる、道幅五間の古道より東南に屈して、一たび低温なる水田地を通過し、現市場の中央を横断して東南南の方向を以て大家村四日市場、森戸の間に出づ。沿道に本陣たりし家あり。大林坊の跡あり。又市場神社あり。思ふに此街道は両上杉氏鎌倉を去れる後も多少人馬往来の存せしも、徳川氏江戸に入るに及て、漸く廃頽に帰したるものならん」
        
              一の鳥居を過ぎた先に建つ二の鳥居
      冒頭に紹介した「鎌倉街道上道」掘割の遺構はこの社の東側にあるのだが、
   市場神社は街道に対して背を向けるように社殿が建てられていて、西向き社殿でもある。
        
                                       拝 殿
『新編武蔵風土記稿 市場村』
「當村昔は鎌倉街道に係れる處にして、其ころは九の日に市あるし故、中古までは九日市場村と唱へしよし古街道の蹟は今も残れり、されど舊くは川角村に屬せし地にて、當村應長十七年の水帳に、入西郡川門の内九日市場と載たり、正保の改には見えず、元祿中のものに始て市場と見えたれば、川角村に屬せし頃は、九日市場と唱へ、分村せしは正保の後元祿の前のことにして、」
「三島社 當村の鎭守なり、本地佛は眞鍮をもて造れり、圓鑑にて徑り八寸、内に三尊の彌陀を鑄出せり、武蔵國入西郡九日市場村山崎等奉修と彫たり、満願寺持、大利明神社、」

 
 市場神社  毛呂山町市場五一(市場字本村)
 市場は町の東部に位置し、南は坂戸市に接する。
 市場の地名については、村内を貫く旧鎌倉街道に沿って古くから九の日に市が開かれていたことに由来すると伝える。当社は明治四〇年に行われた合祀を機に三島神社を市場神社と改称したもので、旧名主家である山崎家(現当主まで一九代)の伝えに、先祖が鎌倉から三島様の神体を袋に入れて首に下げて持ってきたことに始まるという。その後、四代目が分家に出て以来、神体はこの家が預かり、祭りのたびに神社に納めるようになった。往時の神体は懸仏であったが、大正中期の火災により残片と化したため、神鏡を新調し、現在に至っている。
 祭神は事代主神・大山祇神で、三間社流造り柿葺きの本殿は、明治一四年の再建である。明治四〇年に森戸字台(現坂戸市森戸)の村社稲荷神社を合祀した。この社は本来、森戸の国渭地祇神社に合祀される予定であったが、お土産(財産)が無いとの理由から当社に合祀されることとなり、両社の氏子が協力して社殿を運んだといわれる。このほか、市場字大利原の村社大利神社・同境内社天神社・同八坂太神社、字本村の山王大神社、字光山の山神社、字谷ケ俣の愛宕神社を合祀し、更にその後、森戸字市場の神明神社・同境内社三峰神社を合祀している。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
 
 社殿の左側に祀られている境内社・八坂神社  八坂神社の右隣に祀られている大利天神社
        
                          社殿付近から眺める境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「毛呂山町HP」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「埼玉苗字辞典」等
        

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葛貫住吉四所神社

 毛呂山町・葛貫地域は、平安時代後期、軍馬の飼育や繁殖に置かれた葛貫牧と呼ばれる重要な牧場があったのではないかと言われている。因みにこの「葛貫」という地域名は「つづらぬき」という(「風土記稿」では「くずぬき」と表記)。この管理を行っていた別当(長官)が、秩父重隆の嫡男である河越能隆であり、別名「葛貫別当」とも称していた。久寿2年(1155年)8月、大蔵合戦で父の重隆が家督を争っていた畠山重能(能隆の従兄弟)らによって敗れ、嫡男重頼と共に葛貫や河越の地に移り、河越館(川越市上戸)を新たな拠点として土地の開発を行い、所領を後白河上皇へ寄進して河越氏の祖となる。
 戦国時代になると、葛貫地域は後北条氏の勢力下となる。永禄2年(1559)に作られた後北条家臣の領地とその面積を記した『小田原衆所領役帳』には「河越三十三郷葛貫」とあり、後北条一族が直接領地を治めていたという。また江戸時代の葛貫村の鎮守住吉四所神社の史料には「葛貫荘弥蔵村」と記され、戦国時代以降も葛貫荘という古い地名が使われていた。
 また葛貫地域には、その先祖を平安時代「中関白家」と称した藤原道隆の子・内大臣藤原伊周流、武蔵七党の児玉党より端を発し、鎌倉幕府の寺社奉行御家人として活躍した「宿谷(しゅくや)氏」の本拠地でもある。この地域には宿谷氏により開かれた薬王寺があり、葛貫地域の東に位置する坂戸市多和目には永源寺や田波目城といった同氏に関係の深い寺院・史跡がある。
        
             
・所在地 入間郡毛呂山町葛貫7351
             
・ご祭神 底筒男命 中筒男命 表筒男命 神功皇后
             
・社 挌 旧村社
             
・例祭等 祈年祭 217日 夏祭り 81日 秋祭り(獅子舞)1015
                  
新穀感謝祭 1123
 出雲伊波比神社の西側を南北に走る埼玉県道30号飯能寄居線に合流後、日高市方向に南下する。2㎞程進んだ信号のある十字路を右折すると、すぐ進行方向右手に葛貫住吉四所神社の鳥居が見えてくる。但し鳥居の両側は、住宅と家塀に囲まれているので、ゆっくりと徐行しながら確認しなければ、通り過ぎてしまうほど入り口付近の幅は狭い。
 周囲には適当な駐車スペースがないので、周囲の交通に支障のない場所に路駐し、急ぎ参拝を開始した。
        
                                葛貫住吉四所神社正面 
『埼玉県の地名 日本歴史地名体系』「葛貫村」の解説
大谷木村の東、高麗川支流宿谷川(葛貫川)左岸台地に立地。「くずぬき」ともいう(「風土記稿」など)。宿谷川は入間・高麗の郡境を流れ、対岸には高麗郡平沢村(現日高市)。小田原衆所領役帳に左衛門佐殿(北條氏堯)の所領として「百四拾六貫六百三十六文 河越三十三郷多波目葛貫」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。寛永一六年(一六三九)の検地帳(毛呂山町史)によれば田・畑・屋敷五一町八反余。田園簿では田高一七○石余・畑高一五八石余、旗本宮崎・朝比奈両氏の相給。元禄帳では高三二六石余、国立史料館本元禄郷帳によると旗本高林・宮崎両氏の相給。正徳(一七一一‐一六)頃両領とも幕府領となったが(風土記稿)、寛保二年(一七四二)に上総久留里藩領となり、幕末に至った。延享二年(一七四五)には高三二六石余、家数七○ほどで、地内芝地(場)を惣百姓連印で開発を願出たにもかかわらず名主が独断で約二五人だけに割渡したために残りの百姓らが訴え出ている(毛呂山町史)。上野国と相模国を結ぶ道(鎌倉街道の一)が南北に抜けていた。元当村に属していた「大寺廃寺」は近年の行政区画変更により現在は日高市山根に属する。
        
            鳥居の左側にある「住吉四所神社記」の石碑
       (日陰の部分は解読不明な漢字が多く、その点は了解を頂きたい)
                   住吉四所神社記
             
傳曰●●●●朝胸刺國●●●●●●攝津
             移祀焉然●●●●古秩父族能隆●●茲●
             遂稱葛貫別當●●日加神●●●●●●●
             祥瑞雲集後以貞和元年●経營●●●●●
             火貞治五年鎌倉公基氏再營社殿規模頗整
             明徳二年九月氏滿復修營之江戸初免社境
             七段七畝貳拾歩租爲除地元祿四年十二月
             以舊殿既●更營而存于今維新後明治五年
             列村社四十年二月十三日併字●畝鎮座無
             格社愛宕神社●名住吉四所神社其明年四
             月十七日請上地林八畝四歩得成境内編入
             神域初完威徳兼備●是氏子興議謀叙創始
             以來年紀以傳●朽請余●余不肖●●事然
             
現●在社掌之任●不可固辞敢記(以下略)
        
             入口の狭さと対照的な奥行きのある境内
『新編武藏風土記稿 葛貫村』
 住吉社 攝津國住吉神を移し祀れり、神體は白木をもて束帶せし形を造る、長八寸許の坐像にていと古色なり、當社の傳に應安二年左兵衞督基氏再興ありしに、後兵亂のために大破せしを、明德二年九月又再興せしと云ことを記したれど、年代を推に其子氏滿の再興なるべし、又當社に棟札あり、中央に奉興慶長山住吉四所大明神と書し、右に武州入間郡神主宮崎筑前守、左に元祿四年辛未十二月造立之二百十六年に而とのみ見えたり、元祿四年より二百十六年を上れば、文明八年に當れり、例祭九月十三日、神主宮崎某の司る所なり、
 末社 天神社 八幡社 白山社 稻荷社 子權現社 山神社 牛頭天王社、

        
                    拝 殿
 社記によれば、昔応神天皇の御宇、胸刺国造伊佐知直が摂津国(現大阪府)から奉遷したのが起源とされていて、元禄四年(1691年)に造営されたものが現在の本殿(拝殿奥)であるといわれている。葛貫住吉四所神社では、毎年10月上旬に五穀豊穣・疫病退散を祈り、獅子舞が奉納される。
 毛呂山町では、十社神社・住吉神社(滝ノ入)・川角八幡神社と共に、同時期に4か所で行われるのが特徴である。
『入間郡誌 住吉四所神社』
 村の稍々中央にあり。創立詳ならず。或は貞和年中足利尊氏、貞治年中足利基氏、明応年中足利氏満の造営と称す。蓋し古社なるベし。現今の社殿は元禄年中の造営なりと云ふ。明治五年村社に列せらる。境内幽邃也。神官宮崎氏。
        
                    本 殿
「埼玉の神社」によると、氏子区域は葛貫一帯で、氏子数は100戸程である。現在氏子の多くは会社勤めとなっているが、もとは米麦を自給し、養蚕を行っていた家がかなりあった。また、当地は自生の篠・桜・藤などを利用した箕(み)の産地としても有名で、篠と藤は降霜のころ、桜の皮は春先にと農閑期に材料を集めて作られる。箕は現金収入になるため盛んに作られ、多くは秩父方面に出荷されている。
 神社の運営費については、戦前までは田畑を神社が所有していたため、これを氏子に貸し付けて小作料をとり、祭典費の一部に充てていたが、この田畑を農地解放により失ったのを機に、各戸から初穂料として一律に集める方法に改めた。
 当地で結成されている講には、榛名講・古峰講・三峰講・御嶽講・成田講などがある。これらは、いずれも大字の中の有志によって組織されているもので、組単位の結成ではない。中でも榛名講や御嶽講は主に作神として、古峰講や三峰講は火防・盗賊除けとして信仰する人々が講員として集まっている。
 また、嘗て氏子の間では、男衆のお日待である大遊びや女衆のおしら講が行われていた。特に、211日の大遊びには、宿で朝から酒を飲んで楽しんだものであったが、これは一年間の村行事を協議する機会でもあったという。
       
             本殿の右側に祀られている境内社末社
       向かって左から稲荷神社・子権現神社・天神神社・八幡神社・白山神社
 
    参道途中左側にある神興庫であろうか。    社殿左側に祀られている境内社・八雲神社
        
                               静まり返っている境内

 ところでこの地域には、10月第2日曜日に行われる秋祭りで、その時には「葛貫の獅子舞」が奉納される。この獅子舞は「毛呂山町指定民俗文化財  無形民俗文化財」と指定を受けている。また、同じく「毛呂山町指定有形文化財 歴史資料」と指定されている「神馬奉納絵馬」もこの社の境内に掲示板として設置されている。
        
                「
葛貫の獅子舞」の案内板
 毛呂山町指定民俗文化財  無形民俗文化財
 葛貫の獅子舞
 平成二十三年(二〇一一)三月二十二日指定
           奉納日   毎年十月第二日曜日
 住吉四所神社に奉納される獅子舞は、雄獅子、雌獅子、中獅子が舞う「三頭獅子舞」です。
 当社の獅子舞には、獅子とハイオイ(幣負)、花笠、万灯のほかに天狗が登場します。天狗は、猿田彦命を表すといわれており、獅子たちの先導役を担います。
 奉納する演目は、「街道笛」、「角兵衛」、「十二切」があります。
 また、獅子が舞う際には、町内で唯一、ささら歌を歌う「謡い(うたい)」を行います。
 令和六年(二〇二四)三月三十一日 住吉四所神社氏子一同
        
               「
神馬奉納絵馬」の案内板
 毛呂山町指定有形文化財 歴史資料
 神馬奉納絵馬
 平成二十七年(二〇一五)三月一十九日指定
 住吉四所神社には、宝永元年(一七〇四)銘の神馬奉納の様子を描いた大絵馬が掛けられています。
 大きく描かれた馬を曳く様子は、馬のたてがみや尾、鞍の彫刻、曳き手の表情や装束はどの細部も細かく描き、人馬の動きを表現しています。絵馬奉納の経緯は不明ですが、葛貫地域には馬を管理する牧が設けられたという伝承が残り、近代には草競馬が開催されるほど、馬が身近であったことが、馬への崇敬につながったとみられます。
 令和六年(二〇二四)三月三十一日 住吉四所神社氏子一同
                                    共に案内板より引用


*参考資料

『新篇武蔵風土記稿 宿谷村』
宿谷庄と唱ふ、村名の起りを尋るに、村民權左衛門が先祖宿谷太郎行俊なるもの、隣村葛貫に住して當村を開發すと云り、彼權左衛門が家に藏せる宿谷氏の系譜を見るに、行俊が孫次郎左衛門重氏は、頼朝頼家實朝等に仕るとあれば、開發の年歴も大抵推て知べし」
「舊家者權左衛門、氏を宿谷と稱す、相傳ふ先祖は當國七黨の一兒玉惟行の第四子太郎経行に出、経行が四代の孫太郎行俊此地に來り住せり、是當所宿谷氏の祖也、夫より四代の後宿谷次郎左衛門重氏・鎌倉右大將家に仕へしに、和田義盛常盛の事に座して仕を止られ、やがて剃髪して不染入道と號し、遁世して當國に下り住しが、後召れて再び頼經に仕ふ、其子左衛門行時も將軍家に仕へたりしに、世かはりて宗尊親王に仕へ、其子二郎左衛門光則[按ずるに【鎌倉志】に光則寺は、大佛へ行道の左にあり。此處を宿谷とも云、相傳ふ平時頼の家臣、宿屋左衛門光則入道西信が宅地なり、昔日蓮龍口にて首の座に及ぶ時、弟子日朗・日心二人、檀那四條金吾父子を、光則に預け給ひ、土籠に入らると。是によれば親王家に仕へしと云は疑ふべし、]光則の子、三郎行岩、行岩の子三郎行惟まで親王家に奉仕し、行惟の子四郎重顕より將軍尊氏に仕へ、其の子與市儀重に至て、武蔵相模の内にて、知行七千町の地を領し、將軍義詮義満に従ひて、応永の頃泉州に於て、大内義隆と戦ひてしばゝ軍功あり、其後子孫世々將軍家に仕へたりしに、儀重七代の孫近江守重近の時より、小田原北條家に属し、其子大和守重則天正年中、氏直より當國入間郡の内、宿谷・權現堂・葛貫・市場・下川原・大久保・熱川・女影八ヶ村所領の書出を與へられしと云、北條氏没落の後は、鄕士となりしにや詳ならず、重則より四代の後、權左衛門重本大猷院殿に仕へ奉りて、後宿谷に住居し、寛文十年十二月廿四日五十五歳にて死とあり」




参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「埼玉の地名 日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
埼玉県景観資源データベースHP」「境内案内板」等

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西戸國津神神社

 毛呂山町・西戸地域。この「西戸」は嘗て「道祖土」と称していて『新編武蔵風土記稿 西戸村』にも以下の記載がある。
西戸村は昔は道祖土と書たり、隣郡八ッ林村の百姓治右衛門は、道祖土土佐守が子孫にして、近鄕の舊家なれば、若くはこの土佐守などが領せし地にて、道祖土の名は夫より起りたらんを、後世今の文字に書改めたるならんといへり、(中略)此邊すべて高低多き地にて、水田陸田相牛せり、用水は越邊川を引用ゆれど、水旱共に患あり」
「道祖土」という地名の由来は幾つかあり、古くから道祖神を祀る塞(さい)の神の杜があったことからという説と、この地域の名士の祖先である「道祖土土佐守」が戦国期にこの地を領有していたという説がある。
        
            
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町西戸916-1
            
・ご祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 春祭り 222日 秋祭り 1016(宵祭り)・17日(本祭り)
                                  
新穀感謝祭 1123
 川角八幡神社から北上し、越辺川に架かる宮下橋を越える。平均標高43m程の越辺川左岸に広がる豊かな田畑地域の風景を愛でながら北上し、埼玉県道343号岩殿岩井線に合流する十字路を左折、300m程進んだ丁字路を右折すると、すぐ先に西戸國津神神社が見えてくる。
        
                 西戸國津神神社正面
『日本歴史地名大系』 「西戸(さいど)村」の解説
 箕和田(みのわだ)村の東、越辺川左岸低地に立地。古くは小田原北条氏に仕えた道祖土(さいど)氏が住したことから「道祖土」と記した。のち改字したという(風土記稿)。当村は天正年中(一五七三―九二)に黒山村(現越生町)の修験山本坊が開発したもので(元文三年「山本坊寺領書上」相馬家文書)、全村を山本坊一人が名請していたという(元文三年「山本坊人別帳一判等願」同文書)。
 元和元年(一六一五)百姓一五軒に耕作させ、同二年山本坊が当地に移転。同六年検地があり、入西郡西戸村御縄帳(同文書)では高二五〇石、うち五〇石は山本坊朱印地。
       
               こじんまりとした社の第一印象
入間郡誌』において「西戸は川角村の西北部にして、南に越辺川を廻らし、北に小丘を控へたり。河畔の水田肥沃にして、要害善し。此を以て古来山本坊此地に拠りて、大に勢力を振ひたりき。古墳多し」と記載があり、この地に修験山本坊をわざわざ本拠地を移した理由が載せている。
 
  鳥居の社号額には「國津神神社」と表記     入口周辺に建つ社号標石        
 國津神神社は、現越生町の黒山熊野神社の別当を務めていた修験山本坊が、当地へ移転したことから、慶安元年(1648)当地に改めて熊野社を勧請して創建、江戸期には熊野社と称していたという。
 本山派修験の山本坊は、相馬掃部介時良入道山本坊栄円が応永年間(13941428)に開山した大寺で、慶安2年(1649)には江戸幕府より、山本坊は寺領47石および、熊野堂(黒山熊野神社)領として3石の御朱印状を受領している。明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格、明治37年に地内の愛宕社・天満宮・稲荷社・住吉社を合祀、明治42年に箕和田稲荷神社と境内社大山祇社を合祀、大正4年に社号を國津神神社に改めている。
        
                                      境内の様子
『新編武蔵風土記稿 西戸村』
天神社 修驗圓藏院の持、
住吉社 熊野社 以上二社、修驗山本坊の持、
山本坊 慶安二年寺領四十七石及熊野堂領三石の御朱印を賜へり、熊野は郡内黒山村にありて、
    今もこゝにて別當せり、本山派の修驗、京都聖護院の末なり、開山榮圓應永廿一年示寂せり

行者堂 役小角の像を安置す、 
龍光院 圓蔵院 二院共に山本坊の配下なり、
 社のみをみると、かなり小規模な印象は拭えないが、竜光院・円蔵院等の仏閣も含む当時の旺盛ぶりは如何ばかりであったろうか。
        
                    拝 殿
 国津神神社 毛呂山町西戸九一六(西戸字愛宕下)
 現在、越生町黒山に石造の役行者像と宝篋印塔がある。これはかつて武蔵のうち入間郡・秩父郡・比企郡と常陸・越後の一部にわたり本山派修験を管理した山本坊の遺跡であり、宝篋印塔の銘文に「山本開山権大僧都栄円和尚 応永二十年癸巳十月日」「法勝禅門寿塔 応永廿一年甲午五日」とある。当社はこの山本坊と深いつながりを持っている。
 当社の創建にかかわる氏子の相馬家(屋号オヤカタ)の先祖は越生の山本坊を興した栄円の後裔で、越生の熊野社の別当である。当社は同家が居を移したことに伴い、慶安元年、熊野社をこの地に勧請したものである。また、勧請後同家は当社と越生の両熊野社の別当を兼ね、山本坊と称し、慶安二年には寺領四七石、熊野社領三石の朱印を受けるとともに、京都聖護院直末(じきまつ)の本山派修験として霞(かすみ)の教化を行った。なお、年行事職大先達も務め、配下の寺は四八カ寺に及んだ。
 当地の配下の寺は竜光院・円蔵院で、役行者堂も置かれていた。
 明治に入り、神仏分離のため山本坊は別当を離れ、代わって出雲伊波比神社社家紫藤家が祀職を務めるようになり、現在に至っている。
 明治五年に村社となり、同三七年、当所の愛宕社・天満宮・稲荷社・住吉社を本殿に合祀し、更に、同四二年に大字箕和田字高山木の稲荷社と境内社大山祇社を合祀した。また、大正四年には社号を熊野社から国津神神社に改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿に掲げてある扁額                本 殿
 明治時代以降、当地は山本坊が廃寺となったため、寺がなく、氏子の多くは神葬祭である。しかし、今なお葬儀の後、仏式の名残で初七日・三十五日・四十九日を祭日として神職が慰霊祭を行っている。
 当地で結成されている講には「榛名講」「観音講」がある。
 榛名講は、榛名神社の神を作神として信仰する者が結成し、219日に代参者が東松山市上岡の妙安寺へ出かけて、牛馬の安全を祈願し、その帰りに絵馬と笹の葉を受けて来るもので、この笹の葉は牛馬に食べさせると病気にかからないといった。しかし、この講も農業の機械化が進み、農耕用牛馬が減少したため、昭和40年ごろに解散したという。
 このほか、氏子の間では「おしら講」「大遊び」を行っていた。
「おしら講」は315日に行う女衆の行事で、養蚕守護の神であるおしら様を祀り、糯米(もちごめ)を一口一升として持ち寄り、大福餅を作って祝う。
 大遊びは211日に行う男衆の行事で、女衆のおしら講同様に行うとのことだ。
        
          拝殿前方左側に設置されている「山本坊の芭蕉の句碑」
                毛呂山町指定記念物史跡
 毛呂山町指定記念物史跡 山本坊の芭蕉の句碑
 山本坊の二十五世、徳栄法印(別号は紫梅)の建立といわれるこの句碑には「山さとは うめの花 はせを」と刻まれている。江戸前期の有名な俳人、松尾芭蕉への追慕の気持ちが強く、徳栄は、かつて芭蕉が故郷の伊賀で詠んだこの句を選んで自然石に刻んだものである。この句の意味は、普通ならば正月に訪れる”万歳芸人”が、田舎の山さとには梅の花が咲く春先にならないとやって来ない というような意味であろう。
 徳栄は文化四年(一八〇七)生まれで、わが郷土の誇る俳人、川村碩布の門人であり、俳号を「曰二」といい、多くの句集や短冊に句をのこしている。また、生来文筆に優れ、神社の幟、筆塚などの銘文にその筆跡をとどめている。さらに武を嗜み、幕末の混乱期には村々に起こった無頼の暴徒の鎮圧にあたった。明治維新後は神官となり、明治十一年(一八七八)に七十歳で亡くなったという。
                                  記念史蹟標柱文より引用
        
                   境内の一風景

 ところで國津神神社は、黒山熊野神社の別当を務めていた修験山本坊が、当地へ移転したことから、慶安元年(1648)当地に改めて熊野社を勧請して創建、江戸期には「熊野社」と称していたというが、この入間郡黒山村(越生町)修験山本坊の本名は「相馬掃部介時良入道山本坊栄円」であり、相馬氏といえば「平将門後裔」と称する一族である。また黒山熊野神社のご祭神は一説には「平将門」だったともいう。
『山本坊過去帳(相馬重男所蔵)』
「開祖栄円・応永二十年十月朔日、二代龍弁、三代栄弁、四代樹円、五代源栄、六代住栄、七代龍栄、八代頼栄、九代良栄」
「十代栄龍は慶長八年に山本坊を入間郡西戸村(毛呂山町)へ移し、二十五代徳栄が明治維新の時、神官となり帰農す」
『山本坊文書』
「箱根山別当相馬掃部介時良入道山本坊栄円は応永二年より黒山村に居住し修験となる。応永五年二月十二日栄円は将門宮を造営す」
『黒山三滝上 宝篋印塔』
「山本開山権大僧都栄円和尚、応永二十年癸巳十月日」
『西戸村相馬重男家文書』
「文安元年甲子十二月十三日、箱根山御領属高萩駒形之宮二所之旦那之事、右、彼旦那等、豊前阿闍梨可有引導候、山本大坊法印栄円花押」

 また、この「相馬氏」一族は後世大里郡地域の社の神職や社掌に就任していて、その広がり方も修験道に関連しそうである。この事に関しては「露梨子春日神社」「西和田春日神社」を参照して頂きたい。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「入間郡誌」「埼玉の神社」
    「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等

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西大久保八坂神社


        
            
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町西大久保146
            
・ご祭神 須佐之男尊
            
・社 格 旧大久保村鎮守・旧村社
            
・例祭等 春祭り 35日 夏祭り(天王様) 715日 
                                  秋祭り 
1123日  大祓 1231
 川角稲荷神社から南北に通じる道を1.2㎞程南下する。「城西大学硬式野球場」を左手に見ながら2番目の信号のある十字路を右折し、暫く進むと右手に西大久保八坂神社が見てくる。社の東側隣には「智福寺」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
        
                 
西大久保八坂神社正面
『日本歴史地名大系』 「大久保村」の解説
毛呂山町の東端に当たる当地は、川角村の東、市場村の北、葛川と高麗川両河川流域に挟まれた台地上に立地している。天正二〇年(一五九二)に検地があり、その検地帳には「大窪郷」と記されていたという(風土記稿)。
 寛永二年(一六二五)九月大久保新八郎(康村)が徳川氏から入間郡大久保村で一〇〇石を与えられ、同年一〇月大久保久六郎(忠重)に大久保の内五〇石が与えられている(記録御用所本古文書)。田園簿では田高四二石余・畑高一五九石余、大久保領・幕府領の相給。寛文八年(一六六八)・同九年・延宝二年(一六七四)に検地があり(風土記稿)、元禄郷帳では高一九二石余。
  
        
           境内の様子                       参道途中の右側に設置されている案内板
 八坂神社の由来と行事
 江戸期、当地は大久保村と呼ばれ、鎮守として牛頭天王社(当社)を祀っていた。
 主祭神は、須佐之男尊で、内陣には束帯の神像を安置する。また合祀神は宇気母智神・別雷神・大山咋神の三柱である。
 別当は当社に隣接する真言宗金玉山智福寺が務めていたが、明治初年、当社は神仏分離により、智福寺の管理を離れ、社名も八坂社と改め、同五年村社となった。
 明治四十年三月十六日、宇谷ノ中の稲荷社、宇下原の雷電社、宇上の日枝神社を当社本殿に合祀した。しかし、宇上では、日枝神社が合祀されてから疫病がはやったため、神罰であろうということになり、元地に戻された。
 年中行事は、春祭り・夏祭り・秋祭り・大祓の四回である。
 三月五日の春祭りは、当社が明治五年三月五日に村社になったため、これを記念して、その後は例大祭となっていた。この祭典には町長や学校の生徒が参列し、町の式典の一つに数えられていた。しかし、戦後、氏子の中から例大祭を元の夏祭りに戻そうとの声が上がり、現在は旧来通り夏に例大祭が行われている。
 夏祭りは天王様とも呼ばれ、地区内の疫病を祓う祭りで、現在七月十五日に行われており、祭典では悪疫除け祈願がある。明治中頃までは、地区内を山車が回り、大正期には、川越の地芝居や比企の万作踊りを頼んで祭りを盛り上げ、当社の最も重要な祭りであった。
 秋祭りは、以前十一月二十七日であったが、現在二十三日を祭日として、豊作感謝の祭りが行われている。
 大祓は氏子の罪穢れを除く行事で、十二月三十一日に行われている。
 当社において、神職が関与せず氏子だけが行う神事に、元旦の初詣とお九日がある。お九日は本来十月十九日であったと思われ、古くは子供の行事であったが、現在は十月十日頃、氏子総代が氏子を率いて当社に参拝している。
 なお、宇上の日枝神社は合祀社であるが、元地に社が残り、山王様と呼ばれ、四月十六日に祭りが行われている。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 大久保村』
 智福寺 新義眞言宗、石井村大智寺の門徒にて、金玉山と號す、本尊大日を安ず、
 牛頭天王社 村の鎭守なり、

 
  拝殿左側に祀られている境内社・稲荷社         稲荷社の右側には
                          「石棒」が8体祀られている。
 石棒(せきぼう)は、縄文時代の磨製石器の一つであり、男根を模したと考えられる呪術・祭祀に関連した特殊な道具とみられている。
 石棒は広義には石刀や石剣を含む棒状の石製品を総じて指し、狭義にはいわゆる大型石棒を指す場合が多く、広義の石棒は九州から北海道までほぼ全国に存在するという。
 男根を模した石製品としては、千葉県大網白里市升形遺跡出土の旧石器時代後期(24000年前)のものまで遡れる。いわゆる大型石棒は、縄文時代中期に中部高地で出現したと考えられ、その後近畿地方以東を中心に広がったと考えられている。
       
                                   拝殿からの眺め
 
        
      社の東側に隣接している智福寺前に板碑や地蔵様が纏めて祀られている。
 
     毛呂山町指定有形文化財である弘安・応長の板碑(写真左)とその案内板(同右)
 毛呂山町指定有形文化財 考古資料
 弘安・応長の板碑  昭和四十八年十二月一日指定
 この二面の板碑は、もとは西大久保地区の東端にあった常楽寺に建てられていた板碑です。
 左の板碑は、弘安三年(一二八〇)に沙弥願生(しゃみがんせい)が父母の追善供養の為に、右の板碑は応長元年(一三一一)に弟子の比丘尼(びくに)が師の三十三回忌の為に建てたものです。二面の板碑は『新編武蔵風土記稿』大久保村の項に、常楽寺内に並び建つ古碑二基として紹介されています。
 弘安の板碑は、阿弥陀種子(キリーク)を主尊とし、その下に不動明王(カーンマーン)の荘厳体とみられる大変特殊な種子を配する珍しい板碑です。
 応長の板碑は、種子を欠失していますが、大きく刻まれた紀年銘が目を引く板碑です。
 平成二十九年一月十日 毛呂山町教育委員会
                                       案内板より引用

 
           文化財の板碑の左側にも         また板碑に背を向くようにして
           石碑が幾つか立っている。           
地蔵様が祀られている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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