古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中小坂神明神社

 神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成された宗教思想形体である。
 その神仏習合形体の一つが「両部神道(りょうぶしんとう)」といい、仏教の真言宗(密教)の金剛界・胎蔵界の両部の理論をもって,日本古来の神と仏の関係を位置づけた思想である。真言の哲理をもって神道の神,神話,神社,および行事を説明しようとする。すなわち,大日如来を本地とし,諸神はその垂迹であるとする。両部とは不壊と智を意味する金剛界と,育生と理を意味する胎蔵界の大日であるとし,二でありつつ一体不二であると説き、日本特有の神仏調和を基として,中世以降,国民の思想と生活に大きな影響を与えた一連の宗教思想といえる。この思想は近世以降,新たに提示された神道説の基本と位置づけられたが,明治期になると神仏分離政策により衰退した。
 坂戸市中小坂地域に鎮座する中小坂神明神社は、今でこそ「神明神社」との名称であるが、嘗ては「天照大神春日八幡相社」と称し、『新編武蔵風土記稿』中小坂の項には、「天照大神春日八幡相社 村の鎮守なり、村内慈眼寺持」と載せ、内陣には雨宝童子像・春日大明神像・八幡大明神像とそれぞれに祭神名を記す神鏡三面を安置している。
 この中の「雨宝童子」とは「両部習合神道」の神であり、天照坐皇大神が日向に下生した際の姿とされ、大日如来が化現した姿とされることもあり、神仏習合思想の影響を未だに色濃く残している社ともいえよう。
        
              
・所在地 埼玉県坂戸市中小坂1
              
・御祭神 天照皇大御神
              
・社 格 旧中小坂村鎮守 旧村社
              
・例祭等 不明
 埼玉県道269号上伊草坂戸線沿いに鎮座している横沼白髭神社から西方向に進路を取り、「三芳野小前」交差点を左折する。道沿いを1.6㎞程南下し、「さかど療護園」の看板が左側にある十字路を左方向に進み、100m程でT字路に到着するので、そこを右折すると、進行方向左手に「中小坂下集会所」があり、そのすぐ隣に中小坂神明神社の社号標柱が見えてくる。
 駐車スペースは「中小坂下集会所」に数台可能であるので、そこに停めてから参拝を開始した。集会所の奥には緑豊かな社叢林が広がり、「神明社」の称号も合わさって、参拝も自然と厳かな気持ちとなった。
        
                  中小坂神明神社正面
                           こんもりとした社叢林が一際目立つ社
『日本歴史地名大系』 「中小坂村」の解説
 [現在地名]坂戸市中小坂・東坂戸一―二丁目
 紺屋(こうや)村の南にあり、南は高麗郡下小坂村(現川越市)、北西は同郡下広谷(しもひろや)村(現同上)。入間郡河越領に属した(風土記稿)。田園簿では田六九石余・畑八八石余・野高一石余、水損場と注記される。
 幕府領(一二八石余)・川越藩領(二一石余)・旗本設楽領(一〇石)の三給。川越藩領分は寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二七石余、反別は田一町七反余・畑一町五反余。元禄一五年(一七〇二)以前に全村が川越藩領となるが、村高は九四石と減少している(河越御領分明細記)。秋元家時代の郷帳では高九四石余、検地出高二〇四石余、反別は田一四町五反余・畑五一町余。

        
                        道路から少し入った場所に鳥居は立っている。
 所在地は「坂戸市中小坂1」。この中小坂地域において、東側端に位置していながら、まさにこの地域の始点となる場所にこの社は鎮座している。
 参拝中は全く気付かなかったが、後日グーグルマップで確認すると、この社は西向き(正確には南西方向)に社を構えている。
 中小坂地域は東西が2㎞程で、南北に比べて非常に長い地域である。社の東方向には入間川や越辺川が合流する地点でもあり、肥沃なデルタ地域を形成する場所でもある。しかし肥沃な地域であるのも関わらず、『新編武蔵風土記稿・中小坂村条』にも記されているように「水田少なく陸田多し、天水場なれど村内に溜井あり、是をも用水の助とす、旱損あり」と、河川等の恩恵は少なく、むしろ干ばつ等の被害が出やすい地域でもあったようだ。
 その地域において、この東端という位置に社が鎮座していることは非常に意味があり、嘗ての旧中小坂村の鎮守様であり、地域住民の方々の生活が困らないように日々見守ることができるこの西向き配置は納得できよう。
        
                     拝 殿
 神明神社 坂戸市中小坂一(中小坂字神明)
 当社は越辺川右岸、中小坂の東端に集落を望むように西南向きに鎮座し、境内は白樫・椚などからなるこんもりとした杜である。
『風土記稿』中小坂村の項には「天照太神春日八幡相社 村の鎮守なり、村内慈眼寺持」と載せ、内陣には雨宝童子像・春日大明神像・八幡大明神像とそれぞれに祭神名を記す神鏡三面を安置している。なお、神鏡には「正徳三癸巳建立」の墨書が見られる。また、大昔は神明様一柱だけであったという口碑がある。
 このようなことから当社は、初め天照大御神一柱を祀っていたが、室町末期から広く庶民信仰として普及した三社託宣により、正徳三年に春日・八幡の二社を相殿に奉斎して三柱となったものと考えられる。『明細帳』では、社号を神明神社と改め、主祭神を天照皇大御神のみとして、ほかの二柱については載せていないが、これは明治維新の影響を受けた結果と推察される。
 明治五年に村社となり、同九年には慈眼寺境内の津島神社、同四〇年には字原の白山社・字中戸の愛宕社・同境内社の浅間社・字大滝の稲荷社を合祀したが、このうち津島神社と白山社はそのまま社殿が残り、祭りも続けられている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 
            社を覆うように広がる社叢林(写真左・右)
 この中小坂神明神社の社叢林は、埼玉県の鎮守の森リストにも登録されていて、高木層にシラカシが優占しているだけでなく、亜高木層や低木層に、シラカシの若木や、ツバキ、アオキ、ネズミモチ、ヒイラギ、サカキ、シロダモ等の照葉樹の小高木や低木が、それぞれの層に優占している。草本層にも、ジャノヒゲ、ヤブコウジ、ヤブラン、キヅタなどの照葉樹林の構成種が多い。林の規模が小さいため、シラカシ林構成種のほか、他の落葉樹等も混生しているが、森林の各層に照葉樹が優占したシラカシ林となっている。
 地域の貴重な一つの文化的遺産として、後世に残したいものだ。
 
 社殿左側奥には石祠群が祀られている(写真左)。また拝殿手前で左側には、3基の境内社が並列して祀られていて、一番手前には八坂神社・天神天満宮合祀社(写真右)が祀られている。
 
 八坂神社・天神天満宮合祀社の左隣の境内社    その隣には境内社・大口眞神が鎮座
         詳細不明 
        
                  静かな社の一風景

 冒頭にて両部神道の解説をしたが、これに関連した「こぼれ話」を偶然知るに至ったので、この項を拝読している方々にも共有したいと思う。
 鳥居とは、神社などにおいて「神域」と人間が住む「俗界」を区画する結界というものであり、神域への入口を示すものでもあり、一種の「門」である。
 神社における鳥居にはいくつかの形式があり、笠木のみで島木がなく、笠木に反りがない直線的な「神明鳥居(しんめいとりい)」と、笠木と島木があり、笠木に反りがある「明神鳥居(みょうじんとりい)」とに大別でき、神明鳥居からの派生として「靖国鳥居」が、明神鳥居からは「鹿島鳥居」「「春日鳥居」「八幡鳥居」等とに分派されたという。しかしながら、一つの神社で複数の形状の鳥居が存在する例があることからも祭神によって鳥居の形状が決まるものではなく、鳥居に定められた形状は無い。また寄進者の意向によっては特徴が融合していることもあり、それらの分別は目安でしかないので、あくまで参考知識として知るにとどめた方が良いと思う。
 鳥居の種類にも色々あるが、その中でも「両部鳥居」は一際目を引く外観である。この「両部鳥居」は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある構造の鳥居であるが、名称にある「両部」とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残りともいい、神仏混交の神社に多く建てられたようだ


参考資料「
新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」
    日本歴史地名大系」「鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料HP」
    「Wikipedia」等

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横沼白髭神社

 横沼白髭神社のご祭神である猿田彦命は、日本神話に登場する神で、『古事記』では猿田毘古神、猿田毘古大神、猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記されている。
『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神。ものごとの最初に御出現になり万事最も良い方へ“おみちびき”になる大神で、古事記、日本書紀などにも「国初のみぎり天孫をこの国土に啓行(みちひらき)になられた」と伝えられている。後には厄災から人命や家屋・田畑を守ってくれる神として、水害の多発地域内にて信奉される神となったという。
        
              
・所在地 埼玉県坂戸市横沼346
              
・ご祭神 猿田彦命
              ・
社 格 旧村社
              
・例祭等 例祭 315日・1015 
 戸宮八幡神社から
埼玉県道269号上伊草坂戸線に一旦戻り、1.5㎞程東方向へと進路をとり、「三芳野小前」交差点の先にある「坂戸市消防団三芳野分団第2部」の建物が右手に見える変則的な十字路を右折すると、その先に横沼白髭神社の境内や正面入り口にあたる鳥居が見えてくる。
 
駐車場はない。境内西側には隣接する「横沼集会所」があるようだが、この集会所も境内内部にあり、道路沿いにはポールが立ち、車両は中には入れないため、鳥居近くの路肩に路駐し、急ぎ参拝を行った。
        
                                  
横沼白髭神社正面
 入口に面している道路は狭いが、逆に境内は奥行きもあり比較的広い。正面鳥居を過ぎてから一旦行き止まりとなり、そこから右方向に90度曲がり、そこから北方向に拝殿へと通じる参道となる配置。
 
 鳥居を過ぎて参道を進むと、右並びに祀られ   参道が一旦行き止まりとなるその左手
    ている「
白髭大神」等の石碑。       にある、所謂「絵馬殿」の類か?
        
                 正面の拝殿に通じる鳥居
    この鳥居の右隣には一基石祠があり、そこには「八幡型鳥居」と刻まれている。
 坂戸市横沼地域は東側に越辺川及び入間川が合流する場所でもあり、また『新編武蔵風土記稿』にも「水損多し」との記載がある通り、古くから洪水に悩まされた所である。同時に水害の規模は広く隣接する小沼や紺屋両地域にも及び、現在でも地域の東端にある水田地帯は往時河川が最も乱流したところであるという。
       
                   鳥居の社号額
 荒川中流域の右岸一帯には氷川神社が密集している中に、ここ横沼、下小坂、紺屋には三社白髭神社が鎮座している。通説では、白髭神社の建立については、朝鮮半島からの渡来人との関係性を指摘する説もあるが、民俗学者の柳田国男は『柳田国男全集第8巻』の中の「白髭水」の中で、「白髭様といふ神は、東京でも向島の堤の上に祭って居るように、主として水辺の神でありまして(中略)大水の出はなに、白い毛を長く垂れた神様が、水の上を下って来られる姿を見たとか、又は山から岩を蹴りながら、水路を開いて下れたとか謂って、以前は水のほとりに其祭をして居たらしいのであります…」と述べられて、水が白糸のように流れる姿を「白髭」と表現し、「水の神様」として祀られている。そして、その洪水等の厄災から人命や家屋・田畑を守ってくれる神として、猿田彦命を積極的に勧請して祀ったと推察する。

           参道左側には並んで祀られている境内社が鎮座する。
     合祀社・金比羅社・稲荷社・疱瘡社(写真左)、境内社・八坂社(写真右)。
        
                     拝 殿
 横沼村 白髭社
 村の鎮守なり、神體圓き銅の内に鑄いだしたる像にして、年號等も見えず、古き物には非るべし、此社内に氷川と八幡の二神を祀る、忠榮寺持,末社。稲荷社、牛頭天王社、疱瘡神社、金毘羅社、
 稲荷社 牛頭天王社 二社共に村民持、
                                  新編武蔵風土記稿より引用
 白髭神社 坂戸市横沼三四六(横沼字南方)
 当地は東に越辺川及び入間川が流れ、古くから洪水に悩まされた所である(中略)。毎年襲来する台風に村人は悩まされたが、一面、養分を含んだ土壌が堆積されたため他所より収穫の多い土地となっていた。
 当社は、この水田地帯から西にやや上がったところに鎮座し、創立についてはその史料を欠くため明らかではないが、おそらく五穀豊穣・村中安穏を祈り社を建立したものと思われる。
 主祭神は清寧天皇・猿田彦命で、合祀神は保食命である。『風土記稿』には「神体円き銅の内に鋳いだしたる像にして年号等も見えず」とあるが、現在は内陣にこの懸仏はなく、白髭神像を安置している。
 本殿は一間社流造りで、『明細帳』には「享保二丁酉年十一月再営なる由棟札現存す」とある。また、左右には、氷川社・八幡社があり、氷川社の幣串には「氷川文政八年酉四月再建之隆城代」の銘文がある。
 別当は、神仏分離まで真言宗忠栄寺が務め、境内には「別当 忠栄寺恵秀代」の銘文がある寛政一〇年に建立の石鳥居がある。
 明治五年に村社となり、同四〇年には字北登戸の稲荷社・字北方の八坂社を合祀し、更に大正期には字前原方の稲荷社を合祀している。
                                   「埼玉の神社」より引用
        
              拝殿手前には「横沼白髭神社年中行事」の案内板も掲示されている。
        
                                       本 殿
 
 社殿右側に祭られている「富士仙元神社」石碑   その右隣には「白髭大神」の石碑あり。
        
               境内北側に祭られている庚申塔


参考資料「新編武蔵風土記稿」「国土交通省中部地方整備局HP」「埼玉の神社」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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戸宮八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県坂戸市戸宮60
             
・ご祭神 (主)天御中主大神 (相)応仁天皇
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春祭り 225日 例祭 101日 秋祭り 1123
 片柳飯盛神社参拝後、一旦国道407号線に合流し、暫く南方向に進路をとる。約1㎞先にある「坂戸ろう学園前」交差点を左折し、埼玉県道269号上伊草坂戸線を東方向に道なりに進む。2㎞程進んで正面にコンビニエンスストアに到着するY字路手前の大きく右カーブする先の十字路を右折し、400m先にある信号のある交差点を左折すると左手に戸宮八幡神社の社叢林、及び社号標柱が見えてくる。
 グーグルマップを確認すると、そこは四差路の交点にあたり、社はその四差路の北側に鎮座している。社の東側には「戸宮東集会所」があるが、集会所沿いにはロープが張ってあり、駐車スペースはあってもそこに停めることができず、道路沿いにある集会所から社入り口の僅かのスペースに路駐し、急ぎ参拝を行った。
        
                  
戸宮八幡神社遠景
 戸宮地域は、坂戸市の南東部に位置する農業地域である。『風土記稿』によれば、本は「富屋」と書いたが、いつのころか「戸宮」の文字になったという。
 
 南北に参道が通り、その間には社叢林が広がる。  参道を少し進むと石製の鳥居がある。
『日本歴史地名大系』 「戸宮村」の解説
 [現在地名]坂戸市戸宮・栄・千代田五丁目、鶴ヶ島市富士見六丁目、川越市下広谷(しもひろや)

 塚越(つかごし)村の南にあり、南は高麗郡下広谷村(現川越市)。川越秩父道が南東から北西に通る。小田原衆所領役帳に玉縄衆間宮豊前守の所領として「入西郡富屋」二一貫五六三文があり、弘治元年(一五五五)に検地が行われていた。近世には高麗郡に属した(風土記稿)。田園簿には戸宮村とあり、高五九石余で皆畑、ほかに野銭永三貫八三文。川越藩領で幕末に至る。慶安元年(一六四八)・寛文元年(一六六一)に検地が行われた(風土記稿)。
        
     入口右側には戸宮八幡神社の由緒書きが記されている案内板が設置されている。
        残念なことに長い歳月により、字が薄くなり見えない所もある。
 八幡神社
 当社の祭神は天御中主大神であり、鎮座年代は不詳であるが、往古より一村一社の鎮守として創立され、永承七年(一〇五二年)二月十五日に社殿が再建されたと伝えられ、明治五年村社となった。明治四十三年、大塚野新田に鎮座した八幡神社、御嶽神社を合祀し、現在に至っている。
 またこの地には、昭和五十一年一月二十九日坂戸市の無形民俗文化財に指定された獅子舞が伝えられている。
 詳しい記録はないが、元治阿使用中の道具や古老の口伝えによれば、徳川中期頃から一村融和団結のシンボルとして華麗な装束によって行われたが、最近、時代とともにやや簡素化されたという。しかし獅子舞そのものの演技は、古い伝統をよく守って独特な郷土芸能として保存されている。
 毎年十月一日が例祭、一月一日が元朝祭、二月二十五日が春祭り、十一月二十三日が秋祭りである。
 獅子舞の実演は、毎年十月一日の例祭当日午後二時頃から社前で行われる(以下略)
                                      案内板より引用

        
                  鳥居の左側に設置されている「戸宮の獅子舞」の案内板
 戸宮の獅子舞(坂戸市指定無形民俗文化財)
 秋になると豊年を祝う獅子舞が、市内の各地で行われます。竹で作った「ささら」と呼ばれる楽器を使って獅子舞を踊るので、「ささら舞」とも言われ、昔から地元の人々によって受継がれてきました。
 戸宮の獅子舞は、江戸時代に八幡神社のお祭りに演じられたのが始まりと言われています。
 戸宮の獅子舞は、江戸時代に五穀豊穣を祈って八幡神社の例祭に奉納されるようになったと言われています。例祭は以前、十月一日でしたが、現在は十月の第三土曜日になりました。
 獅子舞の演者は、高張・天狗・花笠・笛吹き・仲立・雌獅子・中獅子・大獅子・唄うたいで、演目は「竿がかり」・「新ささら」・「角平」の三曲です。例祭の当日は、集会場で準備を整え、ほら貝の三つの合図で行列を組み、笛、太鼓をならしながら八幡神社に向かいます。この行列を「道中ささら」と呼びます。八幡神社の前で、獅子舞を奉納して、戸宮の地区内をゆっくり舞いながら集会場へともどります。夜、ふたたび集会場の庭で、獅子舞が行われます。
 獅子舞は、笛・唄・ささらに合わせて、太鼓をたたきながら踊ります。舞の内容は、仲立の先導で、大獅子と中獅子が花笠に隠れた雌獅子を探すというもので、神話を題材にしています(以下略)。
                                      案内板より引用
        
        豊かに生い茂っている社叢林の中に社殿は静かに鎮座している。
        自然と一体感となっているこの雰囲気が心地よく感じられる社。
        
                     拝 殿
 八幡神社 坂戸市戸宮六〇(戸宮字屋原)
 当社は、この戸宮の鎮守として、開村と時を同じくして勧請されたと伝えられ、応仁天皇と天御中主大神を祀る
 社殿によると、永承七年二月一五日の再建というが、現存する棟札は、天保一二年・嘉永七年・安政四年の三枚だけで、残念ながら永承のものは失われてしまっている。
 明治五年に村社となり、同四三年には、大字大塚野新田から字八幡裏の村社八幡神社、字御嶽の御嶽神社の二社を合祀した。なお大塚野新田は八戸しかない小さな村で、昭和一五年に陸軍坂戸飛行場用地として、村全域が買収され、住民はことごとく代替地の鶴ケ島村脚折の一天狗地区に移住し、これを機に新しく神社を奉斎している。ちなみに、戦後、坂戸飛行場は廃止され、工業団地となっている。
 本殿は一間社流造りで、内陣には幣束が納められている。境内には、様々な記念碑が立ち並び、社殿を取り囲むように杉・松・檜の混淆林がある。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
        社殿右側で、幣殿部近くに立派に聳え立つ大杉(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「坂戸市HP」
    「境内案内板」等


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片柳飯盛神社

 鶴ヶ島市脚折地域に雷電池(かんだちがいけ)がある。現在は「雷電池(らいでんいけ)児童公園」と名称は変わったが、この公園内には「雷電神社」が鎮座している。この雷電池で4年に1回開催される、江戸時代から続く神事「脚折雨乞」が有名で、大きな龍神が街中を練り歩く地域伝統芸能「雨乞い祭り」がある。
「脚折雨乞」の由来として鶴ヶ島市HPには以下の伝承を載せている。
「昔から日照りのとき、脚折の雷電池(かんだちがいけ)のほとりにある脚折雷電社(らいでんしゃ)の前で雨乞いを祈願すると、必ず雨が降った。特に安永・天明(17721789)の頃には、その効験はあらたかで近隣の人の知るところであった。 しかし、天保(18301844)の頃には、いくら雨を祈ってもほとんどおしるしがなくなってしまった。
 それは、雷電池には昔、大蛇がすんでいたが、寛永(16241644)の頃、この池を縮めて田としたため、大蛇はいつしか上州板倉(群馬県板倉町)
にある雷電の池に移ってしまった。そのため雨乞いをしても、雨が降らなかった」
この雷電池(かんだちがいけ)等を水源(実は水源の本流は、関越自動車道・鶴ヶ島IC付近で二手に分かれる西側の上流部には池尻池ともいわれていて、雷電池同様に湧水となっている)とする飯盛川は、鶴ヶ島市と坂戸市との境界付近からほぼ一貫して北流し続けるのだが、飯盛神社北西地点付近で突然流れを直角に東へと変える。また水源から飯盛神社まで北方向に流れているのだが、そこまでは「山田川」。そこから東方向に進み、越辺川へと合流する4㎞程の流路が「飯盛川」といわれていた。
『新編武蔵風土記稿』「坂戸村」
「山田川 高麗郡臑折村内雷神池より流出、當村に入、隣村片柳へ沃げり」と記載があり、
山田川は飯盛川の旧名と思われる。現在はどちらも「飯盛川」で統一されているようだ。
        
              ・所在地 埼玉県坂戸市片柳1829
              ・ご祭神 豊保食姫命
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 祈年祭 226日 例大祭410日 秋祭り 1017日
                   勤労感謝祭 1126日 大祓い 1228日
 片柳飯盛神社は国道407号線を南下し、越辺川に架かる「高坂橋」を過ぎてから1㎞程先にある信号のある交差点を右折する。この交差点右側にはコンビニエンスもあるので分かりやすい。その後200m先の十字路を再度右折すると、正面に社叢林、及び境内の風景が見えてくる。
 南側正面には鳥居が立っており、そこから北方向に一色線の参道があり、その真ん中付近には「片柳第一集会所」がある。集会所近辺で参道を含む境内において、撮影に支障のきたさない場所に駐車させて頂き、その後参拝を開始した。
        
                  片柳飯盛神社正面
 
        正面石製の鳥居                鳥居の社号額
 いつものように『日本歴史地名大系』には「片柳村」の解説が以下のように載せられている。
 [現在地名]坂戸市片柳・芦山(あしやま)町・伊豆の山(いずのやま)町・末広町
 
坂戸村の北東にあり、北は北東流する越辺(おつぺ)川を隔て比企郡田木(たぎ)村(現東松山市)。飯盛(いいもり)川が北東へ流れる。中世には鎌倉街道が通っていた。承元四年(一二一〇)三月二九日の小代行平譲状(小代文書)には養子俊平へ譲られた小代(しようだい)郷(現東松山市)内「をつへの村」の南境として「かたやきのさかひ」がみえる。文明一九年(一四八七)二月甲斐国吉田(現山梨県富士吉田市)から武蔵国へ入った聖護院道興は「かた柳といへる所をとをるとて」として「一しほのみとりになひく糸ハけに春のくるてふかた柳かな」と詠じている(廻国雑記)。この「かた柳」を当地に比定して歌碑が建てられている。休台(きゆうたい)寺の過去帳に伝えられたという元亀二年(一五七一)九月二三日の紀年のある飯盛神社棟札銘写には「入西郡ノ内片柳郷長柳山妙慶寺」とある(風土記稿)。
承元四年小代文書「越辺村の四至、南はかたやきのさかひをかきる」
鎌倉光触寺文書 「貞治三年六月二十五日、成田下総守泰直と玉井蔵人入道覚道は、片楊長門入道の押領を退け、鎌倉大慈寺新釈迦堂領武蔵国横沼郷(坂戸市)の下地を寺家雑掌に打ち渡す」とあり、片柳「カタヤナギ」は、元は「片楊 カタヤギ」と呼んでいたようだ。
 
      鳥居の先に立つ社号標柱          静かで落ち着きのある境内
        
                 片柳飯盛神社由来の碑
 由来
 片柳の地は康安年間片柳長門入道の草蒼の土地なり。産土神として飯盛大明神を祀る。
 御魂は伊勢の國外宮豊保食姫命(保食神)なり伊勢の國外宮の地形に類似して西側に山田川北側に流るるを御神号を以って飯盛川と唱えり。
 元亀貳年當所の地頭岩槻城太田氏の被官にて恒岡入道大林軒道會日勢と片柳の長柳山妙慶寺創建開山の祖相州比企ヶ谷妙本寺住持本行院日慶上人を請じて社殿を建立し飯盛大明神、三十番神を併祀し神佛混淆の神社とす。爾来約参百有餘年を経て明治に入り混淆の制度廃止となり三十番神を正覺山休寺に遷座する。
 明治五年に村社に列せられる。後明治四拾年五月村の無格社、稲荷社、荒神社、熊野社、天神社、八坂社、白山社の六社を合祀し飯盛神社と號す。
 拜殿は安政貳年の再建である。
        
                     拝 殿
 飯盛神社 坂戸市片柳一八二九(片柳字宮の前)
 片柳の鎮守である当社は、通称飯盛様と呼ばれ、また神仏混淆時代に三十番神を祀っていた名残で番神堂ともいう。社殿の建築については棟札写しに「安政二年九月 大工棟梁武州高麗郡的場村柴原建五郎藤原規守」とある。
 伝承として康安年間に創立というが確たる資料はない。『風土記稿』に「飯盛明神社 当社は旧き鎮座の由伝へり、元亀年中三十番神を配すと云、休臺寺の持」とあり、更に休臺寺の項に「当寺に飯盛神社の古棟札を蔵せしが、何の頃か失へる由」と載せる。また、元亀二年、地頭岩槻城太田氏被官恒岡入道大林軒道会日勢という者が、片柳郷長柳山妙慶寺(現休台寺)の開祖、鎌倉比企谷妙本寺住持日慶上人に請て三十番神を勧請したとも伝える。恐らくは、農耕神として祀られていた神に三十番神を配したものであろう。
 主祭神は豊保食姫命で、伊勢の外宮と同じであると伝え、外宮の鎮座地である山田原にちなみ、当社近くの川を山田川と称している。
 明治初めの神仏分離により三十番神を休臺寺に遷座、明治五年に村社となり、同四〇年には熊野神社をはじめとする六社を合祀した。
                                   「埼玉の神社」を引用

 休臺寺
 日蓮宗、房州小湊誕生寺の末、正覺山と號す、本尊三寶祖師を安ず、開山日慶天正八年八月十三日示寂、中興開基横田次郎兵衛延寶七年正月廿三日卒す、法名正覺院一乗日臺居士と云、當寺飯盛神社の古棟札を蔵せしが、何の頃か失へる由、過去帳の端に寫を殘せり、其あらまし當所の地頭松山の旗下、恒岡入道大林軒道會日勢といへる人、三十番神を勧請せりと、又武州入西郡の内片柳郷長柳山妙慶寺日慶上人の勧請也、相州鎌倉比企ヶ谷妙本寺住本行院日慶、元亀二年辛未九月廿三日とあり、是をもて考れば往古は山號・寺號も今とは違ひしに、延寶年中中興開基横田氏の法謚を取て山號とし、其おりから寺號も改めしものなるべし、文中松山の旗下と記せるによれば、松山は則比企郡松山にて、彼恒岡大林軒と云人、もしくは松山城主上田氏の臣に恒岡氏ありてそれ等をさすにや、いまだつまびらかなるを知ず、
 祖師堂
 此堂は元毘沙門堂にて毘沙門を安ぜしに、近き頃傍に日蓮の像を並べ置しかば、今は祖師堂とのみ稱せり、堂の傍に元亀二年の古碑一基あり、
鍾樓。寶永五年十一月の銘を彫し鐘を掛たり。
                             『新編新編武蔵風土記稿』より引用
        
               拝殿向拝部の細やかな彫刻の細工。
         製作者は「武州高麗郡的場村柴原建五郎藤原規守」という。
 
     拝殿手前右手にある神楽殿       拝殿右隣に祀られている境内社・稲荷社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「鶴ヶ島市HP」
    「境内掲示板」等


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三波川惣社姥神社及び三波川琴平神社

 三波川(さんばがわ)は、群馬県藤岡市三波川を流れる利根川水系の一級河川である。流域は全域が群馬県藤岡市に含まれる。東御荷鉾山の東麓に源を発し、東流する。東御荷鉾山から伸びる二つの尾根からの水を集め、下久保ダムの調整ダムである神水ダムの堰堤直下で神流川と合流する。
 上流部は主に山林であり、スギの人工林と落葉広葉樹林からなる。主に深い渓谷からなり、妹ヶ谷不動の滝を始め、落差数m程度の滝がみられる。所々やや平坦になり、数戸〜十数戸程度の集落と畑地が開ける。 桜山の登口のあたりから中流部となる。中流部から下流部では、河川自体は深い渓谷の下を流れる。周辺の植生は杉林、落葉広葉樹林に加え、照葉樹林がみられるようになる。崖の上は比較的平坦に広がるようになり、畑地やみかんの果樹園として利用され、一部に水田もみられるようになる。また、親水公園として小平河川公園が整備され、水遊びやバーベキューを楽しむことができる。
 三波川は白亜紀の海底堆積物が変成作用を受けた三波川変成帯の模式地となっており、緑色の変成岩である三波石を産出する。昭和中頃まで庭石として採取されたため、河川環境が破壊された。1993年(平成5年)以降三波川に石を戻す会の手により石が戻され、徐々にヤマメなどが棲息する環境が回復しつつある。
 嘗てこの地域は古墳時代、神流川との合流点左岸、および流域の上ノ山台地の上にそれぞれ古墳が築かれていて、昔から発達していた地域でもある。また平安時代には、三波川流域を含む奥多野や神流川の対岸、城峯山周辺に平将門の乱に関係する伝承が多く残っているロマン溢れる地域でもある。
        
              
・所在地 群馬県藤岡市三波川114
              
・ご祭神 石凝姥命
              
・社 格 不明
              ・例祭等 不明
 国道462号線沿いに鎮座している鬼石神社。一旦国道に合流後、南方向に進路を取り、群馬県道177号会場鬼石線.との交点である「三杉町」交差点を右折する。県道とはいっても決して道幅は広い道路ではない。「三杉町」交差点から県道合流後、暫くの間は民家も立ち並ぶ中で走行しているが、そのうちに山道の中での道路の両側、特に進行方向右側は急傾斜の斜面が続き、「急傾斜地崩壊危険区域」の看板も見える地域。時折民家が進行方向左側にポツポツと見える中で心寂しさも過る中で車を県道に交わる交差点から800m程進むと、辺りは明るく開け、民家が立ち並ぶ場所に到達し、その右側高台上に三波川惣社姥神社の鳥居が見えてくる。
 因みに「姥神社」は漢字通り「うばじんじゃ」と読む。
        
              県道沿いに鎮座する三波川惣社姥神社
『日本歴史地名大系』には 「三波川村」の解説が載せられている。
 [現在地名]鬼石町三波川
 東御荷鉾(ひがしみかぼ)山(一二四六メートル)の東、神流川支流の三波川が東西に貫流し、北は高山村・多胡郡上日野(かみひの)村・下日野村(現藤岡市)、東は浄法寺(じようぼうじ)村・鬼石村、南は甘楽郡譲原(ゆずりはら)村・保美濃山(ほみのやま)村・坂原(さかはら)村、西は同郡柏木村(現万場町)と接する。地質は大部分が古生層三波川式変成岩類で、随所に美しい結晶片岩の露頭がみられる。
 天文二一年(一五五二)北条氏康が関東管領上杉憲政を敗走させた後の三月二〇日、北条氏は「三波川谷北谷之百姓」の在所帰住を令する。その朱印状(飯塚文書)は「北谷百姓中」に宛てられ、三波川流域は北谷(きただに)と称されていた。永禄六年(一五六三)武田信玄との申合せによって北条氏から安保氏に与えられた地に「北谷村」がある(同年五月一〇日「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。のち長井政実が上杉氏から武田氏に服属して北谷の実権を握り、三波川の飯塚氏に知行宛行・安堵をしている。同九年七月一日には本領「北谷大なら馬助分」八貫文と同所抱分二貫文などの安堵の判物(飯塚文書)を与え、天正六年(一五七八)二月一二日の判物(同文書)で近世には当村の枝村となる琴辻(ことつじ)の知行高を一貫五〇〇文に定め、同八年七月二日にも「大奈良」三貫文などの安堵の判物(同文書)を出している。
 戦国期には飯塚氏や根岸氏など「北谷衆」とよばれる土豪がいた(天正一三年三月二一日「北条氏邦朱印状写」同文書)。同一四年に「北谷之郷」の検地が北条氏によってなされ、本増ともに一〇三貫一七六文の年貢高となり、増分は二三貫文余あったが、うち一一貫文余が免除された(同年一〇月一九日「北条氏邦朱印状」同文書)。同一五年八月二三日に「北谷百姓中」に宛て、当年秋の穀物すべてを箕輪(みのわ)城(現群馬郡箕郷町)に納めるように令し(「北条氏邦朱印状」同文書)、同一七年八月二九日には飯塚氏に北谷年貢銭で黄金と綿をそろえ納めるよう令している(「北条氏邦朱印状」同文書)。

「日本歴史地名大系」に記されている「飯塚氏」や「根岸氏」は嘗て「北谷衆」とよばれる土豪であり、児玉郡御嶽城主長井政実の家臣でもあった。
「飯塚氏」
 〇飯塚馨文書
天正六年二月十二日、琴辻一貫五百文赦免手形、飯塚弾正忠殿、政実花押(長井)」
「天正六年七月一日、知行方、本領北谷・武州安保等を宛行う、飯塚和泉守殿、政実花押」
「天正十三年三月二十一日、御蔵銭五貫文を預け漆を調進させる、北谷衆飯塚六左衛門・同源七郎・根岸忠右衛門、北条氏邦朱印」
「根岸氏」
三波川飯塚文書
「天正十三年三月二十一日、北条氏邦は、北谷衆に御蔵銭五貫文を預け置き、その代物として漆を調進せよと命ず。北谷飯塚六左衛門・同源七郎・根岸忠右衛門・北谷衆中」
       
                           石段上には新しい神明鳥居が立つ。
       
                                      拝 殿
        創建等は不明。但し大同年間(80610年)の創建とも云われる由緒正しい社。
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
 三波川惣社姥神社のご祭神は「石凝姥命(いしこりどめのみこと)。通常伊斯許理度売命と表記されることが多い神である。この神は、日本神話に登場する天津神系の女神で、作鏡連(かがみづくりのむらじら)の祖神、天糠戸(あめのぬかど)の子とされている。『古事記』では伊斯許理度売命、『日本書紀』では石凝姥命または石凝戸邊(いしこりとべ)命と表記されている。
 日本神話において、太陽神である天照大御神が建速須佐之男命の度重なる乱暴(田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らす等)に怒り、天岩戸に引き篭り、高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。
 そこで八百万の神々が天の安河の川原に集まり、対応を相談する。その際に神々がとった行動の一つとして、鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度売命(石凝姥命)に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八咫鏡(やたのかがみ)を作らせたという。

               本殿内部を撮影(写真左・右)

 拝殿手前左側に祀られている境内社・石祠群  正面鳥居の右側に祀られている「道祖神」等

 伊斯許理度売命・石凝姥命(いしこりどめのみこと)の神名の名義について、「コリ」を凝固、「ド」を呪的な行為につける接尾語、「メ」を女性と解して、「石を切って鋳型を作り溶鉄を流し固まらせて鏡を鋳造する老女」の意と見る説があり、鋳物の神・金属加工の神として信仰されている。 
       
                                 拝殿からの一風景

 三波川惣社姥神社から県道を5㎞程西行すると、「三波川琴平神社」に到着する。同じ三波川地域に鎮座する社でもあり、実のところこの社を散策するのが今回の目的の一つでもあった。
 しかし、昨今の「クマ出没」件数の多さ、加えて怪我・死亡事故等のテレビ等の報道もあり、現実この県道を走らせている途中にも「クマ出没 注意」との看板も設置されており、今回は遠目からの撮影にて終了させて頂いた。
 また残念なことにインターネット等で紹介されていた「アーチ形の赤い橋」は既に撤去・解体されていた。写真でも分かる通り、端を設置した際の基礎部分だけが残り、在りし日の情景を思いふけるのみである。
        
               三波川琴平神社を対岸より撮影。



参考資料「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等

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