古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

駒衣稲荷神社

        
            ・所在地 埼玉県児玉郡美里町駒衣595
            ・
ご祭神 倉稲魂命
            ・
社 格 旧村社
            ・
例 祭 天神祭 1月25日 初馬 2月6日 春の大祭 4月15日
                 秋の大祭 10月15日 新嘗祭 11月23日 大祓 12月28日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1736646,139.1698324,16z?hl=ja&entry=ttu
 駒衣稲荷神社は国道140号バイパス(彩甲斐街道)を寄居方向に進み、国道254号線との分離地点で右折、美里町から児玉町方向に進む。国道254号線は美里町 天神橋交差点付近で埼玉県道175号小前田児玉線に名称変更するが、そのまま道なりに直進。
 その後「松久小学校入口」交差点を右折し、約
700m程進むと右側に駒衣稲荷神社とその社叢が見える。駒衣の集落の北端に位置し、すぐ北側は長閑な田園地帯が広がる。
                
                       駒衣稲荷神社 鳥居正面 
       
               駒衣稲荷神社御由緒案内板
〇御縁起 美里町駒衣五九五
 駒衣は、古くは「駒絹」「駒木野」とも書き、南端を鎌倉街道上道が通ることから民家は南部に集中し、北部には東田が広がる。地内には、駒衣古墳群をはじめ、四世紀中葉の集落跡である志渡川遺跡や奈良・平安時代の寺院跡である駒衣廃寺、中世の土嚢の館跡である新堀屋敷などと遺跡が多く、古代から太の住みやすい環境であったことがうかがえる。
 当社の境内は、駒衣の集落の北端に位置し、ちょうど氏子の家々を見守るような形で鎮座している。創建については詳しい伝えはないものの、古くから駒衣の鎮守として厚く信仰されてきた神社であるという。また「児玉郡誌」は「元亀年中(一五七〇-七三)武田信玄の旗下・吉橋和泉守、武運長久を祈願し社殿を改築せりと云ふ、社蔵に係る文書には駒絹村正一位稲荷大明神とあり、宗源の宣旨は伝はらざれど、神階を授けられたること明らかなり」と載せ、当地は養蚕が盛んであることから、その守護神として勧請したものかと考察している。
 一方、『風土記稿』駒衣村の項には智徳院持ちの稲荷社と円福寺持ちの稲荷社の二社が記載されているが、当社はそのうちの智徳院持ちの稲荷社で、円福寺持ちの稲荷社は新田で祀っていた神社である。神仏分離により智徳院の管理を離れた当社は、明治五年に村社になり、同四十年には新田の稲荷社をはじめ地内の無格社三社を合祀した(以下中略)        案内板より引用
     
       
                    拝 殿         
 
  向拝柱の水引虹梁には彫刻が施されている           本 殿

「美しい里の町」をキャッチフレーズとしてホームページ等でも紹介されている埼玉県美里町は、東京都心より約80km、埼玉県の北西部に位置し、東部は深谷市、北部・西部は本庄市、南部は寄居町および長瀞町にそれぞれ隣接している。面積は33.41km2、東西5.5km、南北9kmと南北に長く、南部の山間地帯と中央以北の平坦地により構成されている。
 この埼玉県北西部の狭い区域に位置する美里町は武蔵国の中でも早くから開発されていた地域の一つであり、町の東北部の諏訪山と呼ばれる丘陵の裾部に築かれた直径約50mの円墳である長坂聖天塚古墳を始め、近隣の十条地区には十条条里遺跡、また沼上地区の水殿瓦窯跡、広木地区にある「曝井(さらしい)」と呼ばれる遺跡など、「埼玉の飛鳥」という呼称にふさわしい遺跡の宝庫でもある。
 
               神楽殿           駒衣稲荷神社社殿の左側に鎮座する境内社
        
                   駒衣稲荷神社 遠景
 美里町は、埼玉県内で最も多く古墳が造られた地域であり、主な特徴は、方格規矩鏡を出土する長坂聖天塚古墳を始め円墳が大多数で、前方後円墳がほぼないことである。また規模が15mに満たないような小規模の円墳ばかりの後期の古墳群が多いことも特色のひとつである。

 ここからは筆者の勝手な解釈であることをお断りするが、この地域には中央集権的な絶対王権は存在しておらず、階級制度から発生する上層・下層の区別も顕著ではなく、共に汗を流して土木、治水工事等行い、祭りを祝う、そんな平和的な日常の営みをしていたのではなかろうか。案内板に記述されている「
当社の境内は、駒衣の集落の北端に位置し、ちょうど氏子の家々を見守るような形で鎮座している」という記述にも、太古の昔から社とそこに住んでいる氏子等普通の人々との信頼関係をうかがわせる。
 美里町の文化財のひとつに「さらし井」が登録されている。美里町大字広木地内のねり木川の端にあるこの遺跡は、奈良時代、織布を洗いさらすために使用された井戸で、ここでさらされた布は、多く調庸布として朝廷に貢納されたという。万葉集第9巻には「三栗の那賀に向かえる曝井の絶えず通はむそこに妻もが」とうたわれているように、ここは当時の女性達の共同作業場であり、社交場でもあったといわれている。
 当時そこで交わされている女性達の会話の中に、日々貧しいながらも日常生活を一生懸命に謳歌しようとしている人々の息吹を感じるのは、筆者の妄想であろうか。
       
          駒衣稲荷神社  社号標       駒衣の伊勢音頭の看板もあり
 駒衣の伊勢音頭  昭和52329日指定  埼玉県指定無形民族文化財
 駒衣の伊勢音頭は、今から300400年前に、伊勢参りのみやげに伊勢古市の女郎の踊りを習い覚えてきた人たちによって伝えられたのがはじまりだと言われています。その後、この地域の人々の中に育ち、今日に及んでいます。
 この行事は、725日に稲荷神社末社の八坂神社の祭典当日、鎮守の森に村中の若衆が集まり、養蚕も大当り、水の心配もなく、農作業が無事に終わって秋に五穀の豊穣が迎えられますように、また悪疫が流行しないように踊りを奉納して祈願するということです。
 この踊りは、とくに「ヤートコセー」のはやしことばが特徴的です。
 曲目は、手踊りと段物(当地では「台詞入り伊勢音頭」と言う)があり、前者には「伊勢は津でもつ」、「目出度」等、後者には「本朝二十四孝筍掘之場」、「いざり勝五郎」等が現在もさかんに行われています。
 埼玉県教育委員会・美里町教育委員会   
                                      案内板より引用
 

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