古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

穴八幡古墳

        
 大塚八幡神社の南側で、丁度参道をそのまま南下し、鳥居を越えてすぐな場所に、こんもりとした小山が目視でも見られる。これが穴八幡古墳と呼ばれる古墳時代後期の方墳である。墳丘は高さが
5.6m、一辺28.2mを測り、内堀の一辺は、東西で39m、南北で約40m、溝幅は最大で7.4mで、周溝外縁は一辺61.4mに及ぶ大型の方墳である。外堀の南半分については確認されていない。首長の棺を納めた石室は、横穴式石室と呼ばれるもので、全長8.2mを測り、南に向いてその入口が開いている。
 かつては円墳と考えられていたが、1988年(昭和63年)の周溝試掘調査により、二重に周堀を持つ県内でも最大級の方墳であることも判明した。
 小川町下里地域で採掘される緑泥石片岩など結晶片岩の一枚石を組み合わせて造られたもので、内部は前室と後室の2室に分かれている。比企地方では、石室の胴部がやや張った形態のものが多い中で、この古墳は直線的な構造となっていて、古墳の形態や出土遺物などから、7世紀の後半に築造されたことがわかっている。別名黄金塚・増尾大塚・王子塚・王塚とも呼ばれてもいる。
 昭和34年(1959)に埼玉県の指定史跡になっている。
        
       
南側の切通し道に入口階段があり、階段上った右側に説明板がある。
 県指定史跡 穴八幡古墳
 小川町大字大塚と増尾の間に位置する八幡台地のほぼ頂部に立地する穴八幡古墳は、埼玉県内でも最大級の規模を持つ方墳です。首長を治めた横穴式石室は南に開口し、内部には下里産出と考えられる大きな緑泥石片岩を利用しています。また、この位置が小川の盆地を一望にみわたせることなどから、この古墳の被葬者はこの盆地を治めた有力人物であったのかも知れません。
 新編武蔵風土記稿によれば、この古墳は寛文(16611673)の頃、切りくずして陸田にしようとしたところ、石室が現れたので中止したことが記されています。なお、文政十二(1829)年、島田氏が八幡神社を勧請したので穴八幡と呼ばれるようになり、遠く江戸吉原のおいらん衆が奉納した提灯や手ぬぐいが残っていました。
 平成十年三月                           埼玉県・小川町教育委員会
        
             階段を上り終えると更に詳しい案内板がある。
  案内板を確認すると、この古墳一帯の字(小字)は「岩穴」との事。地形にピッタリである。

 埼玉県指定史跡 穴八幡古墳
 小川町大字増尾字岩穴六三‐一外
 昭和三四年三月二○日指定
 平成三年三月一五日追加指定
 当古墳は、巨大な横穴石室を備える古墳として、昭和三四年に埼玉県指定史跡に指定されました。古墳の形は、当時円墳と考えられていましたが、昭和六三年の発掘調査や測量調査により、周囲に二重の周堀を備えた方墳であることが確認されました。
 古墳は、墳丘の高さ約五・六m、一辺の長さ三二mを測り、周囲の堀は内堀が幅五・七m、外堀が三・七~四・七m、外堀の一辺の長さ六一・四mを測る、県内最大級の方墳です。
 石室は、緑泥片岩などの大きな一枚石を組合せ、内部は奥室と前室から構成され、全長八・二mを測ります。
 当古墳の造られた時期は、埴輪が出土しないことや前庭部から出土した須恵器から古墳時代終末期、七世紀後半と考えられ、小川盆地の古代文化を考えるうえで非常に貴重な存在です。
 平成五年三月二五日                    埼玉県教育委員会 小川町教育委員会
        
                 穴八幡古墳南側より撮影

 ところで
鎌倉幕府の9代、最後の将軍である守邦親王(13011333)が幕府滅亡の後、この地に逃れてきて、ここに葬られたという伝承がある(6代将軍・宗尊親王とも)
 または被葬者は「梅皇子」という伝承もあるが、梅皇子とは守邦親王が名乗った別名とか、守邦親王の庶子とか諸説ある。しかし、推定されている古墳の築造年代は7世紀後半であり、守邦親王の時代より、600700年も前のことである現地解説板や小川町のHPでもその伝承について触れられず被葬者は全く不明としている。
 では一体「梅皇子」とは実在した人物なのか、実在したとしたらどのような人物だったのであろうか。
  
 開口部 左右の大きな板石は後世に置かれたもの  石室内部は前室と後室の2室に分かれて
                           
奥に八幡社が祀られている

 いわゆる「古史・古伝」とは古代史の主要な史料(日本の場合なら『古事記』や『日本書紀』など)とは著しく異なる内容歴史を伝える文献を一括して指す名称であるが、現状いずれも学界の主流からは偽史とみなされている。
 それでも現在では、近代における日本人の国家観・民族観への受容等のあらわれとして、文献の作成を行う者の思想に対する研究が始まったところである。文献そのものに史料的価値が認められなくとも、「それらの文献(偽書)をいつ、だれが、どのような背景・目的で作成したのか」を研究することは、古代史の研究とは言えないにしても、参考的な知識を蓄積する意味において、十分学問的な行為といえる。
 「古史古伝」のひとつである「ホツマツタヱ(以下秀真伝)」は、日本で古い時代に用いられたとされる文字、いわゆる「神代文字」の一種である「ヲシテ文字」を使用したいわゆる「ヲシテ文献」のひとつ。秀真伝は五七調の長歌体で記され、全40アヤ(章)・10700行余で構成され、『古事記』『日本書紀』の原書であると根強く考える者も一部に存在するという。
 秀真伝はその成立時期は不詳であり、複数の写本が現存している。いくつかの写本では「ホツマツタへ」、「ホツマツタエ」とも、また漢訳されて「秀真伝」、「秀真政伝紀」とも表記されている。「ホツマ」と略されて呼称されることもあり、少なくとも江戸時代中期まで遡る。故に歴史学、日本語学等の学界においては、江戸時代に神道家によって作成された偽書であるとされている。しかしながら、文献全体の包括的な史料批判はまだ行われていない。
                 
               
墳丘西側の二重周溝  左側にはっきり見えているのが外側周溝


 秀真伝地の巻 25アヤ(章)には、ニニキネ(瓊瓊杵尊)と鹿葦津姫(かしつひめ)、またの名は木花開耶姫(このはなのさくやびめ)との間に3人の男子が生まれた。
長男:ムメヒト…火明命(日本書紀) 天火明命(古事記)
次男:サクラギ…火闌降命(日本書紀) 火照命(古事記)
三男:ウツギネ…彦火火出見尊(日本書紀) 天津日高日子穂穂手見命(古事記)
(すべて斎名)
 次男サクラギ、三男ウツギネは「日本書紀」では概ね夫々長男・次男として記述され、「古事記」では次男、三男として出てくる。山幸彦、海幸彦物語として登場する場面として有名だ。しかし「ムメヒト」は瓊瓊杵尊の子供として登場するが、それ以降の活躍場面もなく、ただ単に天火明命(ほあかりのみこと)として日本書紀では尾張氏の祖として出てくるのみである。また饒速日命の別名であり、饒速日命と同一神と記している書物もあるが、秀真伝ではムメヒトは瓊瓊杵尊の長男であり、饒速日命の父親と記述されている。
 本題からいささかそれてしまった感があるが、この「ムメヒト」の「ムメ」は「梅」のことで、「ヒト」は「皇子・命」と訳され、ずばり「梅皇子」となるという事である。
 想像を逞しくすることを許して頂き、また秀真伝の信憑性が高まったと仮定して、その天火明命の子孫が7世紀ごろに時の権力者である蘇我氏に接近し、蘇我氏が方墳を採用していたことにより、これに倣ったものと考察する。時代背景として薄葬令がだされていた時期でもあり、これだけの方墳を築造できる身分で考えられるのは、天津族の血を受け継いだ在地豪族で、国造クラスの人物を現時点では推測する。
        
        大塚八幡神社の南側鳥居の道を隔てた角にあった穴八幡古墳の石碑

 我が国の「梅」の歴史は古い。元々梅は中国原産の花木で、2000年前に書かれた中国最古の薬物学書『神農本草経』には、すでに梅の効用が説かれている。日本へは約1500年前、薬用の”烏梅(ウバイ)”として中国から伝来したと言われている。これは青梅を薫製・乾燥したもので、実がからすのように真っ黒になることから「鳥梅」と呼ばれていて、現在でも漢方薬のひとつになっている。
 今では我が国のシンボルでもある桜の陰に隠れがちな存在でもある梅であるが、奈良時代の花鑑賞といえば、梅をさしていたという。その証拠に『万葉集』に詠まれた梅の数では桜を詠んだ歌は43首に対し、梅を詠んだ歌は110首。梅は桜の倍以上詠まれている。穴八幡古墳が築造された当時も、花といえば梅だった時代かもしれない。
 そして「梅」信仰は天満宮、つまり九州地方の花といえばまさに梅。天満宮は今では菅原道真のイメージが定着しているが、道真は平安時代前半(9世紀頃)の人物であり、創建起源の古い「天満宮・天神社」については、天津神(雷神)を祀る神社という意味のものもあり、これは菅原道真とは関係がなく、全国各地に在りその発祥は不明との事だ。本来の天満宮・天神信仰とはいかなるものだったのだろうか。




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