古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

瀬戸元下雷電神社

 都幾川支流である瀬戸川はときがわ町・大附地域の弓立山(標高426m)を源とする延長約2㎞の小河川で、瀬戸・関堀・馬場各地域を流れ、旧都幾川村本郷・田中地域付近で都幾川と合流する。
 恐らく「瀬戸」地域は、この都幾川支流である「瀬戸川」から派生した地名であるか、その逆パターンであろう。この両者はお互い固有名詞である「瀬戸」が共有していて、加えて隣接して存在している為、何かしらの関連性はあることは確かである。
 さて、この「瀬戸」地名由来には、各説があり、ハッキリとしたものはない。筆者も多くの解説書やHP等を確認したが、この地名の多くは海近くか、河川に面した地域由来が多いが、だからといって陸地にも数多くこの地名は存在する。
 結論から言うと、この地名は、海のあるなしに関わらず、狭い出入口をいうような『狭処(セト)』が本来の意味で、「瀬戸」という漢字は後に転じたものであるという。 「瀬田」「瀬戸」という地名は、狭い海峡のみでなく内陸部の山間や丘陵地等の谷地に多く見られるとの事だ。
        
            ・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町瀬戸元下4471
            ・ご祭神 大雷命(推定)
            ・社 格 旧瀬戸村鎮守
            ・例祭等 例祭 10月15日(ささら獅子舞)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9965833,139.2694904,17z?hl=ja&entry=ttu
 瀬戸元下雷電神社が鎮座する瀬戸元下地域は、桃木地域の丁度真南側に位置し、現在は瀬戸元上・元下各地域に分かれているが、嘗ては同じ「瀬戸村」を成していた。
 途中までの経路は桃木八幡神社を参照。埼玉県道30号飯能寄居線合流後、1.6㎞程南下する。その後、同県道172号大野東松山線との交点でもある「田中」交差点を直進し1.2㎞程進むと、信号のある丁字路があり、その先の路地手前付近に「瀬戸雷電神社」の立看板が見えるので、そこを右折する。そこからは道なりに200m程進んだ瀬戸川に架かる橋の手前付近に瀬戸雷電神社の看板が見えてくる。
 河川沿いに路上駐車できるスペースがあり、そこの一角に車を停め、徒歩にて西方向に進む。
        
                      駐車した地点から暫く徒歩にて社に向かう。
 歩道の右側は「瀬戸川」なのだが、ほぼ「沢」と言っても良い小川であるが、水質も良さそうで綺麗である。この河川沿いを暫し進むと、正面に瀬戸雷電神社の石段が見えてくる。因みに歩道左側は鬱蒼とした森が続いていて、もしかしたら一昔前はこの歩道も参道の一部だったのか、とも感じる位風情がある。
 神社紹介のブログではあるが、このような歩道からのスタートも悪くない。 
        
                  瀬戸元下雷電神社正面
 参拝日は4月後半の平日。春時期とはいえ、日中は真夏を思わせるような日差しであり、少し歩くだけでも汗ばむ陽気だが、新緑に覆われている森に入ると至って涼しく清々しい。舗装されていない歩道も一昔前の風情や情緒があり、どことなく懐かしさを感じながら暫し歩いて行くと目の前に瀬戸雷電神社の石段、そしてその奥に鳥居が見えてくる。
 
 石段を登り終えると正面に石製の鳥居が見える(写真左)。鳥居の左側には社務所も設置されている。どうやら鳥居の正中線上からやや左向きにずれて社殿は鎮座しているようだ。
 河川沿いの歩道は周囲木々に覆われ、ほの暗くもあったが、鳥居を越えると状況は一変し、明るい境内が一面に広がる(同右)。
        
                 石段上に鎮座する拝殿
 瀬戸元下雷電神社の創建時期、由緒等は不明。但しその西側で「雷電山」頂上部に鎮座している雷電神社奥宮は、雷除けの神様が祀られているという。因みに雷電山はときがわ町にある標高418.2mの低山で、埼玉百名山に名を連ねている。
 またこの雷電神社で1013日に近い日曜日に行われている「雷電神社ささら獅子舞」は、古文書から江戸時代の享和元年(1801)には、ささらに関する記録があり200年以上のわたり行われていることが分かっており、舞は「花がかり」「雄獅子かくし」「一ツ花」という。
 この雷電神社ささら獅子舞は町の無形民俗文化財に指定されている。
       
    境内は幾多の木々に覆われているが、その中でも特に立派な大杉の大木(写真左・右)
        
                    境内南側に設置されている「助成施設」という神興庫
         この中にささら獅子舞等が大切に保管されているのであろうか。
        
         社殿より境内を眺める。瀬戸地域を静かに見守る鎮守様。
 ところで『新編武蔵風土記稿 平村(現ときがわ町西平)』に「山王社 村の鎭守なり。當社は帯刀先生義賢討れし後、その臣下の子孫なる田中村の市川氏、馬場村の馬場氏、瀬戸村の荻久保氏、腰越村の加藤氏等の、先祖まつりて鎭守とせりと、(中略)天福元年十一月廿六日始て神事を行ひしより、今も流鏑馬をもて例祭となせりと、社傳にいへり」と記されている。
 この「田中村の市川氏・馬場村の馬場氏・瀬戸村の荻久保氏・腰越村の加藤氏」は、大蔵館の戦に敗れた源義賢の家臣で、各村に土着した一族の末裔といわれている。
 瀬戸村の荻久保氏
『新編武蔵風土記稿 瀬戸村』
「舊家者丈右衛門、荻久保を氏とす、先祖某は帯刀先生義賢の臣下なりと云傳ふ、義賢近鄕大藏に舘を構へしなれば、此邊を領せしと見えて、隣村馬場村の馬場氏、田中村市川氏なども、各其の祖先は倶に義賢に仕へしと云、丈右衛門が先祖某歿して、後村内に葬り、後神に崇めて萩明神と唱ふ、其葬地には塚ありて、今福仙坊と呼ぶ、これは此人晩年薙髪して福仙坊と號せし故なりとぞ」

 
         参拝終了時、瀬戸川の流れが気になり撮影(写真左・右)。

 社は2段の石段上の高台に鎮座しているが、その理由が当初分からなかった。せいぜい斜面上に鎮座しているので、参拝者の方々への利便性から石段を設けた、という単純な考えしか浮かばなかったが、社に沿って流れている瀬戸川を見ると、おぼろげながらその理由がわかってくる。
 瀬戸川は現状川底がハッキリ見える位の清流で、穏やかな姿をしている。尚且つ、洪水対策として護岸用のブロックもしっかりと組まれているようであるが、この川幅に対してブロック壁の高さを鑑みても、一旦大水等が発生すると土砂災害による被害が出そうな地域と変貌しそうな外観であった。
 事実「ときがわ町 土砂災害マップ」を見ても、丁度社の東側及び瀬戸川周辺は「土砂災害特別警戒区域」「土砂災害警戒区域」になっていて、この地域の危険地帯の「へそ」に当たる場所に鎮座しているこの社の存在意義を改めて確認したような思いであった。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ときがわ町HP」等

       

        

 

拍手[2回]


桃木八幡神社

 桃木八幡神社周辺は、桃木の名前にちなんで花桃がたくさん植えられていて「花桃の里」と呼ばれていて、三月下旬から四月上旬には社参道で、「花桃まつり」も開催され、多くの人で賑わう。この「花桃の里」には、1本の花桃の木にピンクや赤、白の花を咲かせる「源平花桃」や、濃い桃色の八重咲きの「矢口桃」などが咲き、そしてこの種の「枝垂れ花桃」が道路沿いや庭先に咲く。
 地域住民団体の「花桃の会」のメンバーは、花桃の咲く里づくりによる地域の活性化と、心の触れ合う住みよい地域社会をつくることを目的に、平成八年(1996)から植栽のなどの活動を行ってきたという。
 今回何のレクチャーもなく、4月下旬という中途半端な日に参拝したため、花桃を見ることは出来ず、その点は大変残念。いつの日にか、桜と共に咲き誇る花桃の美しい風景を愛でたいものだ。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町桃木399
             
・ご祭神 品陀和気命
             
・社 格 旧妙覚郷八ヶ村総鎮守・旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0047598,139.2657312,18z?hl=ja&entry=ttu
 五明白石神社から北西方向にある「五明」交差点を左折、埼玉県道30号飯能寄居線合流後、1.6㎞程南下する。その後、同県道172号大野東松山線との交点でもある「田中」交差点を右折し、「ときがわ町立都幾川中学校」を左手に見ながら次の信号の手前にある上り坂の路地を左折し、暫く道なりに進むと、右手に桃木八幡神社の鳥居が見えてくる。
        
                        綺麗に整えられている
桃木八幡神社周辺環境
『日本歴史地名大系 』「桃木村」の解説
 関堀村の西に位置し、南西方に弓立山がそびえる。玉川領に属し、いわゆる妙覚郷八ヵ村の一つ。小名に「根キハ・トチ沢・山口」があった(風土記稿)。田園簿には桃ノ木村とみえ、田高九〇石余・畑高二六石余、ほかに紙舟役五〇三文が課せられ、幕府領。元禄郷帳では高一四二石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本金田領。以降、同領のままで幕末に至ったと思われる(「風土記稿」「郡村誌」など)。化政期の家数三〇、用水は平村地内で都幾川から取水した(風土記稿)。
 鎮守は八幡社(現八幡神社)。妙覚八幡大菩薩御縁起(西沢家文書)によれば同社は妙覚郷八ヵ村の総鎮守で、延暦二四年(八〇五)の勧請という。
        
                  桃木八幡神社正面
 都幾川を見下ろす丘の上に鎮座する桃木八幡神社は、明治維新まで当社の別当を勤めていた明覚寺(妙覚寺)の開山僧廣山盛阿法印(釈廣の山盛阿)が延暦14年(805)に創建したと伝えられている。建久4年(1193)には源頼朝が社領を寄付し祈願所としたといい、その後明覚郷(妙覚郷)8ヶ村の総鎮守として祀られていたという。
        
        参道は100m以上続く中、周辺の環境整備もしっかりとされている。
 桜や花桃の開花の時期は過ぎてしまったが、新緑が若々しく、木々も活力溢れているようだ。
          空気も澄み渡り、春時期ならではの気持ちよい散策。
        
 境内も広々としていて、神仏習合の名残りが今でも残っている独特な造りの社殿と相まって、良い雰囲気を醸し出している。また社殿の奥に聳え立つ巨木等の木々も良い感じである。
        
さすが明覚郷(妙覚郷)8ヶ村の総鎮守の風格といったところか。
        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 桃木村』
 八幡社
 妙覺郷八ヶ村の鎮守とす、神體木の立像にて、聖徳太子の御作と云、社傳の書に、當社は延暦二十四年の勧請なり、其後遥に星霜を經て建久四年右大将賴朝社領若干を寄附せしめ祈願所となせりと、其頃は末社九十餘宇ありて、頗る繁榮せしが、天正十八年八月丙丁の災に罹りて、社領ことごとく焼失す、其後寛永二年再び造營せしと云、此書は近き頃記せしものにて信じ難けれど、社地のさまなど古き鎮座なるべく見ゆ、本社の乾の方に僅なる池あり、御手洗とす、此水いかなる旱にも涸ることなしと云、
 別當妙覺寺
 もとは明王院と號せり本山修験、入間郡西戸邑山本坊配下、林水山宮本坊と號す、本尊不動は智證大師の作、長七寸許、開山廣山盛阿法印は、弘仁三年八月十三日寂す、開山より文明頃まで、十三世の僧名を記せしものあれど考證とすべきことなし、此邊の郷名を妙覺と唱ふるは、當寺より起りし由寺僧は云へど、此寺もとは明王院と號せしを、近頃妙覺と改めしことなれば、此寺かへりて郷名の字をとりしこと知べし、境内に陶物の薬師あり、小なる石の龕に安ず其傍に椋の大木あり、地上より二尺許上に、口の徑二寸程なる穴あり、其中に冷水涌出す、眼を患ふる者此水をもて洗ふ時は、必驗ありと云、
 寶物愛染像一軀。春日の作と云、長二寸許、右大将賴朝の寄附せし由、云傳ふれど信じがたし、
 鐘樓 延寶六年鑄造の鐘なり、
 地蔵堂蹟。何の頃廢せしや詳ならず、本尊は長一尺許、行基の作と云、今本堂に置り、
 
    社殿左手に鎮座する境内社・稲荷社    社殿右手奥に鎮座する境内社・大洗磯前神社
       
        境内社・大洗磯前神社手前に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)
「埼玉の神社」によると、神仏分離まで別当を務めた明覚寺は、古くは明王院といい、本山派修験の寺であったが、神仏分離後は西沢姓を名乗って復飾した。当主の泰一で二九代を数えるといい、『風土記稿』や『明細帳』に載る由緒は同家所蔵の社記によったものである。また、当社の本殿の軒には卍の紋が入っており、神仏習合当時の名残が見られる。なお、西沢家は代々当社の鍵を預かっており、当主が氏子総代として神社運営のまとめ役になっているなど、今も当社と深いかかわりがあるという。
 この西沢氏は、八幡社別当修験妙覚寺宮本坊文書に「十世貞山智歓法印・北条氏島崎云ふ、改西沢帯刀光輝靭負正、大永元年八月十三日寂・西沢靭負正道房。十一世寿山林盛法印、元亀三年九月三日寂・西沢靭負尉道光。十二世速山長歓法印、寛永六年四月四日寂・西沢右近将監」と記載され、それ以降も29代と続くこの地域の名主的な存在であるのであろう。
        
              境内社・稲荷社・八坂社・山神社合殿
              
        社殿前には神仏習合の名残を象徴する宝篋印塔が立っている。
 宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種で、中国からの伝来後日本で独自の発展をしてきた塔である。
 宝篋印塔を礼拝供養することによって、亡くなられた方が現世で犯した罪を消し、極楽浄土へ往生できるとされている。また、宝篋印塔は多数の如来が集っているとも考えられており、ご先祖様の供養だけでなく、子孫を守り、一族を繁栄へ導くともいわれている。
 参拝では「宝篋印陀羅尼」を唱え、塔の周りを右繞三匝(うにょうさんそう/仏に対して右回りに3回まわる参拝の作法)することで効力を発揮すると伝えられている。

 この宝篋印塔は寛政九年(一七九七年)神仏習合の時代、当地に造立されたが、明治元年(一八六八年)政府の神仏分離令により解体され、一部は放置、一部は地中に埋められた。
 調査の結果、百四十年の時を経て、平成十九年二月、塔の全部分が発見される。ここに再び地域の繁栄と住民の健康、幸せを祈り、造立当時の姿
「塔 高サ壱丈壱尺、敷石掛ヶ高サ四尺二シテ六尺四方、メ惣高サ壱丈五尺也」
 に復元し供養する。
 平成十九年六月吉日
                             「
宝篋印塔下部供養碑文」より引用

        
                静かに佇む古社の趣のある社
          


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」「フォトさいたま」宝篋印塔供養碑文」等
 

拍手[2回]


雲河原四幡神社

 ときがわ町には「雲河原」という一風変わった地域名が存在する。「都心に近い本格的な田舎」というときがわ町のキャッチコピーにあって、更にこの地域は外秩父山地外殻部に位置し、町中央部北側にありながら、四方山に囲まれた長閑な山間地でもある。
「雲河原」は「くもがわら」と読む。名称由来は不明であるが、昔は「雲瓦」と称していたという。
 そしてこの地域には、雲河原四幡神社が鎮座している。地域にとっての主要道である埼玉県道273西平小川線が南北に通っていて、小川町・上古寺氷川神社から南下し、その県道から北側小川町との境手前付近で南東方向に進む道を右折して山道を1㎞程進んでいくと、この社にたどり着くことができる
 杉林に囲まれた中にひっそりと佇む社である。
        
            
・所在地 埼玉県比企郡ときがわ町大字雲河原617
            
・ご祭神 不明
            
・社 格 旧雲瓦村鎮守(推定)
            
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0140945,139.243474,16z?hl=ja&entry=ttu
「雲河原」の名称由来はハッキリとは分からないが、嘗て秩父郡大河原郷(東秩父村)より男衾郡大河原郷勝呂村(小川町)、及び比企郡大河原荘関堀村・田中村・桃木村・平村の四ヶ村(都幾川村)に亘る広範な地域を大河原郷と称していたという。『新編武蔵風土記稿 
秩父郡条』に「椚平村、大野村、安戸村、御堂村は大河原郷に属す、古は大河原村と唱へり」。『同風土記稿 比企郡条』に「大河原郷は雲瓦村の一村に此唱あり、其余数村は皆秩父郡にかかれり、又庄名にも此唱あり」と記載があり、「雲河原(瓦)」が「大河原郷」の名称からの由来ではないかと考えられる。
        
          木製の鳥居、社号標柱はあるが、ここは社にとっては裏参道にあたる。
 当初、この「四幡神社」の「四幡」は、どのように呼んだらよいか分からなかった。一見すると「幡」という漢字が使用されていて、八幡神社系列の社かとも考えたが、「埼玉の神社」によると「シバタ」と読むようだ。また創建時期・由緒も全く不明で、『新編武蔵風土記稿 雲瓦村』にさらりと掲載されているだけである。『雲瓦村条』自体説明もあまりないので全文掲載する。
『新編武蔵風土記稿 雲瓦村』
 雲瓦村は正保及び元祿の改には雲河原と書せり、後何の頃か今の文字に書替しと云、大河原鄕都畿庄玉川領に屬して、江戸より十七里の行程なり、家數四十、東は別所村、南は平村、西は古寺村にて、北は日影村なり、東西十町、南北六町許、御入國の後は御料所にして其後元祿十五年牧野某に賜はり、今子孫大和守知行せり、
 高礼場 村の南にあり、
 小名 上 下
 雷電山 村の南の方、平村の境にあり、
 芝宮明神社 村の鎮守なり、祭神は詳ならず、村持、
 山神社 同持、
『風土記稿』に記載されている「芝宮明神社」がこの社の前身であるとすると、「芝(シバ)」が「四幡(シバタ)」と後世改名したのではなかろうか。
        
                 裏参道から境内に入る。
        
                       拝殿南側には正面にあたる石製の鳥居が立つ。
 表参道正面には石製の鳥居が立ち、その奥には幅の狭い道があるようであるが、人の歩いた形跡もあまりない。地図を確認すると、東南方向にある民家に続いているのだろうと想像はでき、ある程度駆られていて、とりあえず参道らしき体を成しているくらいだが、とても立ち入る程の勇気はない。
        
                             拝殿から正面の鳥居を撮影
   鳥居の先の道が舗装されていない獣道のようにも見え、それ以上の散策は出来なかった。
        
                     拝 殿
            この社の創建、由緒、ご祭神等は調べても不明だった。
        
                       拝殿右側後方に祀られている石祠群及び石碑等
 境内には石祠群が祀られていて、その中央部分には「國造大穴牟遅命」と刻まれている石碑がある。この石碑の前には大黒様の像もあり、その石碑の2つ左側には柄付きの香炉を持った幼少時の聖徳太子像らしい石祠もある
 この「國造大穴牟遅命」は、出雲神話で有名な大国主命の数多い別称の一つであり、『先代旧事本紀』にその名称が出ている。
 大国主命は、素戔嗚尊の子、または6世の孫とされ、出雲大社の祭神。少彦名神(すくなびこなのかみ)と共に、中つ国の経営を行ったが、天照大神の使者が来ると国土を献上して自らは隠退した。医療・まじないの法を定めた神とされる。「因幡の白兎」の話は有名で、中世以来、大黒天と同一視されるようにもなった。別名は大己貴神・八千矛神・葦原色許男命。古事記では大国主神と記されている。
『國學院大學「古典文化学」事業HP』のよると、『日本書紀』では一貫して大己貴神(命・大神)の名で活動しているのに対し、『古事記』では稲羽の素兎や大国主神の国作りなどの神話の展開に伴って、大穴牟遅神・葦原色許男神・宇都志国玉神・八千矛神・大国主神と呼称が変遷している。つまり、大穴牟遅神の神話(稲羽の素兎・根の堅州国訪問)は、王者となるための成長物語とみる説があり、その成長過程の中で、名称の変遷があったのではないかという事だ。
        
                               拝殿左側に祀られている石祠
          石祠の回りの置物から推察するに、稲荷社であろうか。

 この境内に祀られている「國造大穴牟遅命」の石碑を以って、この社のご祭神は「大穴牟遅命(神)」とも考察した。本社の祭神の妃神・御子神・荒魂(あらみたま)、また産土神や地主神等の縁故の深い神を祀る摂社とも考えたからだ。しかし、この社に関しての由緒等もないなか、単純に社殿に祀られているご祭神と、境内に祀られている社が、同一系の社であるというのは、絶対的な根拠に乏しい想像の域でしかないからだ。
 何の参考資料もない中で結局一つ解決することも出来ず終了となり、漠然とした不満のみが残ってしまった今回の社散策。ただ「雲河原(瓦)」・「四幡(芝)」というこれらの名称には、何か曰くがありそうである。
        
 裏参道木製の鳥居がある道路を挟んだ反対側には、擁壁上に「青面金剛像」や「馬頭観音像」等の庚申塔、その右並びには林道雲河原線の「開鑿記念碑」がある



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」國學院大學「古典文化学」事業HP」
    「Wikipedia」等


         
          
         

拍手[3回]


千手堂春日神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡嵐山町千手堂585
             ・ご祭神 天津児屋根命
             ・社 格 旧千手堂村鎮守・旧村社
             ・例祭等 祭日 415
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0390956,139.3103105,16z?hl=ja&entry=ttu
 平沢白山神社から南方向に伸びる道路を750m程進み、丁字路を右折する。その後道なりに進むこと200m程先に「千手院東墓宛」の看板がある路地があり、そこを右折し暫く行くと、進行方向左手に千手堂春日神社が背を向けたような配置で見えてくる。
 駐車スペースはその「千手院東墓宛」が管理するスペースが道沿いにあり、そこの一角をお借りして参拝に臨んだ。
 
       駐車場付近の風景             進行方向正面左手の社叢林の中に、
 路地一面に咲く「カンシロキク」可憐で清楚だ。      春日神社は鎮座する。  
        
                   社に通じる裏路地があり、そこから正面へ回り込む。
 一旦正面鳥居に位置する場所まで遠回りに移動しなければならないが、そこは土地勘もない事でもあり、仕方がない事だ。後で正面からのルートをグーグルマップで確認すると、どうやら民家の間を通らなければいけないようなので、結果的にはむしろこのルートで正解だったと、改めて確認した次第だ。
        
                                 千手堂春日神社正面
         正面に廻り改めて参拝を行う。やはり社の正面は威厳がある。
『日本歴史地名大系 』「千手堂村」の解説
 [現在地名]嵐山町千手堂
 槻川を挟み鎌形村の北に位置し、東は菅谷村、西は遠山村、北は平沢村。松山領に属し、村内に千手観音堂があったことが地名の由来という(風土記稿)。現入間市蓮花院の寛正二年(一四六一)一〇月一七日銘の鰐口に「奉施入武州比企郡千手堂鰐口大工越松本」「願主釜形四郎五郎」とみえる。田園簿では田高四二石余・畑高五〇石余、幕府領。寛文八年(一六六八)の田畑屋敷御検地帳(関根家文書)によると高一一二石余、反別は田五町一反余・畑二二町二反余・屋敷七反余。
        
                  石段上に立つ鳥居
      個人的にこのようなアングルから仰ぎ見る鳥居がたいへん好きである。

 千手堂春日神社のご祭神は天津児屋根命である。社は千手堂地域の中央部よりやや北西に離れた所に位置する大平山の麓に鎮座している。参道及び社殿の周囲は、欝蒼とした山林に包まれており、民家とは隔絶された世界が広がっているようにも感じた。
 創建年代等は不詳だが、『風土記稿』千手堂村の項に「春日社 村の鎮守なり、村持」とあるように、当社は創建こそ不明であるが、村の開発以来、鎮守として奉斎されてきたという
 
      境内左手にある手水舎       「春日神社拜殿建設記念碑」等の石碑が並ぶ。
 春日神社拜殿建設記念碑  平成元年四月十五日
 建設の主旨と概要
 嵐山町大字菅谷字女堀四九六番地他一筆の四十三人共有地(畑五二五七平方米)七十年間にわたり千手堂字民の食糧生産青年部農場共同桑園として共有の役割を果して来たが市街地区域農地養蚕業の衰退という条件を重なって昭和六十二年遂に売却されるにいたった
 共有者たちは夫々拾万円を拠出して老朽化した春日神社拜殿の建設を発願したのである それは敬神の誠をいたすことであり 同時に約四分の三世紀前共有地を設定し 活用護持してきた我々の祖先たちへの崇祖の思いでもあった 建設の議は大字内外に多数の賛同者を得て多大の寄進をいただき(中略)
 によって昭和六十三年十月完成の運びとなり秋の大祭に落成の式典を挙行することが出来た 茲に建設の大要並びに寄進者の芳名を記し永く後世に留めんとするものである。
                                     記念碑文より引用
        
                     拝 殿
『比企郡神社明細帳』
 埼玉縣武蔵國比企郡菅谷村大字千手堂(せんじゅどう)字明神前(みょうじんまえ) 村社
 祭神 天津児屋根命
 由緒 宝暦(ほうれき)三年(1753)三月本社再建 其他創立年度不詳
 由緒追記
 大正十年(1921)五月二日隣接山林五畝歩、境内編入許可
 大正十四年(1925)
一月八日本殿新築、旧本殿ヲ拝殿ニ引直し、出願許可同年四月十五日竣工
        
                                       本 殿
 
   境内に祀られている境内社・八坂社       本殿脇に祀られている石祠二基
                               詳細不明
        
                                  社殿からの一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」GO! GO! 嵐山 3
    「境内記念碑文」等
 

拍手[2回]


平沢白山神社


        
            
・所在地 埼玉県比企郡嵐山町平沢9682
            
・ご祭神 菊理媛命 伊弉諾尊 伊弉冉尊 菅原道真公
            
・社 格 旧平澤村鎮守・旧村社
            
・例祭等 113日 99
     
*例祭日…113日は「武蔵国郡村誌」、99日は「菅谷村の沿革」を参照
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0502142,139.3037822,16z?hl=ja&entry=ttu
 志賀八宮神社から一旦国道254号線・嵐山バイパスとの交点に戻り、そこを左折する。国道を750m程南東方向に進み、「平沢」交差点を右折、その後350m程進んだ進路方向右側に平沢白山神社の鳥居が見えてくる。
志賀八宮神社からはこの社まで、南方向で、直線距離でも760m程しか離れてない。
        
                  平沢白山神社正面
『菅谷村の沿革』での武蔵国比企郡平澤村の解説によれば、
地勢 西北山岳ヲ賓ヒ南面傾斜シ東一方田地多シ。北隅ヨリ入、村ノ中央竪切リ、東方菅谷村ヘ至ル秩父往還及東京縣道アリ。埴土多ク通路困難。地内ニ二ケ所坂路アリ。水旱両害アル地ナリ。
所属 古ヘ枩山領(まつやまりょう)、玉川郷(たまがわごう)、大河原ノ庄(おおかわらのしょう)ニ属ス。明治五申年(1872)二月大小區ヲ置キ六大区四小区ト称ス。同十二年(1879)四月比企横見郡役所ヲ置キ、同年十七年(1884)
七月本村外八ケ村ヲ以テ菅谷村聯合戸長役場ヲ置ク、
と記されている。因みにこの『菅谷村の沿革』は、埼玉県撰の村誌といわれ、明治八年(1875)六月、太政大臣三条実美の示達に基いて県が調査編纂し、地理寮に提出したものの複本という『武蔵国郡村誌』作成のため、村々が調査・記述した資料を県に提出した際、各村にはその複本が保管されており、町村制施行により菅谷村が発足した後、それらの複本が集められ加筆・修正等をされて出来上がったものが、この「菅谷村の沿革」ではないかと考えられている
 
 鳥居を過ぎ、石段を登った正面にある不動堂     不動堂から更に石段を登ると拝殿が見える。

 いつも利用させて頂いている『日本歴史地名大系』での 「平沢村」の解説によれば、「千手堂村の北の山地・丘陵部に位置し、東は菅谷村、北は志賀村。玉川領に属した(風土記稿)。中世には菅谷(須賀谷)から北上する鎌倉街道上道が通っていた。「吾妻鏡」文治四年(一一八八)七月一三日条に「武蔵国平沢寺」とみえ、当地の平沢(へいたく)寺院主職に永寛が補任されている。長享二年(一四八八)、山内上杉顕定と扇谷上杉定正の抗争は本格化し、顕定方にくみした太田資康は当地に張陣した。同年八月一七日、万里集九は「須賀谷之北平沢山」に入り、資康の軍営を訪れている」と記されている。
        
                     拝 殿
『新編武蔵風土記稿 平澤村』
 七社權現社
 村の鎮守にて境内にあり、祭神は白山及び熊野三社、三嶋の三社を合殿して、七社と號す、されど古は白山のみの社にや、【梅花無盡蔵】の詩社頭月の自註云、九月廿五太田源六於平澤寺鎮守、白山の廟詩歌會、興敬壘相對、講風雅叶西俗無比様と、その詩に、
一戰乗勝勢尚加、白山古廟澤南涯、皆知次第有神助、九月如春月自花、
依て按るに、古へ平澤寺の鎮守白山は、當社のことにて熊野三嶋を合せ、今七社と號するは、長享より後のこと知べし、
『武蔵国郡村誌』
 白山社 村社々地東西六間三尺、南北十一間、面積六十二坪、村の西方にあり。伊弉諾尊を祭る。祭日一月十三日
『菅谷村の沿革』
 白山神社
 所在 村ノ西方字入
 祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
 社格 村社
 創建年月日 末詳
 祭日 九月九日
 氏子 四十六戸
 末社 熊野三社、三嶋神社
 現任宮司若クハ祠官ノ名 高坂榮衛
 雑 古ハ熊野三社、三嶋三社、白山一社合殿シテ七社ノ権現ト唱ヒ平澤寺ノ地中ニアリシヲ、神佛混淆スルヲ以テ御一新ノ際今ノ所ニ移シテ改殿シ悉ク末社ニ付ス
 
      拝殿に掲げてある扁額         社殿左側に鎮座する境内社・天神社
 平沢白山神社の創建年代等は不詳ながら、吾妻鑑の文治四年(1188)の条に、武蔵国平澤寺の院主に求寛という僧が任ぜられたと「風土記稿」に記してあり、当社はこの平澤寺の鎮守として創建されたと伝えられている。
平澤寺は、永正年間(1504-1521)の史書『東路土産』にはその名が見えるものの、その後一時的に廃寺となり、本山派修験の持正院が地内に移り住み、当社の別当となった。
『新編武蔵風土記稿』に当社は「七社権現社村の鎮守にて境内にあり、祭神は白山及び熊野三社、三嶋の三社を合祀して、七社と号す、されど古えは白山のみの社にや(以下略)」と記されている。恐らく熊野社は持正院により勧請されたのであろう。明治に入り、社名も白山神社に復し、明治四十三年に現在の高台に移され、四年後に社殿が新築された。本殿北側にある石祠は、往時の社であるといわれている。
        
                        社殿北側にひっそりと祀られている石祠
                  元の白山社であるという。

『日本歴史地名大系』「平沢村」の解説で登場する太田資康(おおた すけやす)は、扇谷上杉家の家臣・武蔵国江戸城主太田備中守道灌(資長)の嫡男である。
文明18年(1486年)、父が扇谷上杉家当主である上杉定正に謀殺されると資康は江戸城に戻って家督を継ぐが、定正の追っ手に攻められて甲斐国に逃れる。
長享2年(1488年)、定正と山内上杉家・上杉顕定の間の内紛・長享の乱が勃発すると、同じく定正に追われていた三浦高救(定正の実兄)と共に顕定軍に加わった。これが縁で後に高救の孫(義同の娘)を室とした。この頃、生前の道灌と親しい万里集九が資康の見舞いに訪れて句会を開いている。
 そしてこの平沢の地が、埼玉県指定旧跡である「太田資康詩歌会跡」といわれている。

 埼玉県指定旧跡 太田資康詩歌会跡
 太田源六郎資康は太田道灌の子である。道灌は、江戸城築城等で知られる知将であったが、扇谷、山内両上杉氏の争乱の犠牲となり暗殺されてしまう。/資康は、父の仇敵上杉定正を撃つべく、この地平澤に布陣したという。
 その時、道灌の友であった詩歌の大家で元京都相国寺の僧、漆桶萬里集九は、はるばるこの地を訪れた。時に長享2(1488)817日であった。/萬里が陣中に36日滞在したとき、資康は、萬里のために送別の詩歌会を敵と対峙しながらここ白山神社で催した。/その詩歌会で萬里は社頭月と題し作詞したことが梅花無尽蔵という書に次のように残っている。
 一戦乗勝勢尚加 白山古廟沢南涯
 皆知次第有神助 九月如春月自花

        
                   社殿からの様子
 明応3年(1494年)、定正が事故死し、舅・三浦義同が相模三浦氏の家督を奪還すると、資康も扇谷上杉家への復帰が許されて新当主である上杉朝良に仕える様になった。初め菅谷城に居たが、長享の乱が終結した永正2年(1505年)頃に江戸城へと帰還したという。
 永正10年(1513年)、舅・三浦義同が伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められると援軍に駆けつけるが、相模国三浦郡にて早雲の軍勢に敗れ戦死したとされる。一説には資康の勢力を疎ましく感じていた主君・上杉朝良によって謀殺されたとも言われており、その年次も明応7年(1498年)・永正2年(1505年)などの異説が存在する。 
        
                       平沢白山神社に隣接している平澤寺
 天台宗寺院の平澤寺は、成覺山實相院と号し、当寺の創建年代等は不詳ながら、鎌倉時代の史書『吾妻鏡』に「文治四年七月十三日丁未、武蔵國平澤寺院主被付」とあり、文治4年(1188)には、不動明王を本尊とする有力寺院だったと伝えている。永正年間(15041521)の史書『東路土産』にはその名が見えるものの、その後廃寺となっていた当寺を、慈光寺住職重永(寛永91632年寂)が天正年間(15731592)に中興したという。
 旧本尊の不動明王が奉安される不動堂は、覺長(永禄8年・1565年寂)が創建したと思われる修験持正院が、明治中期まで別当として管理、慶安2年(1649)には65斗の御朱印状を受領していた。当寺所蔵の経筒は、享保年間に長者塚から掘り出されたもので、埼玉県有形文化財に指定されている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「嵐山Web博物館
    「Wikipedia」「平澤寺内案内板」等

拍手[2回]