古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上阿久原丹生神社

 上阿久原は、中世の阿久原郷に含まれ、その郷内には阿久原牧があった。阿久原牧(阿久原牧跡は埼玉県指定旧跡)とは、承平三年(933年)四月に勅旨をもって官牧となった国有の牧場で、武蔵七党児玉党の祖・有道惟行(ありみちこれゆき)が別当(管理責任者)として赴任した。
 惟行は平安時代後期、朝廷よりの派遣官人としての任務完了後も児玉郡にとどまり、そのまま在地豪族と化し武将として、武蔵七党の一つにして最大勢力の集団を形成する児玉党(武士団)となる。尚児玉党本宗家は3代目児玉家行(惟行の孫)以後、庄氏を名乗り、その本拠地を北上して栗崎の地(現在の本庄台地)に移す事となる。その直系の家督は庄小太郎頼家で絶える事となるが、児玉党本宗家は庄氏分家によって継がれていく事となり、本庄氏が児玉党本宗家となる。
 惟行の嫡流達は児玉郡内を流れる現・九郷用水流域に居住し、土着した地名を名字とし、児玉・塩谷・真下・今井・阿佐美・富田・四方田・久下塚・北堀・牧西などなど多くの支族に分かれていった。
        
             
・所在地 埼玉県児玉郡神川町上阿久原11
             
・ご祭神 高竉神 水速女神
             
・社 格 旧上阿久原村鎮守 
             
・例祭等 新年祭 19日 祈年祭 415日 例祭1015
                  
新嘗祭 121
  埼玉県道・群馬県道289号矢納浄法寺線沿いに鎮座する下阿久原有氏神社を更に1㎞程南下し、「JA埼玉ひびきの神泉地区総合センター」を過ぎたY字路を右方向に進む。後日地図を確認すると東西に流れる神流川に対して並行してこの道路はあるようだが、800m程進むと正面右側に上阿久原丹生神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
        
                              
上阿久原丹生神社正面
       社の裏手には神流川が見え、小規模水力発電の「神水ダム」が見える。

 神川町の上阿久原地域は、旧神泉村に属していた地域で、200611日に神川町と合併し新しい神川町の一部となったため消滅している。合併後において神川町のやや中央部に位置し、神流湖から北方向に流れる神流川と、その右岸で接している南北に長い上阿久原地域の北端で、神流川の流路が真東に流れるその地点南側の川岸で、鬱蒼とした林の中に上阿久原丹生神社はひっそりと鎮座している。
*『日本歴史地名大系 』での「上阿久原村」の解説
 [現在地名]神泉村上阿久原
 下阿久原村の南西に位置し、西から北は神流川を隔てて上野国緑野(みどの)郡譲原(ゆずりはら)村・三波川(さんばがわ)村・鬼石(おにし)村(現群馬県鬼石町)、南は秩父郡金沢(かねざわ)村(現皆野町)・矢納(やのう)村。村の北から西を城峯(じようみね)道が通る。中世には阿久原郷のうちに含まれ、文禄三年(一五九四)以前に当村と下阿久原村に分村したとみられる。慶長三年(一五九八)五月の上阿久原之郷御坪入帳写(浅見家文書)が残る。 
       
 鳥居左手には「
町指定史跡 丹生神社」に石碑が立つ(写真左)。昭和44111日指定されていて、再建や修復時の棟札から、永正17(1520)以前の創立で、古くは阿須訪大明神・阿諏訪丹生大明神といわれていたという。また鳥居右手には「阿諏訪社 丹生神社」と刻まれた社号標柱が立っている(同右)。
        
                 参道から社殿を望む。
 日本神話にて「水」を司る有名な神様として「罔象女神(みつはのめのかみ)」「淤加美神(おかみのかみ)」があげられる。「罔象女神(みつはのめのかみ)」は『古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命などとも表記され、この社では水速女神とも書かれている。『古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしている。『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとしている。
 一方、淤加美神(おかみのかみ)は、『古事記』では淤加美神、『日本書紀』では龗神と表記され、この社においては高竉神として祀られている。『古事記』及び『日本書紀』の一書では、剣の柄に溜った血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ、『日本書紀』の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしていて、高龗神は貴船神社(京都市)のご祭神として有名である。龗(オカミ)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていて、「闇(クラ)」は谷間を、「高(タカ)」は山の上を指す言葉ともいわれている。
 
奈良県吉野郡に鎮座する『丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)』のご祭神は罔象女神であるが、淤加美神と共にセットで祀られているケースもある。また各地の神社で配祀神として祀られている。
        
                     拝 殿
 鳥居を過ぎた瞬間から、社特有の重たい空気が辺りを漂っていた。河川がすぐ北側にある為だろうか、現実に湿度もあるようにも感じたが、不思議な空気感と相まった事により、逆にこの社の気品の高さを強く印象付けさせられた。
 また社叢林が、結界線のように社全体を覆っていて、日は高く上っているにも関わらず、ほの暗い。境内全体から醸し出すある種の荘厳さと神聖さを兼ね備えたような空間だ。
        
                             拝殿左手に設置されている案内板
 丹生神社 御由緒 神川町上阿久原一ノ一
 □御縁起(歴史
)
 当地は中世の阿久原郷に含まれ、承平三年(九三三)四月に勅旨をもって官牧となった阿久原牧(埼玉県指定旧跡)に位置する。児玉党の祖有道惟行(遠峯)とかかわりの深い地域である。阿久原村は中世末の文禄三年(一五九四)以前に上下の二か村に分離した。江時代には幕府領地や旗本鳥居氏知行地となる。
 社伝によると、当社は永正年間(一五〇四~ニ〇)以前に創立したといい、上下阿久原の分村により、上阿久原の鎮守になったという。古くは阿須和大明神・阿諏訪丹生大明神などと称され、社務を隣地に住む松本家が務めていたと伝えられる。
 造宮・修繕等を記した棟札には、永正十七年(一五二〇)・天正六年(一五七八)・天正十七年(一五八九)銘のものが現存する。最も古い永正十七年八月吉日の紀年銘のある棟札には「奉造営阿須和大明神御宝殿一宇事」と記されている。また、天正六年二月日のものには「奉造営阿須和大明神御宝殿一宇事敬白 社務松本拾郎左エ門 同左馬之助」とあり、江時代初期より松本家が社務を務めていたことが分かる。
 祭神は高龗神・水速女神の二柱であり、共に水を司る神である。十月十五日の例祭(秋祭り)には、獅子舞が奉納される。また、境内社として諏訪神社・稲荷神社・山神社が祀られている。
                                      案内板より引用
        
                 拝殿向拝部の精巧な彫刻
 
   向拝部の両端に位置する木鼻部位にも見事な彫刻が施されている(写真左・右)
 
          本 殿                      社殿左手奥に祀られている境内社合社
 河川対策であろう。高い石組が施されている。  案内板にある「諏訪神社・稲荷神社
                          ・山神社」であろうか。 
     
                        境内に聳え立つご神木(写真左・右)
       
               社のすぐ北側にある「神水ダム」 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社「日本歴史地名大系」「神川町HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等 

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