古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大和田浅間神社

 浅間信仰とは、富士山に対する信仰のうち浅間神社を中心とする信仰をさしている。アサマともよばれており,本来は火山に対する名称とする説もある。富士山に関する最古の文献である都良香【富士山記】には,875年(貞観17115日,山頂で白衣の美女2人が舞う姿を見たという記事があり,白い噴煙の立ち上る様子を表現していると思われ、そしてこの山神に対して〈浅間大神〉と命名している。
 後世浅間大神は,木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と同一視された。この女神は神話上の美姫であり大山祇(おおやまつみ)命の女であり,天孫瓊瓊杵(ににぎ)尊の妃に位置づけられている。また神仏習合の過程で,浅間大菩薩とも称された。その後、近世に入り、そのなかから長谷川角行という行者が現れ,浅間神社から独立した富士講をつくった。
 長谷川角行が広めた富士講やその教義は、東日本の農村において急速な浸透を遂げた。大和田地域に鎮座する浅間神社もこのような富士信仰の流布の中で建立された社の一つであるという。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町大和田338
             
・ご祭神 木花開耶姫命
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 例祭 714
 大和田地域は吉見町の南東部に位置していて、東境は旧荒川と接している。この旧荒川は江戸時代初頭の瀬替えで流路が確定してから、昭和初期の近代改修で廃棄されるまで約300年間荒川の流路であったという。この旧荒川は、現河道の右岸側に3 kmほどの旧河道が現在も埋め立てられず河跡湖や河川として残っていて、所在地から明秋湖とも、埼玉県道27号東松山鴻巣線を挟んで北から順に明秋・鎌虎・蓮沼とも呼ばれ釣り場として利用されている
 瀬替え以前は和田吉野川の流路であったともされ、周辺地域では河道が蛇行していたことから水害が頻発していた。そのため、明治後期になり洪水氾濫対策として旧河道を堰き止め、新たに現河道を掘削したという。
        
                 北方向に伸びる参道
 大和田稲荷神社から埼玉県道76号鴻巣川島線を500m程南下し、コンビニエンスのある十字路を右折し、すぐ先にあるY字路を右折すると、民家の間に大和田浅間神社の参道が僅かに見えてくる。但し、その道幅は狭く、分かりづらいので通り過ぎてしまう可能性も高いので、目視で注意深く確認する必要がある。
        
          北方向に伸びる参道は行き止まり、西に方向転換する。
       すぐ先には鳥居があり、若干の上り斜面の先に社殿が鎮座している。
        
                 大和田浅間神社鳥居
        
                    拝 殿
 浅間神社  吉見町大和田三三八(大和田字下西谷町)
 富士浅間信仰は、室町末期から江戸初期に長谷川角行という行者が現れて、その教義を整え、富士講を広めたことから、東日本の農村において急速な浸透を遂げた。当社もこのような富士信仰の流布の中で建立された社の一つである。
 社伝によれば、創建は元禄二年(一六八九)のことで、駿河国の富士山本宮浅間神社からの勧請である。享保六年(一七二一)には村人一六戸によって社殿の再建が行われたという。
鎮座地は大字大和田の南西の外れにある。これは、氏子集落から見て富士山が南西の方角に望まれることにちなんでいる。
『風土記稿』大和田村の項には「稲荷雷電合社 小名堤根の鎮守なり、蚊斗谷村の界にあり、彼村大行院持、彼村民も産神とす。稲荷社、村の鎮守なり、大輪寺持。浅間社 同持」と当社を含む三社が載せられている。これに見える大輪寺は稲荷社の西側にあった真言宗の寺院(明治三十一年火災により焼失)で、「名主惣左衛門が先祖、小沢惣左衛門道繁開基す」と記されている。
明治四年の社格制定に際し、無格社となったが、幸いにも合祀されることなく今日に至っている。近年では、昭和六十二年に社殿の改築を行った。なお、当社が「上浅間」と呼ばれるのに対し、境内にある石祠は「下浅間」の名称で呼ばれている。
                                  「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」の解説に出てくる長谷川角行(かくぎょう)は富士信仰の行者で、富士講の開祖。また、神道(しんとう)教団扶桑(ふそう)教および実行教の開祖。その生涯については不明な部分が多く、伝記では、大職冠藤原鎌足の子孫といわれ、天文(てんぶん)10年肥前長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれたという。俗名・長谷川左近藤原邦武。
 角行の伝記には数種あり、それぞれが内容を異にする。しかし、応仁以来の戦乱の終息と治国安民を待望する父母が北斗星(または北辰妙見菩薩)に祈願して授かった子だとする点や、7歳で北斗星のお告げをうけて己の宿命を自覚し、18歳で廻国修行に出たとする点などは共通して記された。そうした共通記事に即して角行の行状を理解すれば、それはおよそ次のようである。
 当初修験道の行者であった角行は、常陸国(一説には水戸藤柄町)での修行を終えて陸奥国達谷窟(悪路王伝説で著名)に至り、その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)に辿り着く。そして、この穴で45分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年(1560年)「角行」という行名を与えられる。
 
     社殿手前で左側にある石柱        境内の隅に祀られている浅元宮の石祠  
四方に文字が刻んであるが、内容までは分からず
        
 その後、角行は富士登拝や水垢離を繰り返しつつ廻国し、修行成果をあげるたびに仙元大日神より「フセギ」や「御身抜」(おみぬき)という独特の呪符や曼荼羅を授かった。なお、「フセギ」は、特に病気平癒に効力を発揮する呪符であったらしく、江戸で疫病が万延した際にはこれを数万の人びとに配して救済したという。
 正保3年(1646)、105歳で富士山中の人穴にて死去したとされる。
        
               社殿側から見た境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」Wikipedia」等

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大和田稲荷神社


        
            
・所在地 埼玉県比企郡吉見町東野5-17-4
            
・ご祭神 倉稲魂命
            
・社 格 旧大和田村鎮守・旧村社
            
・例祭等 春祭330日 夏祭75日 秋祭1014 
 吉見町域の大部分は荒川流域の荒川低地に属し、田園地帯が周囲一面広がる中、この東野地域は田畑も見られるが、その大部分は住宅地となっていて、地域の南北を分断するように埼玉県道27号東松山鴻巣線が東西方向に走っている。因みにこの県道27号線を東行すると「御成橋」があるのだが、この橋には川幅日本一を示す標柱が橋の両端にあり、この橋から630m上流の地点の荒川の川幅は2.537mと川幅として日本一広いとの事だ。
 途中までの経路は、古名氷川神社を参照。この社の境内北側にある「古名集会所」付近の「古名」交差点を右折し、埼玉県道76号鴻巣川島線を400m程南下すると、進行方向右手に大和田稲荷神社の境内が見えてくる。
 社に西側隣にある「大和田集会所」と鳥居に若干の駐車スペースがあったので、その一角にと停めてから急ぎ参拝を開始する。
        
                               
大和田稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』「大和田村」の解説
 万光寺(まんこうじ)村の北にあり、北は古名(こみよう)村、西は上銀谷(かみしろがねや)村。東方を荒川が流れる。永享一〇年(一四三八)九月日の伝鎌倉公方御教書写(武州文書)に「吉見郡大和田村并菜田村」とみえ、当地などが岡義左衛門尉守吉に与えられている。田園簿では田高二九〇石余・畑高五五石余、幕府領、日損水損場との注記がある。「風土記稿」成立時には幕府領と旗本贄領の相給。幕末の改革組合取調書では旗本贄・筒井二家の相給。寛文一二年(一六七二)に東方、荒川堤外の新田を検地して高入れし、延宝六年(一六七八)には本検地が行われた。
 

鳥居の社号額には「正一位稲荷大明神」と刻印。   鳥居を過ぎた場所から境内を撮影

 大和田稲荷神社は、旧大和田村の名主を代々務めた「小沢家」が、一時的に住んでいた忍領上中条村から文禄年中(15921596)当地へ移住、その後、大和田村の鎮守として京都の伏見稲荷大社を勧請して創建、明治4年には村社に列格したという。
この「小沢家」は、元々武田家の家臣であったようだ。
・大輪寺碑
甲州武田氏の士で、三ツ亀甲を家紋とし、一時忍領上中条村に住し、文禄年中当地に移り住み、惣左衛門道繁・大輪寺開基、一子又左衛門・慶長十九年検地案内」
稲荷社文政十年敷石碑
平野時太郎道堅、道堅は小沢七代道孝二男・道高実弟也、平野名跡相続」
        
                        塚上に通じる石段手前にある文政十年敷石碑 
        
               塚上に鎮座する
大和田稲荷神社
『新編武蔵風土記稿 大和田村』
比企郡岩殿村農家に傳ふる永享十年鎌倉管領家より、鍛冶守吉へ吉見郡大和田村を賜ふ由の文書あり、
 稻荷社 村の總鎭守なり、大輪寺持、
 大輪寺 新義眞言宗、御所村息障院の門徒なり、本尊は不動を安ず、名主惣左衛門が先祖、小澤惣左衛門道繁開基す、

 稲荷神社  吉見町大和田六八四(大和田村字上西谷町)
 大和田村の名主を代々務めた小沢家(当主は一六代の幸男)は、横見郡二一か村の惣代として、また、荒川舟運の大和田寄場の大惣代として、他村の名主に比べて強い力があった。その先祖は、甲州(現山梨県)武田氏の家臣で、一時は忍領上中条村(現熊谷市上中条)に住んだが、文禄年中(一五九二〜九六)に当地に移り住んだといわれている。その後、小沢家を中心として当地の開墾が進められたものであろう。
 当社は、この小沢家が、当地に入植してきた時に祀った神社であると伝えており、天保五年(一八三四)に再建した本殿の御扉には、同家の家紋である「三つ亀甲」が彫り込まれている。更に、当社の南方約五〇メートルの所にあり、江戸時代に当社の別当であった真言宗の大輪寺も、同じく小沢家によって建立されたもので、『風土記稿』にも「名主惣左衛門が先祖、小沢惣左衛門道繁開基す」と記されている。なお、大輪寺は明治三十一年に焼失し、小規模な堂宇が再建され、その跡地は、大和田霊園として整備された。
 また、当社は、京都の伏見稲荷大社の分霊であるといわれ、本殿の中には、同社から拝受した「正一位稲荷大明神」の神璽を奉安しており、かつては宝暦十一年(一七六一)二月に同社から受けた分霊証書(前述の神璽と組になっていたと考えられる)もあったという。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                  社殿からの一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」「境内石碑文」等
        
    

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江和井東光神社及び高尾新田照稲神社

江和井東光神社】
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町江和井7871
             
・ご祭神 素盞嗚尊 天照大御神
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 夏祭 715日前の土・日曜日 新嘗祭 11月23日
 飯島新田稲荷神社から埼玉県道33号東松山桶川線を荒川方向に進み、「荒井橋(西)」交差点を左折する。交差点を左折後450m程北上すると
江和井東光神社の鳥居と境内が見えてくる。
江和井東光神社及び高尾新田照稲神社の参拝日は2023年2月19日。
        
                  江和井東光神社正面
 当社が鎮座する吉見町江和井地域は、明治8年に江川新田・大和屋新田・新井(荒井)新田の3村合併した。その時各村から1字ずつ取って地域名を「江和井」と命名したという。
 この周辺地域は嘗て「六ヵ新田」と呼ばれ、「江川新田・大和屋新田・新井(荒井)新田・高尾新田・須野子新田・蓮沼新田」とに分かれていて、江戸時代を通じて幕府直轄領(御料所もしくは御領)であったと思われる。というのも、困難を極めた「荒川の西遷」開発事業が、寛永十一年(1634)に完了し、河川改修の後は、次第に開発が進み、相次いで開発されたためだ。この幕府直営の新田開発は年貢量の増大のため直轄領の拡充を意図したものであった。
 但しこの「六ヵ新田」はその名前通り新たにできた耕作地であるため、「吉見領囲堤」の堤の外地に位置していた。現在の吉見町や川島町域の大部分は荒川流域の荒川低地に属し田園地帯となっているため、洪水対策で築造された「囲堤」があろうがなかろうが、洪水常襲地帯としての運命を背負って現在に至っていて、この地域相互の治水出入りも数多くあり、その歴史はそのまま荒川の治水の歴史であるといわれている。

    木製で白を基調とした鳥居            南北に広がる参道
  境内には案内板等はなく、また創建時期等資料等確認しても詳しい内容のものはなし。そこで、
『日本歴史地名大系』にて、「大和屋新田」「江川新田」「新井(荒井)新田」に関して調べてみた。
『日本歴史地名大系』 「大和屋新田」の解説
 [現在地名]吉見町江和井
 高尾(たかお)新田の南に位置し、南は江川(えがわ)新田。いわゆる六ヵ新田の一で、大和屋助左衛門という町人による開墾という(風土記稿)。元禄郷帳に新田名がみえ、高一三二石余。江戸時代を通じて幕府領であったと思われる(国立史料館本元禄郷帳など)。「風土記稿」によると家数二四、村内はみな畑地で、鎮守は太神宮
『日本歴史地名大系』 「江川新田」の解説
 [現在地名]吉見町江和井
 大和屋(やまとや)新田の南に位置し、南は新井(あらい)新田。六ヵ新田の一で、大里郡江川村(現熊谷市)の新兵衛なる者が開墾、新田名もこのことに由来するという(「風土記稿」など)。元禄郷帳では高一七〇石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領、以降同領で幕末に至ったと思われる(「郡村誌」など)。「風土記稿」によると家数二六、村内すべて陸田、鎮守は稲荷社、地内に薬師堂がある
新井(荒井)新田」に関しての説明はなし。
        
                  塚上に鎮座する拝殿
「江川新田」の解説における「大里郡江川村(現熊谷市)の新兵衛なる者が開墾、新田名もこのことに由来する」との記載があり、この大里郡江川村は現在熊谷市久下地域内にあたるという。
 また「大和屋新田」には「太神宮」が村内の鎮守で村持ちと記載され、「江川新田」には「稲荷社」が村内の鎮守で村持ちとなっている。因みに新井(荒井)新田には鎮守社は掲載されていない。「江和井」という地域名は3村が合併し、各村から1字ずつ取って命名したということからも、東光神社のご祭神は当然各村の祭神が当てられていると考えられる。「太神宮」ならば「天照大御神」「稲荷社」は「倉稲魂命」が祀られているだろうが、「素盞嗚尊」はどうであろうか。
 
  拝殿手前の石段右側にある石碑と燈篭       拝殿左側に祀られている境内社
                             稲荷社であろうか。
       
                                     参道の一風景


高尾新田照稲神社】
        
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町高尾新田154
             ・ご祭神 素盞嗚尊 倉稻魂命 國常立尊
             ・社 格 旧高尾新田村鎮守
             ・例祭等 例祭  725日 新嘗祭 11月25日
 江和井東光神社の西側に接する南北に通じる道路をそのまま北上、1㎞程進むと左手に高尾新田照稲神社が見えてくる。
 旧高尾新田村鎮守、「高尾新田」の地域名由来として、高尾の新井門太郎が開墾したと伝わる。河岸場のあった高尾から独立したという。
*現在江和井東光神社と高尾新田照稲神社は北本高尾氷川神社の兼務社となっている。
        
                 高尾新田照稲神社正面
この社にも案内板や、資料等はない。江和井東光神社同様に『日本歴史地名大系』にて「高尾新田」「蓮沼新田」についての解説を載せたい。因みに「須野子新田」に関しては解説はない。
『日本歴史地名大系』 「高尾新田」の解説
 [現在地名]吉見町高尾新田
 蓮沼(はすぬま)新田の南、荒川右岸に位置する。六ヵ新田の一。「郡村誌」などによると当村は、足立郡高尾(たかお)村(現北本市)の新井治郎左衛門(「風土記稿」によると荒井門太郎)が開墾、その後、新井家より分家を出し、しだいに一村をなしたとされる
『日本歴史地名大系 』「蓮沼新田」の解説
 [現在地名]吉見町蓮沼新田
 荒川の大囲堤(現文覚排水路)を挟んで蚊斗谷(かばかりや)村の東、荒川右岸の低地に位置する。南は高尾新田。同新田のさらに南に展開する須野子(すのこ)・大和屋・江川・荒井の各新田および当新田・高尾新田は「荒川ニソヒシ空閑の地」をしだいに開拓して成立した新田で、各新田の地形が入会、田地相交錯していたため「各村ヲ以テ広狭及四隣ノ村々等ハ弁シ難」かった。これら新田の開墾の年代はつまびらかではないが、寛文一二年(一六七二)に幕府代官中川八郎左衛門の検地があったといわれている。また「六村ヲ合セテ六ケ新田ト唱ヘ」「公務以下スヘテ一村ノ如シ」であった(以上「風土記稿」)。当新田は蓮沼徳兵衛が開墾、地名はこれによる
       
            参道左側に聳え立つ立派な巨木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 明治四十年十二月二十二日、須野子新田の「大神社」と蓮沼新田の「稲荷神社」を当地高尾新田の氷川神社に合祀することになり、遷座の後、社名を照稲神社と改めたという。
『新編武蔵風土記稿』
「須野子新田村 大神宮八幡諏訪合社 當所の鎮守とす、村民持」
蓮沼新田村 聖天社 村の鎮守なり、村民の持」

須野子新田の大神社の祭神は、『新編武蔵風土記稿』には「大神宮八幡諏訪合社」とあるところから、本来は天照大神が祭神であったと思われ、照稲神社の社名は、この天照大神の「照」と稲荷神社の「稲」を採り、両者の名残としたものではないかと思われるが、この「稲荷神社」はどこの地域のご祭神をまつったのであろうか。
        
                                  参道からの風景
           近くには荒川の旧河川跡と堤防が眼前にみえる。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「北本高尾神社HP」
    「ふるさと吉見探究HP」等

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飯島新田稲荷神社

 荒川は、その名前が示すとおり、「荒ぶる川」が語源とされ、氾濫を繰り返してきた。戦国時代が終わり、徳川家康が江戸(東京)に幕府を開くと、江戸を水害から守ること等を目的として、利根川と当時利根川の支流であった荒川を切り離し、利根川を太平洋に流す、「利根川の東遷、荒川の西遷」が実施された。
 寛永61629)年に伊奈忠次により荒川の瀬替え(荒川の西遷)が行われ、和田吉野川および市野川を経由して入間川の本流に接続され、現在の荒川に近い流路となった。但し元々の流路は元荒川として今でも残っている。
 荒川の河川舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めたが、荒川中流域、特に市野川の下流域周辺では水害が増え、「吉見領囲堤」や「川島領囲堤」といった大囲堤の堤防(輪中堤)や水塚等が作られた。
 現在でもさくら堤公園の土手や、市野川大橋より西の川島こども動物自然公園自転車道線の築堤として遺構が残っている。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町飯島新田563
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧飯島新田鎮守
             
・例祭等 例祭(天王様)  714
 吉見町飯島新田地域は町南東部にあり、「吉見領囲堤」の最南端にあたり、荒子地域の東側に位置する。飯島新田稲荷神社は東には文覚川が、西からは台山排水路が、その真ん中には中堀がまさに合流する三角点の丁度北側に社は鎮座する。
 この社へのアクセスは説明しずらい。途中までの経路は荒子八幡神社を参照。埼玉県道33号東松山桶川線を北本市方向に進み、「さくら堤公園」の看板がある道を左折、そこから道なりに北上する。左手後ろ側には社の鳥居は小さく見えるが、直接社に到達する一本道はないため、一旦さくら堤公園の土手を走行し、一本目の曲がり角を左折して左カーブを描くように南東方向にある細い道を進むとその先に飯島新田稲荷神社は見えてくる。
        
                 飯島新田稲荷神社正面
 周囲一帯明るい境内だが、周辺には民家はほぼない。のんびりした中にも寂しさも漂う場所だ。
 木製の両部鳥居は朱が基調となり、如何にも社らしい風格があるのだが、周りに鎖が敷かれている。崩落の危険性が高いのであろうか。

朱色の一の鳥居のすぐ先にある新しい石製の鳥居  真っ直ぐ進む参道の先に社殿が見えてくる
        
 一旦目を南側に向けると、そこには「南吉見排水機場」がある。文覚川、中堀、台山排水路等の水を市野川へ強制的に排水する施設で、このような施設がある場所の近くで、安心して日常生活を営むには躊躇があろう。地域住民にとって生活基盤となる大切な「水」の恩恵が、逆に「洪水等の災害」に陥らないように、社をこの河川の合流場所にあえて鎮座させ、日々祈りを捧げていた。
…この施設を眺めながら、なんとなくそのような風景が筆者の頭の中で過った。

新編武蔵風土記稿』には「飯島新田」に関して以下の記載がある。
「飯島新田」
飯島新田は飯島惣左衛門と云者、開墾せし所なれば直に村名とせし、この惣左衛門が事詳ならず、當村元禄の改に始て記したれば、開発の年代も推て知らる、東は大和屋新田、南は古市ノ川を限て比企郡松永村、西は郡内荒子村、北は蚊斗谷村なり、東西六町、南北三町許、吉見用水の末流を引て水田を耕植すれど水損の地なり」
「稲荷社 村の鎮守なり、成就院の持」

 やはり日常的に洪水等の災害が発生する常襲地帯であったのだろう。近代的な土木技術を持った今でも、時に洪水災害は起こりえる。その技術を持ちえない当時の方々には、最終的には「祈り」を捧げること以外なかったのではなかろうか。
        
                                塚上に鎮座する拝殿
『日本歴史地名大系 』「飯島新田」の解説
 [現在地名]吉見町飯島新田
 大和屋(やまとや)新田の西、市野(いちの)川の左岸に位置する。同川を挟み南は比企郡松永(まつなが)村(現川島町)、西は荒子(あらこ)村。六ヵ新田と同様に荒川右岸の低地を開発して成立した新田村で、地名は飯島惣左衛門なる者が当地を開墾したことに由来するという(風土記稿)。元禄郷帳では高三八七石、国立史料館本元禄郷帳では幕府領、以降も同領で幕末に至ったと思われる(「郡村誌」など)

 飯島惣左衛門によって開発されたと伝えられる飯島新田地域。創建時期は不明ながら、正保年間から元禄年間にかけて(1644-1688)開発された飯島新田の鎮守として、耕地の安泰を祈って奉斎したそうだ。但しその創建に「飯島惣左衛門」が関わっていたかは不明。
 
  拝殿右階段手前の 狛犬(狐)の並びには    同じく拝殿右階段手前の 狛犬(狐)の
     幾多の石祠・石碑あり。          すぐ右側に置かれている「力石」
        
                               飯島新田稲荷神社遠景

ところで、東松山市古凍地域に「古凍祭ばやし」といわれる伝統芸能が今に伝わっている。「東松山市HP」にもその祭ばやしに関しての説明がある。

「古凍祭ばやし」
 囃子には江戸時代から演奏されていた古囃子と、明治初期に演奏技術の変革が行われて以降の新囃子とがあります。明治30(1897)代は古囃子が盛んでしたがその後中断し、昭和3(1928)頃、吉見町の飯島新田地区で伝承されていたものが川島町の小見野神楽連を経て伝えられ復活しました。明治の頃使われていたと思われる太鼓が残っており、墨書きから「東京浅草区亀岡町」の太鼓商「高橋又左衛門重政」の太鼓であることが分かります。太平洋戦争中は10年ほど中断し、昭和23(1948)に復活しました。昭和29(1954)には屋台が新調されましたが、昭和35(1960)頃になると字内を貫通する川越-熊谷線の交通量が激しくなり、屋台の曳き廻しは中止、根岸地区とのひっかわせも断念(根岸地区も屋台を所有していた)することとなりました。現在は屋台を所有せず、トラックで代用しています。地元鷲神社の祭礼の他に、今泉の鷲神社祭礼でも演奏を行っています。

 つまり明治期に古囃子を演奏していたが、その後中断し、昭和3年に吉見町の飯島新田地区で伝承されていた囃子を川島町の小見野神楽連を経て今に伝えられるという。本家である飯島新田地域の古囃子はどのようなものであったのだろうか。稲荷神社は毎年7月15日に例祭が行なわれるが、その際にお囃子が奉納されているのであろうか。であるならば是非拝見したいものだ。
        
                                社殿から鳥居方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「北本高尾氷川神社HP」
    「Wikipedia」等

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古名氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町東野3156
             
・ご祭神 
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等
 吉見町古名地域は丸貫地域の南部にあり、荒川と市野川の間にある自然堤防と低地に位置する。途中までの経路は北下砂氷川神社及び丸貫熊野神社を参照。丸貫熊野神社前の道路を200m程南下し、十字路を左折する。その後埼玉県道76号鴻巣川島線に交わる十字路を右折、県道合流後450m程道なりに進み、十字路を右折すると「古名」交差点が見えてくる。その交差点左手に古名集会所が見え、その集会所の奥手に古名氷川神社が鎮座する広い空間が現れる。
        
                  古名氷川神社正面
『日本歴史地名大系 』での「古名村」の解説
 [現在地名]吉見町古名
 丸貫(まるぬき)村の南に位置し、東は幕末に当村から分村した古名新田、南は大和田(おおわだ)村。地内には文永一二年(一二七五)の画像板碑、応安二年(一三六九)の阿弥陀一尊板碑、寛正六年(一四六五)の阿弥陀三尊板碑などがある。古くは北下砂(きたしもずな)村・丸貫村と一村で下砂村と称していたが、元禄郷帳・元禄国絵図作成時頃までに北部が北下砂村として分村、残余の下砂村がその後、当村・丸貫村の二村に分れた。
        
          境内は思いのほか広く、社殿は塚のような高台上にある。
 参拝日は10月上旬。社殿の前にあるキンモクセイが開花し、甘い香りが境内を包みこんでいた。

 吉見町古名、「古名」と書いて「こみょう」と読む。なかなか意味深さ地域名だ。この不思議な地域名の由来に関して『新編武蔵風土記稿』の編者は意外と長めに、更に2通りの説明している。因みに旧字には(*)をつけて筆者が現代語に直している。

「村(古名)の沿革を尋るに、正保の国圖(*図の旧字・ず)に下砂村あり、元禄改定の圖に下砂・北下砂の二村あり、又古名・丸貫の二村を載せて、下砂村之内と記し、(中略)然れば古名・丸貫の二村は、下砂に隷するものにして、別に村落をなしたるにはあら其後何の年にや、下砂村の地を二分して、當村丸貫の二村に配當し、(中略)【小田原役帳】松山衆知行の内に、狩野介二十貫文吉見郡下須奈(*下砂の旧字体)卯檢見辻とのす、是下砂村なるべし、按に元禄以前分村せざる間は、古名・丸貫の地名は下砂村の小名なりしを、後に各一村となりしかば、下砂の名亡びしなるべし」
「又當村古は横見村と號(*号の旧字・ごう)せしが、洪水にかゝり一旦退轉(*転の旧字・てん)
せしを、丸貫村より再び開墾し、村名を古名と改む云説あれど、今土人は傳へず(中略)」

 つまり、最初の内容では、当所古名・丸貫の二村は下砂村に属していて、その後分村したと記されていて、古名・丸貫の地名は下砂村の小名(小字)であり、それが後年「古名」と変化して地域名となったという。別説では、この地は元々横見村と名乗っていたが、洪水の為一旦避難し、その後再び開墾して吉見の地名のルーツにもなっている古の名前(横見)は使わずに、「古い名=古名」としたという。但しこの別説には尾ひれがついていて、「云説あれど、今土人は傳へず」と本当かどうかはわかりません、と注釈はついている。
『新編武蔵風土記稿』の編者は、この地域名の由来に対してよっぽど興味があったのか、それともこの地域の伝承等を、手抜きをしないで正直に編集しようと真面目に取り組む日本人としての勤勉さからきているのかどうかは不明だが、この小さな地域名にこれだけの活字を使用して説明しているのも面白く、興味深いことだ。
        
                     拝 殿
 氷川神社 吉見町古名一〇四
 当地は荒川と市野川の間にある自然堤防と低地に位置する。『風土記稿』によれば、古名はもと下砂村の小名の一つであったが、元禄年間(一六八八-一七〇四)以降に分村した。一説に、古くは横見村と呼んでいたが、洪水により荒廃したのを、丸貫村より村民が来て再び開墾し、村名を古名と改めたという。
 旧家は久保田家と秋葉家である。久保田家は京から三兄弟がこの地にやって来て開発の鍬を振るったと伝え、また秋葉家は久保田家よりやや下ってこの地に土着し、江戸期を通じて名主職を務めたと伝えている
 社伝によれば、当社の創建は宝暦三年(一七五三)のことである。分村から五〇年余を経たこの時期に村としての形を整え、久保田家や秋葉家が中心となって、「一の宮」として一般に名を知られ、また水神としても名高い氷川神を鎮守に勧請したものであろう。
『風土記稿』は「氷川社 村の鎮守なり、妙音寺持」と載せる。これに見える妙音寺は今泉村金剛院門徒の真言宗の寺院で、当社の北側に隣接して堂を構えていたが、幕末に火災に遭い焼失した。この時、当社も類焼したため、嘉永四年(一八五一)に至り、当地から分村した古名新田の氷川神社から分霊を受け再興を果たした。
 明治四年に村社となり、同四十年に古名新田の伊勢社を合祀した。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                 境内社 稲荷社・天神社
 
 境内は広く、社殿は東側の一角にひっそりと鎮座しているが、その南側並びには一対の灯篭の先に仏様立像が厳かに祀られている(写真左)。冠やブレスレットを身に付けてないシンプルなお姿から、薬師如来(同右)なのかもしれない。
             
        仏様の立像が祀られている近くにある青面金剛・馬頭尊の石碑。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」等



        
 

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