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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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砂原鷲神社

 砂原鷲神社が鎮座する旧大利根町は、埼玉県北東部に位置し、北埼玉郡に属し、1971年町制。人口1万5191(1995)。利根川中流南岸の低地を占め,おもな集落は古利根川の自然堤防上にある。江戸時代に低湿地の新田開発が進んだが,たびたび水害に見舞われ,1947年(昭和22年)のカスリーン台風では9月16日0時20分に新川通の利根川堤防(利根川右岸)が約340mにわたり決壊し、大被害を受けた。その後、堤防や排水機場の整備が進み、県内でも有数の穀倉地帯となったという。2010年(平成22年)3月23日 ‐加須市、北埼玉郡騎西町、北埼玉郡北川辺町と合併し消滅した。
所在地   埼玉県加須市砂原2085
御祭神   天穂日命、木花開邪姫(推定)
社  挌   旧村社(推定)
例  祭   4月15日、7月15日(天王様) 10月15日(例大祭)

        
 砂原鷲神社は埼玉県道46号加須北河辺線を加須市市街地から旧北河辺町方向に北上し、上樋遣川交差点の約300m先で右側にこの社は鎮座している。境内案内板によれば万治元年の創立といわれ、鷲宮神社(鷲宮町)と富士浅間神社 の 分霊を祀ったとされている。また、氏子の口碑によると、浅間社の境内に 鷲宮明神を祀り 、社名を鷲神社と改めたといわれる。
           
                            砂原鷲神社正面

     参道の左側にある社殿改築記念碑         社殿の石段の手前左側にある力石と案内板
            
                              拝   殿

 鷲神社の概要   大利根町郷土史
 鷲神社と浅間神社を相殿に祀る。十軒地区を除く本田耕地を氏子とする。所在地は大字砂原字木原2083-1。(以下中略)祭神は天穂日命(鷲神社)、木花開耶命(浅間神社)。祭日 1月元旦、4月15日、7月15日 天王様。10月15日。
 由緒
 武蔵風土記稿、鷲明神社は村の鎮守なり。西浄寺持。武蔵国郡村史、社地東西13間5分、南北29間9歩、面積405坪、村の戌の方字本田小堤の傍らにあり、天穂日命を祀るとある。口碑浅間神社境内に鷲神社を祀ったとも言われている。拝殿は1つで、内部は流れ造りで両社の本殿が相殿で祀られている。両社とも内陣には舎幣と木造の神像が収められてある。鷲神社の神像は坐像で、束帯姿35㎝程の寄木作りで、台座裏には墨書で「向川辺領砂原村鎮守鷲大明神尊体也村中安全祈別当敬白干時寛政七乙卯大9月」武州埼玉郡砂原村別当敬白現住法印淳雅と記してある。浅間神社の神像は、向背をつけた菩薩像で寛政10年(1798年)西浄寺住職によって作られたとある。(中略)
                                                          境内案内板より引用
           
                          社殿左側にある境内社 
              左側から下仙元社 食行霊神 稲荷社 愛宕 御嶽 天満宮

 また鷲神社に隣接して北側には弁天社とその周りには弁天池がある。この弁天池は鷲神社のすぐ東側に流れていた利根川の支流である浅間川が氾濫して堤防が決壊したさいにできたものらしい。

  鷲神社の社殿の裏側に弁財天が祀っている。                 弁財天
                 
 弁財天の社殿の左側には弁天池の記(玉敷神社の当時社司であった河野省三氏の選文)共に弁財天の由来も紹介している。

巡礼の供養
 社記によると、当時の利根川は鷲神社の西側を流れていた。延享2年(1745年)、降り続く集中豪雨で川は満水になり、神社裏手の堤防が決壊した。村人たちは濁流の恐ろしさに、唯脅えるだけで呆然として水の流れを見つめているだけでした。すると誰かが、人柱を立てようと叫んだ。昔は何の手立ても無く、残酷な方法しかなかったのです。たまたまそこに居合わせた若い女の巡礼を水中に投じてしまいました。すると不思議にも猛威を奮って流れていた水も、見事に止り静かになった。すると水面に白蛇首を持ち上げ姿を現しました。村人たちは口々に、先の巡礼が蛇に変わったのだと言いました。人々は後世の祟りを恐れ、弁財天に祀ったと伝えられています。それから今の日まで毎月21日には巡礼の供養を続けています。(中略)私達の先代の方々が一生懸命信仰してきた誠意を継承し、地域繁栄を祈り、更に住民の永遠の幸せを御祈念申し上げます。
                                                             案内板より引用

 上記に書かれている人柱信仰、または人身御供の行為は、特にアニミズムの信仰を持つ地域の歴史に広く見られる。人間にとって、最も重要と考えられる人身を御供物として捧げる事は、神などへの最上級の奉仕だという考え方である。
 日本では、河川が度々洪水を起こしたが、これは河川のありようを司る水神(龍の形で表される)が生贄を求めるのだと考えられた。今日に伝わるヤマタノオロチ等の龍神伝承では、直接的に龍に人身を差し出したと伝えられるが、実際には洪水などの自然災害で死亡する、またはそれを防止するために河川に投げ込まれる、人柱として川の傍に埋められる等しい行為が後世、伝承の過程で変化して描写されたのだと考えられていて、日本各地ではその伝承・伝説は非常に多いことも事実だ。
 また多くの人身御供伝説では、生贄の対象が女性である場合が多い。弁財天の案内板を読むうちに、当時のどうにもならない事情はあるにしろ、悲しい歴史の裏側を垣間見た、そんな気持ちになり切ない思いに駆られた参拝となった。

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