古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

白井沼氷川社


        
              
・所在地 埼玉県比企郡川島町白井沼219
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧白井沼村鎮守 旧村社
              ・例祭等 春祭 47日 夏祈禱 714日 101415
                   例祭・秋祭り127日

 吉原宮原神社から埼玉県道339号平沼中老袋線を西方向に600m程進行し、信号のある十字路を右折、通称「さくら通り」を川島町役場方向に進む。「首都圏中央連絡自動車道」の高架橋下を潜りぬけ、160m先のT字路を右折する。川島町立川島中学校を過ぎたその先に白井沼氷川社が鎮座する場所に到着する。
        
                  白井沼氷川社正面
『日本歴史地名大系』では、「川島町白井沼村」の概要として以下の内容が記載されている。
 紫竹(しちく)村の北にあり、集落は畑中(はたけなか)村の南に続く自然堤防上に発達。小名に浮沼(うきぬま)・猿ヶ谷戸(さるがいと)と・要ヶ谷戸(かまめがいと)などがあり、元来、沼地・谷地であったことを伺わせる。田園簿では田高二九九石余・畑高三八石余、川越藩領。秋元家時代郷帳では高四一〇石余、ほかに前々検地出高として高七一石余がある。
 反別は田方五五町八反余・畑方一二町九反余。明和四年(一七六七)藩主秋元氏の移封に伴い出羽山形藩領となったが(「川島郷土史」「風土記稿」など)、のち再び川越藩(慶応二年、藩主移転により上野前橋藩となる)領となった(天保一二年「川越領村高書上」猪鼻家文書など)。
        
                   石製の神明鳥居
        
                     拝 殿
 氷川神社 川島町白井沼二一九(白井沼字宮後)
 万治三年(一六六〇)にこの辺りは大飢鐘に襲われ、加えて悪疫が流行したことから村は疲弊した。このため、当地の重立七家が相諮り、翌寛文元年(一六六一)に真福寺の境内地を卜して社を建て神霊を奉斎した。これが、口碑に伝えられる当社の創建である。
『風土記稿』には「氷川社 村の鎮守なり、寛文年中に勧請すと云、真福寺持、末社 天神社・諏訪社・稲荷社」と載せられている。
 神仏分離を経て、当社は明治四年に村社となった。その後、明治二十六年に真福寺の本堂と共に社殿を焼失したが、翌二十七年には再建が果たされた。明治四十五年には字中下の無格社稲荷社を合祀した。
 太平洋戦争後、当社は維持に困窮したが、当地出身の遠山元一氏の多額の寄附と氏子一同の協力によって運営基盤を立て直し、現在に至っている。近年では、昭和五十三年に拝殿の再建が行われている。
 明治初年に廃寺となった真福寺は、その本堂が明治三年から同五年にかけて川島郷学校の校舎として利用された。この学校は、「学制」発布以前に前橋藩の働き掛けによって設立された郷学校で、近代における川島の庶民教育の先駆的役割を担ったことで知られている。
 なお、明治二十六年の火災で焼失を免れた真福寺の本尊不動尊は、今も境内の一画に祀られており、近くには「権大僧都法印宥範・延宝三年(一六七四)をはじめとする歴代法印の墓石五基が残る。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿

 嘗て日本の村や集落には、それぞれの地域ならではの伝統的な芸能が盛んに行われていた。しかし、職業の多様化や少子高齢化の流れによる後継者不足により、活動を続けられなくなる地域も現実多くあるのが実情だ。
そのようななか、数百年の歴史ある「獅子舞」を共に踊り、奏でることで、地域の絆や、一致団結する心、故郷への思いを今もなお守り続けている地域もある。
川島町の獅子舞は江戸時代に始まったとされている。農業が中心で生活が厳しい時代、集落のみんなで力を合わせて乗り越えていくため、「五穀豊穣」「無病息災」「家内安全」を願い、神社へ奉納していた。また、うたい、踊り、心を充足させるために行われていた。
獅子舞は、3頭の獅子と、宰領または猿若という道化役、頭に笠を被り、ササラという竹の楽器を奏でる花笠、短い詩を長くひっぱるように歌う唄によって構成されている。これらの獅子・笛・唄が一体となり獅子舞となる。
町内7か所で行われるなど、地域の方々のなじみの行事として親しまれてきた。その伝統は、伊草と白井沼の2か所で今なお受け継がれ、毎年祭りが行われている。
 
 社殿左側に鎮座する境内社 天神社・諏訪社    社殿右奥に鎮座する境内社・稲荷社

 白井沼の獅子舞
 白井沼の獅子舞は江戸時代に始まったとされる記録が残されている。昔、2年続けて伊草の獅子が村回りの途中で川に落ち流された。これも神のおぼしめしと考え、縁起の良い先獅子、女獅子を伊草の大聖寺から白井沼の真福寺がもらい受け、後獅子と宰領をそろえて夏祈祷を行ったのが白井沼獅子舞の始まりという言い伝えがある。
 白井沼獅子舞は、毎年7月と10月の第3日曜日に、夏祈祷・秋祭りが行われる。「四方固め」「花見」「女獅子隠し」「花散の舞」「岡崎」という演目があり、それぞれの笛に合わせて獅子が舞い踊る。
                          「広報かわじま 201712
月号」より引用
        
 白井沼氷川社の東側に隣接している「白井沼集落センター」側に祭られている「不動明王」の祠。神社の境内に仏系統のお不動様が祭られていること稀であろう。
        
                          境内の一風景
   
 桶川市三田原地域には市指定文化財「三田原のささら獅子舞」が当地の氷川社等で奉納される。この桶川市三田原地域と白井沼氷川社とは「氷川社」以外は一見何も共通事項がないように思われるが、この三田原のささら獅子舞」は、嘗て文化年間の頃には、比企郡白井沼へ教授したこともあったそうだ。

 三田原のささら獅子舞(無形民俗文化財)
 三田原のささら獅子舞は、その系譜については明らかでないが、延宝から元禄の頃、雨宮武休という人が獅子舞を中興し、芸が整えられ、その後次第に盛大になり今に伝えられるといわれている。現在は三田原の氷川神社で演じられているが、かつては柏原の獅子組の人たちによって、八幡神社の祭礼で演じられていたとのことだ(「三田原」とは、三ツ木、田向、柏原の3地区を意味する)。その後、戦中から戦後にかけて中断されたが、昭和40年代になって地元の熱意により復活を遂げた。
 五穀豊穣、万民快楽を祈願して行なわれるこの獅子舞は、道中行列を含め約2時間にもなる長いもので、12の「場」から成っている。道中の行列が社前の舞庭に到着すると、まず宰領が舞庭に入り場を清める。その後、法眼(先獅子)、後獅子、雌獅子の順で舞庭に入り拝礼、そして、三頭は宰領の導きによって舞いを始める。
 複雑で、多様な変化のある優美な舞いが特徴で、かつて文化年間の頃には、比企郡白井沼へ教授したこともあったそうだ。衣装にある「三つ柏」の紋はこの地を領した牧野家の紋で、これは川田谷に残る三つの獅子舞に共通している。祖先が守り伝えてきた昔の舞、曲、歌を崩さず、本来の姿で伝えていくことを重んじているとのことだ。
 10月の三田原氷川神社の秋祭りに、氷川社及び八幡社の前で奉納、当日には朝から村廻りも行なわれる。
                                   「桶川市
HP」より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」
「広報かわじま 201712月号」「桶川市HP」等
  

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須賀熊野神社


        
              
・所在地 埼玉県行田市須賀4533
              
・ご祭神 家都御子神 熊野夫須美命 速玉男命
              
・社 格 旧須賀村鎮守社 旧村社
              
・例祭等 例祭日 715

 北河原十二社神社から埼玉県道59号羽生妻沼線を東へ4km程進むと、進行方向左手に須賀熊野神社の鳥居が見える。地図を確認すると「利根大堰」の東側500m程の場所に位置する。県道沿いでも目立つ社号標柱と、整備された長い参道が北方向に延びて、その先に拝殿が僅かに望める。
 須賀集落は県道沿いに集中しており、少し民家が途切れると美しい田畑と利根川の果てしなく長い堤防が見られる。社は須加の集落の中央に鎮座している。
        
                         県道側から参道正面を撮影
               
                    社号標柱
 
         鳥居の額名は「熊野大権現」               コンクリートで整備された参道が
                                                        一直線に延びている。
        
           鬱蒼とした森が背後に控え、利根川の堤防を背に社殿は鎮座している。

 ○須賀村 
 熊野社 
村の鎮守なり、本地佛弥陀を安ず、
  末社。大黒天、子安権現合社、
 別当利益寺 当山派修験、山城国醍醐三宝院末、加納院と号す。本尊不動を安ず、
                               「新編武蔵風土記稿」より引用
        
                     拝 殿
 熊野神社
 須加の地名は、川州に形成された土地であることに由来する。社伝によれば、建武年中、山城国愛宕郡当山派修験醍醐三宝院末加納院宥長がこの地に社を勧請したというが、古記録等は天正十八年の火災により焼失している。祭神は家都御子神(けつみこのかみ)・熊野夫須美命(くまのふすみのみこと)・速玉男命(はやたまおのみこと)である。また、神仏習合時代の本地仏である阿弥陀如来立像を安置している。(中略)
 明治六年には村社となり、同四二年舟戸の神明社、大稲荷の大伊奈利社、小稲荷の小伊奈利社、矢倉の塞神社、雷電の雷神社、久保の雷神社、中郷の愛宕社、久伊豆の久伊豆社、砂原の八坂社・諏訪社、富士宮の浅間社の十一社が合祀された。しかし、大伊奈利社・小伊奈利社を除くすべての社が現在も各耕地にあり、現在も祭りが続けられている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                   拝殿部挙鼻の龍
                         龍はかなり動きのある精緻な造りである。 
 
                木鼻部の獅子(写真左・右)

『行田郷土史研究会2012 HP』には「忍の行田の昔ばなし」が紹介され、その中に須加地域の昔話もある。興味深い内容であるので全文紹介する。

 第三十話「須加の熊野神社」
 昔から、利根川べりにある須加に住む人々は、妻沼町の人との縁談は必ず不縁になると信じられておりましたので、近年になってもこの二つの町村との婚姻はなかったということであります。なんでそんなことになったのか、昔むかしのお話を紐解くことにいたしましょう。
 須加には拝殿の拳鼻彫刻龍と、木鼻彫刻による端正なお顔をした狛犬で有名な熊野神社がございます。趣のあるこの熊野神社は、社伝によりますと建武(けんむ)年中といいますから一三三四年ごろ、山城国愛宕郡当山派修験醍醐三宝院末加納院宥長がこの地に社を勧請したといわれております。御祭神は、家都御子神、熊野夫須美命、速玉男命、でございます。
 この神社には富士塚もあり、浅間大社、三峰神社その他たくさんの末社が祀られております。
 この中に、昔は聖天さまも祀られていたそうであります。
 縁結びの霊験あらたかな聖天さまでございますが、妻沼の聖天さまは、もともとはこの須加の熊野神社の境内を借りて祀られてあったのだそうでございます。
 縁結びのお力は人々の心を大変引き付け、だんだんと熊野神社では聖天さまの方が人気さかんになってしまいました。
「肝心の熊野神社の方がすたれていってしまい、このままでは熊野神社が聖天さまに取られてしまう」ということで、或る日のこと、熊野神社の氏子たちが皆で聖天さまを松葉を焚いていぶり出してしまったということでございます。
 いぶり出されてしまった聖天さまは、妻沼郷大我井の森に移転することになりました。その移転の道中、北河原村まで来たところ、嵐のような大雨に遭ってしまわれました。
 奥墨某という家でなんとか雨宿りをしましたが、雨はなかなか降りやまないので、一夜泊めてもらうことにしました。そこでこの地は「雨の袋」と地名が付き、今では「天の袋」と書きますが現在の小字にもある「天袋(あまぶくろ)」というようになりました。
 翌日この地から旧奈良村へ出て道中の休息をしたところから、ここに「時華」という地名もあるそうです。そしてようやく妻沼の大我井の森にたどり着き、安住の土地である妻沼に落ち着かれたのだということであります。
 聖天さまは須加で松葉いぶしにあってしまわれたのですが、「この世の中に松の木がなかったらこんなひどい目に会わなかったであろう。」と、それからというもの、聖天さまは松の木を非常に嫌ったといいます。一説には、聖天さまは、太田の呑龍さまと戦ったことがあるそうで、その時、金山の松で左の目を突ついて怪我をしたので、松が嫌いになったともいわれておりますが、松嫌いの聖天さまのお話はこれまたいろいろございますので、別のところでお話しいたしましょう。
 縁結びの神様がいなくなってしまった須加の熊野神社ですが、神社の風格や凛とした構えの鳥居など、本当に心が浄められる美しい神社でございます。見事な社殿彫刻をご覧になりたい方はぜひ一度訪れてみてはいかがでしょう。

 妻沼の聖天様だけでなく、日本全国に松が嫌いな神様がおられるそうだ。例えば鴻巣市安養寺八幡神社も同じ説話があり、人々から厚く信仰される神仏でも、不思議と人間くさい一面が伝承・伝説では語られている。慈悲深い神様や仏様とはいえ、争いごと等をすることもあるかと感慨深いエピソードであるが、「神様の松嫌い」この伝承・伝説にはもっと深い何かが隠されているようにも思えて仕方がない。
 

           本 殿            社殿左側には「御嶽社」・「浅間社」

 「御嶽社」・「浅間社」の右隣には倉庫らしき施設あり、神興庫であろうか(写真左)。その並びには石祠群がびっしりと並ぶ(同右)。「埼玉の神社」に記されている「舟戸の神明社、大稲荷の大伊奈利社、小稲荷の小伊奈利社、矢倉の塞神社、雷電の雷神社、久保の雷神社、中郷の愛宕社、久伊豆の久伊豆社、砂原の八坂社・諏訪社、富士宮の浅間社の十一社」であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「行田郷土史研究会 忍の行田の昔ばなし」
    「
Wikipedia」等

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北河原十二所神社

 天神七代とは日本神話で天地開闢のとき生成した7代の神の総称であり、神世七代(かみのよななよ)ともいう。国之常立神、豊雲野神、宇比地爾神(ういじにのかみ)、角杙神(つのぐいのかみ)、意富斗能地神(おほとのじのかみ)、於母陀流神(おもだるのかみ)、伊邪那岐神。それに対して地神五代とは「天神七代」と神武天皇以後の天皇を意味する「人皇」の間に位置する5柱の神々を称していう。天照大御神、天忍穂耳命、邇邇芸命、彦火火出見命(山幸彦)、鵜葦草葦不合命(うがやふきあえずのみこと)の5柱の神々、及びそれらの神々の時代をいう。
 総じて初代神武天皇の前12代の天神地祇を総じて十二所神社と称していて、何とも贅沢な社といえよう。
        
             
・所在地 埼玉県行田市北河原1510
             
・ご祭神 天神七代命 地神五代命
             
・社 格 旧十二所権現社・北河原村鎮守 旧村社
             
・例祭等 初拝み 112日 春祭り 415日 風祭り 828
                  秋祭り 99日 おたき上げ 1231
 斎条剣神社から埼玉県同199号行田市停車場酒巻線を700m程北上し、「酒巻」交差点を左折する。同県道羽生妻沼線を西方向に進み、1.7km程先の「北河原小学校前」交差点を右折すると、進行方向右側で、丁度北河原小学校の校門向かい側に北河原十二所神社が鎮座している。
 この付近は福川の下流部であり、神社の北200mには福川の右岸堤防があり東50mには酒巻導水路、東200mには福川水門が設けられている。福川の北側は熊谷市妻沼俵瀬地域であり、利根川との合流地点でもある。
        
                                  
北河原十二所神社正面
              
                                   社号標柱
 嘗て五穀豊穣を願い熊野大社より勧請したといわれている北河原地域の鎮守様。残念ながら令和4年(20223月にこの小学校は閉校となってしまったようだが、位置を確認するに、地域の大切な児童を見守り、時には傍に寄り添いながら守ってもらいたい、という行政側の気持ちからこの社の正面に小学校を建てたと考えることもできよう。
        
          
          拝殿の前に聳え立つ立派な巨木・老木(写真左・右)
       
                                       拝 殿
 十二所神社
 北河原小学校の道を隔てた北側に鎮座している。創建された年代は明らかではないが、言い伝えによれば、この地に人々が入った当時、五穀豊穣を願い熊野大社より勧請したといわれている。祭神は「天神七代命」「地神五代命」。江戸時代までは十二所権現と呼ばれ、現在でも「ごんげんさま」と呼ばれている。
 社殿の覆屋の棟札に来迎院とあり、寺と神社が一緒であった江戸時代までは、修験との関りがあったようだ。
 この神社では八月二十八日(現在は近い日曜日)に行われる「風祭り」は二百十日の風に稲がもまれると実をつけなくなるので、これをさける祈りをこめた祭りであるが、嘗ては境内に芝居小屋をつくり、白河戸・皿尾地域などから地芝居を招き、盛大に行われていたという。
 神社がある北河原は、南河原とあわせ、河原氏の所領で鎌倉時代初期に南河原を兄の河原高直が、北河原を弟忠家(平家物語では盛直)が領していたと伝えられている。いつ頃から南北に分けて呼ばれていたかは明らかではない。記録の上では十六世紀中頃に北河原の地名が出てくるという。
 河原兄弟は源氏と平氏の一の谷の戦いの中、源氏方に属して「生田の森(神戸市)」の戦いで、先陣を駆け討ち死にしたことが「平家物語」に出てくる。南河原の観福寺にある板碑は兄弟の供養塔であるという伝承がある。
                             「ぎょうだ歴史系譜100
話」より引用 
       
                     本 殿
       
 本殿の奥には拝殿前にある巨木と同じくらい立派な木が聳え立ち(写真左・右)、その根元付近には石祠がひっそり祀られている(同左)。稲荷社のようだ。元々土手の切所近くにあって「きりっと稲荷」と呼ばれたが、ある年大水で稲荷様が流されてこの名がついたという。

 北河原十二所神社の西方直線で約250mに「大池(おおいけ)」というその名前通りの大きな池がある。池の周囲は土崩れ防止の護岸がなされているが、形状はほぼ昔のままの姿が残されている。南東方には行田市立北河原小学校が位置していた(20223月閉校)。大池の北方には福川が流下しており、大池と福川との間には二重堤防が所在している。池の周囲ではほぼ水面に近づくことが可能である。
 所在地周辺は主に水田などの農地となっており、その外側に集落が位置している。また、池には釣り場が設けられており、池の北側には駐車スペースが存在する。池の南部では2条の水路と接続しており、そのうち南へと延びる水路は北河原用水へと至っている。
 大池は切所沼・切戸池とも称され、福川の堤防が決壊した際の跡地である。今日では池の周囲は約400mとなっているが、明治期の記録では東西85間(約155m)・南北60間(約109m)・周囲6町(約655m)と記されている。

 大沼は嘗て「切所沼・切戸池」=「きりと」と言われていた。社の石祠も「きりっと稲荷」と呼ばれていたようだが、大水で流される前にはこの大沼付近に祀られていたのであろう。



「参考資料」「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ぎょうだ歴史系譜100話」「Wikipedia」等
 
    

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門井町鷺栖神社

 1590(天正18)年石田三成が忍城を水攻めにすべく、元荒川の自然堤防の一部等を利用して築いた堤が石田堤である。この時、三成の城を落とす作戦は、城の周囲に14km28km、4kmとする説もあり)もの堤を築き、荒川と利根川の水を城内に流しこむ水攻めであった。この地域に点在していた古墳を取り崩し、その土等を利用して自然堤防を補強して繋ぎ、短期間で堤を築いていったと推測されている。一説には堤をわずか5日間で築いたともいわれているが、当時の記録から忍城攻めが始まって約1か月後の7月前半にも堤の補強等を行われていたことが伺える。突貫工事で築いた堤を水攻めしながら補強したようだ
 さすがの堅城として名高い忍城も約1ヶ月の攻防の後に開城となるのだが、日本でも数少ない「水攻め」の史跡として知られ、現在行田市堤根地区に残る282mが埼玉県指定史跡に指定されている。また鴻巣市袋に残る約300mが鴻巣市指定史跡に指定されて、石田堤史跡公園として整備されている。
 ところで行田市門井町に鎮座する鷺栖神社は、元々は元荒川の土手、堤防の上に築かれた神社だったようだが、忍城への水攻めの際の堤防として使われたようで、道路と社殿の高さまでの間に数mの高低差がある。
 400年以上という長い時間を経る間に元荒川の整備や、荒川の掘削開削による大整備などがあり、鷺栖神社に連なっていた堤防はすっかり消えてなくなってしまっているようで、現在では周りはすっかり住宅地になっている。逆に言えば、この神社があったがために堤防の名残として現在まで保存されてきたとも言え、貴重な遺産ともいえる。
        
             ・所在地 埼玉県行田市門井町11042
             ・ご祭神 日本武尊
             ・神 号 旧神明社 鷺巣大明神
             ・例祭等 不明
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1210729,139.4333804,19z?entry=ttu
 行田市 棚田神社の正面鳥居に面した道路を東南方向に徒歩で5分程、距離にして350mくらいで門井町鷺栖神社に到着することができる。この二つの社はあまりに近距離で、嘗ては「鷺」を共有していたことで、同じ系列の社といえそうだ。
        
      荒川左岸の元荒川水源地近くの堤の杜に鎮座している門井町鷺栖神社
「明細帳」によると古くから当社は、神明社と称し、堤の杜に鎮座していたが、いつのころからかこの杜に鷺が飛来し、営巣するようになったため棚田村の鷺栖神社(現棚田神社)を分霊して鷺宮大明神と称し、慶長年中に社殿を建立したという。
              
              道路沿いに設置されている社号標柱
        
         社は大井公民館の東側に隣接し、鷺栖公園内に鎮座する。
 下って正徳年間、当地は大井村から分村して門井村として独立したため門井村の鎮守となり、新たに伊勢神宮に倣い月読神社・荒魂神社・風神社・水分神社の諸社を本殿に配祀した。明治2年に社号の鷺宮大明神を鷺栖神社と改め、更に神仏分離により徳円寺境内にあった伊奈利神社を当社境内に移し、同四一年には字山神の山神社及び塞神社を合祀したという。
       
                    一の鳥居
       
             石段を登り終える先に立つ木製の朱色の鳥居
       
                     拝 殿
 当社の主祭神は日本武尊で、配祀神は大日孁貴命、月読命、大国魂命、志奈都比売命、水分神、合祀神は八街彦命・八街姫命・久那斗命・大山祇命である。当社は地理的な関係から農耕・治水の神として奉斎したものと伝えられる。

 配祀神の一柱に「水分神(みくまりのかみ)」が大日孁貴命や月読命と同列に祭られている。この水分神は、神名の通り、水の分配を司る神である。「くまり」は「配り(くばり)」の意で、水源地や水路の分水点などに祀られる。
 日本神話では、神産みの段でハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ両神の子として天水分神(あめのみくまりのかみ)・国水分神(くにのみくまりのかみ)が登場する。
 水にかかわる神ということで祈雨の対象ともされ、また、田の神や、水源地に祀られるものは山の神とも結びついた。後に、「みくまり」が「みこもり(御子守)」と解され、子供の守護神、子授け・安産の神としても信仰されるようになったという。
 また「志奈都比売命(しなつひめのみこと)」は、『古事記』神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれた神であり、風の神であるとしている。『日本書紀』では神産みの第六の一書で、イザナミが朝霧を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)またの名を級長津彦命という神が生まれ、これは風の神であると記述している。シナトベは、神社の祭神としては志那戸辨命、志那都比売神などとも書かれている。

 拝殿の社号額には鷺栖神社と神明社の名が並列     拝殿の手前で左側に設置されている
      して表記されている。               「
竣工記念碑」
 竣工記念碑
 当社は古くから神明社と称し日本武尊を主祭神として元荒川堤の杜に鎮座していたが、いつの頃からかこの社に鷺が飛来し営巣するようになったので鷺巣大明神と称せられた。
 下って明治2年に鷺栖神社と改め、神仏分離により伊奈利神社、山神社、塞神社を合祀した。地区住民の総鎮守として慶長年中に社殿を建立して信仰されて来たが社殿の老朽化が著しく平成24月社殿建設委員会を組織し境内総合整備計画の協議を行い氏子各位の協賛を得て社殿及び諸施設の形態を整えるべく平成211月工事に着手し平成312月完成した。
 時恰も行田市都市計画事業により区画整理が行われ以来氏子崇拝者は増加の一途を辿って居ります。
 茲に社殿改築並に諸施設竣工記念にあたり地区住民のより処として末長く平和で豊かな明るい郷土として発展することを期待し記念の碑文といたします。
                                    境内石碑文より引用
       
                     社殿奥に鎮座する境内社・山神社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「行田市郷土博物館HP」Wikipedia」等  


      

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棚田神社

 現在の元荒川は源流地点から熊谷市久下地域までは、多少の蛇行はあるが、概ね南東へと真っ直ぐに流れて来る。しかし、地図で確認すると、元荒川主河道とは別にJR高崎線と上越新幹線に挟まれたこの地域(門井町、棚田町、壱里山町など)で北東方向へと大きく蛇行している河道がある。つまり、この地点から行田市棚田町一丁目付近まで北東へ向かって流れ、そこから流れを再び南西へと変え、ここから600m下流の行田市清水町で本来の流路へと戻ってくる。
 このように旧元荒川が大きく蛇行しているために、行田市と熊谷市と鴻巣市(旧吹上町)とが入り組んでいる地域でもある。
 嘗て旧元荒川が乱流し、頻繁に蛇行を繰り返していた痕跡をこの地形は物語っている。
        
             
・所在地 埼玉県行田市棚田町1-53
             
・ご祭神 日本武尊 菅原道真公
             
・由 緒 旧鷺明神社及び天神社等合祀社
             ・例祭等
地図 https://www.google.com/maps/@36.1213883,139.4304318,17z?hl=ja&entry=ttu
  棚田神社が鎮座する行田市棚田地域は熊谷市の大井、久下地域に西・南側を囲まれた地域で、嘗て元荒川の蛇行により形成された楕円形の突出部に沿ってできた道路の外縁に位置するといった不思議な行政区分となっている。
                      
                   棚田神社正面
            鳥居の額には「天満宮」と表記されている。
 現在の行田市棚田町地域は、嘗て「棚田村」と称し、北は持田村、西は太井村(現熊谷市)、南は元荒川を隔てて大里郡久下村(現同上)。当村は丁度元荒川の河道がU字形に屈曲した外側に位置していて頻繁に水害を受けたようで、小名に砂畠(すなはたけ)・砂原(すなはら)・深水・押出(おしだし)などの名称が残っている。江戸時代は忍藩領に属し、元禄―宝永期(一六八八―一七一一)の忍領覚帳によれば大井四ヵ村のうちで、高六一二石余という。  
        
         参道の左側には数多くの石灯篭や石祠等が参道に沿って設置されている。

 国道17号をJR行田駅方向に進む。因みに行田市には同名の駅が2つあり、一つはJRの「行田駅」もう一つは秩父線の「行田市駅」である。国道17号とJR行田駅前通りとの交点にある「壱里山町」交差点の手前にある「久下」交差点を左折、400mほど進んで狭い十字路を再度左折し、しばらく進むと左側に棚田神社が見えてくる。
 社の東側隣には「真言宗智山派長盛山不動院真福寺」が管理する墓地があり、嘗て「「鷺明神社」と呼ばれていたころの別当時である。
「久下」交差点左側にはコンビニエンスがあり、そこの駐車場をお借りしてから徒歩にて社に向かう。
        
            参道の突き当り付近にある「社殿竣工記念碑」
              因みに参道はここから直角に曲がる。
 社殿竣工記念碑
 古来棚田の鎮守は、当社鷺明神社で真言宗真福寺の持ちでありました。
真福寺の境内には天神社が祀られておりましたが、明治の神仏分離により天神社を当社に合祀し、社名を天神社と改めました。
 更に明治41年字砂畑の鷺明神社と同境内社三峰神社及び同字の諏訪社・三嶋社・天神社を合祀し、社名天神社を棚田神社と改め現在に至っております。
 主祭神は日本武尊と菅原道真公であります。
 当社の鎮座する棚田は、元荒川の河岸段丘に位置し、水利に恵まれておりましたが、昔はしばしば洪水に見舞われ、その名残で砂畑・砂原・深水・押上等の地名が残っております。天正18年(西暦1590)の忍城の水攻めに使われた石田堤の端が当地に至っており、当社の境内もこの堤の一部でありました。
 当社の氏子は白鷺を神の使いとして大切にし、白鷺が水田で羽を安め田を守るように見えたところから、当社は五穀豊穣を祈る神社でありました。
長い間、五穀豊穣を祈る神、学問成就を祈る神として厚い信仰を集め数々の伝統を受け継いでまいりました当社でしたが、第二次大戦の終戦前夜からの米軍機B29の空襲で昭和20814日夜半、社殿は焼失してしまいました。
 その後、昭和3310月応急の社殿が建立されましたが三十年以上も経過し老朽化が著しく、平成72月社殿新築委員会を組織し社殿・社務所・境内整備を竣工することができました。
 当棚田は国鉄行田駅の開業や土地区画整理事業による道路整備により住宅の増加が著しく、現在では約500世帯1500人の人口を擁し、当社の参拝者は年々増加しております。
 時代の幾多の変遷にもかかわらず、町内の方々及び当町を古里にしている方々の今に続く清純な神社崇拝の心と、浄財の拠出によって今日の竣工を迎えることができました。ここに竣工を記念するにあたり、町内の方々及び当町を古里にしている方々の隆盛を祈念し併せて当神社を心のより処として当地区が平和で豊かな明るい郷土として末永く発展することを念願し碑文といたします。
                                   境内記念碑文より引用
        
                 鳥居・社殿方向を撮影
 棚田地域の住宅街の一角に鎮座する。 周囲は新しい家ばかりであるが、社の境内はどこもきちんと手入れされていて参拝にも気持ちよく望めた。
        
                     拝 殿
「新編武蔵風土記稿 太井村条」に鷺明神社二宇とあり、それぞれ棚田の鎮守、門井の鎮守と記載されている。また合祀したという三島社も記載されている。

○鷺明神社二宇
 一は門井の鎮守にて、徳円寺持、
 一は棚田の鎮守とす、真福寺持、
 三島社、真福寺持、
                          『新編武蔵風土記稿 太井村条』より引用

 また当地にもともと鎮座していた天神社は、真福寺の境内社だったといい、新編武蔵風土記稿真福寺項に記載されており、神体は元大里郡佐谷田村小名田中(熊谷市佐谷田)にあったもので、久下權頭直光の守護神だったといい、享保年中に領主(忍藩阿部家)に願い出て、当地へ遷したという。

天神社
神体は木像なり。久下權頭直光の守護神にて、元大里郡佐谷田村の内、小名田中と云所にありしを、享保の頃領主へ願ひ境内へ移せりと云。この直光が事同郡久下村に出たれば、爰には略す、
                       『新編武蔵風土記稿 太井村条真福寺』より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系(棚田村)」「境内記念碑文」等

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