古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

武野上神社

 武野上神社は、もともと丹生明神または丹生(ニフ)様と呼ばれていたが他社との合祀でこの社名になった。総持寺を開山した心地覚心大和尚が、鎌倉時代の中期紀伊国(和歌山県)高野山に参籠して満願のみぎり、この野上地方の旱魃を救うために、大和国(奈良県)吉野郡丹生川上の中社に鎮座する、水神慈雨の罔象女神(ミズハノメノカミ)(丹生明神)のご分霊を頂いてかえり、この地に祭った。ご眷属は、山犬のオオカミではなく、人に親しまれる普通の犬である。
                                「長瀞町史民族編」より引用
        
            
・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町本野上1114
            
・ご祭神 罔象女神、高龗神、建御名方命、誉田別命、大物主命、大山祇命
            
・社 格 本野上・中野上村鎮守
            ・例 祭(祭日に近い日曜日)
                 元旦祭 11日 春祭り 41日 秋祭り 101
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1100287,139.1066713,19z?hl=ja&entry=ttu
 国道140号バイパス(彩甲斐街道)を長瀞町市街地方向に進む。町役場及び野上駅前通りを過ぎてから250m程先にあるドラッグストアとスーパーの間のT字路を右折し、暫く進むと右手に武野上神社の鳥居が見えてくる。長瀞町の中心街でありながら、国道を離れると正面は秩父山系の山脈が広がり、周囲もほぼ田畑風景の中、所々に住宅地が見えるという、長閑な風景がそこにはあり、その中の一角に社は鎮座している。
 社の北側には巨木に囲まれた駐車スペースもあり、一旦そちらに移動・駐車してから参拝を行う。
        
                    武野上神社正面
 荒川が形成した秩父盆地(埼玉県秩父市)から長瀞渓谷にかけて、俗に「河成段丘」と言われる河川に沿って分布する平坦面 (段丘面) と急崖 (段丘崖) から成る階段状の地形が形成されている。河川のつくる低地(河床、氾濫原(はんらんげん)、谷底(こくてい)平野、扇状地、三角州など)よりも高い位置にあると定義づけられている。
 長瀞町は埼玉県の西北部、秩父山系の関門に位置し、町の中央を縦貫して流れる荒川の両岸に細長く開けた町であり、荒川河谷の段丘上に位置し、国道140号と秩父鉄道が通じる。
 野上地域は、古くは戦国期よりその名称は出ていて、江戸期には幕府領に属する本野上村、中野上村、野上下郷村があり、これを野上三郷と通称されていた。
『新編武蔵風土記稿 本野上村条』では、江戸時代の産業として絹(養蚕)、烟草(タバコ)の取引が盛んで、27日には市(いち)が立っていたという。

    歴史を感じさせる木製の両部鳥居     鳥居の社号額には「武野上神社」と表記
       
                   鳥居を過ぎて参道左側に設置されている案内板
 武野上神社 御由緒 長瀞町本野上一一一四
 ◇野上に暮らす人々のよりどころ
 古くは家並が秩父往還(国道一四〇号)に沿った帯状に続く宿場町であった。宿の中ほどから西に三〇〇㍍ほど入ると右手に当社が鎮座し、正面に臨済宗総持寺が堂宇を構える位置関係にある。
 神社の起こりは旧社名「丹生社」から武蔵七党の一つ「丹党」が氏神として勧請した、あるいはこの地を拓いた人々が地神の「野神」を奉斎したことに因るという。
地内を貫流する荒川は岩石段丘が続き、水利に悪く天水に頼らざるを得なかったことから、当社別当となる総持寺の開山法燈国師は文永年中(一二六四~一二七五)高野山からの帰路、丹生大明神より分霊した水の神である罔象女神・高龗神を「野神」に合祀したという。『新編武蔵風土記稿』も「丹生社、例祭二月朔日、九月十九日、当村及中野上村の鎮守なり総持寺持、此寺の開山法燈国師、高野山より持来て、此所に勧請せしと云」と記載している。
 現在の本殿は享保11年(一七二六)に再建されたもので入母屋造である。
 明治に入り丹生神社と改称、その後の同四十二年(一九〇九)地内の五社を合祀し、社名を武野上神社と定めた 。

 ◇御祭神
 ・罔象女神・高龗神・建御名方命・誉田別命・大物主命・大山祇命
 ◇御祭日(祭日に近い日曜日)
 ・元旦祭 11日 春祭り 41日 秋祭り 101
                                      案内板より引用
        
          社の御由緒である案内板の隣にはこのような案内板も設置されている。
 武野上神社とけやき
 武野上神社はもともと丹生明神と呼ばれました。新編武蔵風土記稿の本野上村の条には、「丹生社例祭二月一日、九月十九日、当村及中野上村ノ鎮守ナリ」と紹介されています。
 明治四十二年六月二十四日、四社を合祀して武野上神社と改称されました。祭神の罔象女神が水神であるためか、例祭にはよく雨が降り旗幟がぬれます。このことから「丹生のぬれ旗」と呼ばれています。
 社に向かって右側に見えるのが、御神木のけやきです。これは根回り九メートル、胸回り六・五メートル、高さ二十五メートルの大木で、樹齢は約七百年と言われています。昭和五十八年の台風で上部の枝が折れましたが、この枝の年輪が二百五十以上ありました。
 境内にはこの御神木を含めて九本のけやきがありますが、これらはみな長瀞町の天然記念物に指定されています。
 文化財はみんなの財産です。大切にしましょう。 令和四年三月 長瀞町教育委員会
                                      案内板より引用

        
                                  参道より境内を撮影
 参道を含む境内周辺は一部を除いて日の光を浴びた開放的な空間が広がるが、社殿脇から奥部にかけては鬱蒼としたご神木群が時に社地の日光を覆いつくすようで、その境内における陰陽のバランスが妙に神々しさを感じてしまう社である。

 野上という地名由来として、「武蔵七党・丹党」から分家した一派が当地名を称したと云われている。「
丹党野上氏」である。明治の神仏分離までは「丹生明神社」であり丹党野上三郎が祀った氏神であるともされる。丹党白鳥氏の流れくむ野上三郎は白鳥基政の子である白鳥政広の子である白鳥政経のこと。政経が野上を治め、野上三郎を名乗ったことにはじまる。
丹党系図
「岩田七郎政広(右大将家御代の人)―野上三郎政経―某」

また『新編武蔵風土記稿 秩父郡野上下郷条』には「野上三郎為氏の墓所」も記載されている。
『新編武蔵風土記稿 秩父郡野上下郷条』
「野上三郎為氏の墓所 小名辻と云へる所の陸田中にあり、六尺四方許の地、其廻りに茶の木を植たり、村民持の畑なり、墓の印はなし、唯野上三郎為氏の墓所なりと、土人の傳ふるのみ」
        
                                    拝 殿
 拝殿の手前には一対の「狛犬」が設置されている。冒頭で紹介した「長瀞町史民俗編」にもこの狛犬は「狼」ではなく「人に親しまれる普通の犬」であると記載されている。但し実見すると、口部位にある牙等には不思議と狼の雰囲気がみられる。
 考えるに、秩父地方が狼信仰の中心であるが故に、本来は普通の犬であったにも関わらず擬態化(デフォルメ)されて、その地域の信仰形態に融け込んでしまったのではなかろうか。
 小さくて見ずらいが、右側の狛犬には、子犬が親犬の足元にいて、まるで甘えるように体をくねらせているように見える。狼信仰の狛犬には今まで出会ったことのないような穏やかで、愛情あふれる像に感じた。
 
      拝殿に掲げてある扁額                本 殿
 
    拝殿の左側には神楽殿・八坂大神       八坂大神の並びに鎮座する境内社
                      左から武野上弁財天・白峰神社・武野上稲荷神社
        
                         拝殿右側奥に鎮座する合祀社。詳細不明
       
    拝殿右側奥には町指定文化財である樹齢700年を優に超える欅のご神木が屹立している。
      このご神木の他、境内にある9本の欅が街の文化財として指定されている。

 武野上神社の欅(町指定文化財)
 神社の御神木など9本の欅が指定されている。御神木は樹齢700年を優に超えると思われる古木で、根回り約9m、目通り6.3m、樹高25mである。
 昭和61524日指定
                                   長瀞町役場HPより引用

        
               
               社殿の奥で北側には多くの巨木が聳え立つ。その姿は圧巻だ。
              
        因みに鳥居を過ぎて参道を進む途中、右側にも巨木があった。
   但しこの木は銀杏であるから文化財指定は受けていないだろうが、やはり立派である。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「長瀞町役場HP」長瀞町史民族編」「Wikipedia」等
             

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