古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

高尾氷川神社

 北本市は、埼玉県の中東部に位置する市である。人口は約65千人。江戸幕府による宿駅整備以前の1602年(慶長7年)までは中山道の宿場、鴻巣宿があったことが地名の由来である。
 地形をみるに、大宮台地の北端部に位置し、その大部分は台地の上にある。台地の西部は荒川の低地に面し、東部は元荒川の低地によって限られていて、北の鴻巣市と南の桶川市とは、いずれも同じ台地で連続している。市の西部の高尾・荒井・石戸宿付近の標高は30mに達し、大宮台地の最高点にあたっている。因みにこの高度は、南の桶川市川田谷まで続き、大宮台地の長軸の方向に平行している。
 北本市の遺跡の分布をみると、荒川の低地に面する台地の西部に多くの遺跡が発掘されている。縄文早期・前期では高尾706番地の高尾遺跡、同後期・晩期では高尾字宮岡の宮岡遺跡、縄文期から古墳期にわたっての遺跡としては、下石戸下字久保の榎戸遺跡、高尾字東谷足(ひがしやだり)遺跡、荒井字北袋遺跡などがある。古墳前期の集落跡としては石戸宿遺跡があり、後期の古墳群としては、荒井字八重塚の八重塚古墳がある。
 こうした一群の遺跡は、北は鴻巣市の馬室地域から、南は桶川市の川田谷に続く一連のもので、原始時代以降連綿として一連の地域が生活の舞台をなしていたことを示している。
 北本市高尾地区に鎮座する高尾氷川神社は縄文時代から続く生活の営みを続けてきた人々の土台の上に社を立てている。正に「神社」あるところ「歴史」あり、である。
        
             
・所在地 埼玉県北本市高尾731
             
・ご祭神(主)素戔嗚尊 
                 (相)市杵嶋姫命・大雷命・誉田別命・大物主命・菅原道真公
             
・社 格 旧村社 高尾・荒井・北袋・石戸宿・石戸上村鎮守
             
・例祭等 春祭 418日 例祭 718日 秋祭 1018日 他
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0253321,139.5076559,16z?entry=ttu

 北本市高尾地域は北本市西部に属し、鴻巣市原馬室地域の南部で接している。原馬室愛宕神社に接して南北に通じる道路を800m程南下すると、「高尾二丁目」交差点に到着、同時に埼玉県道57号さいたま鴻巣線との合流地点となるが、そこを更に300m程南方向に進むと「高尾氷川神社入口」交差点に達する。
 この交差点は嘗ての「鎌倉街道」とも接していて、右斜め方向先にはその案内板もあるが、車は進行禁止となっているので、一旦真っ直ぐに進むと、すぐ先の十字路には「氷川神社」とその進行方向を示す案内板があるので、その指示通りに進むと、高尾氷川神社入口に到着する。
        
                「伝鎌倉街道」の案内板
 高尾氷川神社の散策前に、この地域を南北に通っていた「鎌倉街道」・正確には「鎌倉街道中道の枝道」を紹介。正直この地に来るまでは伝鎌倉街道があること自体知らなかった
 伝鎌倉街道
 鎌倉幕府の成立とともに整備された鎌倉街道は鎌倉と関東諸国・信濃・陸奥とを結んだ歴史の道として知られています。かつての鎌倉街道には、上道・中道・下道の幹線とそこから派生する大小の枝道が発達していました。
 北本市内の西部には、古くから鎌倉街道と伝わる古街道が南北に通っています。
 この街道は中道から枝分かれして荒川沿岸を北上し、群馬県へと通じる上野道と考えられており、支道としての役割を果たしていたようです。
 街道沿いには中世の城館跡や寺院等の文化財が数多く存在し、歴史的に重要な街道であったことがうかがえます。
 この街道のルートは、上尾市の平方から桶川市の川田谷をへて、市内では庚塚(芭蕉句碑)─石戸宿─須賀神社・氷川神社─
  道標「これより石と舟とミち」
 ─鉄砲宿を結んでいたと伝えられています。 平成2912月 北本市 北本市教育委員会
                                      案内板より引用

 
      ⇐ 庚塚(芭蕉句碑)方向            鉄砲宿・鴻巣方向 ⇒
 鎌倉街道中道の主街道ではない枝道であるとはいえ、「いざ鎌倉」と呼び声高く鎌倉武士が鎌倉目指して参集したのであろう。考えてみたら多くの武士団の需要があってこそこの枝道は開発されたと考えるほうが普通である。今ではすっかり綺麗に整備された街道周辺であるが、開発当時はどのような風景があったのであろうか。想像は尽きない。
        
                  高尾氷川神社正面
 平安時代の貞観11年(869年)創建と伝えられる、鎮守の森の風格漂う古社。室町時代中頃に武蔵国一宮の大宮氷川神社を分祀した。宮岡の谷津を望む台地に鎮座し、辺り一帯は縄文時代の遺跡があり、多くの遺物が出土しており、嘗て大きな集落があったことがわかっている。
 
  鳥居上部の社号額には「高尾氷川神社」    鳥居の先には当社の御祭日が記された
       と刻印されている。           案内板が設置されている。
        
                         鳥居を越えて参道を通る途中にある案内板
 氷川神社 
 所在地 北本市大字高尾字宮岡一〇七七番地
 氷川神社の祭神は素戔嗚尊、市杵嶋姫命、大雷命、誉田別命、大物主命、菅原道真公である。
 貞観十一年(八六九)十月十八日に創建され、高尾村、荒井村、北袋村、石戸宿村、下石戸上村他の鎮守としたと言う。また、境内には厳島神社も祭られている。
 昔、御手洗川のほとりに御神木といわれた幹周り二丈五尺余(約八メートル)もある杉の大木があり、この杉より龍が昇天したと伝えられる。元禄十四年(一七〇一)十月二日の大風でこの御神木は根元より吹き倒されたため、これを惜しんだ氏子たちが、その跡を掘り上げて島を造り、社を建てたのが厳島神社の起こりと言われている。
 厳島神社の御神体の尊像は、宝暦六年(一七五六)江戸神田新銀町中島屋久四郎という者が弁財天のおつげにより、この地を訪れ奉安したものといい、現在の石橋、石段もその時奉納したものといわれている。
 明治以降は養蚕の守護神として参拝されるようになった。
 なお、氷川神社の祭事は、春祭四月十八日、例祭七月十八日、秋祭十月十八日に行われている。
                                      案内板より引用


『新編武蔵風土記稿 高尾村条』には「相傳ふ当村古は田高村と呼び、鎌倉右大将家の臣石戸某の采地なりしに、」、また同じく『新編武蔵風土記稿 田甲村条』にも「当郡東の方荒川を隔て足立郡高尾村あり、古は田高とも記せし由、是田甲の転訛ならん」と、「高尾」という地域名は嘗て「田高・田甲」と記されていた時期があったらしい。
 この北本市高尾地域から吉見郡田甲地域は直線距離でも8㎞程離れているが、この両地域は何かしらの関連性があるのであろうか。
        
                綺麗に手入れされている参道
                          新緑が映える参道の先に拝殿が見える。
        
 参拝日は2023年7月6日で、「茅の輪くぐり」の祭典が行なわれていた。茅でできた輪をくぐることによって罪穢れを祓うと云われ、参拝当日も厳かな気持ちでくぐらさせて頂いた。
        
                     拝 殿
(高尾村)氷川社
 文明五年大宮氷川の男體を勧請せり、神體素戔嗚尊本地佛正観音なり、當村及び荒井・北袋の三村其外石戸宿・石戸上村の内にても鎮守となせるなり
                               『新編武蔵風土記稿』より引用

氷川神社 北本市高尾七-三一
高尾の地内には、氷仁二年(一二九四)をはじめとする五〇基以上の板碑が現存し、古くから開かれた所であった。
当社は『明細帳』に「貞観十一年(八六九)十一月十八日創立」と載せているが、明らかでない。『風土記稿』高尾村の項には「氷川社 文明五年(一四七三)大宮氷川の男体を勧請せり、神体素盞嗚尊本地仏正観音なり、当村及び荒井・北袋の三村其他石戸宿・石戸上村の内にても鎮守となせるなり」とあり、更に「別当泉竜寺 当山派修験、京都醍醐三宝院の配下、古は大行院と号せしが、享保十二年三宝院指揮にて、慈眼山泉竜寺とぞあらためしと云、本尊不動を安置す」とある。中世において一宮の氷川神社にかかわる修験が武士や郷村を巡回しながら氷川信仰を流布していったとされていることから、当社もこのような修験の教宣活動を背景に当山派修験大行院の手によって氷川の男体が勧請されたものであろう。
江戸期に入り、当地を含む石戸領を知行した旗本牧野氏が当社を祈願所として崇敬を寄せたことが『明細帳』に記載される。ちなみに、牧野康成が天正十八年(一五九〇)以降に川田谷村(桶川市)に陣屋を構え、孫親成のころまで存続したとみられる。
神仏分離を経て、当社は明治六年に村社となった。また、泉竜寺は廃寺となり、代わって吉田家が祀職となり、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                          社殿には、奉納された額も飾られている。
   この額は記紀の神話「天の岩戸開き」伝説をモチーフにして描かれている物であろう。
        
             拝殿の右側に祀られている境内社・琴平神社
          北本七福神(恵比寿・大黒天)であり、中には可愛い神様たちが祀られている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉県市町村誌」「広報きたもと」「北本市産業観光課HP」
    「さいたまの神社」「Wikipedia」「北本デジタルアーカイブス」「境内案内板」等

 

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