古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

樋遣川古墳群

 樋遣川古墳群(ひやりかわこふんぐん)は、埼玉県加須市樋遣川地区にある古墳群である。1956(昭和31)416日、諸塚古墳・浅間塚古墳・稲荷塚古墳の3基が市史跡に指定されている。1976(昭和51)101日、県の重要遺跡に指定されており、新編武蔵風土記稿の樋遣川村の項に、「穴咋塚、諸塚、石子塚、稲荷塚、浅間塚、宝塚、宮西塚、以上の塚を樋遣川の七塚という」とある。河川の氾濫や開墾などで現在ほとんどの古墳は削平されているが、諸塚古墳、浅間塚古墳、稲荷塚古墳の3基の円墳だけが残っている。この古墳群の一つの宮西塚から出土したといわれる馬具や鏡は、県立さきたま資料館に展示されている。
 現在残っている3つの古墳の中では御諸塚が最も大きく、直径約40m、高さ約6mの円墳で墳頂部には社殿が建てられている。また浅間塚と稲荷塚は御諸塚の南約500m
のところにあり、ほぼ同じような規模で、東西に並ぶ円墳である。
        

御諸塚古墳
 御諸別王の陵墓とも言われている古墳である。この王は豊城入彦命の孫で、上毛野君祖とされている彦狭島王の子である。彦狭島王は崇神天皇によりが上毛野国造に任じられ、東国に赴任しようとして、旅の途中で没した。そこは奇しくも父の八綱田王が狭穂兄妹を焼き殺した春日の地の辺り「春日の穴咋 邑(村)」であったという。御諸別王は父の思いを胸に秘めながら任に着いたのであろう。東国統治を命じられ善政をしいたという。蝦夷の騒動に対しても速やかに平定したことや、子孫は東国にある旨が記載されている。
 『日本書紀』崇神天皇段には上毛野君・下毛野君の祖として豊城入彦命の記載があるが東国には至っておらず、孫の彦狭島王も都督に任じられたが赴任途上で亡くなっている。東国に赴いたのは御諸別王が最初であり、御諸別王が実質的な毛野氏族の祖といえる。

因みに陵墓候補地として以下の場所等が言われている。
①蛇穴山古墳…総社古墳群 群馬県前橋市 一辺39m、高さ5mの方墳
 埋葬主体部は横穴式石室であるが、羨道を欠き、玄門と玄室からなる特殊な形をとっている。玄門の前には、羨道の痕跡ともみられる構造と八の字形にひらく前庭がある。石室は天井、奥壁、左右壁ともみごとに加工した各一枚の巨石で構成されている。天井石、奥壁などの縁はL字形に切り込んで壁の石と組み合わせている。精巧な細工をほどこした玄門とともに、当時の石材加工技術の優秀さを物語っている。
 石室の規模は玄室長(西)
3m、同幅2.6m、同高さ1.8mである。隣接する宝塔山古墳とともに、県内古墳の最終末期に造られたもので、8世紀初頭のころに位置づけられようで、御諸別王の活動時期とはいささかずれている。但しその石室の特異さと精巧さはついに、古代上野国の名族上毛野氏の祖、御諸別王の霊地として記されたのであろう。
②後二子古墳…大室古墳群 群馬県前橋市
 1段目を大きく造り、その上に小さな2段目が載る構造「下野型古墳」の特徴をもつ。
1878年(明治11年)3月の石室発見・開口の後、宮内庁に後二子古墳を御諸別王の陵墓として認定する申請が出されたが、豊城入彦命の陵墓として申請していた前二子古墳同様認定はされなかった経緯あり。
③御室塚古墳(諸塚)…樋遣川古墳群(御陵墓伝説地) 埼玉県加須市

浅間塚
       
 御諸塚古墳から南側500m程下った場所に墳丘が存在する。墳頂には此花咲矢姫(このはなさくやひめ)を祭神とする浅間神社が鎮座し、江戸末期~明治に、富士浅間信仰のため、盛土をされたようであり、急角度の小高い丘となっている。
       
 案内板より
 有形文化財 浅間塚 昭和三十一年四月指定
 七基の古墳からなる樋遣川古墳群の一つであるが、現在はこの浅間塚、稲荷塚、御室塚の三基を残して破壊されてしまった。
 この古墳は径二十四メートル、 高さ(土盛りがしてあるため見かけは)五.五メートルの円墳である。項には一八五七年(安政四年)の建物があり、中に此花咲矢姫の木造が祭られている。
 昭和五十五年八月  加須市教育委員会
      
 かなりの急角度で墳丘が立ち上がっているのは、後世に盛り土されたためで、原型とかなり改変されているかもしれない。

稲荷塚
      
 御諸塚古墳から南側500m程下った場所に浅間社と約100m程隔てて東西に並ぶように墳丘が存在する。位置的に見ても浅間塚と共に御諸別王の子孫の墳墓あるいは、陪冢(ばいちょう)と考えられる。因みに稲荷社の案内板は浅間社よりも新しいもので、かなり詳しく記載されている。
       
                 稲荷塚の案内板
 市指定有形文化財 稲荷塚 
稲荷塚は古墳時代の円墳(平面円形の古墳)で、墳頂部に稲荷社が祀られている。直径二十二メートル、 高さ二メートルで、樋遣川古墳群の一つである。利根川の支流浅間川右岸の自然堤防上に築造された。
 江戸時代後期の『新編武蔵風土記稿』に「穴咋塚、諸塚、石子塚、稲荷塚、浅間塚、宝塚、宮西塚、以上の塚を樋遣川の七塚という。いずれも高さ六七尺(約二メートル)ばかり」と記されている。明治三十四年、御諸塚は宮内庁により、御諸別王の墓として陵墓伝承地、稲荷塚と浅間塚はその付属地に内定した。その後、懐疑的な意見も出されたが、樋遣川古墳群出土品については「相当な文化」と評価されている。稲荷塚と浅間塚、御室塚の三基は現存し、県選定重要遺跡となっている。
 加須市教育委員会

樋遣川古墳群の
7塚の特徴として、一番規模の大きい御諸塚古墳を中心に、この古墳を囲むように6塚が配置されている。
・北側 無し
・南側 稲荷塚・浅間塚
・東側 宝塚
・西側 宮西塚・穴咋塚・石子塚
 7塚の中に「穴咋塚」があり、「日本書紀」に彦狭島王は「春日の穴咋邑(村)」に没したとあり、奈良と言われているが、樋遣川村もかつて穴咋村と称していたという。また、御諸別王が軍勢を集めた陣営の跡であり、杭を建て、釜を掛けたことから「釜杭塚」とも言い、その関連性は興味深い。
       
                南側から古墳群を望む。
 樋遣川古墳群は現存する3基の古墳群、標高約14mの一面田園風景が広がる中に田んぼと屋敷林や水塚のある中に社叢がポツンと見える為、目標物として見分けやすい。


       

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