古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

松崎八幡神社

               
               ・所在地 埼玉県比企郡吉見町松崎254
              
・ご祭神 誉田別尊
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 旧暦915日
 松崎八幡神社は、大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進み、2㎞程進むと埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線と交わる交差点に到達するが、その手間のT字路を右折する。県道との交点手前右手にはコンビニエンス(ローソン吉見松崎店)があり、その手前のT字路からも見えるので、右折するのに間違いは少ないと考える。右折後300m程進むと左側に松崎八幡神社が鎮座する地に到着する。
 松崎八幡神社から南に50mまで参道が続き、鳥居から北側に車両を駐車するスペースが確保されていて、そこに停めてから参拝を行った。
        
               綺麗に整備されている鳥居周辺
 写真を見ると地元の一般道路と並んで砂利がひかれた状態で参道は続いていて、通常は駐車場として使われることも多いようだ。
        
                                   鳥居正面
 
           長い参道の先に松崎八幡神社境内が見えてくる。 
       境内も手入れも行き渡っていて、こじんまりと纏まっている印象。      
 
○御社殿造営記念碑 八幡神社 略史 
 松崎八幡神社の御祭神は応神天皇 神名を誉田別尊と称せられる 神社の勧請に関する文書は存在しない そのため御創建の年代は詳でないが 一つの拠り所として樹齢七百年と言われた 欅の御神木から勘案して 十二世紀後半のころと推察される
 
享保二年十一月の古文書に 当八幡神社に対して 正一位八幡宮の極位を奉授した 神衹管領勾当長上卜部兼敬の 宗源宣旨 宗源祝詞は神社の重宝古文書として保存されている 明治四年神仏分離令以前 当神社の別当寺は八幡山千乗寺であった 同年六月入間県へ村社として届済 昭和二十八年四月宗教法人八幡神社として設立承認される
 
平成元年二月二十八日 不慮の災禍により社殿を全焼する そのため氏子の総意により平成二年三月 御社殿を再造営した
 
尚御神木の欅は 火災の折猛焔に煽られ 大焼損を受け 枯朽の愁いがあるため 可惜のうちに 止むを得ず伐採の憂目を迎えた
 
「知って信ずる」これは現代信仰の基礎論である 我々は八幡神社の氏子として 神社の歴史を熟知し 産土の神を精神的核として崇敬し ひたすら神社の興隆と 郷土の発展を祈念するものである(以下略)
                                      記念碑より引用

 御社殿造営記念碑に記載されている「宗源宣旨」とは
 室町後期以降,江戸時代を通じ,吉田神道(唯一宗源神道)を宣揚し,神社,神職を支配してきた吉田家が,諸国の神社に位階,神号などを授けた証状。宗源は唯一宗源の略称で,吉田家に唯一相承されてきた神道をあらわし,宗源神宣ともいった。祭神に魚を奉ること,大明神号を授けること,鳥居を建てること,神輿を動かすこと,などさまざまの許可,授与の文書が発行されたが,なかでも神に対して位を授けることがもっとも多くみられた。
 以後、これによって吉田家は全国の神職のほとんどを傘下に収め、絶大な勢力をもったが、明治維新に至り廃止されたという。
        
                                        拝 殿
 八幡神社<吉見町松崎六五二 松崎字宮ノ腰
 当社は大字松崎(旧松崎村)の鎮守として祀られているが、元来は松崎・山ノ下二か村の鎮守として奉斎していた。
 松崎に隣接する山ノ下は、松山城の帰農武士である山崎隼人・小山兵庫・八木橋刑部・野沢図書・高橋采女の五人によって開発された所であると伝える。
 山崎家文書の天和元年(一六八一)「為取替申当村開発以来村系図并仕来儀定之事」によれば、元亀二年(一五七一)八月に隼人・兵庫・刑部・図書・采女一同の心願により山ノ下・松崎両村の鎮守として正八幡社を村境に勧請した。これが当社の創建である。
 境内にある石鳥居には「享保五庚子天(一七二〇)十二月吉日・松崎村中同山野下村・再建文政四辛巳年(一八二一)四月吉祥日」と刻まれている。また、『風土記稿』山野下村の項は「八幡社 当村と松崎村との境にあり、両村の鎮守にて、松崎村千乗寺持」と記している。これに見える別当の千乗寺は、八幡山と号する真言宗の寺院で、当社創建よりもそれほど下らない時期の開基であろう。
 明治四年に村社となり、この時に松崎村一村の鎮守となった模様である。平成元年に火災により社殿が焼失したが、翌年に再建された。
 なお、享保二年(一七一七)十一月二十七日付で神祇管領から拝受した宗源宣旨と宗源祝詞が現存する。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
        拝殿に掲げている社号扁額          向拝に飾られる精巧な彫刻
 
       何気に木鼻部位にも細やかな細工を施した彫刻が飾られている。

 松崎八幡神社の北西500mにはポンポン山(玉鉾山:標高は約40m)がある。南側からの風景は、山というより、一面広がっている丘陵地の端部ではあるが、北側の河岸低地側から見ると、平均標高が15・6m程であるため、見た目断崖絶壁のように聳え立つような景観となる。
 丘陵頂部には高負比古根神社が鎮座するが、平安時代の延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている社で、吉見町に鎮座する延喜式式内社3社のうち最も古く、かつ最初に官社に列している。また玉鉾山(ポンポン山)北側には、嘗ては荒川が流れ、水運の要所だったと考えられ、海洋貿易を盛んに行っていた壬生吉志氏との関わりが推測されている。同時に高負比古根神社のご祭神は味鋤高彦根命以下出雲系の神々が祀られているが、この味鋤高彦根命のご神徳は鋤を神格化した農耕神と言われているが、同時に「鋤=古代金属の精錬」に関連する存在を思い浮かべてしまう。
   
     境内にある青面金剛石碑            境内末社 詳細不明            

 松崎という地名も、意味深い名前だ。「松」は「町」の佳字と言われ、天津一族である饒速日尊の子供は、古事記に宇麻志麻遅命(うましまちのみこと)、日本書紀に可美真手命(うましまでのみこと)、或は味島乳命(うましまちのみこと)、天孫本紀に宇摩志麻治命(うましまちのみこと)、と見える。ウマシは「立派な」の意味。麻遅(まち)、真手(まで)、麻治(まち、まぢ)、真治(まち、まぢ)等は、摩乳(まち)のことで鍛冶道具の鎚(つち)の意味にもとれ、鍛冶集団の首領をウマシマチと解釈できる。マチは古代鉱山鍛冶師のことで町(まち)・待(まち、まつ)の字を用いていて、その後「松」と佳字変更したものと思われる。
 また「崎」は「浦」の意味であり、河川交通の要衝地であったことを伺わせ、「松崎」とは鉱山鍛冶海洋民の集落と解釈できるのではなかろうか。
        
                     今は静かで長閑な松崎地区。社殿からの風景。

 松崎八幡神社の鎮座地である「松崎」地区は、9世紀以前に創設された横見郡の延喜式内社(延喜式神明帳に記載された古社)が近郊に3社あり、さらに黒岩横穴墓群(7世紀頃の横穴式墓が500基)などの古い史跡とも隣接しており、早い時期から開発されていた地区と考えられる。


拍手[1回]


久保田横見神社

 吉見町は埼玉県中部、比企(ひき)郡にある町で、比企丘陵の東端吉見丘陵から荒川低地に位置し、北から東にかけて荒川、南に市野川が流れる穀倉地帯だ。この町は東西で地形上の区分がはっきりしていて、比企丘陵の東に位置する吉見丘陵地と、荒川沿いに発達する荒川低地に大きく区分される。
 特に田甲・黒岩・和名・久米田地区付近を境に、西部は山地・丘陵地、台地が発達し、東部側ははん濫平野、旧河道が多く見受けられ、旧河道に沿って自然堤防が発達していることがわかる。また、旧河道が自然堤防の間に認められ、荒川低地が荒川のはん濫などにより形成されたことがうかがえる。
 律令時代には横見郡があり、大略において現在の吉見町と同じ区域であったらしい。武蔵国にあっては早くから開発が進んでいた地域で、国指定史跡の吉見百穴(6世紀末〜7世紀の横穴墓群)や松山城跡、国指定天然記念物の吉見百穴ヒカリゴケ発生地、吉見観音(かんのん)として知られる安楽寺など史跡や文化財が多い.。 
                                   
                    ・所在地 埼玉県比企郡吉見町久保田117
                    ・ご祭神 素戔嗚尊 櫛稲田姫命 宇迦之御魂神
                    ・社 挌 旧村社
                    ・例祭等 例祭 109
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0354843,139.4456725,17z?hl=ja&entry=ttu                           

久保田横見神社は埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線を吉見町町役場方向に進み、町役場を越えて埼玉県道27号東松山鴻巣線と合流する吉見町役場前交差点を右折しそこから約400m位行った十字路を左折すると右側に社叢が見えてくる。
 久保田横見神社の東側と南側には現在ではコンクリート舗装された横見川が流れており、この社の四方半分が川岸近くにに建てられている地形となっている。社殿の石段の高さを見ると、コンクリート舗装されていなかった古代において、度々水害の被害を受けたであろうことは十分に推測でき、この久保田の地に延喜式内社であり、旧郷社である御所横見神社と同名の横見神社が鎮座する理由もまさにそこにある。
 ちなみに駐車スペースはどこを探しても見つからず、社殿北側の道路脇に路駐し急ぎ参拝を行った。
            
                             正面参道と一の鳥居
            
           参道始発点にある社号標・指定文化建造物「横見神社本殿」の碑(写真左)。
                 参道も比較的長く、途中振り返って撮影した(写真右)
     
 「新編武蔵風土記稿」によれば、横見神社は旧八ヶ村(久保田・上細谷・下細谷・御所・中新井・谷口・和名・小新井)の鎮守であった。また、慶長17年(1612年)夏の洪水で、吉見町大字御所地内の横見神社がこの地に流れた為に祀られたと伝えられている。 境内には稲荷社・八坂社・天神社・八幡社・熊野社があり、覆殿内にある本殿が、町指定の建造物である。
 但し1953年(昭和28年)に編纂された「武蔵国郡村誌」では建長年間(1249年~1255年)の洪水の際に漂流し本村に着いたと書かれている。「慶長」と「建長」は一字違いで、編集時のミスとも思ったが、「建長」の洪水は時期も「~年代」という曖昧な記述であり、まして「口碑」、つまり言い伝えという書き方になっているのに対して、「慶長」時の洪水は「~17年」、「夏」と年代も時期もハッキリと書かれている。結論から言うと洪水で御所横見神社は「建長」時と「慶長」時、少なくとも2回は押し流されたことになろう。
 吉見町は地形上、荒川中流域にあり、西側比企丘陵地を除く一帯は平野部が広がり、その東側に荒川が町の東側を南東方向に流れている。護岸工事が発達した現代と比べ、嘗ては荒川や吉見町の西側に流れる荒川支流の市野川の氾濫による水害は度々起こったであろう。昔の人々の苦労が偲ばれる。
                         
                                  拝 殿
 この久保田横見神社は元々「飯玉氷川明神社」といい、歴とした氷川系神社であり、祭神も氷川系の素戔嗚尊、櫛稲田姫命に飯玉神社系の宇迦之御魂神(保食神)の三柱が並立して祀られている。
 久保田村
 飯玉明神社
 當村及び上下細谷・御所・中新井・谷口・和名・小新井等の八村の鎮守なり、神體は石劔なり、當社は元御所村なりしが、水災に逢て漂着せしを、取上て爰に祀とて、此地そのかみ愛宕社地なりしが、今は衰て却て末社となれし、無量寺持、
 末社愛宕社

                                                              『新編武蔵風土記稿』より引用

             
                                    本 殿
                吉見町町指定文化財で安永五年(一七七六年)建立。
 横見神社本殿
『新編武蔵風土記稿』によれば、横見神社は旧八ヶ村(久保田・上細谷・下細谷・御所・中新井・谷口・和名・小新井)の鎮守であった。また、慶長17年(1612年)夏の洪水で、吉見町大字御所地内の横見神社がこの地に流れた為に祀られたと伝えられている。 境内には稲荷社・八坂社・天神社・八幡社・熊野社があり、覆殿(おおいでん)内にある本殿が、町指定の建造物である。本殿の大きさは表41寸、妻37寸、向拝45寸で、彫刻や飾り金具を多用して建立されている。
                                                     「吉見町公式HP」より引用

         
 社殿の左側並びには境内社が鎮座する。八幡神社、天神社合祀社(写真左側)。その右側にある八坂神社、稲荷神社(同右側)。
                                    境内に鎮座する愛宕神社(写真左・右)          
 社殿の右側にある一見古墳と思わせる高台の上に鎮座する愛宕神社。元々この久保田鎮守社であったというが、建長年間に御所横見神社のご神体である石剣がこの地に漂着したものを住民たちが祀り、愛宕神社は摂社として今に至っているという。

 

 

拍手[5回]


田甲高負彦根神社

 高負彦根神社が鎮座する田甲の地は旧荒川の水利とともに交通の要所であり、そこに「玉鉾山が突きでており、その頂上に当社が鎮座している。
 周辺は「高負彦根神社周辺遺跡」として奈良時代の集落跡が残る。このあたりの丘陵と沼は「荒川」が作りだしたものであるとされ、このポンポン山の下もかつては「荒川」の流路であった。吉見丘陵東端には古墳群、そして式内社3社が存在していたことから、この地域が古くからの開発地域であったことがわかる。
 和同3年(710)創建と伝わる古社とされ、横見郡三座のうちでもっとも古く、近年に発見された宝亀3年(772)の太政官符によれば、「武蔵国幣帛ニ預カル社四処」の「横見郡高負比古乃神」と比定されている。                                                             
        
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町田甲1945
             ・ご祭神 味耜高彦根尊 大己貴尊
             ・社 格 旧村社 延喜式内社 武蔵国 横見郡鎮座
             ・例祭等 例祭 718 

   横見神社を東方向に進み、埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線を熊谷方面に北上し、松崎交差点を左折すると、正面にこんもりとした特徴のある岩山が見えてくる。これが通称「ポンポン山」である。このポンポン山を脇から登っていくと、山頂に式内社・高負彦根神社が岩山に鎮座している。
            
                           入り口付近にある案内板
                        
                                                   鳥居より社殿を望む                                             
             
                                 拝 殿
 
       拝殿上部に掲げている扁額             社殿の左側に鎮座する境内社 三峰神社
  この高負彦根神社の先は「ポンポン山」という岩山なのだが、鳥居の反対側は広い平地が広がる。どうやらこの岩山は丘陵地の先にあたるようだ。この響きには地下に洞穴(空洞)があるという説と、ローム層と砂岩の境界面で音波がはねかえるという2説があるという。                          
 しかしある意味絶景の要害の地であり、切り立った断崖は東側から押し寄せる敵軍には天然の要塞として機能したであろうと思った。
            
 さて社殿の奥に進むと、そこには「ポンポン山」(別名玉鉾山)と呼ばれる標高38mの岩山が聳え立つ。
             
                             「ポンポン山」案内板
   伝説では長者が高負彦神社の指示によりこの岩山に財宝を隠した。盗人がその財宝を盗もうとしたところ山がポンポンと鳴り出したため逃げ出したそうだ。いわゆる古代の警報システムというところか。

 ポンポンとなる原因は今でも不明で、このポンポン山一帯だけが付近から突出しており、しかも巨岩が露出しているところから得意な地盤であることは確かである。古代の人もその威容とポンポンとなる地盤に神が宿ると思ったのだろうか。古代遺跡が埋まっておりポンポンとなるのはその遺跡を守る装置なのかもしれない。
 
     ゴツゴツとした岩肌があらわでもあり(写真左・右)、その岩山の存在感には驚きを隠せない。 
            
                        ポンポン山から北側平野部を撮影。          
〇ポンポン山(高高負彦根神社)
 延喜式内社で昔は玉鉾氷川神社とも称した。祭神は、味耜高彦根尊・大己貴尊とされるが素盞鳴尊ともいわれる。
 社記によれば、和銅 2年(710)創建と伝えられる古社で宝亀 3年(772)12月19日の太政官符に「案内ヲ検スルニ、去ル、天平勝宝7年(755)11月 2日ノ符ニアグ。武蔵国幣帛ニ預ル社四処」として、その一つに「横見郡高負比古乃神」と記してある。
 社殿の後方の巨岩に近い地面を強く踏むとポンと音を発する。そこでこの山をポンポン山ともいう。巨岩の直下20mの平地は古代荒川の流路であった。
 吉見丘陵の東端をめぐった荒川流域に式内社3社が存在したのはこの地域が早くから開発が進んでいたことによるものと思われる。
平成10年 3月  吉見町・埼玉県                                    
社頭掲示板より引用

  高負彦根神社の「高負」はこの地の地名「田甲」に通じる。当社の鎮座する田甲集落は『倭名抄』に載る横見郡高生(タケフ)郷に比定されて、田甲(タコウ)はタケフがタキョウになり、タカオ、タコウと転訛していったものだろう。現在の社名は「タカオヒコネ神社」と読んでいるようだ。
 これは創建から時代が経ち元の祭神が忘れられた後に、祭神を社名から味?高彦根命に変えたからで、おそらく元は「タケフヒコ」の社であったものと想像される。この辺りの土地を拓いたのが「武」や「猛」に通ずる「タケフ」という名の男性首長で、祭神の御性格の激しさをそのまま神名とし、死後にこれを祀ったのが当社のはじまりではなかろうかと思う。

            
   横見郡三座のうちで創建がもっとも古く、社殿の後方に玉鉾石という磐倉のような巨岩をある意味祀っているような配置。 その歴史的な重み、それに加え神川町に鎮座する金讃神社のスケールをかなりコンパクトにしたような神秘的な雰囲気も整っており、なかなか見応えある社である。

                 
                                              高負彦根神社 東側からポンポン山を撮影
                 かなりユーモラスな名前だが実際はかなりの威容の岩。
             まさに見ての通り玉鉾石という名がピッタリな断崖絶壁の巨岩だ。

拍手[2回]


御所横見神社

 伊波比神社は拝殿の位置が東側を向いていて、その丁度300m位正面に郷社、横見神社が鎮座している。地名の横見より興った神社であろう。地名は横見→吉見と変化した。
 創建は和銅年間(708-715)と伝えられている。
 狭山丘陵の東側の平地の中に鎮座している。この丘陵の東側を流れる荒川は、古代より常に氾濫をくり返し、その流れを変えてきた。当社は、荒川の氾濫によつてできたと考えられる平地の中にある。 
         
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町御所1 
              ・社 格 旧郷社 延喜式内社 武蔵国 横見郡鎮座
              ・祭 神 建速須佐之男命 櫛稻田比売命
              ・例祭等 例祭 1014    
 
  黒岩横穴墓群のある八丁湖から南東側へ下っていくと田畑に囲まれた横見神社がある。鳥居の左の林の中には御所稲荷塚古墳がある。黒岩の伊波比神社から車で2,3分。非常に近く、車のナビを使って最初に到着してしまった。吉見町の辺りは古くは横見郡といって、その名を社名としている当社が、この地域において相当に有力な社であったことはまず間違いないだろう。「御所」という大字にもその歴史の深さを感じさせてくれる。
  駐車場は神社の隣に駐車できる空間があり、そこに車を停めて参拝を行った。
              
                             御所横見神社正面 
          
             鳥居の右隣にある社号標      拝殿に臨む参道の風景     
             
                                                  拝  殿
〇新編武蔵風土記稿
横見郡 巻之ニ 上細谷村 附持添新田
飯玉氷川明神社
是延喜式神名帳ニ載ル横見ノ神社ニテ素盞鳴尊 稲倉玉命ナリト云傳レト□ナル據ルニハアラス 當村及下細谷 黒岩 御所 谷口 中新井 久保田 七ケ村ノ鎮守ナリ 社ノ後ニ神木トテ圍一丈五尺程ノ松アリ此下に石槨アリト云傳フ 古ハ社ニ金ノ幣束アリシカ中古洪水ノ時社共ニ久保田村ヘ流レ行テ今ハ失ヘリトソ 別當ハ下細谷村照明寺ナレト御所村ノ持ニシテ平日ハ黒岩村大寶院進退セリ

〇比企郡神社誌

横見神社
御鎮座地 吉見村大字御所
御祭神   建速須佐之男命 櫛稲田比売命
御由緒  
  創立年月未詳。当社は延喜式神名帳に載する横見神社是なり、中古本郡上細谷黒岩、御所、谷口、中新井、久保田、七ケ村の鎮守にして、飯田氷川大明神と称して後今の称に改め復せり~中略~この樹下に石堰の埋れたるあり 然るに明治五年六月二十六日風雨落雷の時土地崩れて石蓋を発顕す。その石蓋を開くに一物の有なし蓋し太古国造県主等の墳墓ならん。これを以って旧地旧社を表するに足れり、又考証土台に飯玉明神黒岩村と載たり、新編武蔵風土記を関するに本村御所村は正保の頃までは黒岩村の地なりしが、程なく別村せしと、元禄の改めには既に別てりとあり。又同書に飯玉氷川明神を上細谷の部に出して「別当は下細谷村照明寺なれど御所村の持にて云々」とあり、この近傍古へ御所郷と称し後黒岩郷と云ふ。その鎮守七ケ村なるを以って上細谷に属し或は黒岩村に属せしも知るべからず。現在は本村に属し明治七年郷社に列せらる。
              
                                                       本  殿
 本殿は小高い丘の上に建っていて、新編武蔵風土記稿に記載されている「石郭」との記述を考えあわせると、古墳であったろうというが、実際参拝した限りではまったく判らなかった。
              
                                                              社殿からの風景
 横見郡は『日本書紀』に出てくる「横渟屯倉」(よこゐみくら)の置かれた地域に比定されているらしいが、その根拠は一体なんであろうか「横渟屯倉」は武蔵国造の乱において出てくる4ヶ所の屯倉の一つとされている。が、あくまで語呂合わせの推定にしか過ぎず、真相は現段階では不明だ。


 御所横見神社の西側にはこんもりとした小高い森があり、道路沿いには朱の鳥居が見える。調べてみるとこれは「御所稲荷古墳」といい、御所横見神社の境内地内にあり、明治5年に古墳の一角に稲荷社が祀られたという。この古墳は古墳時代後期の築造と推定されているが、それ以外は全くの不明だ。
            
                  御所稲荷古墳の一角に鎮座する稲荷社(写真左・右)     


                           

拍手[1回]


黒岩伊波比神社

  古代武蔵國の横見郡があったと推定される吉見町は、埼玉県比企郡にあり、東松山市によって東西に分断された比企郡の東部の北半を占めるところにある。比企丘陵の東端にあたる丘陵地で吉見丘陵と呼ばれている。標高は30mから80mで、地質は凝灰岩で、吉見百穴や黒岩横穴墓群などの横穴墓群が広がり、丘陵のあちこちには枝状の谷が発達しし、古くから人々が生活したあとがうかがえる。
 
横見郡は明治29年(1896)には比企郡に編入されたのだが、編入先の比企郡には延喜式内社が、伊古乃速御玉比売神社の1社しかない。横見郡が律令国家にとって重要な土地であったのか(屯倉(天皇の直轄地)だったとする説もある)、あるいは横見郡の郡域は比企郡や大里郡にまで入り込んでいて、実際はもっと広かったのかもしれない。
 それにしても、横見郡の延喜式内社3社が、非常に狭い範囲に集中して存在しているのは不思議なことである。

        
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町黒岩346
              ・ご祭神 天穗日尊 誉田別尊
              ・社 格 旧村社 延喜式内社 武蔵国 横見郡鎮座
              ・例祭等 例祭 1014       

 伊波比神社は比企郡吉見町黒岩の丘陵地の斜面に鎮座する。木々に埋もれるようにひっそりとした佇まいが非常に印象的で、社殿はこじんまりしていて新しそうだが、鳥居から社殿までのこの風景、景観はなかなかの歴史を感じる。 
 
現在の社殿の西方「八幡台」と呼ばれているところが旧境内で、応永年間(1394年頃)息障院が現地に移転したとき伊波比神社もこの地に遷ったと言われている。
 困ったことに駐車場が存在しない。そこで近くに鎮座する横見神社の駐車場を借用して参拝を行った。
伊波比神社の両部鳥居の先には風情のある佇まいの社殿が斜面にある。
            
                              黒岩伊波比神社正面       
 和銅年間(708-715)に創建された式内社で、喜祥2年(849)従五位下、貞観元年(859)には盤井神として官社に列格する。現在の社殿の西方にある「八幡台」と呼ばれているところが旧境内であるといわれている。(吉見町文化財整理室又は吉見町黒岩配水場のあたりか)応永初年(1394)ごろに現在地に移転した。
            
                         伊波比神社 正面参道
 伊波比神社に関して『新編武蔵風土記稿 黒岩村条』には次のように記されている。 
〇黒岩村 岩井神社 
 或は岩井八幡とも稱す、村の鎮守にて村民の持、祭神譽田別天皇天太玉命、今の神體馬上に弓箭をとる像なり、按に【延喜式】神名帳に、武蔵國横見郡伊波比神社と載せ、又【續日本後紀】に嘉祥二年三月庚寅、奉授式武蔵國伊波比神從五位下とあり、是當社のことなるべし、土人等は式内の社なること云も傳へざれど、社地のさま老松生ひしげり、いかにも古き社と見えたり
            
                                  殿 
            
                  伊波比神社左側に静かに鎮座する摂社岩崎神社
 
 『神名帳考証』、『神社覈録』、『神祇志料』は式内・伊波比神社を「黒岩村岩崎大明神」としている。また江戸時代は「岩崎大明神」「岩井神社」「岩井八幡」と称していたという。思うに摂社である岩崎神社のことではないか。鎌倉時代、源範頼(頼朝の弟)の所領がここにあり、子孫が吉見氏として四代続いていたということからも十分頷ける話と思う。

 また
伊波比神社は拝殿の位置が東側を向いている。その丁度300m位正面に郷社・横見神社が鎮座している。まるで高台から平野部に鎮座している大社を見守っているような、それか監視しているのか、ともかくこの位置関係は不思議である。
            
                        伊波比神社拝殿より鳥居を撮影
              ゆったりとした静かな時の流れがこの社一帯には確かに存在した。

拍手[3回]