古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

万光寺氷川神社


                       
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町万光寺82
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 不明

 吉見町万光寺地域は下銀谷地域の北東に位置し、且つ隣接している地域である。また下銀谷稲荷神社に接している道路を南下し、すぐ先のT字路を左折すると、左側に万光寺氷川神社の鳥居が見える。距離にして100m程しか離れていない。
               
                             南向きに鎮座する
万光寺氷川神社

 荒川と市野川の間の低地帯に位置する場所にひっそりと鎮座している。標高図を確認すると、万光寺地域の平均標高は12m13m程だが、社は16m程。社殿は1m程の高台か古墳の上に建てられているが、社殿の裏はさらに石垣が基礎となっていて、また一段高くなっている。恐らく自然堤防の縁にあるのであろうと推測される。
               
                     規模は小さいながら、何とも趣のある社の一の鳥居
 
 一の鳥居のすぐ先には石製の二の鳥居がある。       二の鳥居の上部にある社号額
               
                  鬱蒼とした林の中、参道の先に拝殿が高台上に鎮座する。

『新編武蔵風土記稿 萬光寺村条』において、「往昔當村に萬光寺と云寺ありし故に村名起れりと云、されど村名正保の改には見へず、元禄の改に始て裁す(中略)吉見用水を引て耕植し、また天水をて助水とす、」と記載がある。
 荒川と市野川の間の低地帯に位置し、河川の氾濫地帯であるにも関わらず、一度飢饉等の干ばつ用に天水を溜める対策も講じなければならない当時の方々の苦労を感じてしまう記述である。

 また小字に「墓ノ前」とあり、これも「萬光寺跡なり、たまゝ墓碑など掘出せしことありと云」と書かれていて、嘗て萬光寺というお寺があったが、今は既に廃寺となっていて、その面影すら残ってなく、ただ「墓碑」が偶然掘り起こされて、元禄年間に村の名前となったという事となったという。
               
                                      拝 殿

○氷川社
 村の鎮守なり、神體は丸き青石にて圓經一尺許、面に永和六年二月廿八日凌佛建立の数字を彫れり、古き勸請なること知べし、
 土人の語に今田中村の高負比古神社、御所村の横見神社と當社とを合せて、横見郡三社と唱ふと、されど彼二社はともに式内の神社にして、當社は永仁六年勸請といふ、其の年代遙に下りたれば、並べ稱すべき社にはあらざるべし、
                          『新編武蔵風土記稿 萬光寺村条』より引用

 万光寺氷川神社の創建は、日本の南北朝時代の元号の一つである永和6年(1380)とも、鎌倉時代後期の永仁6年(1298)ともいう。確かに歴史ある古社であろう。当地の人々は、この社を田中村の高負比古神社、御所村の横見神社と合わせて「横見郡三社」と唱えていたという。
 
          万光寺氷川神社の東側に隣接してある地蔵像と、板碑群(写真左、右)。


参考資料「新編武蔵風土記稿」等

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下銀谷稲荷神社


               
              
・所在地 埼玉県比企郡吉見町下銀谷1
              
・ご祭神 倉稲魂神
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 例祭 1015

 大里比企広域農道(通称 みどりの道)沿いにある「道の駅いちごの里よしみ」を通り過ぎた最初の信号のある交差点を左折する。辺り一面田畑が広がる中にポツリポツリ民家が立つ長閑な風景を愛でながら1㎞程進むと、正面右側に社叢林らしい場所があり、そこの十字路を右折するとすぐ左側に下銀谷稲荷神社の鳥居が見える。社としての規模は小さく、東西に通じる道路に対しても社殿は背中を向けていて、尚且つ社叢林に隠れているので、ルートの説明は意外と簡単でも、やや目立たない場所である。
 民家が隣接しているため、また社務所等もないので駐車スペースはない。車両等の邪魔にならない場所に路駐し、急ぎ参拝を開始する。
               
                  下銀谷稲荷神社正面

 下銀谷稲荷神社が鎮座する吉見町下銀谷地域、嘗ては「下銀谷」と書いて「しろかねや」と言っていたようだが、現在「しもぎんや」と読まれている。「埼玉の神社」による地名の由来は、上銀谷にある薬師堂の行基作といわれる薬師石像の腹に蔵されていた古杉薬師が白金であることによるというが、一説には当地が古くから水利に恵まれた豊かな地であったことにちなむともいう。

『新編武蔵風土記稿 上銀谷村条』には「古杉薬師」に関して以下の記載がある。
 〇薬師堂
「腹籠に、行基の作佛を置り、傳え云、此像はもと古名村の民家の守護佛なりしが、夢の告によりて境内古杉の下に安置せり、依て小杉薬師と呼、其杉今も堂後にあり、幹の大さ三圍許、樹根より一丈ほど上にて、枝十二に分かれて繁茂せり」
 
 鳥居に掲げてある社号額。字が見えずらい。    参道の先の高台上に社殿が鎮座しているが、
                           前面の樹木の為隠れてしまった。
               
                     拝 殿
           高台の上に鎮座しているが、古墳かどうかは不明。

 稲荷神社  吉見町下銀谷一
 下銀谷の地は、もと銀谷村の内であったが、貞亨二年(一六八四)に上下に分村した。地名の由来は、上銀谷にある薬師堂の行基作といわれる薬師石像の腹に蔵されていた古杉薬師が白金であることによるというが、一説には当地が古くから水利に恵まれた豊かな地であったことにちなむともいう。
 社伝によると、第五一代平城天皇の御代である大同年間(八〇六-一〇)に一つの村落として開かれてより神明社(現在の上銀谷の鎮守)を久しく崇敬してきたが、分村後三十年余を経た享保二年(一七一七)に下銀谷村の鎮守として稲荷神社を奉斎した。安政二年(一八五五)に石段を建設し、文久三年(一八六三)には石鳥居を建立したという。
『風土記稿』には「稲荷社 村の鎮守とす、清雲寺持」とあり、清雲寺については「新義真言宗、御所村息障院末、本尊不動を安ず、天王社」と載る。同寺は祭りの花火による失火が原因で周囲の民家と共に焼失したと伝えている。その跡地には現在下銀谷の集会所がある。
 本殿両脇に二つの石祠がある。一つは八坂社(旧天王社)で、明治四十年に清雲寺跡地から移された。もう一つは八幡社で、その由来は明らかでない。共に天明八年(一七八八)の年紀が刻まれている。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
               
              拝殿上部に掲げてある木製の案内板

 当地は五十一代平城天皇の御代大同年間に白銀谷部落として発詳してより神明社を久しく崇敬し来れり宝永六年に至り地区を分割して上銀谷下銀谷となる
 享保二年に現在の地に倉稲魂命を奉斎して鎮守として崇敬し来れり
 安政二年石段を建設、文久三年鳥居を建立す 明治四十年に八坂神社を合祀す 昭和七年に再建す(以下略)
                                      案内板より引用

           
                        拝殿手前で右側に聳え立つ巨木。

『新編武蔵風土記稿久米田村条』には「褒善者内山孫右衛門、世々里正を勤む。郡中飢饉の時夫食を施し其外奇特の事あり、時の御代官今井九右衛門言上して、宝暦六年三月九日白銀若干を給はり、且其身一代帯刀及苗字は永く名乗る事を許されしと云。孫右衛門が先祖は内山外記とて松山城主上田氏の臣たりしが、落城の後当村の民となりしと云」と記載がある。
 因みに久米田村には字「外記谷」があって、内山外記が天正十八年の豊臣秀吉による小田原攻めで後北条氏は滅亡、同時に松山城落城した際に土着して帰農したといい、その由来にてつけられた地名という。

 また、おそらくこの内山氏が残したであろう「内山文書」には以下の書簡が伝存している。

・「当原地三貫文之所(足立郡)并大串之内銀屋不作十七貫文之所(横見郡)出置候、永禄九丙寅十月二十四日、内山矢右衛門尉殿、氏資花押」
・「自前々大串之内銀屋より召仕陣夫、如先御印判、無相違、可召仕者也、午十一月二十七日(元亀元年)、内山弥右衛門尉殿、奉之笠原藤左衛門」
・「自前々召仕候陣夫壱疋、只今松山領大串の内白金屋、松山へ断相済間、為先此印判、自来調儀可召仕、松山へも、猶此旨、有御下知者也、天正六年戊寅三月十四日、内山弥右衛門尉殿、奉之垪和伯耆」

 ここには「銀谷」が嘗て「銀屋」又は「白金屋」と記載されている。
 
 
   巨木の手前に鎮座している境内社。       境内にある庚申塔 青面金剛像。
案内板等に書かれている八坂社か天神社であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「内山文書」「埼玉の神社」等
 

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大串氷川神社

 大串次郎重親(おおくし じろう しげちか)は、平安時代後期の武士。武蔵国を拠点とした武士団、武蔵七党の一つ、横山党の出身。大串氏は、由木保経の次男・孝保が称したのに始まり、武蔵国横見郡大串郷(現在の比企郡吉見町大串)を本領とする家柄であり、重親はその孝保の子であった。畠山重忠とは烏帽子親、烏帽子子の関係にあり、名前の「重」の一字は重忠から拝領したものと考えられている。
 宇治川の戦い、その後奥州合戦で活躍する。奥州合戦では、重忠に随伴し、阿津賀志山の合戦で敵の総大将藤原国衡を討ち取ることに貢献した。和田義盛が矢を射掛けて国衡が負傷してうろたえたところに重親の部隊が猛攻撃をしかけ、深田に馬の足を捕らわれもたついている国衡を討ち取り首級をあげたことが、『吾妻鏡』に記されて、重親は討ち取った国衡の首を重忠に渡している。
 その後畠山重忠が追討された二俣川の戦いにも参戦する。このとき重親は安達景盛などと共に重忠と対峙したが、弓を収めて撤退した。北条時政の讒訴によって追討されることとなった重忠への同情からの行動だといわれている。畠山重忠とは烏帽子親、烏帽子子の関係にあり、名前の「重」の一字は重忠から拝領したものでもあり、度重なる合戦では畠山一党として随伴した「情」もあったろう。なんと心優しい坂東武者ではなかろうか。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町大串613
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 不明

 大里比企広域農道(通称 みどりの道)と埼玉県道33号東松山桶川線の交わる「大串」交差点南側に大串氷川神社は鎮座している。地図を確認すると、前河内日吉神社からほぼ南側で、直線距離でも100m程しか離れていない。
               
                              大串氷川神社正面
         氷川神社の鳥居前には庚申塔と辯財天が共に祀られている。
               
                          庚申塔(写真左側)と辯財天(同右側)。
           辯財天は右手に剣を、左手には宝珠を持っている。
               
                      大串氷川神社鳥居。右側端部が欠けている。

「埼玉の神社」によると、「武蔵七党の一つ横山党の大串氏は、八王子市由木に住する由木氏から分かれた一派で、当地を本貫とし、前河内・江綱・久保田などを領したという。中でも、大串次郎重親は、寿永三年(一一八四)の宇治川の先陣で平家と戦ってその名を馳せ、更に、文治五年(一一八九)の源頼朝の奥州征伐に従って戦功のあったことでよく知られており、その後も戦国時代まで、鎌倉管領方に属し、武功を立てている」との記載があり、鎌倉時代大串氏はこの「大串」地域のみならず「前河内・江綱・久保田」地域も領有していたという。

大串次郎重親に関して「新編武蔵風土記稿 大串村条」において長文を載せて紹介している。途中漢文体もあるので、筆者の解釈にて訳す。
大串次郎重親墓、毘沙門堂の背後に在り、五輪の石塔にして、面に永和二年丙辰十二月日沙弥隆保と彫る。これ重親が法諡なりと云ふ。大串は武蔵七党の内、横山党にて、祖先は小野篁の後胤、横山大夫義高の苗裔、由木六郎保経の二子を大串次郎孝保と号す、是れ大串の祖にして、其子大串次郎重保、又重親と号せし由、彼の系譜に見ゆ。又【東鑑】文治五年八月十日錦戸太郎国衡討死の条に、重忠門客大串次郎、国衡に相逢ふ。国衡駕する所の馬は、奥州第一の駿馬、高楯黒と号する也。大肥満、国衡之に駕す。毎日必ず三箇度平泉高山を馳登ると雖、汗を降さざるの馬也、而して国衡義盛の二箭を怖れ、重忠の大軍に驚く。道路を閣て深田に打入るの間、数度鞭を加ふと雖、馬敢て陸に上る能はず。大串等於得理梟首大遮也云々と見ゆ。此の余【平家物語】、及び【源平盛衰記】宇治川合戦の条に、重忠に扶けられて重親が川を渡せし事を載せたり。重親は畠山重忠が鳥帽子子にして、屡々戦功もありしとぞ。さるを今此の墓に永和二年とあれど、重親が錦戸太郎国衡を討しは文治五年にして、其の年代百八十余年を隔たる、されば爰に記せる沙弥隆保は大串氏の人にて、重親が子孫などなるを、たまたま著名たるによりて、重親が墓といひならはせしか」
 
      参道の先に拝殿が鎮座する。           拝殿の手前に設置されている
                           「氷川神社由来記」

 氷川神社由来記
 本社は鎮座の年代を詳かにせざるも、大串次郎重親、武蔵一宮氷川神社より勧請すと伝えらる。社蔵の記録文書等は累次の洪水により流亡し尽し、僅かに比企郡神社誌に「口碑に永徳及び元禄の社殿造営を伝う」との記事あるのみ。然れども作神として時代を超えて農民に尊崇されて今日に至りしこと明らかなり。
 明治四年六月村社に列せられ、明治四十年四月大串六社の合祀をみる。大正二年拝殿の造替を視、昭和五十九年十二月には拝殿が改築され、次いで平成八年三月神門建替を行ふ。
 社前には享保十四年十七年の銘ある燈籠二基あり。また三十五貫目と刻せる石あり、芭人の力競べせし有様僅かに伝ふ。
 是に由来の散逸を懼れ、石に刻して識となす。(以下略)
                                     由来記文より引用

               
                     拝 殿
               
                            拝殿前にある石燈籠
享保十四年十七年の銘ある燈籠二基あり、左側の燈籠には「正一位氷川大明神」と刻印されている。
               
 境内には石祠(写真左)あり。詳細不明。また社殿奥には「愛宕大権現」の石碑もあり(同右)


 ところで横山党大串氏は小野氏系図によると、「「〇横山次郎大夫経兼―由木六郎隆家―大串野五隆保(少代)―次郎重保(重親)」と記載されていて、武蔵国横見郡大串郷(現在の比企郡吉見町大串)を本領とする武蔵七党・横山党に属する一族である。

 大串次郎は畠山重忠同様に、大串郷の鍛冶支配頭領の可能性も高い。というのも、始祖であり、重親の父である隆保は「大串」苗字であるのと同時に「少代」を号していて、比企郡正代村(現東松山市正代地域)の有名なる『正代鋳物師』の出身、もしくは知行地ゆえに少代氏をも称していたという推測は眉唾ものではない。
               
                                  境内の一風景

 
因みに正代地域は鎌倉時代には「小代郷」と呼ばれ、小代氏(児玉党を出自とする武士)の居住地であった。小代氏の配下に置かれ、鋳物生産を行っていたのが、小代鋳物師(いもじ)と呼ばれる集団である。
 大串次郎重親はこのように「大串」地域を中心に「前河内・江綱・久保田」各地域を領有し、「正代」地域も支配していた。もしかしたら「前河内・江綱・久保田」各地域も、鋳物生産をする拠点がそれぞれあったかもしれない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
比企郡神社誌」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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前河内日吉神社


               
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町前河内1
             ・ご祭神 日吉大神 大山咋命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 例祭 415日 秋祭 1214

 江網元巣神社から埼玉県道33号東松山桶川線を東方向に進み、「大串」交差点手前左側で県道沿いに前河内日吉神社は鎮座している。社の右隣には前河内集会所があり、集会所と社の間に駐車スペースがあるので、そこの一角に車を停めたから参拝を行った。
 因みに「前河内」と書いて「まえごうち」と読む。
            
              境内西脇に設置されている社号標柱    
               
                               前河内日吉神社正面
               
                   境内は規模は小さいながらも手入れが行き届いている。
               
                                      拝 殿
 拝殿の前にある一対の天水桶。この天水桶は古くからある雨水を貯めておくタンクで、寺社に於いては主に防火用水として用いられてきたものだ。

日吉神社 吉見町前河内一
社伝によると、当社は文亀二年(一五〇二)に近江国の日吉神社から勧請したという。
社蔵資料として宝暦六年(一七五六)の社殿棟札がある。これには「祭主高橋内記源照朝」「願主江戸下谷各■籐八郎」「世話人筑井平四郎・恩田伴七・福田杢右衛門・高橋武兵衛」らの名が見える。また、元文四年(一七三九)から宝暦五年(一七五五)までの十七年間をかけて、神官が氏子から毎年二季の初穂を取り集めて金二〇両を調え、社殿の造営費に充てた旨が記されている。
『風土記稿』には「山王社 村の鎮守なり、最勝寺持」とある。これに見える最勝寺は真言宗の寺院で、江戸初期の草創と伝えられる。
恐らくは、別当の最勝寺とは別に、先の棟札に「祭主」としてその名が見える高橋家が社人として日常の祭祀を司っていたものであろう。内陣に奉安されている金幣の墨書には「大正拾年奉納当社社掌高橋泰全」と記されている。
現本殿は宝暦六年造営当時のものと思われ、重量感のある堂々とした三間社流造りである。その形式から三柱を祀ったものと考えられるが、棟札には「日吉大神・大山咋命」の二柱を伝えるのみである。なお昔この地は下総国佐倉藩の所領であった時代があり、藩主により惣五様(佐倉惣五郎の霊)が当社に祀られたという伝承がある。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   本殿。本殿左側には御札所がある。       本殿右側に鎮座する合祀社等。
                      若宮大神・火(大)穴大神・八幡大神、天神社
               
     参拝を終えて何気に振り返ったところ、瓦に不思議な紋があった。「菊水紋」である。

「菊水紋」の始まりは鎌倉時代、後鳥羽上皇にある。徳に菊を好んでいた上皇は、持ち物に文様として取り入れており、これが代々使われていくうちに皇室の紋章となったという。その後、後醍醐天皇より恩賞として菊紋を下賜された楠木正成が、そのまま用いるのは恐れ多いと、信奉する水分神社の流水紋と合わせた『菊水紋』を創ったとされ、その後楠木氏・和田氏の代表家紋として定着したという。
 楠木氏は通説によれば橘氏の後裔といい、本姓橘氏としているが、正成以前のことは詳らかではなく、鎌倉時代には河内金剛山観心寺領の土豪であったともいわれている。商業活動に従事した隊商集団の頭目であったという説もある。

 一方、楠木という名字の地が摂津・河内・和泉一帯にないことから土着の勢力という従来の説にも疑問が出始めている。
 元弘3年(正慶2年、1333年)閏2月の公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に くすの木の ねはかまくらに成ものを 枝をきりにと 何の出るらん」 という落首が記録されている、この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意味とされ、楠木氏はもともと武蔵国御家人で北条氏の被官(御内人)で、霜月騒動で安達氏の支配下にあった河内国観心寺は得宗領となり、得宗被官の楠木氏が代官として河内に移ったと推定している意見もある。

『吾妻鏡』には、楠木氏が玉井・忍・岡部・滝瀬ら武蔵猪股党の武士団と並んで将軍随兵とあり、もとは利根川流域に基盤をもつ武蔵の党的武士のひとつだった可能性も否定できない。武蔵国内の在地勢力は北条氏が冷遇したためか、党的武士は、早くから北条得宗家の被官となって、播磨や摂津・河内・和泉など北条氏の守護国に移住していた。
 河内の観心寺や天河など正成の活動拠点は、いずれも得宗領であり、正成の家は得宗被官として河内に移住したものでないかという説もなかなか説得力はある。

 案内板等にも詳しい由来がない。何か社と紋が関連する説話等知っている方がいたら、その点に関してご教授の程宜しくお願いしたいと切に思う。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」Wikipedia」等

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江綱元巣神社

 ナキサワメとは日本神話に登場する天津神系統の女神で、泣沢女神や啼沢女命と呼ばれ、哭沢女命とも表記される。
『古事記』国産み・神産みの段においてイザナギ(伊邪那岐)イザナミ(伊邪那美)との間に日本国土を形づくる数多の子を儲ける。その途中、イザナミが火の神であるカグツチ(迦具土神)を産むと陰部に火傷を負って亡くなる。「愛しい私の妻を、ただ一人の子に代えようとは思いもしなかった」とイザナギが云って、イザナミの枕元に腹這いになって泣き悲しんだ時、その涙から成り出でた神は、香具山の麓の丘の上、木の下におられる。この神がナキサワメである。
 神名は「泣くように響き渡る沢」から来ているという説がある。また、「ナキ」は「泣き」で、「サワ」は沢山泣くという意味がある。「メ」とあるので女神であるという。

 太古の日本には、巫女が涙を流し死者を弔う儀式が存在し、そのような巫女の事を泣き女という。この儀式は死者を弔うだけではなく魂振りの呪術でもあった。泣き女は神と人間との間を繋ぐ巫女だった。ナキサワメは泣き女の役割が神格化したものとも言われており、出産、延命長寿など生命の再生に関わる古代より信仰を集めていた。また、雨は天地の涙とする説があり降雨の神様としても知られている。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町江綱1501
             
・ご祭神 啼沢女命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 49日 例祭 419日 新嘗祭 1127
                  
冬至祭(星祭)1223

 江綱元巣神社が鎮座する江綱(えつな)地域は、市野川左岸に位置し、集落は主に自然堤防上に形成されている。江綱の地名は、河川にかかわると考えられ、また元巣も、鎮座地が元は洲であったことに由来する。文化十六年(1819年)6月の『武蔵国横見郡江綱村墨引兼絵図』には、市野川左岸に「元巣社」が記されている。
               
                                   江綱元巣神社正面
            
            「供進社 江綱神社」と表記されている社号標柱

 下細谷天神社から一旦東方向に進み、埼玉県道345号小八林久保田青鳥線に交わる十字路を右折し、県道を吉見町役場等の市街地を通り過ぎるように2㎞程南下する。その後コンビニエンスストアのある「江綱」交差点を左折し、埼玉県道33号穂が市松山桶川線に合流後東方向に進む。750m程進むと道路正面右側に「元巣神社」の看板が見えるので、そこを右折するとすぐ右側に社の社叢林が見えてくる。
 残念ながら周辺には社務所や集会所等もなく、駐車スペースはない。車両の邪魔にならない場所に路駐してから急ぎ参拝を開始する。
                       
                               神明系の
江綱元巣神社鳥居

 江綱元巣神社は水を司る啼沢女命を祭神としている。社伝によれば、大和国の畝傍山の麓に鎮座する畝尾都多本神社の分霊を勧請したと伝える。畝尾都多本神社の祭神は、伊弉諾命の涙から生じた啼澤女命で、「哭澤の杜」に祀られる古社であり、延喜式内社である。この神を祀る社は、関東では当社のみであることから「関東一社」の別名がある。恐らく、涙が水沢のごとく流れるの意から沢とかかわり、またサワメが雨にも通じる語であるので、いずれにしても水を司る神として祀られたことは明らかである。ちなみに、氏子は当社を「命綱の神」とか「命乞いの神」と呼んでいる。
               
          参道右側には手水舎がある。柱には凝った彫刻が施されている。
               
                                      拝 殿
 
 拝殿正面上部には扁額や奉納額(写真左)、その左側には新しい扁額(同右)が掲げられている。
               
 また江綱元巣神社の拝殿向拝部、兎ノ毛通し・唐破風下・中備には種々の立派な彫り物が飾られている。
 
       木鼻の獅子(写真左・右)もなかなか凝った彫刻を施している。

 裏側には彫師の銘があり、「武州 熊谷町 彫刻師 飯田祐次郎」と表記されている。この飯田家は大麻生河原明戸の生んだ宮大工にして彫刻師で、久能山東照宮の五重塔改修の折に、名工としての名を馳せ、「和泉守」を拝命したことから、代々宮大工棟梁としてその名を継いでおり、江戸時代後期から明治時代までに各地に多くの作品を残している。
 飯田家の一族には建築だけでなく彫刻にも優れた人材も輩出しており、残された作者名からは「飯田岩次郎」「飯田仙之助」「飯田常吉」「飯田竹三郎」「飯田元三郎」「飯田勇次郎」飯田岩吉」「飯田岩五郎」等の名がみえる。
 さて江綱元巣神社に表記されている「飯田祐次郎」とは「飯田勇次郎」その人であろうか。
               
                          拝殿付近に設置されている案内板

 元巣神社略記
・鎮座地 埼玉県比企郡吉見町大字江綱一五〇一番
・御祭神 啼沢女命
・由緒
 元巣神社はその昔、大和国畝尾啼沢の社より女神啼沢女命を御霊星御奉斎いたしました。
関東地方では、只一社の御社でありますので関東一社とも称せられて、古くから上下の信仰が極めて厚い神社であります。
 御奈良天皇の御代天文元年藤原重清がこの地方に下向いたしましたが、当時庶民が水難に遭い、病に苦しむ状をあわれみ、病気平癒と五穀豊穣の祈請したと謂われ、また源頼朝は特に元巣神社尊信し、大串次郎重親を使として厄難消除道中安全祈願祭を数度に亘り斎行したところ、神徳の顕現により種々の危難を脱れたと伝えられております。
 爾来、元巣神社の御社名いよいよ高く、諸民の尊崇を受けて社殿の造営、祭事の厳修等御社運は隆盛をきわめ寛永七年八月二十七日宗源宣旨を以って正一位を授けられた御神威の輝かしい神社であります。
・御神徳
 元巣神社には伊邪那岐神の別御霊を併せ祀ってありますので、命乞神、命奴志神、命比売神、玉緒神、命綱神とも称えられ御社名のように「元の巣に帰る」という古くからの信仰により、交通安全守護神として関東一円にその名を知られており、又、病難徐、家運隆昌守護の神としてその御神徳は広大無辺であります。(以下略)
                                      案内板より引用

 
          本 殿              社殿左側に鎮座する境内社・三峯社
               
                    社殿左側に鎮座する境内社・稲荷社 天神社合祀社。
               
          稲荷社 天神社合祀社の左側に並列鎮座する境内社・浅間社。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「くまがやねっと情報局」「Wikipedia」等


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