古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上新戒御嶽大神社


        
             ・所在地 埼玉県深谷市新戒1562
             
・ご祭神 大己貴命・少彦名命・大山祇命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 210日 春大祭 218日 祈年祭 1115日 秋大祭
                  1
123日 勤労感謝祭 1229日 大祓

 上新戒御嶽大神社は深谷市新戒地区北西部に鎮座する。途中までの経路は内ヶ島神明社を参照。群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を北上するように進み、「大塚」交差点を右折、埼玉県道45号本庄妻沼線を道なりに直進する。1.5㎞進んだ最初の信号を左折し、北上して行くと右手側に御嶽大神社が見えて来る。但し駐車場が周辺にはないため、対向車の迷惑にならない場所に路駐して、急ぎ参拝を行う。
        
                                上新戒御嶽大神社正面
    新戒地区の長閑な田畑風景に馴染むような、ゆったりとした空間が広がっている。
 
       参道右側にある社務所         社務所の脇、道路沿いにある記念碑

 上新戒御嶽大神社社務所再建記念碑・趣意書
 御嶽大神社社務所は建立以来長きにわたり祭事及び集会所として上新戒の中心的な役割を果たしてきた。しかし逐年老朽化が進みここ十数年来再建が検討されてきた。このたび歴代の正副自治会長、氏子総代神社の役員を始め氏子各位の協力を得て再建の運びに至ったものである
 
平成十二年三月二十五日起工、同年十一月十五日落成
                                     記念碑文より引用


 社務所再建の事情を記されているだけで、石碑には神社のことは記されていないので、「埼玉の神社」での解説を紹介する。

 御嶽大神社
・神徳…農耕神、「往古より当社に祈願し雨乞いを為せば、如何なる大旱魃の年にても奇しく雨降らぬということ曾てなしと、霊験今尚然り」
当社の歴史を見ると開拓時に信州筑摩郡奥十山(木曾の御岳)を祀って蔵殿宮と称したのが当社の始まりで、正平21年(1366
)には、社殿を整え常陸国大洗の薬師菩薩を合祀の上、別当三薬寺を建てている。江戸期に入って蔵王大権現と号したが、維新後に今日の社号となった。
 
      参道左側には神楽殿         規模は大きくないので、鳥居をすぎると
                           社殿がすぐ近くに見える。
        
                                    拝 殿

 新編武蔵風土記稿において「新戒村条」には「新戒村・上新戒村・下新戒村」の3村を1セットで記載されている。
「新戒上下新戒の三村は古へ一村にて、正保の改にも新戒村のみ載せ、元禄の改に至て三村とす(中略)陸田のみの地なり、古は地名を新開と書しにや、新開荒次郎は当所の人なりと語り傳へて其舊蹟今に存す、按に【東鑑】新開荒次郎の外新開彌二郎・同左衛門尉等を載す。彌二郎及兵衛尉は承久年中の人なり 又岩松氏所蔵文書、享徳肆年閏四月八日、岩松右京大夫望申云文中に武州新開郷事新開加賀守蹟とのす、これ等其の支族にて此に住し、在名を用ひしものなるべければ、新開の名の舊きこと知るべし」

 また大里郡神社誌には以下の記載がある。
新開氏旧跡は、東西一町四間・南北一町四十二間、村の東に有りて堤濠の跡近時猶存せり、文政天保の頃迄漸次開墾して今は無し、畑となれり。新開氏は秦河勝の後裔、信濃国に住す、本領は同国佐久郡及び近江国新開荘也。荒次郎忠氏、鎌倉右幕に従ひ、丹党の旗頭たりと云ふ」
        
                               
上新戒御嶽大神社 本殿
 
 社殿の左側には境内社が横一列に並ぶ(写真左)。左から大手長男神社・八坂神社、天満宮・雷電神社、皇太神宮。また境内右側には社務所が設置されているが、その左側にも境内社、石祠が並んでいる(同右)。詳細不明。
        
                          上新戒御嶽大神社 遠景


 上新戒御嶽大神社の由来は、「埼玉の神社」によれば、「開拓時に信州筑摩郡奥十山(木曾の御岳)を祀って蔵殿宮と称したのが当社の始まり」と記載されている。推測するに、「新編武蔵風土記稿」や「大里郡神社誌」に登場する「新開荒次郎」は秦河勝の後裔で、本領の信濃国佐久郡及び近江国新開荘から上新戒地区に移り住み、その際に「木曽のおんたけさん」と呼ばれる信仰の山「御嶽山」から神様を勧請したものと思われる。主祭神は、国常立尊・大己貴命・少彦名命。
 一方、江戸期には「蔵王大権現」と号したらしいが、蔵王権現は本来日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊で、インドに起源を持たない日本独自の仏といわれ、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られている。権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意味。仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括していて、神道において、蔵王権現は大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命等と習合し、同一視された。その為蔵王権現を祭る神社では、主に上記の5組の神々らを祭神とするようになった。
 蔵王山は宮城県と山形県との県境にあり、古くから刈田嶺(かったみね、かったね、かりだのみね)、または、不忘山(わすれずのやま)と呼ばれていた山岳信仰および歌枕の山であったが、吉野から蔵王権現が勧請され、平安時代には修験者が修行するようになったため蔵王山とも呼ばれるようになったとされる。

 つまり、創建当時信州木曽御嶽山から神様を勧請したが、時代が下るにつれ、神仏習合思想により、東北地方の「蔵王権現」を取り入れ、現在の信仰スタイルとなったと考える。
 日本は歴史が古い国であり、信仰形態も「受容」が基本にあり、この形態は自分の信仰を押し付け、以前の信仰を根こそぎ否定・根絶する他の諸外国にはない平和的で、全てを包み込む極めて優しいものであり、そして諸外国から不思議がられる独特のスタイルである。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「Wikipedia」等



拍手[2回]