古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下日野澤大神社

 阿左美(あさみ)氏は、浅見・浅海・朝見・阿佐美・阿佐見・阿左見と表記の仕方は違うが、東国の、特に相模国・武蔵国・上野国3国に多くある苗字で、他の国にはあまり存在しない。特に埼玉県特有の苗字で、秩父地方を中心に奥多摩から群馬県の南部にかけて、全国の半数が分布していて、秩父地方では「あざみ」と読む所もあるらしい。
 通説での浅見氏は、児玉党浅見(阿佐見)氏が児玉郡浅見村より起り、武蔵国の各地に広がった。武蔵七党系図には、児玉庄太夫家弘―庄五郎弘方(阿佐美)―実高と続き、この実高は武蔵国児玉御庄、上野国高山御庄、同吾妻郡小中山村、越後国荏保、又横曽根保、又大積、加賀国島田村領と所領を与えられ、仁治二年正月に亡くなっている。
 更に桓武平氏 秩父氏流渋谷氏族である莇(あざみ)氏と同族とも云い、「目黒区大観」に、莇(あざみ)家から分かれた浅海家に「武州渋谷之莇氏伝」という旧記録があり、“あざみ”の漢字・莇から浅見(浅海・阿佐美)に変わったと記載されている。
 下日野沢地区には古代から阿左美氏が多く存在する地域である。この地域の阿左美氏はどの系統からの流れなのだろうか。
               
           ・所在地 埼玉県秩父郡皆野町下日野沢3543-2
           ・ご祭神 神功皇后 大山祇命
           ・社 格 旧村社
           ・例 祭 節分祭 23日 祈年祭 330日 夏祭 723日 
                例大祭 101415日 新嘗祭 125日 
                師走の大祓 
1231日    
 日野澤大神社は進路途中までは「国神神社」参照する。その後埼玉県道44号秩父児玉線を北西方向に道なりに1.5㎞程進み、T字路を左折、同284号下日野沢東門平吉田線と合流するので、日野沢川に沿って西方向に2㎞程進むと左手に日野澤大神社の鳥居が見えてくる。
 社は県道沿いにあるとはいえ一段高い場所に鎮座し、県道から脇に伸びる舗装された道が社の参道となっている。鳥居の手前には駐車できる空間があり、そこに停めてから参拝を行う。
        
                                    日野澤大神社正面
 
      鳥居に掲げてある社号額          鳥居の右側に設置された案内板
 日野澤大神社御由緒  皆野町下日野沢三五四二ノ二
◇神代神楽を伝承する日野沢地域の総鎮守
 当地域は荒川の一源流である日野沢川の渓谷沿いに点在する十七の自然集落(耕地)から成り、平地が少ないため斜面に石垣を積み上げるなどして家々が点在する山村の原風景を今に伝えている。
 旧日野沢村の総鎮守である日野澤大神社の御本社は明治四十二年(一九〇九)に下日野沢字沢辺鎮座の諏訪神社外十六社を現境に合祀し、社号を日野澤神社と改称して創建されたものである。
 また当神社の奥社は大山祇神社と称し、大字上日野沢字西門平に鎮座する。その創立年代は詳らかでないが、御厨三郎平将門の崇敬ありと伝えられ、霊験あらたかな御社として崇敬を集め、明治十五年(一八八二)には旧上日野沢村の村社に列している。大正十年(一九二一)、大山祇神社(奧社)並びに日野澤神社(御本社)が一体となって社号を「日野澤大神社」と改称し、神饌幣帛料供進神社に指定され旧日野沢村の村社となった。
 春秋の祭礼に奉納される「日野澤大神社神楽」は、秩父神社直属の神楽として組織されたもので、中断の危機にあった秩父神社神楽を継承すべく明治十四年(一八八一)一月十日に日野沢代々協会として発足したものであり、現在は皆野町の民俗文化財に指定されている。
 また秋の奥社祭では、同じく皆野町の民俗文化財である「門平の獅子舞」と合せて奉納されている。
 その他、大晦日に行われる「師走の大祓」は、一年間の罪穢れを祓い除くために山峡を下り、日野沢川の清流に人形を流す特殊神事として今も行われている。
                                      
案内板より引用
 この案内板では、創建年代等詳しく記載されていない中、「
御厨三郎平将門」との記述に違和感を覚えた。この「
御厨三郎」に該当する人物は平将門の弟である「平将頼」であり、辻褄があわない。通説では平将頼も将門戦死後、相模国で討たれている。一方日野沢地区から北西方向に鎮座する矢納城峯神社には平将平の伝承・説話がある。平将門が関東一円を占領し、藤原秀郷等の討伐軍との戦いで戦死するが、その際に将平は城峯山に立てこもり謀反を起こしたおり、討伐を命じられた藤原秀郷が参詣し、乱の平定を祈願したと伝えられている。
 秩父、神川地方には将門伝説の説話が多いことは事実で、多くの伝承が入り混じって、このような言い伝えとなってしまったのだろうか。
                    
                                 新たに舗装された上り坂の参道の先に社殿は鎮座している。
             
                                  拝 殿
 
                本 殿                    社殿奥に祀られている境内社・石碑等          
             
                                                                     神楽殿
○日野沢大神社神楽(無形民俗文化財 昭和5941日)
1015日、日野沢大神社大祭に舞われます。明治14年、太田村熊野神社の神楽師により伝受されました。この頃秩父神社の神楽は中断されており、秩父神社祠官園田忠行が妻の里方である下日野沢村千廼宮祠官高橋富里に神楽団の組織と秩父神社への奉納を依頼したものであり、日野沢神楽団は秩父神社直属の神楽団として発足しました。昭和4年秩父神社に神楽団が復活すると共に秩父神社への奉仕も終わりました。
                                  皆野町ホームページより引用
                       
           神楽殿の脇に設置されている「日野沢神楽創立百周年記念事業奉賛碑」

 冒頭に述べたが、日野沢地区には阿左美氏が多く存在する。
・秩父誌
「高松屋敷・日野沢村。阿佐見氏」
秩父風土記
「下日野沢村・龍ヶ谷城跡。阿左美伊賀守鉢形落城の後、民間に下る」と見え、秩父郡誌に「朝見伊勢守は、横瀬村根古屋城を拠守せり。小田原没落後、日野沢村に隠れ、其の子孫は江戸時代に里正を勤めたり」
新編武蔵風土記稿下日野沢村
「旧家者里正十左衛門・阿左美氏なり。先祖は鉢形北条氏邦に属し阿左美伊勢守玄光と云、永禄十二年七月十一日甲州勢を追かへし、其時氏邦より感状を賜り苗字を朝見に改らる、感状今に所持す。伊勢守息朝見伊賀守慶延・元亀三年まで上杉家の押へとして郡中横瀬村根古屋の城に居れり、其時氏邦より加増の文書今に所持す。天正十八年鉢形落城の後、伊賀守息朝見左馬助幼年にて日野沢村に隠れ居り民間に下り郷士となれり。水潜寺開基阿左美伊賀守慶延・法号勇光院殿胸剣慶延大居士なり」
甲州勢夜中土坂を忍入、阿熊に屯し候を、物見山より早朝見付之、即刻吉田之楯江駆付相固候条、感悦之至に候、依之苗字阿佐美之字を向後、朝見之文字に書替、誉を可胎子孫に候、当座之為賞太刀一腰遺之候者也、永禄十二年七月十一日、朝見伊勢守殿、氏邦花押」


 ところで日野澤大神社の西側には「秩父 華厳の滝」もあり、参拝当日も多くに観光客で賑わっていた。
              
                                   秩父華厳の滝入口   

                秩父華厳の滝(写真左・右)       
        
 本家の日光・華厳滝と比べると規模も小さいながら、滝からのマイナスイオンを浴びながら清々しい森林浴を楽しむことができる場所でもある。落差12m程の直滝で大きくはないが、真近で見ることができるので、そこそこの迫力があり、綺麗で見応えのある滝である。
 ここの渓谷の地層は、「秩父帯」と称され、約
2億年前~15千年前の中生代ジュラ紀にプレートにのって運ばれてきたものとのこと。


【追伸】
 後になってから知った事で、散策できなかった場所であり、見学も撮影も出来なかったが、日野澤大神社の東側で、日野沢川上に「阿左美氏館跡」が存在する。この館跡には父最大級といわれる石垣が残っており、喰違い虎口の跡も確認することができるが、現在も子孫の方が居住されているので石垣のみ見学可能。
「新編武蔵風土記稿」下日野沢村の阿左美氏に関する記述によれば17世紀の末元禄7年(1694)に普請された旨が記されているので、現在目にすることのできる遺構の大部分はあくまでも江戸時代初期のもののようだ。
 それにしてもホームページ等の写真を見る限りこの石垣の見事なことには正直驚いた。関東には基本的には石垣構造の城館というものは存在せず、土垣が主流であり、あるとしたらごく稀なケースということになる。太田市にある「金山城跡」同様にこのような石垣があるが、構造的には比肩できる石垣である。
 後北条氏の滅亡後には伊賀守の息子朝見左馬助がこの日野沢の地に帰農土着して郷士として日野沢村の里正(名主)を代々務めたという。


 字数の関係で詳しく記載できないが、古代武蔵国は土佐国との交流が頻繁で、後北条氏の鉢形城配下には土佐・阿波国出身者が多くいたという。浅見氏も実は土佐国出身ではないかとの見解もあり、この件は改めて考察したいと考えている。
 
                       

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