古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

貴先神社

 日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。
 中山道倉賀野宿東の追分を北側に入り、柴宿、太田宿、栃木宿などを経て楡木宿の手前の追分で壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る。現在群馬県高崎市から伊勢崎市、太田市、栃木県足利市、佐野市、栃木市、鹿沼市、日光市に至る道路が「日光例幣使街道」又は「例幣使街道」と呼ばれている。
 その街道沿いには15カ所もの宿場町が存在していて、6番目の宿が「木崎宿」である。この宿場町は、木崎村を東西に貫く日光例幣使街道沿いにあり、地元の伝承では初め「大明神前通り下田之頭辺」にあった家並が戦国期に「本宿」へ移り、さらに街道沿いに移って宿並ができたとされ、飯売女を置いた旅篭屋が多くできていたという。
 宿場で唄われた木崎音頭(木崎節)は、越後から木崎に年季奉公にきた飯売女が伝えたといわれている。越後から多くの子女が奉公という名目で身売りされ飯盛女として苛酷な生活を強いられ、彼女たちはこの寂しさから、故郷や家族を忍び、宴席で子供の頃覚えた歌を歌ったのが木崎節の始まりと言われている。
 その後八木宿(栃木県足利市)で生まれた堀込源太は木崎節を風土に合わせた威勢のよい節に替えて、生地の八木をとって八木節としたと伝えられている。源太は「源太一座」を組織し、周辺各地で興業し好評を博したといわれていて、木崎節が八木節の元唄であることは、多くの民謡研究家にも認められている。
 なお平成17328日、合併に伴いに改めて新市の指定重要無形民俗文化財として指定されている。
        
             
・所在地 群馬県太田市新田木崎町甲637
             
・ご祭神 須勢理比売命
             
・社 格 旧木崎宿総鎮守 旧村社
             
・例祭等
 新田下江田矢抜神社とその東側にある最勝寺の間の道路を北上し、東武伊勢崎線、国道354号新田太田バイパスを越えた群馬県道312号太田境東線との交点である十字路を右折する。この県道は嘗て旧日光例幣使街道であったのだが、その道路を東行し、県道332号桐生新田木崎線が合流する交差点から少し南下した所に貴先神社は鎮座する。
        
                   貴先神社正面
 
          一の鳥居                               参道の様子
 境内は鬱蒼とする大木で覆われ、境内社や石祠、石碑、石灯籠等も数多く建立されていて、社の規模はやや小さいものの境内は落ち着いた雰囲気になっている。(*但し社殿裏手にある社務所や公園等を境内として含むのであればかなりの広さともいえよう)
        
                  拝殿前の二の鳥居
        
                      拝 殿
 貴先神社のご祭神は須勢理比売命(すせりびめのみこと)である。この神は、『古事記』『出雲国風土記』等に見える女神で、『古事記』では須勢理毘売命、須勢理毘売、須世理毘売、また『出雲国風土記』では和加須世理比売命(わかすせりひめ)と表記されている。但し『日本書紀』にはみえない。
 誕生までの経緯は不明であるが、須佐之男命の娘であり国津神である大国主神の正妻。
 根国(ねのくに・地底の国)にきた大己貴神(おおなむちのかみ・大国主神の前身)と結ばれ、夫が父から課せられる難題を解決するのをたすけ、父の宝物をもって夫に背負われて根国を脱出した。大己貴神は、須勢理毘売命を妻にして初めて大国主命(おおくにぬしのみこと・葦原中国の支配者)となることから、巫女(みこ)王的本質をもつといえる。
        
                                 拝殿向拝部の精巧な彫刻
                          木鼻部左右の彫刻も見事である(写真左・右)
 ところで大国主神は先に結婚した八上比売との間に、須勢理毘売命より先に子を得ていたが、八上比売は本妻の須勢理毘売命を畏れて木俣神を置いて実家に帰ってしまった。
 また、八千矛神(=大国主)が高志国の沼河比売のもとに妻問いに行ったことに対し須勢理毘売命は激しく嫉妬し、困惑した八千矛神は大倭国に逃れようとするが、それを留める歌を贈り、二神は仲睦まじく鎮座することとなったという。
 スセリビメの持つ激情は、神話において根の国における自分の父の試練を受ける夫の危機を救うことに対して大いに発揮されるが、一方で夫の妻問いの相手である沼河比売に対して激しく嫉妬することによっても発揮される。この嫉妬の激しさは女神の偉大な権威を証明するものだという説がある。
 また「須勢理」は「進む」の「すす」、「荒ぶ」の「すさ」と同根で勢いのままに事を行うこと、「命」が着かないことを巫女性の表れと解し、「勢いに乗って性行が進み高ぶる巫女」と考えられる。
        
              本殿裏側の破風部位の彫刻もまた見事 
 
          境内に祀られている幾多の石祠・石碑等(写真左・右)

 太田市新田木崎地域に鎮座する貴先神社は、古くから木崎宿の総鎮守として信仰を集めてきた神社である。須勢理比売命は大国主命の后(きさき)だった事から貴先(きさき)という社名になったと云われ、貴先から木崎という地名が生まれたという。また木崎宿は飯盛女の多い宿とされ、総鎮守である貴先神社は彼女達から信仰の対象になっていたという。
        
                  境内社・八坂神社
        
       八坂神社拝殿上部に掲げてある扁額。扁額周辺にも精巧な彫刻が施してある。
        
 八坂神社の右隣に祀られている境内社。但し覆屋内には立派な本殿があり、狐像も見えるので、稲荷社の可能性もある。

 貴先神社の社殿裏手に当たる北西側には、社務所や公園が併設され、子供達の遊び場・遊具もあり、敷地内は綺麗に整備されている。その一角に「新田の名木」と記されている案内板がある。
        
                                       新田の名木
                             樹木名 ヒヨクヒバ(比翼檜葉)
                             所在地 貴先神社境内
                             樹 齢 二~三〇〇年
                             目通り 三.七メートル
 一般的には「イトヒバ」と呼ばれ、わが国では本州の東北中部以南、四国、九州まで植栽し、樹形は楕円形。日当たりのよい場所で、土壌は乾湿中庸な肥沃土を好む。生長はやや遅いが萌芽力があり、刈込みに耐える。潮害にやや弱く、煙害には中程度。
 比翼とは二羽の鳥が互いにその翼をならべることの意がある。(以下略)
       
                
新田の名木(写真左・右)


参考資料「太田市HP」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「日本歴史地名大系 木崎宿」
    「Wikipedia」等


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新田下江田矢抜神社


        
               
・所在地 群馬県太田市新田下江田町500
               ・ご祭神 經津主命
               ・社 格 旧村社
               ・例祭等 4月 春祭り 11月 秋祭り
 埼玉県熊谷市西別府の上武インターチェンジ(深谷バイパス分岐)から群馬県前橋市田口町に至る国道17号バイパスである上武道路を伊勢崎方向に向かう。利根川を越え、暫く道なりに4km程直進し、「尾島第二工業団地」交差点を右折すると、すぐ北側正面に新田下江田矢抜神社の赤い鳥居が見えてくる。
 社の南側には利根川支流である石田川が流れ、西側には広大な田園風景が広がる静かな場所に鎮座する。まさに村の鎮守様といったような第一印象。
        
                 新田下江田矢抜神社正面
 今回全く事前準備等なく参拝したので、この社に関する予備知識なし。なんでも「二ツ塚古墳」と呼ばれる古墳墳頂に鎮座しているようだが、実見してもその実態はよくわからなかった。

    鳥居上部に掲げてある社号額         緑の社叢に囲まれた境内と参道 
 この地域は、新田氏の一族の江田氏の領地で、その頃は江田郷と呼ばれたそうだが、南北朝の戦いで新田氏が敗れたため、足利氏によって分割されてしまったという。
 江田氏は上野国新田郡世良田郷を支配する清和源氏新田氏流世良田氏一族。この地域は、新田氏の一族の江田氏の領地で、その頃は江田郷と呼ばれたそうだ。
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した新田義貞の一族で家臣である江田行義(えだ ゆきよし)はこの地に領地を持っていた。官途は修理亮・兵部少輔(大輔とも)で世良田有氏の子。『太平記』によれば元弘3年(1333年)5月、惣領家の新田義貞の挙兵に従い、鎌倉の戦いにおいて同族の大舘宗氏と共に極楽寺坂方面の大将を務めたとされる。しかし史料上では江田氏の極楽寺坂における活躍の様子は確認できず、実際は江田氏の本家筋にあたる世良田満義が大将を務めていたという指摘がある。建武政権では、武者所三番頭人を務めた。
        
                    拝 殿
 建武2年(1335年)に足利尊氏が政権から離反すると、義貞に従い足利氏一派の追討にあたり、新田軍の中核として活躍した。延元元年(1336年)3月に尊氏が九州へ逃れた際には、病気の義貞に代わり大舘氏明と共に中国地方平定のために出陣し、播磨国室山で赤松則村を撃破する軍功を挙げた。しかし同年5月の湊川の戦いで再挙した足利軍の前に敗れた[2]。同年10月、比叡山で後醍醐天皇が義貞を見捨てて下山し、尊氏と和睦しようとした際は、新田一族内に主戦論を唱える者が多い中、大舘氏明と並ぶ数少ない和平派となり後醍醐天皇に従った。北陸に向かった義貞とは袂を分かち、以降は南朝方として丹波高山寺城を拠点に奮戦する。
 後に北陸にまで落ちた新田義貞が、延元3/建武5年(1338年)に越前国で活動している際に丹波国で活動していた江田と連携して上洛しようとしたという話があるため、この時までは江田も存命していたのがわかっている。しかし、その後の行方は不明であり、『太平記』にも登場しない。
        
                         拝殿の右側には案内板が設置されている。
 矢抜神社傳導板
 一、立地由来
 万治一年(一六五八年)中江田、下江田に分社され、
 太田市新田下江田町本郷甲五〇〇番地に鎮座する。
 二、祭神 經津主命(フツヌシノミコト)
 三、鎮座する祈願神
 1 本殿
 2 お手長様(火伏せの神)
 3 伊佐須美様(稲作の神)
 4 おしら様(養蚕の神)
 5 諏訪様(当地開拓の神)
 6 秋葉様(防火・火難除けの神)
 四、年中まつりごとの行事
 1月 氏子本殿参拝 
 2月 風祭り 宮司来社(世話人選任 若1年・本4年)
 3月 お手長様拝礼 山刈り(郭順)
 4月 春祭り 宮司来社(区長・世話人)
 7月 御諏訪様拝礼
 11月 秋葉様拝礼
 11月 秋祭り 宮司来社(区長・世話人)
 12月 大祓い式 宮司来社(古神札・幣束・お焚きあげ・世話人)
 12月 鳥居しめ縄(飾り 世話人)
                                       案内板より引用


 案内板にも記載されているが、境内には多数の境内社が「祈願神」として祀られている。
 
       境内社・諏訪社               境内社・秋葉社
 
      境内社・おしら様          境内社・お手長様、奥には伊佐須美様

 社殿左側には(旧)新田町指定天然記念物である「矢抜神社の山椿」の案内板がある。
 
 新田町指定天然記念物 矢抜神社の山椿
 指 定 平成十二年四月六日
 所在地 新田町下江田甲五〇〇
 この山椿は、樹齢三〇〇~四〇〇年位と推定される古木です。一号樹は目通り一五一センチメートル、二号樹は一三三センチメートルで、樹高は周辺の樹木に比べて高く伸びています。昔から自生して来た品種で、赤色の一重の花弁で、花芯が大きく五弁の花びらを持っています。花実ができ、秋になると三片に割れニ・三個の種子が落果して自然繁殖していく椿の原種です。今は山村地帯でしか見られない貴重なものです。なお、一号樹は、平成十三年一月に風雪のため幹の中ほどから折れてしまいました。
 神社がまつられているところは、二ツ塚古墳と呼ばれる前方後円墳で、すでに原形は失われていますが、周濠を思わせる痕跡もあり、埴輪片や土器も出土しています。
 このあたりは中世新田氏の一族江田氏の所領で、江田郷と称した地でした。その後、南北朝の争乱で新田氏が敗れたため足利氏の支配に移り江田郷も分割され、当時中江田村森下にまつられていた矢抜神社を分社し、中江田と下江田の現在地へ勧請してまつったと伝えられています。
                                      案内板より引用
        
                          落ち着いた雰囲気の静かな社


参考資料
Wikipedia」「Enpedia」「境内案内板」等
 

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当ブログの一社が「Wikipedia」に掲載されました。

 当ブログに紹介した一社が「Wikipedia」に掲載されました。
 筆者自身、最近知り合いから聞かされて驚いていますが、この度筆者の拙いブログ「Wikipedia」の「脚注」に掲載されました。

 群馬県伊勢崎市 堀口飯玉神社

 あくまで「脚注」として、参考資料的な意味合いで紹介されているだけですから、大げさに報告することではありませんが、全世界に発信されている多言語インターネット百科事典に紹介されたということは、少しは自分のブログを評価してくださったのではないかと愚考いたします。

 私自身としましても、歴史好きな興味的な意味合いの高いこのブログを当初は開設する気持ちは全くありませんでした。あくまで興味の範囲の中で、好き勝手に考察することが好きで、神社散策をベースにして、その地域の歩んできた歴史や地域の独特な風習、伝承・伝説を自身学びたかっただけでした。その気持ちは今でも変わりません。

 2013年からブログを始め、一旦仕事の関係で間をあけてしまいましたが、2022年から再開することができたのも、ひとえにこの拙いブログを見てくださった方々の励ましのメール等によるものです。確かに時には厳しい意見も寄せていただく事もありますが、自分自身の糧にして今までに至ることができました。
 このブログにおいて、地域の社を紹介する際には、多くの文献資料を収集し、出来るだけ分かりやすいように言葉を選び、文章構成を考え、編集し解説しています。そのため一社完成するのに数日から時には一週間かかることもあります。今でも先送りとなっている社は数十社あります。それでも時に意に沿わない文面等あるかもしれません。皆様方の叱咤、激励の意見を真摯に受け止め、今後も精進していきたいと思います。

 今後とも宜しくお願いいたします。



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篠津多氣比賣神社

 篠津多氣比賣神社が鎮座する旧足立郡は、現在の埼玉県鴻巣市から東京都足立区までの地域で、概ね荒川の左岸(東側)、元荒川と綾瀬川の右岸(西側)にあたる南北に長い広大な郡であり、丁度大宮台地の細長い洪積台地面を中心に、台地部が小さい河川などによって削られて形成された谷底低地や、荒川沿岸に広く分布する標高の低い平坦面である氾濫低地を含めた領域に足立郡が設置された
「足立」の文字が確認できる最古の年代は奈良時代の天平7(735)年の長屋王邸出土木簡で、もと万葉仮名で「阿太知」だったものを『諸国郡郷名著好字令』により置き換えたとみられる(「和名類従抄」)ほか、日本武尊(または坂上田村麻呂)が立てるようになったという伝説や「葦立ち」の転じたものとする説もある
        
              
・所在地 埼玉県桶川市篠津58
              ・ご祭神 豊葦建姫命 倉稲魂命
              ・社 格 延喜式内小社・旧村社
              ・例祭等 祈年祭 211日 例大祭 315日 ふせぎ 41
                   新嘗祭 1123
 筆者が居住する熊谷市から国道17号線を南下し、桶川市「坂田」の交差点で菖蒲方面に左折する。埼玉県道12号川越栗橋線合流後2.5km先の「東武工業団地入り口」の信号を越えて、赤堀川に架かる「加納橋」を渡ったすぐ先の道を左折して、しばらく河川沿いに進むと正面に篠津多氣比賣神社の社叢林、及び正面鳥居が見えてくる。
 因みに埼玉県道12号川越栗橋線から赤堀川左岸堤防沿いに数百mと続く篠津の桜堤があり、専用駐車場はないようだが、桜の開花時期にはのんびり桜が眺め、桜並木を満喫したいと思った場所だ。
        
                                 篠津多氣比賣神社正面
       鳥居の右側に聳え立つ大シイの大木がひときわ目立つ。樹齢は600年という。
 高さ13m、根廻り6.7m。枝張りは、南北に17m・東西に14m迫力のあるこの大きな濃緑のかたまりが、市内最古の社の佇まいと妙にマッチングするから不思議だ。桶川市指定天然記念物。
        
      道路沿いに設置されている社号標柱   鳥居の左側手前にも同名の石碑あり     
             
                              篠津多氣比賣神社の案内板
 多氣比賣神社  桶川市篠津五八
 □御縁起 
『延喜式』神名帳に載る足立郡四座のうちの一座「多気比売神社」に比定される当社は、篠津の集落の南に、赤堀川を望んで鎮座する。赤堀川を挟んで対岸は一面の水田となっているが、かつては「篠津沼」という大きな沼があった。篠津とは篠の生い茂った中の船着き場に由来するといい、祭神である豊葦建(竹)姫命を考え合わせるに、恐らくは篠や葦・竹の茂った付近一帯を領く女神を祀ったものであろう。
『風土記稿』篠津村の項に「姫宮社 当社は〔延喜式〕内多気比売神社にて、祭神は豊葦建姫命なり 神体は女体にて十二単衣冠の坐像(中略)金剛寺の持」と載り、江戸期、当社は姫宮社と呼ばれており、延喜式内社の多気比売神社に比定されていたことがわかる。
 しかし、吉田東伍氏は『大日本地名辞書』の中でこれを否定し、浦和市三室の氷川女体神社を本来の多気比売神社であるとしている。
 別当の金剛寺は、真言宗の寺院で、社蔵の文化五年(一八〇八)の「姫宮大明神」再建棟札にも「別当金剛寺専教」の名が見える。
 明治初年、当社は社名を姫宮社から多気比売神社に改め、明治六年に村社となった。同四十年大字五丁台字上耕地の稲荷社を合祀した。
 祀職は、明治初年の神仏分離により金剛寺の僧が姓を金田と名乗って復飾し神職となり、当社の東隣に居住して昭和二十年ごろまで務めたが、その後、加納の桜井家が継いで、現在に至っている。(以下略)
                                    境内案内板より引用 
  
        
               こじんまりした朱色の両部鳥居
 桶川市で最も古い社であるという先入観からか、鳥居のやや朱が薄くなっているところが、逆に歴史の深さを物語っているようにも見える。
       
                                   境内の様子
 篠津多氣比賣神社は桶川市の東北部篠津地区に鎮座する。この篠津地域は。赤堀川と元荒川に挟まれ、集落は河川が形成した自然堤防上に立地しているが、『新編武蔵風土記稿』でも「水損多し」と記述がある通り、洪水等の自然災害が多かった地域である。
篠津村 姫宮社
當社は【延喜式】内多氣比賣神社にて、祭神は豊蘆建姫命なり、神體は女體にて十二單衣冠の坐像、本社の前に幣殿拝殿側に椎の大木二株あり、往古は一樹なりと云、何の頃にや枯て其朽たる根際二樹合して生ぜり、根の圍み二株合して二丈餘、又一樹は周徑一丈六尺餘、何れも古木にして神木とす、金剛寺の持、末社。稲荷社、三峰社
『新編武蔵風土記稿』より引用
        
                      花手水(はなちょうず)が飾られている手水舎
        
       手水舎の右手には「多気比売神社と大シイ」の案内板も設置されている。
 多気比売神社と大シイ
 篠津の多気比売神社は、平安時代に編さんされた『延喜式』(延長5年[927]完成)の「神名帳」に名が載る足立四座の一つで、桶川市内で最古の神社です。祭神は「豊葦建姫命」です。地元では「ひめみやさま」と親しまれ、古くから安産の神様として多くの信仰を集めてきました。
 鳥居の脇にそびえる大シイは、高さ13メートル、根回り6.7メートル、枝張り南北17メートル、東西14メートル、樹齢は約600年と推定されている古木の風格が漂うご神木です。5月末頃には黄色い房状の花が咲き、9月にはドングリに似た小さなシイの実が熟します。
 鎮守の森の象徴ともいえるこの大シイは、境内の他の樹木とともに、篠津地区の人々の信仰と親愛の情によって、大切に守られてきました。歳末には氏子たちによって境内地の古木に張る太い注連縄が作られ、前年の縄とは張り替える習わしが続けられています。
                                      案内板より引用
      
              参道右手のご神木(写真左・右)
 
        手水舎の左隣には「力石」とその説明板があり(写真左・右)。
        
                     拝 殿
         
 篠津多気比売神社のご祭神の一柱である豊葦建姫命(とよあしたけひめのみこと)は、(豊玉姫、日本書紀)またはトヨタマビメ(豊玉毘売、古事記)とも記され、日本神話に登場する女神であり、神武天皇(初代天皇)の父方の祖母、母方の伯母である「国津神」系の神様である。
 海神豊玉彦命(綿津見大神)の娘であり、竜宮に住むとされる。真の姿は八尋の大和邇(やひろのおおわに)であり、異類婚姻譚の典型として知られる。神武天皇(初代天皇)の父の鸕鶿草葺不合尊の母であり、天皇の母の玉依姫の姉にあたる。
 豊玉毘売の「豊」は「豊かな」、「玉」を「玉(真珠)」と解し、名義は「豊かな玉に神霊が依り憑く巫女」と考えられている。
 
  拝殿手前左手に鎮座する境内社・天神社      天神社の右隣に鎮座する稲荷社
       
          社殿左側にも立派なご神木が聳え立つ(写真左・右)。
        
                           本殿奥に祀られている境内社・三峰社
ご祭神は篠や葦・竹等の茂った一帯を守る女神と言われているが、本殿背後には竹林が生い茂っている。
       
                                     参道の一風景
          
 ところで当社が鎮座する篠津の「篠」は竹、「津」は船着き場を意味し、かつて同地には篠津沼という大きな沼があった。田園が広がる地域ということもあり、稲を神格化した女神を祀ったといい説と、「多気」を「建・武・猛」の意とすれば元荒川の氾濫をその神の御性格と見て、たけり狂う神、たけだけしい神として「建比売」をこの地に奉祭したものとする説がある。
 ということは、当初この地に祀られていた「多気比売」は、記紀等の、正史には見えない神であり、この地方の地方神、または産土神と考えられよう。
 その後、この地が王権の支配下となり、父方の神である天皇家に対して、国津神の系統である海神豊玉彦命(綿津見大神)の娘であり、竜宮に住むとされる豊葦建姫命(とよあしたけひめのみこと)を「姫宮」と称し主祭神として祀ったのではなかろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」Wikipedia
    「境内案内板」等
      

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小針日枝神社

 古代蓮の里(こだいはすのさと)は、埼玉県行田市にある公園を兼ねる施設である。ふるさと創生事業の一環とし、行田市の天然記念物であり市の花である「古代蓮(行田蓮)」をシンボルとする公園。古代蓮は、1971年(昭和46)公共施設(小針クリーンセンター)建設工事の際に蓮の種子が掘削地の池で自然発芽し1973年(昭和48)に開花したものである。
 出土した地層の遺物や木片の放射性炭素年代測定から約1,400年から3,000年前のものと推定されたため、「古代蓮」と呼ばれるようになった。古代蓮の里は、その古代蓮の自生する付近(旧小針沼)に「古代蓮の里」として1992年(平成4年)から2000年(平成12年)にかけて整備された。
 この「古代蓮の里」の北側にひっそりと鎮座しているのが小針日枝神社である。筆者も嘗て鴻巣市の事業所で勤務していた関係で、この「古代蓮の里」には何度も利用させて頂いたが、そのすぐ北側にこのような不思議な雰囲気のある社が鎮座しているとは全く知らなかった。まさに『灯台下暗し』とはこのことだろう。
 この社に参拝する際にまず、その失礼をお詫びしてから、神妙な面持ちで境内に入らせて頂いた次第だ。
        
              
・所在地 埼玉県行田市小針1990
              ・ご祭神 大山咋命
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等
 埼玉県道128号熊谷羽生線を行田市街地、工業団地を通り過ぎた先の「下須戸」交差点を右折し、同県道364号上新郷埼玉線を南下すると、左手前方に「古代蓮の里」が見えてくる。その手前にある押しボタン式信号のある十字路を左折し、200m程進んだ先の十字路を右折すると右手に小針日枝神社が見えてくる。前項で紹介した下須戸八坂神社の南方で、直線距離にして1.5km程の場所に鎮座している。
 社の北側に隣接している「小針自治会集会所」に車を止めてから参拝を行う。
        
                  
小針日枝神社正面
『日本歴史地名大系』には「小針村」の解説が載っている。全文紹介する。
 [現在地名]行田市小針
 加須低地西端の洪積層微高地に接する沖積低地にあり、北は若小玉村、東は見沼代用水を隔てて下須戸・藤間の二村。「是より西、忍領」の封標が下総・常陸へ通じる幸手道にあった。
 約一千四〇〇年前の実から発芽した、いわゆる「行田ハス」(豊田清修氏による古代蓮)は当地で発見された。寛永一〇年(一六三三)忍藩領となり、幕末に至る。同一二年の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、役高四六九石余。田園簿によると村高は高辻帳に同じで、反別は田方一五町九反余・畑方四七町四反余。享保一三年(一七二八)埼玉沼を干拓した持添新田三三八石余は初め幕府領であったが(郡村誌)、明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領になった(松平藩日記)。

『小針』という地名は「開墾地」を意味するらしい。その昔、
星川と忍川に挟まれた後背湿地に位置する旧小針村は、忍藩諸村(埼玉郡埼玉村・小針村・若小玉村・長野村)の悪水溜井となっていて、恒常的な排水不良に悩まされていたという。
        
                    境内の風景
 小針日枝神社は加須低地西端の沖積低地内に位置し、四方を水田に囲まれて鎮座している。嘗て当社境内の南側には小針沼という大きな沼が広がっており、この沼は古くには尾崎沼と称されていた縦約10町(約1090m)・横16町(約1745m)・面積約50町(約49.6ha)の沼地であり、星川と忍川に挟まれた後背湿地として埼玉郡埼玉村・小針村・若小玉村・長野村にまたがり所在していた。この当時は忍藩諸村の悪水溜井となっていた。後に小針沼(こばりぬま)と呼ばれていたが1696年(元禄9年)に小針村と埼玉村との間で沼の名称問題が発生し、幕府の裁許によって埼玉沼へと改められたと伝えられている。
 その後1728年(享保13年)になると、幕府の命を受けた井沢弥惣兵衛と埼玉村・小針村・若小玉村・長野村の4村の住民らにより新田開発が行われた。沼の中央に排水路として小針落が開削され、小針落は旧忍川を伏せ越し野通川へと至る流路形態となっている。また、沼の北側には長野落が附廻堀として整備され、当初は見沼代用水へと至る流路となっていたが、後に旧忍川を伏せ越し、野通川へ流入する流路へと付け替えられている。
 しかし水はけがあまり良くなく、たびたび水害が発生していたため、1754年(宝暦4年)に新田の中央部に南北に貫く380間(約691m)の中堤(なかつづみ)と称する堤防が設置され、堤防の東側の下沼(したぬま)は耕地として利用され、西側の上沼(うわぬま)は元の沼地のようになった。堤防の設置により、水害は減少した。その後、沼地に戻されていた上沼において再び開田計画が起り、1934年(昭和9年)より1935年(昭和10年)まで工事が行われ、1934年(昭和9年)より1935年(昭和10年)まで工事が行われ、約27haの「昭和田(しょうわでん)」と称される水田となった。
 今日の埼玉沼は古代蓮の里や埼玉県行田浄水場、圃場整備事業のなされた通常の水田などに整備され、かつての沼地の面影はあまり残されていなく、埼玉県行田浄水場と古代蓮の里との間に位置している県道上新郷埼玉線は380間(約691m)の堤防の名残である。現在では名称について再び小針沼とも称されている。
        
  鳥居正面左側には幾多の石碑・石祠があり、右側の石碑の奥には境内社も祀られている。
「明細帳」によると、境内社として八坂神社と前玉神社があったが、現在は本殿に合祀されている。明治五年に村社となり、同四〇年に字星川と字本郷からそれぞれ御嶽神社を合祀したが、これらは前出の蔵王権現社であり、星川の旧社地を「ゾウ様屋敷」と呼ぶのがその名残である。更に同年字大沼(弁天)の厳島社、字沼通の宇賀社を合祀したというので、そのうちの一社であろうが、詳細は不明だ。
 
  石祠・石碑等の並びに鎮座する境内社。   その境内社の右側には庚申搭等も祀られている。
        
                     拝 殿
 行田の神々25 日枝神社(小針)
 古代蓮の里のすぐ北側に鎮座している日枝神社の創建については明らかでなく、『新編武蔵風土記稿』では、村内の鎮守としては蔵王権現二社が載せられています。
 主祭神は、大山咋命で、この神は、最澄の開いた天台宗延暦寺のある比叡山の麓の日吉大社、京都嵐山に近い松尾大社の祭られている神として知られています。
 神々の系譜上この大山咋命は、スサノオノミコトの子の大年(おおとし)神が天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)を娶って生まれた子の一人で、別の名前を山末之大主(やますえのおおぬしのかみ)と称しています。
 大山咋命の神名の意味は、大と山咋に分け、偉大な山の境界の棒の意味で、山頂の境界を示す棒くいを神格化したもの。また、別名の山末之大主は山の頂上の偉大な主人の神の意味であるといわれています。
 小針の当社は縁結びの神として信仰をあつめていますが、神社に伝わる話では、鴻巣市三ツ木の山王社(現在の三ツ木神社)は当社から分社したもので、当社が男の神様、三ツ木の山王社が女の神様であり、女性が良き男性を探す時は当社に、男性が良き女性を探す時は三ツ木の山王社に祈願すると良縁が成就するといわれています。
 また昭和初期まで行われた当社の例大祭の行事である「浮かし灯籠」は、神社の西に広がる上沼、(現在の県営浄水場)に、枠灯籠一千基を浮すもので実に壮観であったといいます。

 主祭神が大山咋命である小針日枝神社の創始に関わる史料がなく不詳とされ、「新編武蔵風土記稿」にも「蔵王権現社二宇 共に村内の鎮守なり、一つは大福寺持、一は神仙寺持」とあり当社は載せていない。口碑には鴻巣市三ツ木の山王社を当社から分霊したことが伝えられているだけで、おそらく旧くから鎮座していたと考えられているが、それ以外の詳細は分かっていない。
 因みに拝殿の手前右側には、既に何かしらの原因で倒木してしまった巨木が幹部分を屋根で覆い保存されている。「埼玉の神社」に記されている「舟つきの松」であろうか。
        
                     本 殿
            
 本殿の両側には狛犬ならぬ「狛猿」が設置されている。日枝神社の神使は「猿」であるためであろうが、考えてみると鳥居から境内に入り、拝殿に至るまで、狛犬等は存在していなかった。どちらにしてもこのような配置は珍しい。
 
            本殿に描かれている見事な彫刻(写真左・右)
        
        小針日枝神社の南側には「古代蓮の里」公園の豊かな林が一面に広がる。

 行田市小針地域には、古墳時代前期頃から平安時代かけて発展した「ムラ」の遺跡である『小針遺跡』が発掘されている。
 当遺跡は、埼玉古墳群東南2km程離れた旧忍川を望む台地辺にあり、行田市一帯のなかでも拠点的な「ムラ」であると考えられ、「ムラ」が展開する以前の方形周溝墓も5基みつかっている。やや離れた行田市野に展開した築道下(つきみちした)遺跡とともに、埼玉古墳群の造営を支えたムラであると考えられている。古墳群の造営の背景には、こうした大規模な「ムラ」の存在があったという。
 この
小針遺跡から出土したものには平安時代頃の「紡錘車」がある。紡錘車は「ぼうすいしゃ」と読み、糸を紡ぐ道具であり、日本では弥生時代から紡錘車が使われはじめた。紡錘車は、糸紡ぎだけではなく、祈りや呪いをするまつりの場でも使われていたようで、他にも文章や絵などが刻まれた紡錘車などが遺跡から出土することがあるという。

 ところで小針遺跡から出土した平安時代頃の紡錘車は、直径約4.5㎝の円すい台形で、蛇紋岩という石でできていて、側面には「丈部鳥麻呂(はせつかべのとりまろ)」という名前が刻まれていた。「丈部」は、地方から出向き、古代に朝廷の警備などをした部民という。おそらくこの地域で暮らしていた豪族の1人だったのではないだろうかと考えられている。
 さきたま古墳群の埋葬者の特定も今だに解明されていない中、発掘によりこのような人物の固有名詞が突如登場した珍しいケースだ。今まで土器や住居跡の出土・検出によって、そこに確かに人間がいたことは分かっていた。但しあくまで「人々・集団」等であり、名前を持たない人々・集団であった。
 ところが、小針遺跡から丈部鳥麻呂という人名が発掘された。これは歴史学的にも考古学的にも新たな視点を与える史料となる可能性は大きい。

 さて丈部鳥麻呂なる人物はどのような出自、性格で、家族構成は、年齢等はこの発掘のみでは分かる由もないが、この鳥麻呂を始め、人々がこの地でどのような営みをしてきたのだろうかと、筆者の想像力がますます膨らみそうな人物であることは確かなようだ。
 またこの紡錘車に人名を刻んだ人物は(当人か、第三者だったかは分からないが)、どのような願い・思いをかけていたのであろうか。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「行田の神々HP」
    「行田市郷土博物館 案内板」「古代蓮の里HP」「Wikipedia」等
              

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