古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

柴山諏訪八幡神社


       
所在地    埼玉県白岡市柴山1021
御祭神    誉田別尊、建御名方命
社  挌    旧指定村社
例  祭    7月中旬か 天王様

 柴山沼は白岡市大山地区のほぼ中央に位置し、元荒川の下浸作用によって形成された河川跡だ。埼玉県内の自然沼としては、川越市の伊佐沼に次ぐ大きさの沼で、面積は12.5ha、水深は約8m。柴山沼という名称はこの地にかつて存在していた柴山村に関連する。柴山という地名は白岡市の説明によると柴山の柴とは雑木(そだ)の意で、柴山はこのような燃料採取の丘、林をさしていると考えられるという。
 この柴山地区の西側で、柴山沼と元荒川に挟まれた一面の田んぼの中に住宅が点在し、その一角に柴山諏訪八幡神社は鎮座する。

             正面参道                    鳥居を過ぎて左側にある案内板
諏訪八幡神社  所在地:南埼玉郡白岡町大字柴山
 諏訪八幡神社は、大字柴山のほぼ中央に位置し、古来、地域住民の信仰の対象として、中心的な役割をなしてきた神社である。当神社は、昭和19年に「大山神社」と改名されているが、現在でも「諏訪八幡神社」として親しまれている。祭神は、応神天皇と建御名方命である。
 寛文12年(1672)に藤原氏天野康寛が書いた諏訪八幡神社之神記によれば「霊験の記は紛失して証拠となるものはないが、伝説によると宇多源氏の後胤佐々木四郎秀綱がこの地を領していたとき、霊験があり、諏訪社と八幡社の両社を合祀した」とある。
 当社には、地域の信仰を物語る各種の絵馬が多く奉納され、よく保存されている。また、祭礼時には大太鼓、小太鼓、鉦による囃子が奉納される。
 昭和58年3月 白岡市
                                                     境内案内板より引用

       平野部に鎮座する明るい社                  案内板の先には神楽殿

             
 
                             拝    殿
 柴山諏訪八幡神社は菖蒲城佐々木源四郎秀綱の創建と伝えられていて、佐々木氏は、宇多源氏の末裔と称しており、源氏の氏神である諏訪社と八幡社を勧請したものと思われる。社殿は本殿、幣殿、拝殿。拝殿の中には絵馬や掲額が数多く残されており、いずれも江戸後期以降のもので市の指定文化財になっている。
                    
                  拝殿の手前にある「奉納絵馬」と書かれた標柱

                         
 ところで佐々木源四郎秀綱が源氏の氏神である諏訪社と八幡社を勧請したという由緒を素直に読むと、元々この地には違い祭神の社があり、その後勧請した為に諏訪八幡神社と名乗ったと考えたほうが自然だと思われる。では以前の社の名称は何だったのだろうか。
 柴山地区は現在一面の田園地帯だが、嘗てこの地は「大山村」とも言われたという。この大山村は柴山、荒井新田、下大崎、上大崎の四つの大字からなっていた。以後、昭和29年9月1日に白岡町が誕生するまで、65年間存在していていた。この「大山村」の名の由来はは大崎の「大」の字と柴山の「山」の字を取ったものであるというが、史実はこのように単純な事だろうか。この白岡市は台地と低地が入り組んだ複雑な地形で台地と低地の区分は10メートル程というが、柴山地区はその中にあって比較的平坦な地域だ。この地形は今も昔もそれほどの変わりはない。「大山」と言われる程の山は存在しないことからこの地名は地形上から来たものではなく、文化、祭祀的な名前ではないかと考える。いわゆる「オオヤマツミ」信仰だ。
大山祇神
  オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)は、日本神話に登場する山の神。別名 和多志大神、酒解神。日本書紀は『大山祇神』、古事記では『大山津見神』と表記する。『古事記』では、神生みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれたと記され、一方、『日本書紀』では、イザナギがカグツチを斬った際に生まれたとしている。勿論記紀上の系譜では立派な天津神系の一族である。 
 ただ不思議とオオヤマツミ自身についての記述はあまりなく、オオヤマツミの子と名乗る神が何度か登場する。ヤマタノオロチ退治において、素戔嗚命の妻となる奇稲田姫(くしなだひめ)の父母、足摩霊、手摩霊(あしなづち・てなづち)はオオヤマツミの子と名乗っていて、天津神に所属していながら国津神系の出雲とも深い関係のある神でもある。
 この神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味となるが、別名の和多志大神の「わた」は「海」の古語で、「海の神」を表す。すなわち、山、海の両方を司る神ということになる。

 オオヤマツミはイザナギ、イザナミの系統でありながら、その兄弟カグツチが母を死に至らしめたことから、神話の主役はアマテラスに奪われ、脇役の地位を担わされた不運の天津神である。しかし出雲族の移住先等の各地でその信仰は連綿と継続し、とくに山岳宗教と結びついたり、金属、鉱山関連の仕事に仕事に付く人たちに敬われてきた古くからあるいわゆる地主神的な存在ではないだろうか。柴山の「山」にしろ大崎の「大」という地名につけられた名は古くから語り継がれてきた古名の名残りだったとは考えられないだろうか。
 それを証明する一つの事例として柴山地区に伝わる伝統行事がある。「天王祭」だ。

 柴山諏訪八幡神社の鳥居の左側に境内社諏訪八幡神社の祭り(天王様)は、毎年7月に行われ「オシッサマ(お獅子様)一行」が天狗、獅子、太鼓などで耕地内を駆け巡るそうだ。「天王」とは勿論牛頭天王(ごずてんのう)を祀る天王社の祭である。牛頭天王は日本の素戔嗚尊と習合し、日本各所にその伝説などが点在しており、その地方で行われていることが多い。
           

 この社の獅子の一行は獅子頭と獅子の布を持つ人、カラス天狗、天狗によって構成されて、それに山車に乗った囃子連が付いているそうだ。
 この白岡市にはこの「天王様」の祭りが非常に多く、この柴山の天王様のほか、岡泉、新田、野田、篠津があり、殆どが7月の中旬に行われるようで、天王信仰が盛んな場所であったのだろう。前述オオヤマツミの孫が奇稲田姫であり、その夫が素戔嗚命である。同時に柴山地区の天王祭が盛んな地域であることから、柴山地区と「オオヤマツミ」は関係の深い地域であったことがわかる。

                                                                                                

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