古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

皆野町国神神社

 皆野町は、埼玉県の西北、秩父郡の東北に位置し、東は東秩父村に、北は長瀞町と本庄市に、南・西は秩父市にそれぞれ接している。面積は63.61km2。標高は町の中心街で海抜160m、最も高い城峯山頂で1,038mと、町の大部分は林野で占められている。四方を山々に囲まれた秩父盆地の一角に位置し、町の中央を荒川が東流し、その右岸の川岸段丘を中心に市街地が形成されている。
 皆野町の歴史は意外に古く、町の中央を流れる荒川流域に多くある遺跡の発掘調査によって、古代人の集落等が確認されたり、古墳が各地に点在することなどから、遠い時代から先住民や豪族が居住していたことがうかがえる。国の名勝・天然記念物に指定されている「紅簾片岩」の露頭などの文化財も多く、自然・歴史・文化に触れることのできる、魅力を秘めた町である
 また調べて初めて解ったことだが、、埼玉を代表する民謡「秩父音頭」発祥の地がこの皆野町で、毎年8月14日には、秩父音頭まつりが盛大に開催されている。「合歓の盆」とも呼ばれ,“流し踊りコンクール”には 皆野町内だけでなく 県内各地からの多数のグループが参加して, 多数の観客を集めているという。

 皆野町国神地区は荒川左岸に位置していて、丁度皆野町の中央部に位置し、古来から交通の要衝として多くの歴史を語る数々の遺跡がある。その荒川と日野沢川が合流する河岸段丘上に国神神社が鎮座している。
所在地    埼玉県秩父郡皆野町国神709
御祭神    大物主神 他二十社合祀
社  挌    不明
例  祭      十月十日 国神神社獅子舞 

       
 皆野国神神社は国道140号を長瀞町から皆野町方向に進み、荒川を渡り切った親鼻橋交差点を右折すると埼玉県道37号皆野両神線となり、その道を荒川沿いに進むと栗谷瀬橋側道橋を通って荒川を渡る。その道を約300m位進むと埼玉県道44号秩父児玉線に分岐する国神交差点にぶつかり、その北側角地に国神神社は鎮座する。国神交差点の脇に専用駐車場があり、そこに数台停められるスペースがあるので、そこに車を停めて参拝を行った。
           
              県道交差点にある専用駐車場から皆野国神神社正面を撮影
       
 皆野国神神社一の鳥居の先に銀杏の大木があり、黄葉の時期とも重なり、参道には銀杏の落ち葉が一面に広がっていた。近郊には「国神の大銀杏」と呼ばれる樹齢700年程の老大木があり、その大きさは埼玉県では第9位、埼玉県のイチョウでは第4位の巨木という。埼玉県の指定天然記念物をうけている。
 境内は決して広くはないが、どこか懐かしさを感じ、気持ちを落ち着かせてくれる優しい社だ。
           
                              拝    殿
 参道を進むと石段があり、そこを登ると正面には社殿がある。その石段の向かって右側には案内板があり、その案内板によると、かつては金毘羅社、琴平神社と称し、創建は不詳だが天正年間(1573~1592年)に北条の家臣、多比良丹波守忠平が此の地を領地としていた時に、武運長久を祈願して大物主神を勧請したと伝えられている。1907年(明治40年)に金崎上郷の各社を合祀して、社号を国神神社に改称したという。

     正面石段の手前右側にある案内板         拝殿上部に飾られている社号の書かれた額

国神神社 由緒
 元、琴平神社(それ以前は金毘羅社)と称した。
 古記録は備わっておらず、創立年代は不詳であるが、天正年間(1580年頃)北条の家臣、多比良丹波守忠平(たひらたんばのかみただひら)がこの地を領地としていた時、武運長久を祈願して大物主命を勧請したと伝えられる。
 本社伝来の古刀には「奉納金比羅宮平治元年三月(1159)施主」と刻印があり、その他、古代石器、古鏡等もほぞんされている。
 明治40年7月、金崎上郷の各社を合祀して、社號を國神神社と改称した。(中略)御社殿造営当時の「金比羅坂」は秩父新道で、秩父盆地のシルクロードであった。その影響を受けて、装飾を多用し彫刻も立派なものが造られた。秩父新道沿いの名所で彫刻を眺めて悦に浸った人々も少なくなかったと思われる。
 元は金毘羅社であり、四国の金毘羅大権現の縁起や道中記などの彫刻が多いとされる。(中略)
                                                            
案内板より引用
        
                       拝殿向背部の素晴らしい彫刻              
        
   拝殿のそこ彼処にある究極的な匠の技にただ溜息と感動を覚えるのは自分だけではないと思う。

 御祭神である大物主神(おおものぬし)は日本神話に登場する神であり、有名なな三輪山の大神神社の神格であり、また三輪山の別名、御諸山にいた蛇体の神ともいう。さらに水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。
 このように国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされている。記紀の崇神天皇の条では、国に疫病をもたらす祟り神として登場する。崇神天皇は、大物主神の子孫意富多々泥古を探して祀らせることによって、大物主神の祟りを鎮めたという。
    


日本書紀 巻第五 崇神天皇紀 

 この天皇(崇神天皇)の御世に疫病多に起りて、人民尽きなむとしき。ここに天皇愁へ歎きたまひて、神牀(カムトコ)に坐しし夜、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)御夢に顕れて曰りたまはく、「こは我が御心なり。かれ、意富多々泥古を以ちて、我が前を祭らしめたまはば、神の気起らず、国も安平くあらむ」とのりたまひき。ここを以ちて駅使(ハユマヅカヒ)を四方に班ちて、意富多々泥古(オホタタネコ)といふ人を求めたまひし時、河内(カフチ)の美努村(ミノノムラ)にその人を見得て貢進りき。ここに天皇、「汝は誰が子ぞ」と問ひ賜へば、答へて曰さく、「僕は大物主大神(オホモノヌシノオホカミ)、陶津耳命(スヱツミミノミコト)の女、活玉依毘売(イクタマヨリビメ)を娶して生みましし子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕 意富多々泥古(オホタタネコ)ぞ」
                                        
                     

 この記述をみると、当時この大物主神は天照大神と対等に並び祭られていたという。俗にいう天神地祇という概念だ。天神地祇とは天神(天津神)、つまり、征服者側が信奉している神に対して地祇、その土地に代々祀られていた神(国津神)で、そのパワーバランスで国土の統一を図る考え方だ。しかし、崇神天皇紀では疫病が流行し国が乱れたのは地祇の神である大物主の意志であり、この間天照大神の力で国の乱れを抑えたという記述は全く見られずこの大神はまったく沈黙している。天照大神は天津系の最高神であるはずであるにも関わらず、一方の神の力に屈服されたような書きようだ。この時期にパワーバランスが乱れた一つの証拠であり、地祇のみを祀らざるをえない状況に陥ったことになる。ここで考えられることは、崇神天皇が収めていた土地は、元々地祇(大物主神)を祀っていた場所であり、さらに天皇の領土以上に大物主神を祀る大勢力が隣接して存在しているのではないか、ということだ。

 考えてみると当たり前のことで、崇神天皇の始祖である神武天皇は元々九州出身の外来者であり、長髄彦(ながすねひこ)を滅ぼし、東征から6年目で橿原の地に宮を築き、即位する。その即位とて順調だったわけではない。最初生駒山の方から大和に入ろうとしたが、そこで大和の長髄彦の激しい抵抗に合い、進路を阻まれ、このとき、神武天皇の長兄の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)は傷を負い、それが元で亡くなったり、その後熊野方向に迂回する際には、暴風雨に遭い、少しも前に進むことが出来ず、この状態を嘆き、次男の稲飯命(いなひのみこと)は海に入って亡くなってしまう。最終的に土地の豪族の協力を得て、長髄彦の勢力に勝利(古事記と日本書紀の記述の違いがあるがここでは省略する)し、橿原の地の一区画に宮を築いた(造らせていただいた、という言葉のほうが正しいかもしれないが)という苦労続きの連続だった。だからこそ神武天皇は自身の出身神である天照大神と共に地祇である大物主神をも祀ったといえるのであり、後代崇神天皇もその故事に倣ったといえるのではないだろうか。
            

 
大物主神とは一体何者だろうか。大物主神の「物」とは万物に宿る霊を意味するという。すべての物の背後に霊あるいは魂の存在を認めた古代人の世界観をストレートに、また簡潔に表わした神名であり、あらゆる神々の主神であるという説もあるが、その詳細まで解明した説はなかなかないのが今の現状だ。

 大物主神の別名も多数あり(大物主櫛甕玉尊、賀茂別雷大神、日本大国魂大神、事解之男尊、大国主神、大己貴命、八千戈神、顕国玉神等)、その神挌も同様だ。『出雲国造神賀詞』では大物櫛甕玉といい、大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるという。また同書には「皇御孫命(スメミマノミコト)の近き守り神」とあり、『日本書紀』には高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)が大物主神に対して「宜しく八十萬神をひきいて、ひたぶるに皇孫の為に護り奉れ」と皇孫側近の神になれと命令していて、ここでは皇室に対して格下の守護神としての性格も持ち合わせている。現在では金毘羅神社や大神神社、三輪神社、美和神社のように全国に御祭神としている社も多く、国土生成をはじめ、医薬の神、酒造りの神、男女の結びつきや、死にまつわることなど、目に見えない運命など様々なこと(幽事 かくりごと)を司る神とされていて、多種多様な神である。

 話は変わるが、平安時代に活躍した陰陽師安倍晴明は大物主神を祀っている三輪山を眺めながら、こうつぶやいたという。
 ここには我が国において、文字や数字や楽や舞や風習行事の中にそのすべてを象徴として隠し、その本性は記紀においても隠された〝知恵と魔術の神〟が封印されている。

 大物主神を祀る奈良県桜井市にある大神神社は、日本で最古の神社の1つと言われている。  三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されているほどその淵源は深い。

                
                        社殿の左側にある御神木か
            
                       その大木の根元にある3基の石祠

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野巻椋神社

所在地    埼玉県秩父郡皆野町皆野野巻363   
主祭神    猿田彦大神 
(合祀)    菅原道眞 金山彦命 建御名方命 大日霊貴尊 建御名方命 建御名方命
社  格     式内社 旧村社

社  紋    五七桐
例  祭    10月15日

        
  埼玉県秩父郡皆野町に鎮座する。皆野町椋神社から埼玉県道43号皆野荒川線に移り、荒川を越え皆野橋のT字路の交差点を右折し、埼玉県道44号秩父児玉線を300m位北上すると大渕交差点となるのでそれを左折する。この道は埼玉県道37号皆野両神荒川線で、道なりに約1、5km位進むと約赤平川の支流前のT字路があるのでそこを右折すると左側に椋神社がある。
 ちなみに車で来ると、社の裏側へ回り込む形になるので、車を止めて、表に回って参拝を開始する。
           
      
 椋神社裏にあった昭和16年に建てられた社号標 奥にある建物の前に駐車
            
                表に回った先に鳥居があり参拝を開始する。
            
                             拝  殿
          
                              本  殿

 
                 拝殿の右側にある陽石        社殿の左側にある境内社の鳥居と境内社群
  野巻椋神社の創立年月等は不詳だが、口碑によると、野巻(牧)は奈良・平安の頃に牧の駒を奉りし地から付けられたと伝えられている。名に、カリホシバ(刈干場)、クツウチバ(沓打場)、カジヤ(鍛冶屋)、マキハラ(牧原)などが現在も残っているようだ。
 また、当社の創建については、秩父氏が牧場の守り神として奉斎したものではないかとも考えられているようで、当時は『武蔵志』の”倉宮”や鎮座地の字名等から”くらのみや”明神等と呼ばれていたと思われる。

 区域外にも当社への強い信仰があり、隣村の秩父市吉田久長(旧久長村)には遥拝所があったと云われ、古くは、そこに繁っている松の木に鈴を懸け、当地との間の川が増水し参詣できない時には、これを振ってそこに祀られている石宮から当社を拝んだとのことだ。

          
 山間に鎮座する野巻椋神社から見る武甲山。現在山頂は削り取られ創建当時の面影こそないが、それでも美しいことには変わりない。





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皆野椋神社

 皆野町は埼玉県の西北、秩父郡の東北に位置し、秩父市の北に接する町で、秩父盆地の入り口にあたる。東経139度5分、北緯36度4分で、東は東秩父村に、北は長瀞町と本庄市に、南・西は秩父市にそれぞれ接している。
 町の中央を荒川が東流し、その右岸の川岸段丘に町が帯状に開けている。
 気象は内陸性気候を示し、冬季は北西の季節風が強く、乾燥した晴天が続き降雨量、積雪とも比較的少ない。夏季は高温多湿で気温の年格差が著しい。
 町の産業は、商工業が主で地理的条件等から商業は、郡北部地区商域圏の中心である。工業は、精密機械製造業が中心であり、農業は、農道整備や施設整備事業等を実施し、ぶどう・しめじ・しいたけを中心とした観光農業が脚光を浴びている。


所在地 埼玉県秩父郡皆野町皆野238   
主祭神 猿田彦大神・八意思命 ・大己貴命
社 格 延喜式内小社(論社) 旧村社
社 紋 三銀杏

例 祭 4月7、8日 祈年祭 718日 八坂神社例祭 10月7、8日 例大祭 他
        
 皆野町皆野に鎮座する。国道140号彩甲斐街道を皆野方向に向かい、大塚交差点手前の十字路を右折しそのまま直進し、秩父鉄道の踏切を越えると正面に椋神社の大きな朱色の鳥居がある。鳥居の左側には駐車場もあるので、そこに停車し参拝を行った。
 もと、椋宮(倉宮)明神と称し、元慶5年(881年)円福寺を建立した真言僧源仁僧都が深く当社を崇敬したという。また秩父別当熊谷重能は厚く当社を尊信し、寿永元年(1182年)この地に居を定めたという。
       
            皆野椋神社 木製の両部鳥居である二の鳥居
 
       二の鳥居の左脇には           皆野椋神社の案内板もあり。
猿田彦大神の名が刻まれた石祠等が祀られている。

 椋神社 御由緒  皆野町皆野二三八
 ◇蓑山を信仰の象徴として里の各所に祀る氏神の総鎮守
 椋神社は延喜式に記載されている秩父郡内二社のうちの一社で、同名の神社は当社を含めて郡内に五社ある。
 社記に、景行天皇四十年日本武尊が知知夫国を巡見した折、この地に至り御矛を立て猿田彦命・大己貴命・ 
八意思兼命を鎮祭したことを創祀としている。
 古くは「椋宮」・「倉宮」とよばれ、元慶五年(八八一)円福寺を開いた源仁僧都が当社を篤く崇敬し別当を務める処となった。その後秩父庄司畠山重能・重忠親子が崇敬し、鉢形北条氏の臣用土新左衛門、江戸期には阿部豊後守、松平下総守らが崇敬した。
 明治初年神仏分離によって寺の管理を離れ、村社に列せられ、明治四〇年(一九〇七)近郷の二七社を合祀した。なかでも蓑山(587メートル)に鎮座する蓑山神社は椋神社の奥宮としてそのままに鎮座し、昭和四〇年代頃まで養蚕守護の信仰を集めるほか、雨乞いのご利益もあらたかな神社としてこの地方に生活する人びとから農耕の神として位置づけられている。
 例祭一〇月八日に奉納される獅子舞は埼玉県指定無形民俗文化財で「雨乞いザサラ」とも呼ばれ、一二頭もの獅子が舞う姿は賑やかであると共に迫力がある。獅子舞は用土氏の頃に始められたと伝えられ、その頭は「重箱獅子」と呼ばれる古い作風にみられる長方形の箱型をなし、桃山期作として町指定民俗文化財に登録されている。
 ◇ご祭神 猿田彦命・大己貴命・ 八意思兼命(以下略)
                                      案内板より引用
 

         
                                                          拝 殿                                 
           拝殿に掲げてある扁額              拝殿内部            
        
           境内に設置されてある「皆野椋神社の獅子舞」案内板

埼玉県指定民俗文化財 皆野椋神社の獅子舞
 明治一五年の大火で記録類が焼失し、詳しい縁起はわかりませんが、児玉町小平の石神神社獅子舞の起源に、「元禄十二年皆野に伝わる獅子頭が小平に分けられ……」と伝えられています。これが皆野椋神社獅子舞に関する、最も古い記録です。
  獅子頭は塗獅子で、狛犬型、龍頭型とがあり、髪は栗毛のたてがみで、大狂い、女獅子、小狂いの三頭を一組として四組一二頭あります。
演目は一八庭で、神前に子どもたちの舞うお神楽三拍子に始まり、ひきま、わせ、おく、弓掛り、まり掛り、みいれ、ひょうたんまわし、幣掛り、竿掛り、花掛り、お神楽ざさら、輪掛り、橋渡り、下妻、宿割、天狗拍子で終わります。三頭の獅子の足が腰鼓にあわせてぴたりぴたりときまるのが特徴で、師匠ざさらといわれる「宿割」はその特色を最もよく表しています。
  一日の行事の中ほど、中入りには二人立ちの大神楽獅子二頭が勇壮に舞い、道化たちがからみます。また、演目の最終には一二頭の獅子に、中立四人が加わり、一六人ざさらともいわれる天狗拍子が舞われます。
 古くは上郷組、下郷組とに分れ、交代で九曲ずつを受持って演じていました。また、今は行われていませんが、椋神社と土京遥拝所の間にご神幸に供奉した道中または行列といわれた儀式は荘重なものでした。
 実施期日 一〇月七日 土京遥拝所 一〇月八日 椋神社
                                      案内板より引用                                                                                                                                
          
                       本  殿               

        
                                      神楽殿 
                 
 社伝によると、日本武尊東夷征伐のおり、当地を通過される時、御矛を立て、祭神・猿田彦命・八意思金命・大己貴命の三柱の神を拝し給うたのが、当社の創祀。猿田彦命は、日本武尊の巡視をご案内した神。八意思金命は、知知夫国造の祖神。大己貴命は、国土経営の神である。
 元来は椋宮(倉宮:くらのみや)と称された古社で式内社・椋神社の論社の一つ。
        
                 本殿の後方に境内社が少々狭い空間にズラッと並んでいる。

 産泰大神・愛宕大神・秋葉之大神・八幡大神・山之神大神・諏訪大神・摂社末社之大神・駒形大神・金刀比羅大神・秩父彦之大神・伏見稲荷大神・太宰府天満宮・祖霊社・八坂大神等 
         
                 社殿の右手には護国神社もある。これがまた立派な佇まいだ。        
        
                       また本殿の右側には石祠が所狭しと並んでいる。
        一部だが、社号や祭神名が記された木の札が掛けられている。


 高良玉垂大神、天児屋根神社、斎主大神、神明大神、菊理姫大神、事解男大神、雷電大神、善女龍王大神、句句馳智大神、河菜姫大神、埴山姫大神等。


       
                       二の鳥居左側にある石神社や猿田彦大神の石碑

 皆野椋神社の主祭神のトップである「猿田彦」は、『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神である。
 猿田彦の特徴はその異様な容姿にある。鼻の長さ7(あた)、背の高さ7(さか)、口赤く、眼は八咫鏡(やたのかがみ)のように輝いていたという。「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とする説がある。「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神だったとする説もある。
 天孫降臨の際に道案内をしたということから、後世、道の神・旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られていて、この場合、妻とされる天宇受売神とともに祀られるのが通例である。
 猿田彦命を祭神とする神社は全国に二千余社を数え、交通安全の守護神として警視庁にも祀られている。        

          
                専用駐車場から見える武甲山

 皆野町椋神社の西側は荒川が流れ、その台地上にこの社が鎮座しているのが来てみると良く分かる。また武甲山がよく見える位置にあるのも何か印象的だった。椋神社にとっても武甲山は
蓑山と共に神聖の山の対象だったのだろうか、とふと感慨にふけってしまった。



                                                          

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