古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上川俣天神社

『日本歴史地名大系』 「上川俣村」の解説
 [現在地名]羽生市上川俣
 利根川南岸の自然堤防上に位置し、西方を会(あい)の川が流れる。桑崎(くわさき)村の北にあり、古くは東隣の本川俣(ほんかわまた)村と一村であった。天正六年(一五七八)三月七日、木戸元斎は上野国三夜沢(みよさわ)大明神(現群馬県宮城村の赤城神社)に羽生城回復を祈願し、祈願成就の際には埼玉郡河俣郷など三ヵ郷から三貫文の地と神馬三疋を寄進することを約している(「木戸元斎願文」奈良原文書)。

        
              
・所在地 埼玉県羽生市上川俣1401
              ・ご祭神 菅原道真公
              ・社 格 旧上川俣村鎮守
              ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.com/maps/@36.188196,139.5185383,16.71z?hl=ja&entry=ttu
 羽生市北に鎮座する大天白神社、及び大天白公園から一旦国道122号線に戻り、右折し利根川方向に1.4㎞程進行する。「埼玉用水路」を越えた直後の信号を左折し、用水路沿いに進むと、斜め右方向に曲がる道幅の狭い路地があり、その先に上川俣天神社の白い石製の鳥居が見えてくる。
        
                 上川俣天神社 一の鳥居
          とにかく長い参道で、朱色の二の鳥居が小さく見える。
 実は十数年前にこの社は参拝したことがある。当時筆者は業務の関係で、南羽生駅付近に勤務し、時折「道の駅 はにゅう」にも出入りしていた関係で、その南東に鎮座していたこの社の存在は知っていたので、今回参拝に当たって、大体のイメージはついていた。
 この社の大きな特徴は、社の規模に対して、230m程の長い参道が真っ直ぐに続いていることにある。石製の一の鳥居から130m程参道を進むと朱の両部鳥居である二の鳥居にたどり着くが、そこから尚100m歩かなければ社殿に到着することができない。社の規模を考えると、この長い参道は普通ではない。
 苦労した点はまだある。社の場所は特定できたのだが、周辺に適当な駐車スペースが全くないことだ。確かに社に隣接して「上川俣地区集会所」があり、当初国道からのアプローチにて、北方向から試してみたのだが、集会所まで、車一台がやっとの道幅しかない路地を通らなければならず、結局そこから進むことを諦め、南側の埼玉用水路沿いから社に通じる路地を右折して臨んだ。やはりここも道幅は狭いのだが、そのまま直進して、二の鳥居近郊にあるごみ集積場付近の広い空間に駐車させてから、やっと参拝を開始することができた。ただし、そこから一旦東方向にある一の鳥居に戻らなければならず、また一苦労である。
 
  一の鳥居から僅かに見える二の鳥居        二の鳥居の前には神橋もある。
 羽生市上川俣地域は、東武伊勢崎線の西側、利根川南岸の自然堤防上に位置しており、写真を見て分かる通り、豊かな水田地帯である。
 この地には昔「藤原姓佐野氏流」から出た「川俣氏」が出ている。
『田原族譜』「佐野実綱(弘安九年没)―戸室七郎四郎親綱―重行―重正―出羽守親久(武州埼玉郡騎西城主)―親元―親邦―川俣左京進親義(川俣祖)」
        
             主を基調とした両部鳥居の二の鳥居
 一の鳥居の社号額には「天神社」と刻印されているが、この二の鳥居の社号額には「正一位 雷電宮 天満宮」と記されている。元々この社は住吉社・八幡社・天神社・白山社・愛宕社の五社に分かれていたが、慶安二年(1650)に統合して「天神社」という名称となったという。
        
            二の鳥居を過ぎて、また再度参道を進む。
    参拝日は夏本番の晴天。この地に立っているだけでも汗が全身に噴出す陽気。
        
                参道途中に設置されている「作詞家 関口義明先生の顕彰碑」
 関口義明氏は、昭和15年羽生市上川俣で生まれで、地元・川俣中学を出て羽生実業高等学校を卒業後、県内の銀行に勤務。その傍ら作詞に興味を持ち、ざっち「家の光」に投稿したところ一位に入賞し、東芝レコードに採用されて、昭和三十九年(1964)作詞した「あゝ上野駅」が大ヒッ トした。
日本の高度経済成長期、集団就職列車が上野駅に到着した時の、就職者の気持ちを歌った「あゝ上野駅」は郷愁を誘う人生の応援歌として、今なお若い人にも愛され歌われている。
 氏は、作詞家人生の五十年で三百を超える詩を作り、数多くの歌手にその詩が歌われ、この詩に対する功績を讃え、顕彰碑を建立したという。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上川俣村』
 上川俣村は元川俣村と一村の地なれば、すべてのこと前村(本川俣村)と異なるなし、民戸八十餘、東は本川俣村、南は桑崎村、西は小須賀・上新郷の二村にて、北は利根川を境として上野国邑樂郡梅原村なり、東西十三町、南北八九町、檢地は貞享四年甲府殿領知のとき糺せり、
 高札場 村の西にあり
 小名 寄居耕地 佐畑耕地 柳根 大門耕地
 利根川 北の境を流る、川幅三百間、水かさ増れるときは四百八十間に及べり、當村内にも龍藏川岸と云江戸運漕の河岸あり、川路二十六里、
 住吉社 〇八幡社 〇天神社 〇白山社 〇愛宕社
 以上村の鎭守なり、慶安二年五社合して、社領十五石五斗餘の御朱印を賜ふ、
 別當西照寺 新義眞言宗上羽生村正覺院末、住吉山淨土院と號す、本尊彌陀立像にて丈ニ尺三寸、運慶の作と云、
 大日堂 塔天神社 〇赤城社 二社共に西照寺持、
 
  拝殿の扁額には「天満宮」と記されている。            本 殿
 
  社殿左側に祀られている赤城大神の石碑     社殿右側に鎮座する境内社。詳細不明。
 
   境内右手方向に祀られている石碑群        並びに祀られている石碑等。左から愛宕社・
   左より住吉社、八幡社、武塔天神社    白山社、河伯水神・大杉明神、右側の社は不明。 
        
                  広々とした社の空間


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市自治会連合会だより」
    「境内碑文」等

 




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下中条治子神社


        
             
・所在地 埼玉県行田市下中条1665
             
・ご祭神 天手長雄命
             
・社 格 下中條村鎮守・旧村社
             
・例祭等 例大祭(下中条の獅子舞) 818日に近い日曜日
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1892365,139.4645613,15.42z?hl=ja&entry=ttu
 須賀熊野神社から埼玉県道59号羽生妻沼線を西行し、「利根大堰」交差点を直進し、400m程進んだ右側に鎮座している。以前はここより150m程西にあったが、利根川堤防拡張工事の関係で移設を行なったようで、社殿や社務所も新たに建てられたようだ。白木の美しい社務所の南側には十数台駐車可能なスペースも確保されている。
        
                 下中条治子神社正面
 美しい社。移設に伴い、社殿や社務所、手水舎等の施設は勿論の事、境内全体も新しく整備したようで、見た目も綺麗である。境内周囲にある社叢林もなく、若い木々である。何より遠目から見ても白木の社殿の美しさには、我々日本人の美的感覚を擽(くすぐ)られ、恥ずかしながら、一時時が止まったかのように暫く見とれてしまった。
 勿論人の手による人工的な建造物であることは違いないのだが、今流行りの近代的な建物に比べると、木本来の美しさを日本人技術者(職人)が熟知し、加工を加えることにより、日本独特の木造建造物を創り出したと言えよう。思えば、日本全国に鎮座する数万社ともいわれる神社も、創建当時はこのような美しさであったのだ。
 
それと同時に社の創建に伴う、現実的な予算は如何ばかりであったろう。地方自治体の補助金だけでなく、地域の氏子・総代・地域住民等からの志(こころざし・寄付金)も決して少なくはなかったはずで、社の移転が決まり、完成に至るまでの経緯やそれまでの苦労を思うと、頭が下がる思いだ。
 鳥居正面に立ち、ふとそのような取り留めのないことを考えてしまった次第だ。
        
             石製の白い鳥居が盛暑の空に一際目立つ。
            利根川堤防が東西に広がる地に社は鎮座する。
『日本歴史地名大系』 「下中条村」の解説
 [現在地名]行田市下中条
 北は利根川に接し、南は斎条(さいじよう)村、東は見沼代用水を隔てて須賀(すか)村。荒川扇状地末端約五キロ平方にわたり、地下一メートルの所に埋没している古代条里遺構の西端に上中条村(現熊谷市)があり、東端に当村が位置していると解されている。縄文時代後期および古墳時代の集落遺跡がある。古くは幡羅(はら)郡の東端であったとする説がある。
 天正一九年(一五九一)六月松平家忠が一万石を宛行われたが、このうちに「下中条村」の三一七石余も含まれた(「伊奈忠次知行書立」長崎県片山家文書)。
        
        新しく造られた事もあり、参道や境内も綺麗に整備されている。
        一対の狛犬は昔からのもののようで、新しい台座の上に立っている。 
『新編武蔵風土記稿』によれば「天手長雄命」がご祭神として祀られているとの記載がある。天手長雄神は知る人ぞ知る壱岐国一宮の天手長雄神社のご祭神で、正式名は「天手力雄命」。この神は埼玉県、特に北部に多く祀られている神であり、どのような経緯で武蔵国まで伝搬したか、いつかは考察したい神である。一方、『埼玉県の神社』では「治由保大神(ちゆほのおおかみ)」、『ぎょうだ歴史系譜100話 行田の神々』では、天照大神の末子である「治子大明神」がご祭神となっている
 また社の名称「治子」も行田HPによれば「はるこ」と読んでいるが、「八百万の神HP」「神社人HP」では「じこ」、又は「ちこ」と訓よみされている場合もあり、正式な名称はハッキリとは分からない。
 どちらにしろ、どことなく不思議な香りが漂う社である。
        
          鳥居を過ぎて参道を進むと、右手に設置されている「治子神社改築記念碑」
        
           記念碑の並びには境内社・浅間神社が鎮座する。
 塚上には「御嶽神社」「角行霊神・食行霊神」「亀岩八大龍神」等多くの石碑が祭られている。
 
 これも新調した手水舎。参道の右側にあり。    境内社・浅間神社の並びにある石碑・石祠群
   手水舎の奥には「宝物殿」が見える。   石祠には「不士山・水天宮・大黒天・庚申塔」等あり
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下中條村』
 冶子明神社 村の鎭守なり、祭神は天手長雄命と云、
 別當金藏院 小角山と號す、本山修驗、幸手不動院配下、開山秀範慶長十一年十一月化す、

       本尊不動を安ず、
『ぎょうだ歴史系譜100話 行田の神々より』
 治子神社(下中条)
 言い伝えによると、忍城主の成田氏が城の鎮守神として治子神社を祭ったとも、また、室町時代の応永八年に鎌倉から遷座したともいわれています。
 祭神は、天照大神の末子治子大明神とも、天手長雄命ともいわれていますが、神社と寺が一緒であった時代の別当金蔵院は修験であり、その影響で当社の内陣には木造の聖観音像が祭られています。
 当社と隣接する興徳寺を中心に「下中条の獅子舞」が残されています。十八世紀後半の天明年間に利根川の洪水があり、獅子頭が漂着したので神前に奉納し獅子舞を舞ったのが始まりといいます。
 災難から村を守る厄神除けや四方固めのほか八月十八日の治子神社の例大祭(今日ではこれに近い日曜日)には神社と興徳寺で獅子舞が奉納されます。
 弓、花、笹、注連、鐘巻など奉納される多くの演目の中で、特に鐘巻は北埼玉地方に残されている演目であり、鐘の中の大蛇を獅子が退治する内容で、歌舞伎でおなじみの娘道成寺を題材にしたものです。
 さらに下中条の獅子舞の大きな特色は、棒術(棒剣道)が獅子舞と一緒に残されていることにあり、昭和五五年埼玉県指定民俗文化財に指定されました。
       
                                    本 殿
 ところで、下中条地域の獅子舞は、「下中條の獅子舞」ともよばれ、市内下中条地区に伝わる民俗芸能で、現在は下中条獅子舞保存会が保存・継承し、治子神社(はるこじんじゃ)、興徳寺(こうとくじ)を中心に奉納されているという。

             社殿左側に祭られている合祀社(写真左)・境内社(同右)
 左側の合祀社は、左から諏訪神社 八坂神社 稲荷神社 天神社 白山神社が祀られている。
合祀社のすぐ右手並びには、境内社・神明社が鎮座。神明社の左には「水神」「?」の石祠がある。
       
        社殿右手奥に祀られている「御嶽山大神・八海山大神・三笠山大神」等の石碑群
 他には「蚕影山、豊受大神・富士嶽神社・愛宕大明神・稲荷大明神」等の石碑が祭られている。
       
                                 社殿からの風景

「下中條の獅子舞」の起源については不詳ですが、言い伝えでは天明年間(17811789)の利根川大洪水の時に獅子頭が漂着し、これを神前に奉納して始まったと言われています。また、慶長5年(1598)に鎌倉の長谷から移住してきた長谷川家が下中条村を拓いた時から始まったとも言われていますが、その目的は厄除け、尚武のためと言われます。
 弓、花、笹、注連、鐘巻(かねまき)などの演目の中で、特に鐘巻は北埼玉地方に残されている演目であり、鐘の中の大蛇を獅子が退治する内容で、歌舞伎でおなじみの娘道成寺を題材にしています。また、下中条の獅子舞の大きな特色は、棒術(棒剣道)が獅子舞と一緒に残されていることにあります。
 現在は災難から村を守る厄神除けや四方固めのほか818日(現在はこれに近い土曜日)の治子神社の例大祭に演じられています。
 区分 県指定民俗文化財
 種別 無形民俗文化財
 所在地 行田市下中条
 形態 三匹獅子舞
 指定年月日 昭和55329
                                  「行田市 
HP
」より引用


        
      下中条治子神社から南西方向(直線距離にして250m程)に愛宕神社が鎮座している。
 創建時期等は不明。『新編武蔵風土記稿』でも「「愛宕社 太神宮 神明社 以上三社、金藏院持、」としか記載がない。
 
         社 殿          鳥居の右手に銀杏の巨木が聳え立つ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」ぎょうだ歴史系譜100話 行田の神々より」
    「行田市 HP」等
   

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下中森長良神社


        
             
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町大字下中森86
             
・ご祭神 藤原長良公(推定)
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1944132,139.4761404,16z?hl=ja&entry=ttu
 上中森八幡宮から一旦北上して群馬県道368号上中森川俣停車場線に合流後、そこを右折、同県道を1㎞程東行した十字路を再度右折し、450m程南下した利根川土手のすぐ北側に下中森長良神社は鎮座している。
本来ならば、上中森八幡宮から土手伝いに西行するほうが、近道で当社に到着できるのだが、実際には社同士直通する道はなく、道が入り組んでいて少々説明しづらいので、県道を通るルート説明となった。
 また社周辺には適当な駐車スペースはないため、近郊にある「下中森公民館」の駐車場を利用してから参拝を開始した。
        
                 
下中森長良神社正面
              画像左側には利根川の堤防が見える。
『日本歴史地名大系 』「下中森村」の解説
 [現在地名]千代田町下中森
 北東は大輪村(現明和村)、西は上中森村、南は利根川を隔てて武蔵国埼玉郡須賀村(現埼玉県行田市)。近世は初め館林藩領。寛文郷帳では中森村とのみある。寛文地方要録(館林市立図書館蔵)に下中森村高九三五石七斗余、田三六町三反余・畑五九町六反余とある。天和二年(一六八二)幕府領、旗本中根・新見領の三給となる。村高八八四石二斗余(分郷配当帳)。

 群馬県千代田町は利根川沿いにある為、太古の昔から今に至るまで、利根川から被害と恩恵を受けながら発展してきた。川沿いの舞木・赤岩・中森・瀬戸井等の部落は現在南に堤防が高く続いている。明治四十三年の洪水以後に築かれたものであるが、それ以前は江戸時代初期以来十余度の洪水に遭遇している。中でも元禄十二年の洪水の被害は大きく、その後、享保、天明、文政、明治年間に大洪水が繰返されてきた。下中森地域も同様で、過去利根川破堤の歴史、及び自然災害は途切れることなく発生していた。
・寛文11年(16717月 下中森破堤
・享保18年(1733) 下中森破堤
・天明3年(1783 75日〜8日浅間山爆発し、砂二寸も積もる。焼石、焼岩利根川に押し入り魚多く死す。硫黄の水も流出。浅間山史上最も著名な噴火である。
・明治43年(1910811日午前2 、下中森大輪境破堤、流失家屋四十六戸、耕地の被害田二百二十六町一反三畝、畑三百五十二町二反四畝、富永村において救助を受けたる戸数七百一戸、金額ーー、九四六円三厘という。
 このような水害をもたらした利根川は、一面陸上交通の発達しなかった時期には水上交通の動脈として大きな役割を果たしてきた。舞木赤岩・上五箇上中森には河岸が設けられ、物資の交流に役立っていたが 、その後、鉄道開通によりその機能を失った。
 利根川を控えた本村においては、舞木.赤岩・上中森• 下中森•上五箇には河岸や渡しがあって、対岸の埼玉県を通って東京(江戸)への通過地点として重要な役割を果してきたのである。
        
                   参道右手にある建物。神楽殿だろうか。
 土地の伝承によれば、明治四十三年の利根川の大洪水以前は、川巾が狭く、埼玉県側との人馬の交流が盛んであったという。なお、渡船は埼玉県側との間に次のような連絡がとれていた。下中森と埼玉県の須賀村、上中森と下中条村、上五箇と酒巻村、赤岩と葛和田村(これは現在も運行)、舞木と俵瀬村、このうち、俵瀬村は古くは赤岩村の一部であったが、寛永の頃埼玉県側の俵瀬村となったといわれ、赤岩からの分家の記録もあったという。上•下中森方面は、埼玉県の羽生市と、瀬戸井、上五箇方面は行田市と、赤岩、舞木方面は熊谷市との経済交流もあり、同方面への高校進学者もあり、また婚姻関係も密接であった。
 このように、埼玉県側との交流は古くから盛んであったことは、本村における習俗の面にも影響を及ぼしていたことであろう。
 社会生活の面でも、利根川の大洪水の影響がみられていて、洪水体験も各大字に伝承されているし、水防についてもいろいろな方法が考えられているのである。上五箇地域のように、大きな災害を何度も受けてきたことが今に伝えられる例もあれば、古海地域の用水取入ロの砂の取払い人員としての古海役とか、利根川の土手刈りなど、この地方の特色を示した習俗といえよう。
        
                    拝 殿
                      創建時期・由緒等は不明。
『千代田村の民俗』によれば、下中森長良神社の春、夏、秋の祭りに、下中森の宮総代がキリハギを作って悪魔除けとして、下中森と上中森の境界の道端に立てたという。

 ところで、瀬戸井長良神社は、邑楽郡下や一部新田郡下に分布する長良神社の中心的な存在で、嘗ては旧佐貫荘十ニカ村の総鎮守であったという。
 長良神社は祭神を藤原長良公としており、土地の伝承によると、長良公が東国平治のためにこの地方に来て善政をしいたので、土地の人びとはその徳を慕ってすでに春日神社の末社として列祀されていた長良公の霊を、ここ瀬戸井に分祀したものという。伝承・伝説はあくまで参考資料として尊重すべき対象であるが、根源的な成立要因として、嘗て利根川水害の被害が多かったこの地形と関連づけて長良神社の成立を考えるべきであろう。
 長良神社の分布範囲が舘林市から大泉町の利根川流域(数社羽生地域にも鎮座)に限られていること、人柱伝説を伝えていることで神社は蛇ということあるいは秋の祭典にわらで龍のかたちをつくつて鳥居にかざること、この神社には龍がいて利根川の水を飲んだということなどから、同社の神格に、水神信仰との関連を推論することができそうである。
 当社は、利根川堤防に隣接するその立地条件からも「長良十八社」の一社と推測され、同じ文化・伝承を共有する社であるのであろう。
 
    拝殿上部の向拝・木鼻部の彫刻                          本 殿
        
              拝殿の左側に祀られている石祠群
 左側から(?)、正一位稲荷大明神、富士嶽浅間神社、御嶽三柱大神、三峯社、秋葉大権現・金毘羅大権現、(?)。写真には写っていないが、基段の下左端に庚申塔・(?)。
        
             社殿の右手に祀られている「英魂」碑
 
   「英魂」碑の右手に並列している石碑群    「合祀記念碑」の右側には「再建の碑」
   左から「工事記念碑」「合祀記念碑」     「凱旋記念碑」「凱旋記念碑」あり
 工事記念碑
 戦争を放来し文化の隆昌と民生の繁栄を国是として茲に(中略)利根河川改修工事等も逐年拡大補強が続けられていたのである。偶世紀の利根大堰建設に伴い、下中森地堤防の拡張が急速に促進され為に昭和401030日村社・長良神社の発展的な移転が此処に余儀なく決定されるに至った。
 世々に氏子が斎き奉る御社だけに移転の際には慎重且厳粛にその審議が進められ、結局此処に永く鎮り祀る歴史の尊厳を基調として、更に明日の部落永劫の繁栄を加護し給う〇〇十宮居を整工祀る事こそ其の局に当る者の責務也とし、先ず堤防敷地文として譲渡する197坪の土地に代え隣接する255坪を入手之工費に宛て、昭和411月着工の運びとなる(以下略)。
読みやすいように筆者修正した部分あります。
        
                   境内の風景
 この地域を含む群馬県南部利根川左岸の低地帯は「上州の空っ風」といわれる、冬時期特有の北風が吹く。この風は非常に強いため、冬を越すと堀が一年で泥で埋まるほどである。そこで、「イヤマ」と呼ばれる防風林を西北側に囲むような配置となっている。
 下中森長良神社の西北側にも防風林がしっかりと配置されている。



参考資料「日本歴史地名大系」「千代田村の民俗」「境内記念碑文」等

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上中森八幡宮


        
             
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町上中森11291
             
・ご祭神 誉田和気命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例祭 315日 915
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1932841,139.4759106,16z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県行田市から「利根大堰」を渡り、群馬県に入る。そのまま北上して「上中森」交差点を右折し、群馬県道368号上中森川俣停車場線を300m程進んだ信号のある交差点を右折、「道祖神橋」を渡って突き当たるまで南下すると、進行方向右側で利根川の堤防手前に上中森八幡宮は鎮座している。
 社の北側近郊には「上中森公会堂」があり、そこの駐車スペースに車を停めてから参拝を開始する。目の前には利根川の長大な堤防が、そして周囲一面田畑風景が広がる低地帯の中にポツンと静かに社は鎮座している。
        
                  上中森八幡正面
        瀬戸井長良神社同様に利根川に向かって社殿は鎮座している。
『千代田村の民俗』による上中森村の解説
・名称 称呼ノ起因不詳建置已来上中森村卜称ス
所属 上古不詳 中古ヨリ邑楽郡赤岩郷ニ属シ佐貫荘ニ隸ス 寛文元年ヨリ館林領卜云フ 明治元年九月岩鼻県ノ管轄ニ属シ仝四年二月館林藩ノ管轄ニ属シ仝年七月館林県トナル 仝年十一月栃木県ノ管轄ニ属ス 仝五年四月第七拾区ニ属シ須賀村御用取扱所ニ属ス 仝六年三月第八大区八小区トナリ御用取扱所故ノ如シ 仝年八月第拾一大区八小区二編シ御用取扱所仝上 仝九年四月十日第四大区十二小区ニ編シ須賀村御用取扱所ヲ区務所卜改メ仝村ニ置ク 仝年八月九日更ニ群馬県ノ管轄ニ帰シ第二十三大区八小区二編シ区務所故ノ如シ 仝十一年十二月邑楽郡役所ノ管理ニ属シ郡区編制ノ令ニ拠リ上五箇上中森下中森ノ三ケ村ヲ連合シテ戸長役場ヲ本村ニ置ク 仝十三年十二月分離独立シテ戸長役場ヲ本村二置ク 仝十七年七月一日上五箇上中森萱野木崎瀬戸井ノ五ケ村ヲ連合シテ戸長役場ヲ上五箇村ニ置ク
 また『日本歴史地名大系』での 「上中森村」の解説によれば、「佐貫庄のうちで、永仁三年(一二九五)一二月二一日の関東下知状(長楽寺文書)によれば、「上野国佐貫庄上中森郷内田陸段、在家壱宇、畠壱町肆段」は大輪又太郎時秀から太田彦三郎貞康に所有が移っている」との記載があり、鎌倉時代には「上中森郷」が存在していたことになろう。
        
    鳥居を過ぎてすぐ左側には上中森地域の土地改良記念にあたる「竣工記念」が建つ
 上記『千代田村の民俗』には、土地改修以前の上中森村の地形等を解説しているので、何故この地域に改修工事が必要だったのか、その理由が分かるので、是非参照して頂きたい。
『千代田村の民俗』による上中森村の地形等の解説
・水脈

 利根川上五箇村ノ南端ヨリ来リ本村ノ南ニ-沿ヒ東流シテ下中森ニ入ル 舟楫ノ便アリ 然レトモ霖雨暴漲ノ際汎濫ノ憂アリ 休伯堀上五箇村リ来リ中央ヲ東流シテ下中森村ニ入ル 則本村ノ用水ナリト雖モ已南ハ灌漑ノ利ナク已北ハ其便アレドモ夏候渇水ノ憂アリ 谷田川ハ本村ノ西北隅ヨリ始リ北境ヲ東流シ大輪沼新田ニ入ル 本川ハ悪水落二シテ霖雨ノ際流通宜シカラス悪水ノ害アリ
・地形全般

 地形稔魚に似タリ 閨村平担ニシテ南境ニ利根川ヲ帯ヒ舟楫ノ利アリト雖モ霜雨激潦ノ際汎濫ノ憂アリ 堤塘東西ニ旦リ休伯堀中央ヲ東流ス 則本村ノ用ナリ 然モ水量浅クシテ夏侯渇水ノ憂ヲ免レス
 
北部ハ窪地ニシテ谷田川ニ沿へ悪水ノ害ヲ被ル頃年ノ如シ
       
            鳥居を過ぎて参道左手側に富士塚大神
   嘗て千代田村では 、「富士講」は大正末から昭和の初期まで盛んであったという。
         社の境内にある石碑にもその足跡が残されているようだ。
 
  富士
塚大神の並びに祀られている境内社    境内社二社の右並びに祀られている石祠群
     境内社二社の詳細は不明       左から両社八幡宮 水神宮 稲荷宮 八幡宮 不明
         
                     拝 殿
 当社の起源は文献等なく、往古は不詳。寛政8年(1796 2月、別当である杉戸山常福院秀観の代に、社殿を造営し、その後大正卯411月には、社掌である南室傳氏の代に本殿・拝殿の大修繕を行っている。
 また『千代田村の民俗』によると、明治511月より村社に列している。
        
             境内に設置されている「移転改築記念」碑
 移転改築記念  村会議長 栗原忠重書
 八幡宮ハ上中森ノ守護神トシテ永年コノ郷ニ鎮座マシマスモ偶利根川堤防拡張ニ当リ昭和四十年十月二十三日境内地大福ニ買〇サレ参道ハ殆ド無クナル状態トナリ宮ノ尊厳保持ニ大ナル影響ガアルノデ敬神ノ念極メテ厚イ氏子一同ハ相談ノ結果村長川島源〇氏ニ協力ヲ求メ建設省ニ対シ社殿移転費捻出方ヲ歎願シタルトコロ快諾ヲ得タノデ直チニ建設委員会ヲ組織シ移転改築工事ニ着手ス玉垣建設ニツイテハ氏子ノ寄附ニヨル境内ノ整地其ノ他ハ総テ勤労奉仕ニヨルモノデアリ昭和四十一年三月立派ニ工事ヲ完成シタノデアル(中略)
                                     記念碑文より引用

        
                  境内の一風景
           利根川の堤防がすぐ目の前にある事がわかる。


参考資料「日本歴史地名大系」「千代田村の民俗」「境内記念碑文」等
  

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上五箇愛宕神社


        
            
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町大字上五箇8351
            
・ご祭神 火霊産命
            
・社 格 旧上五箇村鎮守・旧指定村社
            
・例祭等 春祭り 3月24日 夏祭り 724日 秋祭り 9月24日
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1975842,139.46029,17.25z?hl=ja&entry=ttu
 行田市の「利根大堰」を北上し、群馬県に入り「上中森」交差点を左折する。栃木県道・群馬県道38号足利千代田線を1㎞程西行すると、上五箇愛宕神社が進路左側に見えてくる。実は当神社を更に1.3㎞程西行すると瀬戸井長良神社が鎮座しており、当初ブログに紹介する社をどちらにするか迷ったが、千代田町地域の中心的な社である事を考慮して、最初に瀬戸井長良神社を紹介した次第だ。
 周囲には適当な駐車スペースはないため、路駐し、急ぎ参拝を行う。
        
                 上五箇愛宕神社正面
『日本歴史地名大系』 「上五箇村」の解説
 [現在地名]千代田町上五箇
 東は上中森村、西は瀬戸井村、北は萱野村、南は武蔵国埼玉郡酒巻村・下中条村(現埼玉県行田市)と利根川中央で境界とする。用水として休泊堀が瀬戸井村から当村の中央辺を東流している。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に「上五ケ村」とあり、田方七石五斗余・畑方四六三石四斗余とある。寛文地方要録(館林市立図書館蔵)では高八〇五石五斗余、田一一町八反余・畑六六町八反余である。天和二年(一六八二)幕府領、旗本筧・柴田・奥山領の四給となる。
 因みに「上五箇」と書き、「かみごか」と読む。なかなか個性ある地域名称だ。
              
        鳥居左側には「指定村社愛宕神社」と刻まれた社号標柱が建つ。
        
      鳥居を過ぎたすぐ左手には、出羽三山講の塚と共に「芭蕉句碑」が設置されている。
 上五箇地域は「さんやま講」という江戸時代から大東亜戦争終了まで続く出羽三山信仰が盛んな地域であったようだ。[千代田村の民俗』でも、「羽黒山の先達 吉永家の先祖は羽黒山の大先達で、この地方の信仰を高めた。免許状に「紋秀院紋十郎 天保元年十二月二十日生 信心好羽前羽黒山入門 大先達号賜 万延元年九月一日 上野東數山輪王寺宮殿下紋秀院授与」とある。この人は大正三年九月一日歿 享年八十五才となっている」と記載がある。当地の「吉永家」が中心となって、年輩のもの(五十 六十才位))の男性が集まり、人数は16人くらいで、信心者が集まって講をつくっていたという。
 この芭蕉の句碑は、出羽三山登山記念碑として建立された。この3つの句は芭蕉が奥の細道のさいに出羽三山で詠んだものとされる。明治33年(1900)建立。
 
 二の鳥居手前で、左側に祀られている旭向(ヒノムク)八幡神宮(写真左)・三山敬愛神社。塚上には出羽三山の神が刻まれた石碑がたっている(同右)。
 元々この旭向八幡神宮(祭神は八幡太郎義家)は上五箇の小字福田に鎮座していた。これは上組の福田で祭っていたものだが明治43年のとき、愛宕神社へ合祀した(明治時代の大洪水が関係しているのであろう)。祭日は914日である。この八幡様には、つぎのような伝説がある。
「八幡太郎義家が蝦夷征伐に行くとき、利根川を渡って陸上(五箇地先)へあがったときに、太陽があがったので旭向ということになったという。なお、埼玉には、しぐれ八幡があり、邑楽町には鞍掛というところがある。鞍掛というのは、義家が、そこまで行ってつかれたので乗っていた馬の鞍をかけたので、そこをそう呼ぶようになったという」
 今でも福田の人々が主になって祭っている。ここは利根川の沿岸近くにある 昔八幡太郎義家が蝦夷征伐に来て、埼玉側から群馬側へ五箇の渡しを使って利根川を渡り始めた。その時は日暮れだったが、渡りきったら日が上がっていたので埼玉側に「日暮れ八幡」を祭り、こちら側に旭日(ヒノムコウ)八幡を祀ったという。
 因みに現在旭向旭向八幡神宮は愛宕神社拝殿内に祀られている。
        
                上五箇愛宕神社 二の鳥居
        
                    拝 殿
上五箇村鎮守愛宕大神御身鉢ノ由来大略」
 本村鎮守愛宕大神ノ御尊像ハ村民モ是ヲ知ルニ由ナシ 然ルニ大正四年八月二十八日(旧七月十九日)三山講社ハ鎮守ノ御神前ヲ借リー七日ノ水行執行中鎮守ノ神勅ニ依リ申佐久 我上五箇村ハ往昔戦乱ノ為メ在京ノ公卿東下シテ此地二落付守護神ナル京都ノ愛宕大神ヲ奉祭セント今 ノ地上二築キ 愛宕大権現卜名ニシテ崇拝セリ 又駒形ノ地ニ一堂宇を建立シ祖先ヲ祭ラント 今ノ阿弥堂コレナリ 石ヲ今年去ル四百十六年以前朝廷ヲ返乱セントスルヲ 京都ノ愛宕大神ノ御尊像ヲ負ヒ来リ関宿付近ニ安置ノ場所ノナキ故 利根川ノ水源ヲ極メテコレヲ安置セントテ当村ヨリ戸数三戸ニシテ社アルヲ発見シ 今ノ阿弥陀堂ニ至リ是ヲ安置シ京都ニ帰リ 然ルニ京都ニテハ其御尊像ヲ八方捜索セシヲ更ニ見当ラ ズシテ後ニ神体ヲ彫リテ安置セリト云 上五箇始祖ハ吉永ノ祖先吉永五計ナリ 故ニ後世ニ伝フ可キト申渡サレタリ 故ニ茲ニ録ス 鎮守ノ御尊像ヲ彫シタル今ヲ去ル弐千九百九十九年
 右是文ハ鎮守神勅ニシテ性吉永ノモノ講社モ多キ故 煩シキ恐茲ニ申渡シアリテ大正四年秋此箱ヲ作リ記念是事記スルモノナリ 九月一日
                                「千代田村の民俗」より引用

        
                 拝殿上部にある扁額
   この扁額は江戸時代の儒学者にして書家の亀田鵬斉によるもの。亀田鵬斉は当地出身者。
        
           社殿右側に合祀されている境内社・末社四基
「千代田村の民俗」に「山王社 浅間社 湯殿社 八幡宮 神明社 八坂社」と記されているので、それらのどちらかであろう。

  境内社・末社四基のすぐ目の前にあるもう一つの芭蕉句碑(写真左)とその石碑(同右)。
   この二つの芭蕉句碑は指定外ながら千代田町のHPには文化財として紹介されている。
       
                     芭蕉句碑の並びに建てられている石碑群

 この上五箇地域には、「上五箇のササラ」という獅子舞が盛大に行なわれていたという。愛宕神社の祭日は三月二十四日七月二十四日九月二十四日の三回あり、夏祭りの七月二十四日(以前は旧六月二十四日)には、ササラと呼ばれる獅子舞が盛大に行なわれていた。
 愛宕神社のササラがいつ頃から始まったか記録はない。いい伝えでは、昔はここも天王様の祭りで、暴れて多くけが人が出るので、川向こうの埼玉県須賀村下中条(現行田市下中条)の長楽神社から獅子を取り入れたものという。
 獅子舞には色々の種類があり、演じることをスルという。今晩は「ハナ」をスルべとか、「橋」をスルべとかいって練習する。二十三日の祭宵には「ハナ」をスルきまりで、二十四日の祭日には総代の家へスリこむ時に「橋」をスル。また、千秋楽には「弓」をスルことになっている。「ハナ」は造花のボタンの花と桜の花を一対ずつ置いて舞うものである。「橋」は模型の橋を置いて、男獅子二頭が先に渡り、残された女獅子が後から渡るしぐさを舞にしてある。「弓」は舞っている途中で小道具の弓を出すと、獅子が何だろうと探ってみるしぐさをする。「四本づくし」は幣束を四隅に立てて舞うものである。
 獅子の行例は次の道順で村を回りながら、要所要所で獅子舞をする。愛宕神社(六〇分舞う)⇒小宮四社(一〇分ずつ四〇分舞う)⇒三橋神社(一〇分舞う)⇒県道⇒中道⇒駒形神(舞う)⇒堤防⇒渡船場⇒愛宕神社(昼食、再出発)⇒長生寺(弁天様を六〇分舞う)⇒社総代(三人のうち一人の家に寄り、六〇分舞う)。
 この巡行は社内の厄神除けに回るもので、道中笛を吹きながら一行が進む。身体の弱い子は親に頼まれて獅子頭をかぶせてやると、丈夫に育つ呪いになる。道順は決まっていて、社総代の家以外には個人の家には寄らない。昼食は愛宕神社で食べて再出発するが、同じ道を二度と通らない。道中の家々ではバケツに水を用意しておいて、一行に水を飲ませてくれる。信心でもあり、余興にもなっていた。 
       
 上五箇愛宕神社の北側で、栃木・群馬県道38号足利千代田線沿いに三橋神社は鎮座している。         
   境内に設置されている「亀田鵬齋(かめだ           拝 殿
   ぼうさい)誕生の地」の案内板
 亀田鵬齋(かめだぼうさい) 儒学者
17521826)宝暦(ほうれき)2年 上五箇に生まれ、本名長興(ながおき)堂号 善身堂(ぜんしんどう)
「この子に最高の学問を授けたい。」鵬齋の父萬右衛門(安長)(やすなが)は、我が子誕生に一大決心をし、離農をして一家で江戸へ出た。鼈甲商(べっこうしょう)に職を得たが妻に先立たれ、子育てと、教育費の蓄財に心血を注いだ。
 息子もこれによく応え、素読は飯塚肥山(いいづかひざん)、書は三井親和(みついしんな)、儒学は井上金峨(いのうえきんが)という一流の学者に学び、どこでも頭角を現わした。
 時満ちて「折衷学派」(せっちゅうがくは)の塾を開くと、旗本の子弟などで門人が千人余となり、名声を得た。しかし、「寛政異学の禁」により、異学の五鬼の筆頭とされ閉塾に追い込まれた。
 だが、日頃から豪放磊落(ごうほうらいらく)、義気に富んだ彼は自己を貫き通した。天明の浅間焼け・大飢饉には、蔵書を売り払い救援に当てたり、自費で泉岳寺(せんがくじ)に赤穂義士(あこうぎし)の顕彰碑(けんしょうひ)を建てたりした。
 越後方面へ下向の際には、地元の人達と交流し、特に良寛との友情は語り草になっている。
 仕事面では三絶(書・画・詩文が共に秀逸)の書家として活躍し、生活面では酒をこよなく愛し、文人仲間【大田南畝(おおたなんぽ)・酒井抱一(さかいほういつ)・大窪詩仏(おおくぼしぶつ)・谷文晁(たにぶんちょう)など)】と、度々「八百善」へ操り出した。
 墨蹟には、屏風・掛物・扁額・幟・碑等があり、千代田町を始め、各地に散在している。
 また、その子孫は、綾瀬(りょうらい)・鶯谷(おうこく)・雲鵬(うんぽう)と四代までは学者・書家、五代黄雲は画家というのも希有なことである。
 七十五歳で永眠。墓地は東京浅草称福寺(とうきょうとあさくさしょうふくじ)。
 この芭蕉の句碑は、出羽三山登山記念碑として建立された。3つの句は芭蕉が奥の細道のさいに出羽三山で詠んだものとされる。明治33年(1900)建立。
                           『千代田町HP
 郷土の偉人より』より引用




参考資料「日本歴史地名大系」「千代田村の民俗」「千代田町HP」「Wikipedia」等
  

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