古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

戸崎日吉社

 日吉社(さんのうさま)  騎西町戸崎一五二七(戸崎字名倉耕地)
 当地には古城跡があり、戸崎右馬允という者の居城であったという。現在も川下側に城の土手跡がある。
 低地のため古くはしばしば大水に見舞われたので、社地の隣に盛り土を行い、この上に馬を連れて避難したという。これを馬塚と呼んでいる。
『郡村誌』に「城跡に竜宝寺を創建す」とあり、城跡から当社を見ると鬼門に当たることから城守護の社として創建された可能性が高い。
 社蔵の『日吉社記録(弘化三年七月)』には「鎮守内に往古より社家有りしが先年消失し、以来利八という者、社を再建し跡を継ぐ。同時に三両の金を差し出し是を氏子に貸し付けて、利足分で今後の社修覆の足合とした云々」とある。この貸付制は現在まで行われ「人別(にんべつ)」と呼ばれている。
 また同書追録に「鎮守山王大権現を明治五年のころに日吉大神と改称する、祭神は国狭土之命也」とあり、更に合祀について「明治四十年神社合併のこと起り、当社を同字村社諏訪神社に合併せんとするも当社の鎮座地名倉は以前名倉村と称えた一村であり、他に移すことは許されないと陳情し合併を免かれし云々」と載せている。
 現在の本殿は、社記によると弘化三年の再建と思われる。内陣に束帯の神像三〇センチメートルを安置する。境内に神使石像(猿)がある。
                                   「埼玉の神社」より引用
       
              
・所在地 埼玉県加須市戸崎1527
              ・ご祭神 大山咋命
              ・社 格 旧戸崎村名倉耕地鎮守
              ・例祭等 春祭り 413日 夏祭り 718
                   例大祭 1028日 決算 12月中旬
       *「埼玉の神社」では、「秋祭り 10月15日」と記述されている。
 戸崎諏訪神社から北東方向で直線距離にして400m程の戸崎字名倉の地に は鎮座している。前項でも述べているが、この地域は、同市西部に位置し、見渡す限り平坦な地域で、地域南部と中央部一部には住宅や民家はあるが、それ以外は周囲一面豊かな水田地帯が広がっていて、この地域中央部一部に民家が点在すると述べたその地こそ、名倉地区である。
        
                  戸崎日吉社正面
『埼玉苗字辞典』では、「埼玉郡戸崎村字名倉(騎西町)は古の村名で、『武蔵志』には、「羽生領太田庄名倉村山王社」と見え、騎西町場大英寺元禄十年碑に名倉村と載せているように、字名名倉は、元禄時期「名倉村」と一村を形成していたという。
 
鳥居近郊に並列して祀られている石碑、仏像等      鳥居の右脇に祀られている
 記念碑の左側二番目に天満宮の石祠あり    「水神」と刻まれた石碑が置かれている。
        
       鳥居から「名倉集会所」を右手に観ながら参道を進むと、突き当たり、
               直角右方向に方向転換し一対の石灯篭の先に社殿が見えてくる。
        
                「名倉集会所」付近に設置されている社の案内板
        
                    拝 殿
 日吉社 例大祭 十月二十八日
 当社は山王社とも呼ばれ、大山咋命を主祭神とする。特に安産の神として崇敬され、出産が近づくと、灯明 (ロウソク)の燃え残りをいただく信仰がある。陣痛が始まったときにこれを灯すと、火が消えるまでにお産が済むという。そのため、お産が軽く済むよう短いものが喜ばれるという。こうしたことから、当社は女性の神としての伝説が残されている。
 昔、社前に池があった頃、隣村の天王様(お神輿)
が村内に乗り込んできた。これに激怒した山王様は「女の領地に男の天王が足を踏み入れるとは何事だ、それを防がなかった村人も許さん」と村中に悪病を流行らせてしまった。困った村人は、翌年、またやってきた天王様を待ち受け、神輿もろとも境内の池に放りこみ、ようやく退散させたという。その後は山王様の怒りも解け、悪い病は消え去ったという。(以下略)
                                      案内板より引用
 
        拝殿の手前にある一対の「
神使石像(猿)」(写真左・右)

 ところで、「加須インターネット博物館」の中のコンテンツに加須市内にある「昔ばなし」が載っており、その中に当地に関わる昔話も掲載されている。

山王様(さんのうさま)と天王様(てんのうさま)」
戸崎の名倉耕地(ごうち)に「山王様」という神様がまつられています(日吉社)。お産にご利益があることから「女性の神様」としても知られています。
むかしむかしのことです。隣村で天王様のお祭りがありました。

「ワッショイ。ワッショイ」
威勢のいい掛け声と共に、神輿を担いだ若者たちがやって来ると、いつの間にか、わがもの顔で村中を練り歩き始めました。村人はあっけにとられ、ただ茫然と見ておりました。
それからしばらくたつと…原因不明の病気が村中に流行りました。村人はあれこれ噂しましたが、原因はさっぱりわかりませんでした。
そんなある日のことです。一人の村人が山王様にお参りすると、どこからともなく不思議な声が聞こえてきました。
「女の神が支配する土地に、男の神が勝手に入ってくるとは何事だ!それを防がなかった村人も許さん!」
原因不明の病気は山王様の祟りだったのです。村人は怒りを和らげようと、あれこれ行いましたが、なかなか山王様の怒りは治まりませんでした。そうこうするうち、また、次の年のお祭りが近づいてきました。
「また、隣村の天王様の神輿がやって来たらどうすんべ。向こうは大勢だしなあ」
「今年やっつけねえと、山王様がもっと怒るべ。みんなでやっつけるしかなかんべ」
そして、祭りの日になりました。村人は神輿が来るのを境内の池のそばで、じっと待っていました。
「ワッショイ。ワッショイ」

掛け声がだんだんと近づき、大きくなった瞬間、みんなで神輿めがけて一斉に飛びかかりました。突然の出来事に驚いた隣村の若者たちは慌てふためき、神輿もろとも池に放り込まれてしまいました。
「バンザーイ、バンザーイ」

一目散に逃げ帰る若者を前に、村人は大喜びしました。
それ以来、山王様の怒りは治まり、元の静かな村になったということです。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「加須インターネット博物館」等
       

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戸崎諏訪神社

 諏訪神社  騎西町戸崎二三八八(戸崎字元屋敷)
 当地には『風土記稿』によると「城下」の小字があり、「城跡の形あり、廻りに土手とおぼしき跡見ゆ、戸崎右馬允といふものゝ居蹟なりと云ふ、」と載せる。更に『郡村誌』には、この城跡に竜宝寺を建立したとある。この城は、戸崎城あるいは名倉城と呼ばれたという。
 当社の創建も戸崎城に居た戸崎氏にかかわり、口碑によると同氏のゆかりの地である信濃国から一の宮の諏訪大社の分霊を受け祀ったことに始まるという。
 祭神は武御名方命であり、一間社流造りの本殿には束帯の諏訪明神座像を安置する。
 往時の別当は、真言宗諏訪山瑠璃院宝光寺で、当社のほかに字下耕地の牛頭天王社の別当も務めていた。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治五年村社となり、同四〇年には宮元屋敷の厳島社と字下耕地の八坂社を合祀した。現在この二社は境内末社として祀っているが、八坂社は元地にも祠が現存し、子供神輿が納められている。
「埼玉の神社」より引用
        
             
・所在地 埼玉県加須市戸崎2388
             ・ご祭神 武御名方命
             ・社 格 旧戸崎村鎮守・旧村社
             ・例祭等 元旦祭 春祭り 327日 八坂祭 711
                  例大祭 827日 秋祭り 1127
 加須市戸崎地域は、同市西部に位置し、見渡す限り平坦な地域で、地域南部と中央部一部には住宅や民家はあるが、それ以外は周囲一面豊かな水田地帯が広がっている農業地域である。
 あまりに平坦な穀倉地域ゆえに、平永稲荷神社から目視ができる程で、稲荷神社正面入り口に接する道路を650m程東行し、突き当たりの路地を右折すると、遠目ながら戸崎諏訪神社の境内遠景が見えてくる。
 但し、社に通じる道は、舗装はされているが、道幅は狭い。周囲にはこれといった参拝用の専用駐車場はないようなので、適当な場所に路駐して、急ぎ参拝を開始した。
        
                戸崎諏訪神社 境内遠景
『日本歴史地名大系』「戸崎村」の解説
 正能(しようのう)村の北にあり、集落は騎西領用水左岸の自然堤防上に立地する。鎌倉時代戸崎右馬允の居城があったと伝え(風土記稿)、竜宝(りゅうほう)寺は戸崎城跡に創建したという(郡村誌)。城下(しろした)・城付(しろつき)の小名がある。永正一一年(一五一四)七月一日の尊能証状写(武州文書)に「武州中崎西之内自戸崎郷下之事」とみえ、崎西(きさい)のうち戸崎郷より下の年行事職を大円坊に申付くべきことを弾正忠尊能が証している。羽生領に所属(風土記稿)。寛永二年(一六二五)一二月設楽甚三郎(貞代)は徳川氏から「戸崎村」で三三九石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。
       
               参道入口に建つ鳥居と社号標柱 
 当地は『吾妻鑑』や『新編武蔵風土記稿』に、鎌倉時代に戸崎右馬允国延の居城があった「戸崎城」があったと伝え、『郡村誌』によれば、社の西側近郊にある金桂山 龍寳寺(竜宝寺)が戸崎城跡に創建したという。 
吾妻鑑卷三
「寿永三年三月十八日、伊豆国に進発する頼朝の御前の射手に戸崎右馬允国延が定めらる」
吾妻鑑卷五
「文治元年十月二十四日、横山、西、小河、戸崎右馬允国延、河原、仙波等は頼朝の勝長寿院落慶供養に供奉す」
『新編武蔵風土記稿 戸崎村』
「小名 城下 城跡の形あり、廻りに土手とおぼしき跡見ゆ、戸崎右馬允といふものゝ居蹟なりと云ふ、」
郡村誌』
臨済宗竜宝寺。其城跡へ当寺を創建すと云」

   鳥居近くに建つ「耕地整理記念碑」    境内にある「県営埼玉型ほ場整備事業の竣工記念碑」
 記念碑文によると、戸崎地域周辺は平坦な水田地域で、農地自体は、昭和14年の耕地整理により整備されてはいるが、一反区画で整備されているほか、道路は狭く用排水路も土水路が残っていて、用排分離もされていないため、効率的な営農が行える状態ではなかったといい、そこで、平成26年度に戸崎地区周辺一帯の整備事業が行われたとの事だ。
 
     一の鳥居の先にある庚申塔       参道の先にある「社殿改築竣功記念碑」
 諏訪神社 社殿改築竣功記念碑
 碑文
 当神社は古来、戸崎の里の総鎮守としてこの地に鎮座し、武御名方命を祀る。村人の幸福と五穀豊穣を恵む、その神徳は遍く広く厚きものあり。
 明治四十年の頃、字元屋敷に在りし厳島神社、並びに字下耕地鎮座の八坂社を合祀し、爾来、里人いよいよ四季の祭りに努め来たりしが、平成七年五月一日の深更、不慮の火災起こりて社殿宝物等悉く烏有に帰す。村人の嘆き悲しみは極まれり。
 されども、やがて社殿再興の気運、氏子の間に高まり、明くる平成八年八月、重立つ人々信州諏訪大社に詣でて、分霊を奉裁し〇新社殿竣功を祝うに至りぬ。
 茲に新しき神殿造営の経緯を記し、村人の厚き敬神の心を書き留め、この里の末永き安寧と弥栄を祈念するものなり。
 平成八年(一九九六年)十月吉日(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
     周囲一帯水田が広がっているとは思えない程、境内は社叢林が社を覆っている。
 参道は鳥居から進むが、境内社・八坂社が祀られている所から右側直角に曲がり、社殿に通じる。
        
                  境内社・八坂社
 当社の祭りの一つに、毎年711日に行われる八坂祭がある。この八坂祭は別名「天王様」とも呼ばれ、末社八坂社の祭りである。この日は大人神輿と子供神輿が練られ、村の厄払いが行われる。古くから天王様の風に当たると悪い病気にかからないといわれ、神輿が来ると氏子は沿道に出て拝むという。
「戸崎の村に過ぎたるものは天王様とお獅子様」といわれるほど、氏子は当地にある獅子を自慢する。普段、獅子は宝光寺薬師堂に奉安してあるが、五月一〇日には村の厄払いのため、これを出して氏子を回る。氏子の家に着くと、勢いをつけて座敷に上がり家を祓って風のごとく飛び出ていくもので、無病息災の意味も込められている。
 
社殿に通じる参道左側に並ぶ伊勢参宮記念碑等    参道右側に並列された奉納石燈籠等
        
                    拝 殿
 写真には見えずらいが、拝殿前にある賽銭箱に刻まれている神紋は「違い鎌」という。俗にいう鎌紋とは、農具として使われる鎌をモチーフとした家紋。鎌は諏訪明神の御神体で、祭具として崇められ、また豊穣を祈る意味を持つことから信仰的な意義により家紋となったという。
 
        拝殿に掲げてある扁額         社殿近くに設置されている掲示板
 諏訪神社  例大祭 八月二十八日
 当社は武御名方命を主祭神とし、五穀豊穣を司る神として崇敬される。創建は不詳であるが信州諏訪大社(現長野県)の分霊を祀ったものと思われる。平成七年五月一日深夜、火災により社殿を消失、翌八年に再建されている。
 古くは、地内の宝光寺の管理となっていたが、神仏分離により同寺を離れ、明治五年に村社となっている。また、同四〇年には厳島社と八坂社を合祀している。
 なお、当神社周辺は戸崎城の跡と伝えられ、明治時代の地図によれば土塁が廻っていたことがわかる。平成七年の試掘調査では、堀跡や土塁の痕跡が確認されている。また、平安時代の須恵器や土師器などが出土していることから、当時、ここに集落があったことがわかる。
加須市教育委員会

                                      掲示板より引用 
        
            社殿の東側に祀られている境内社・厳島社

 毎年8月27日に行われる例大祭(本祭り)は、作物の豊作を祈願する祭りで、「鎌どっかえ」と称する行事がある。祭りが近づくと、氏子は銘々で鎌に模して付木に篠の柄を付けたものを二本つくり、「諏訪神社」と書き、自分の名前を記す。当日、これを持って神社に参詣し、神前に供えて、他の鎌と取り換える。鎌は家に持ち帰られ、神棚に、また家によっては悪病除けのため玄関に供えるという。
 また、
当社の境内には道祖神があり、足の病気を治すご利益があるとされている。そのため、かつては草鞋が奉納されていたという。残念ながら境内を確認したが、それらしき祠等は確認できなかった。
        
              参道から入り口付近の鳥居を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「埼玉苗字辞典」「境内掲示板・記念碑文」等
 

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平永白山神社及び平永稲荷神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市平永384
             
・ご祭神 菊理姫命 伊弉諾命 伊弉冉命
             
・社 格 旧明願寺村南明願寺耕地鎮守
             
・例祭等 夏祭 77日〜10
 平永天神社から一旦国道122号線に戻り、「平永」交差点を直進、700m程先で進行方向左手に平永白山神社は見えてくる。
 周辺には適当な駐車スペースは見当たらないので、偶々境内で除草作業をしている氏子らしき方の了解を頂き、社のすぐ北側に面している道路に路駐し、その後参拝を開始した。
        
                 
平永白山神社正面
 平永地域は、かつて江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』における「長ノ村」と「明願寺村」を合わせた地域で、明治8年に二村は合併し平永村となっあっという。平永天神社でも紹介したように、大きな集落は六つの耕地に分かれている。また、この六耕地には各々鎮守社があり、本田耕地は天神社、一丁畑耕地は地蔵尊、上平耕地は住吉社、新栄耕地は稲荷社、南明願寺耕地は白山社、北明願寺耕地は八幡社を祀っている。『新編武蔵風土記稿 明願寺村』の項には「今は村内を南北の二區に分ちて唱へり」と載せており、恐らくは南明願寺耕地・北明願寺耕地を指すのであろう。
        
                                        拝 殿
『新編武蔵風土記稿 明願寺村』
 白山社 金道院持、
 金道院 新義眞言宗蓮王山觀福寺と號す、大和國初瀨小池坊末、開山行皆元祿二年五月十八日寂す、本尊不動を安ぜり、
 社に関して「埼玉の神社」等に詳細な説明はなく、他の資料も決して多くはない。この神社の創建は明かではないが、口伝によると天正年中(一五七三)に領主木戸大隅守の許しを得て建てられたと伝えられている。                   
 
拝殿の右側奥に祀られている境内社・八坂神社         境内に設置されている
                         「八坂神社改築神輿修復記念碑」
               
八坂神社改築神輿修復記念碑
       
当地 南明願寺の地名は この地に住居を構えて中世に活躍した
             
武将 明願寺氏にちなんでつけられたものといわれている 彼の館
             の近くに白山神社(祭神 菊里媛命 伊弉諾命 伊弉冉命)が建立
             され氏子の崇敬の的になっている この神社の創建は明かではない
             が 口伝によると天正年中(一五七三)に領主木戸大隅守の許しを
             得て建てられたと伝えられている その後 寛永二年(一六二五)
             寛政十一年(一七九九) 昭和二十年(一九四五) 昭和四十五年
             (一九七〇)に改築が行われている
              この神社の境内社として八坂神社(祭神 素戔嗚命)がある 社
             伝によると元和年中(一六一五~二四)に愛知県津島市神明町に鎮
             座する津島神社より分祀したものであり その時に神輿が造られた
             ものと推測できる この社の夏祭は例年七月七日から四日間にわた
             って実施されていた なお 嘉永六年(一八五三)には改築された
             ことが棟木に記されてあった 年月を重ね 今日に至って八坂神社
             の社殿や神輿の損傷が甚しく神社としての尊厳を保つうえで改築や
             神輿の修復が必要であるとの声が高まり 氏子一同協議の結果早急
             に実施すべきであるとの決定をみた 氏子の積極的な協力により奉
             賛金として八百五拾八万円が集められた 神輿の修復は平成十年七
             月五日神輿匠師に依頼し 社殿の改築は平成十一年二月五日起工式
             を挙行した 大神等の神徳著く平成十一年七月三日には就航のはこ
             びとなり 来賓 役員 氏子等八十数名の参加のもと八坂神社遷座
             祭が盛大に執行された 式典終了後 神幸祭を実施 神輿は郷内を
             巡幸し氏子あげて神威の高揚につとめ郷土の発展と氏子の幸福を祈
             った
               この碑には 神社の由来及び記念事業の経過を記すとともに 氏
             子として常に神社の尊厳を保ち 敬神崇祖の心を養い 愛郷の情を
             もち地域づくりに精進する決意を碑と心に深く刻み 人生の歩みの
             
支えとするものである(以下略)
 この記念碑によると、当地の武将「
明願寺氏」の館跡が、この白山神社とその南側の金道院観福寺あたりに存在していたという。この明願寺氏は、鎌倉時代元寇で戦い討死したという。
 青石塔婆は、 鎌倉時代から室町時代にかけて死者への追善供養や、 生きているうちに自らの供養をする逆修供養などのために立てられた卒塔婆(ぞとうば)の一種で、 板碑とも呼ばれる。青石塔婆は、 荒川の上流域 (長瀞の周辺) で産出する緑泥片岩 (青石) を材料としている。
 青石塔婆のある金道院は、「高麗軍に対する西域防衛軍として出征し、 弘安4年の元寇海戦の夜襲で名誉の戦死を遂げた明願寺氏の館跡」と言い伝えられており、この大きな青石塔婆と関連があるという説がある
*残念ながら実見できず、「加須インターネット博物館」等にて案内板を確認できた。
 加須市指定有形文化財
 金道院の青石塔婆
 昭和三一年九月指定
 地上高二六〇センチメートル(枠線下端まで)、幅六一センチメートル、厚さ一〇センチメートルの市内で最大規模の青石塔婆である。これは過去に同寺東を流れる川に「やなぎばし」として架けられていたといわれている。そのためか表面の銘文が橋脚を支えるために一部削られている。
 山形の直下に二条線を配し、身部を二重の枠線で囲んでいる。上部に三弁宝珠を加え蓮座のうえに荘厳体でキリーク(阿弥陀如来の種子)を、中央下部に「弘安三年庚辰十二月時子剋敬白」、その両側には光明真言を彫る。弘安三年は一二八〇年。
 この周辺には多くの青石塔婆が出土していることから鎌倉時代には開発がされていたことがうかがえる。
 平成二四年三月 加須市教育委員会
        
             社殿奥に並んで祀られている石祠四基
             左から(?)・産泰宮・天満宮・多聞天
        
               境内北側から社殿方向を撮影
【平永稲荷神社】
        
              ・所在地 埼玉県加須市平永1109
              ・ご祭神 稲荷神(推定)
              ・社 格 旧下ノ村新栄耕地鎮守(推定)
 国道122号線「平永」交差点を南方向に600m程進み、信号のある交差点を左折するとすぐ左手に平永稲荷神社に到着することができる。
        
                 平永稲荷神社正面
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下ノ村』
 天神社 村の鎮守とす 〇稲荷社 〇十六善神社 以上常泉院持
 常泉院 新義眞言宗、正能村龍花院末、松壑山眞如寺と號す、本尊不動を安ず、開山權大僧都秀宥、寬文二年六月廿二日寂す、
「埼玉の神社」において、平永地域の六耕地の中に各々鎮守社を祀り、本田耕地は天神社、一丁畑耕地は地蔵尊、上平耕地は住吉社、新栄耕地は稲荷社、南明願寺耕地は白山社、北明願寺耕地は八幡社を祀っている。そのうちの新栄耕地がこの社が属する集落と思われる。
 また、七月七日は一丁畑にある八坂様の祭礼で、本田・上平・新栄・一丁畑で天王様を行い、耕地ごとに宿回りで餅を搗く。女天王であり神輿はなく、また、獅子は、天神様が嫌いだというため近づけないという。
 
    鳥居のすぐ左側にある庚申塔        社殿の右側にあるご神木
                        根元には力石が置かれている。
       
                  社殿からの眺め 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
加須インターネット博物館」「境内記念碑文」等 
 

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平永天神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市平永1197
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧下ノ村鎮守・旧村社
             
・例祭等 天神講 125日 春日待 415
 埼玉県道128号熊谷羽生線を「むさしの村」を越えて東行し、国道122号線との交点である「志多見」交差点を左折する。その後、国道122号線を750m程南下すると、進行方向右手に平永天神社が見えてくる。但し、この国道にはコンクリート製の中央分離帯があり、社に向かうため直接路地に移動することができないため、一旦通り過ぎてから、すぐ先にある「平永」交差点で右折し、迂回しながら社に向かうほかはないようだ。
 正面鳥居のすぐ左側に車両が数台駐車可能なスペースがあり、そこの一角に停めてから参拝を行う。
        
                  平永天神社正面
『日本歴史地名大系 』「下之村」の解説
 明願寺(みようがんじ)村の西にある。羽生領に所属(風土記稿)。寛永二年(一六二五)七月水野清六郎(忠保)は、徳川氏から「下ノ村」で四五八石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。田園簿によれば田高三二二石余・畑高二一八石余。旗本水野領と川越藩領とあるが、寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳に村名はみえず、国立史料館本元禄郷帳では水野ほか旗本二家と同松平の相給。松平家は川越藩主松平家の分家で、「風土記稿」では水野・松平と旗本富永領。
        
                 
平永天神社二の鳥居
        
                    拝 殿
 天神社  加須市平永一一九七(平永字本田)
 当地は合ノ川右岸自然堤防の南側に開けた所である。地名の平永とは、江戸期の地頭松舎人・水野十郎・富主膳ら三人の姓名にちなんで呼ばれ始めたという。
 当社の創建は、社記に「館林城主榊原康政の家臣松崎勘兵衛なる者、当地に住いてありしが、学徳に勝れ誠実にしてよく人を導きたれば、城主榊原康政これをいたく愛でて所蔵せる後陽成院御筆菅公像の掛軸を賜う。下ノ村(現平永)の里人菅公及び勘兵衛の徳を慕い、元和元年天神社を創祀す。下って明和三年社殿を再建し松崎家より件の掛軸の奉納ありたり」とある。
『風土記稿』に「天神社 村の鎮守とす、常泉院持」とある。また、「奉新建天神社拝殿・明和三丙戌年四月吉祥日・羽生領下ノ村別当常泉院寄寿」の拝殿棟札がある。
 明治九年に村社となり、同三十四年には社殿を再建し、村の鎮守として崇敬されたが、昭和二〇年の敗戦から三〇年を経て、当社への信仰は薄れてしまった。そのため、昭和五〇年正月、氏子は神社護持を改めて決議し、「祭祀復興・神域浄化・月例奉仕」を掲げ、昭和五三年に社殿を再興するに至った。
 古くは天神座像を安置していたが、昭和二〇年ごろ見当たらなくなり、現在は「天保十二年極月再興」の墨書のある台座だけ残る。
                                  「埼玉の神社」より引用
 氏子区域は、戦前は六耕地から成る平永全域であったが、現在は六耕地のうち本田耕地だけとなっている。ちなみに六耕地には各々鎮守社があり、本田耕地は当天神社、一丁畑耕地は地蔵尊、上平耕地は住吉社、新栄耕地は稲荷社、南明願寺耕地は白山社、北願寺耕地は八幡社を祀っている。このうち、現在も祭典が行われている神社は、当社と上平耕地の住吉社だけである。
 
  社殿の左側に祀られている浅間大神の石碑      社殿奥に祀られている境内社・稲荷神社。
                          並びに祀られている石祠は不明。
 
    駐車スペースの奥にある石碑類       並んで設置されている石碑二基
  左から本社建築之碑・石鳥居奉納之碑

 平永各耕地には石尊講があり、七月二〇日に講員は宿に集まり、庭に灯籠を立て、昼食は餡ころ餅、夕食は手打ちうどんを食べる風習がある。この日から八月三一日までは毎晩灯籠をつける。また、一〇年に一度は大山詣をする。
 七月一一日は常泉院の数珠を当社で回す百万遍があり、この日は大人も子供も集まる。
 七月七日は一丁畑にある八坂様の祭礼で、本田・上平・新栄・一丁畑で天王様を行い、耕地ごとに宿回りで餅を搗く。女天王であり神輿はなく、また、獅子は、天神様が嫌いだというため近づけないという。
        
                 社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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阿良川天神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市阿良川240
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧阿良川村鎮守
             
・例祭等 お元日 初天神日(春祭り天神) 125
 加須市志多見地域にある「むさしの村」南側に東西に流れる埼玉県道128号熊谷羽生線を行田方面に1㎞程西行し、十字路を左折する。会の川の南側を沿うように同県道128号線は走っているのだが、県道自体が自然堤防跡ではないかと思われる位に、南北の地との標高の差が特に南側面との標高差が45m程違って高い。現存している志多見砂丘と呼ばれる河畔砂丘の西端部に当たるのかもしれない。故に県道を左折直後、斜面を下るように進み、その後は周囲一面広がる水田地帯を眺めながら暫く南下すると、進行方向右手に阿良川天神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
        
                
阿良川天神社の正面鳥居                    
『日本歴史地名大系』 「阿良川村」の解説
 東は下之村、南東は道地村(現騎西町)、西は串作村など。当村の南西、串作村境から道地村境に至る長さ一・五キロ、幅平均一一メートル、堤敷一〇メートルほどの通称阿良川堤があった。寛永二年(一六二五)羽生領代官大河内金兵衛が、利根川・荒川からの水を防ぐ水除堤として築造したという(「風土記稿」「郡村誌」など)。現鷲宮町鷲宮神社の文禄四年(一五九四)八月付棟札に神領として「志多見荒河(中略)此郷何三分一」とみえる。羽生領に所属(風土記稿)。
        
         正面鳥居の脇には「明治四十三年八月 洪水記念碑」が建っている。

『明治43年の大水害』は、1910年(明治43年)8月に東日本の115県を襲った大水害である。85日ごろから続いた梅雨前線による雨に、11日に日本列島に接近し房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、さらに14日に沼津付近に上陸し甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、関東各地に集中豪雨をもたらした。利根川、荒川、多摩川水系の広範囲にわたって河川が氾濫し各地で堤防が決壊、群馬県など利根川左岸や下流域のほか、天明3年(1783年)の浅間山大噴火後徹底強化した右岸側においても、治水の要、中条堤が決壊したため氾濫流は埼玉県を縦断東京府にまで達し関東平野一面が文字通り水浸しになり、関東だけで死者769人、行方不明者78人、家屋全壊・流出約5000戸を数え、東京府だけでも約150万人が被災する大惨事となった。
        
            
周囲一帯田園風景の中にポツンと鎮座する社
 加須市は地形的に大部分が低地帯で、平坦面であるため、古くから「暴れ川」利根川や渡良瀬川、荒川など、河川と共に歴史を重ねてきた「水の町」で、過去、多くの水害に悩まされてきた。そのたびに民家は流失し、人畜の死傷も甚だしく、田畑等の損害も甚大であり、その惨状は筆紙に尽し難いほどであっろう。
 
参道途中、左側に祀られている庚申・道祖神の石碑   石碑の並びに祀られている石碑二基
  左から庚申塔・道祖神・道祖神・庚申塔        左から庚申塔・御嶽大神     
        
                    拝 殿
 天神社  加須市阿良川二四〇(阿良川字天神)
 往古、会ノ川が利根川の本流であったころは坂東太郎の名の通り流量も多く、そのため、流域では洪水による被害が頻繁に受けた。当地名もこのような利根川の様相に由来すると思われる。
 当社は弘安年間の創建と伝え、菅原道真公を祭神とし、内陣には天神座像を安置する。
『風土記稿』によると、江戸期は真言宗薬王山常徳寺が別当となり当社の管理に当たっていた。
 明治八年、上地から稲荷神社を合祀し、同四三年には千方の常徳寺裏にあった雷電神社を、翌四四年には同字の千方神社と同境内社の諏訪神社を合祀した。現在、旧雷電神社社殿に合祀社の四社が合殿として祀られている。
 昭和四一年、暴風雨により社殿が大破したため、同時に倒れた裏山の木を用いて、同四二年一一月氏子有志により再建された。
 戦前までは「天神様の分」と呼ばれた社領が二、三反ほどあり、名主であった福田家が管理をして、小作に貸し出し、その小作料を神社の費用に充てていたが、農地解放のため失った。以後、神社の運営に必要な費用は氏子全員で負担することとなり、年二回、祭礼前日の除草時に維持費として当番が集めている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿手前で向かって左側に祀られている     拝殿手前の向かって右側に一体だけある
     境内社・八坂社と神楽殿              牛の神使石像
       
                                      本 殿
 『新編武蔵風土記稿 阿良川村』には、北西串作村から阿良川村を経て東道地村に至る「堤」の存在を示す段があり、高さは「一丈」、つまり3m程の高さであったという。因みに『日本歴史地名大系』によるとこの堤は「阿良川堤」と表記されている。それでも、寛保28月(1742)未曾有の大洪水があり、利根川・荒川・入間川が氾濫し、堤防の決潰は広く96ヶ所に及び、その中の一つである加須市志多見の阿良川地内では、この堤約90mが決壊し、利根川を始めとする多くの諸河川の水が溢れ、被害は江戸までおよび、この地域でも洪水で多くの人が亡くなったという
『新編武蔵風土記稿 阿良川村』
堤 村の西南にあり、利根川本圍堤なり、高一丈、騎西・幸手二ケ領水溢の爲に設く、寛保二年洪水の時押破られしを、同時に京極佐渡守命を蒙りて修理せしと云。此堤は串作・道地の二村に續けり、

        
               本殿奥に祀られている合祀合殿
     中には雷電神社や稲荷神社・千方神社・諏訪神社の神名が記された碑あり。   
   拝殿の右側にある「富士講記念碑」    「富士講記念碑」の右側並びに祀られている
                         (?)・辨財天・辨才天の石碑三基
 氏子区域は旧阿良川村全域で、全戸が氏子となっていて、そのほとんどが農業に従事している関係から、榛名講・三峰講・石尊講が盛んに行われていた。但し現在榛名講は消滅し、三峰講の講員も天神耕地の者だけに限られるようになったという。
 氏子は「天神様」と呼び、単に「天神」又は「天満天神」と呼ぶこともある。また、近郊からは「阿良川の天神様」と呼ばれ、学問の神として信仰を集めている。
 また、
古くから洪水の度に疫病に襲われていたためか、当地では疫病除けの行事が盛んで、7月中には、11日から4日間も天王神輿の渡御が行われ、15日には下須戸地域の八坂神社からお水を受けて来る。これを「天王様の水」と称して、飲めば病気にならず、風呂に入れれば綺麗になるという。更に20日には疫病除けのため、百何遍を行っているという。
        
              社殿から境内、及び参道方向を撮影
                             


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
 

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