古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

一ツ木氷川神社

        
           ・所在地 埼玉県比企郡吉見町一ツ木165
           
・ご祭神 素戔嗚尊(推定)
           
・社 格 旧村社
           
・例 祭 不明
 一ツ木氷川神社は旧一ツ木村鎮守。地頭方天神社からほぼ東方向500mに鎮座していて、鳥居右側横が砂利道になっていて奥に駐車可能なスペースあり。嘗て一ツ木村は『新選武蔵風土記稿』によれば、足立郡箕田郷に属していたというが、寛永11年(1635)伊奈備前守が荒川を堀替して、堤を築いてから比企郡下吉見領に属していたとの記載がある。
        
               道路沿いにある一ツ木氷川神社の鳥居
 境内の規模は参道も長く、結構大きそうだがやや寂しい雰囲気。当日の雨交じりの天候故か、境内は鬱蒼とした社叢林が広がっていて、昔ながらの雰囲気を残しているように感じる。この社叢林が現代まで留めているのが却って歴史の深さを感じるのは、筆者の勘繰りだろうか。
        
                    境内の様子
            
                             参道左側に九頭竜大神の石碑あり。
 嘗て物資の輸送手段として舟運が盛んであったころ、荒川の流域には沢山の河岸があった。
当社の鎮座する一ツ木もそうした河岸の一つとして栄えた村であり、荒川右岸の地域性は勿論ではあるが、「九頭竜大神」も水を司る神でもあり、「水神」に対しての崇拝が高い地域であったと思われる。
 
         境内社 秋葉神社          社殿手前・左側にある石碑
                     文字が刻まれているが、読み取れなかった。
        
                                         拝 殿
 一ツ木氷川神社について、『埼玉の神社』はこう述べている。
「当社の裏には、近年まで、長さ一三〇センチメートルほどの石棒が立っていた。この石棒は、竜宮に通じると伝え、その先が揺れると境内の北側にある宮川という沼の水面も揺れたという。」
 一ツ木村は南北に長く、「宮川」境にして上下が分かれていて、上の鎮守が荒神社、下の鎮守が氷川神社となったのではないか。因みにここに記した荒神社は氷川神社の北方200m程の荒川西岸・土手面に鎮座している社である。
       
    社殿前にある対にある巨木以外にも、存在感のある老木も存在する。(写真左・右)

 一ツ木氷川神社の北側には「碗箱淵」と言われる南北に細長い沼が存在し、一説によれば、荒川の「切れ所跡の沼」ではないかとも。江戸時代に編纂された『新選武蔵風土記稿』にはこの沼を「宮川」と記載されている。
*碗箱淵
「村の中程にあり、或は宮川とも云、昔此沼に怪異あり、農家に来客多き時、沼中へ書を投て請求れば、椀具用に随て辨ずと云、故に沼に名くとぞ、長三百三十間幅四十間」
                                  新編武蔵風土記稿より引用
 もしかしたらこの付近に宮川という河川が流れていて、荒川瀬替えによる河川の後退で、その淵部位(水深が深い箇所)が現在の沼として残っているのかもしれない。
        

 また沼にまつわる伝説も多いようで、上記「碗箱淵」には道路沿いに案内板がある。

「この池の伝説によると、武田信玄の家臣の原美濃守虎胤の妻は、諏訪湖にいた竜神の化身で、子供が出来てから宝珠を残して湖に帰ったが、その後、虎胤は吉見領に移り諏訪湖から遠く離れてしまった。その子孫の良方、良清の代には、そばの大沼に向って祈ると膳や椀など不足なく出たという。そのため、この淵を椀箱淵といい、諏訪湖と通じているといわれていた。
 このため、淵のほとりには龍神を祀った塚があり、かつては耳を患う人の信仰が厚かった。
時を経るに従い、淵も逐次埋め立てられ、面積も縮小されて昔日の原形はとどめないが、今は貯水池として農業用に、また、防災用に地域のため大きな役割を担っている。」
                                吉見町・埼玉県案内板より引用
        

 碗箱淵の案内板に出てきている「原美濃守虎胤」は戦国時代、「甲斐の虎」として名高い武田信玄の家臣であった武将で、信玄亡き後、勝頼の代に武田氏直系は滅亡する。その滅亡後原一族はこの地に土着して子孫を残したという。
 原氏に関して『新編武蔵風土記稿』は以下の事を記している。
*家者徳太郎
「當村草創の民なり。先祖勘解由良房は武田家人原隼人正が子孫なり。甲州没落の後、久しく當郡松山に住す。文禄年中當所に土着して民家に下る。其の後良房慶長六年七十一歳にして卒す。其子右馬祐良清は寛永十六年六十五歳にして卒す。墳墓龍ヶ谷にあり、此の正統は則徳太郎なり。良清が次男原五郎兵衛良親が子孫は今名主作兵衛是なり」

上記に記されている「原隼人正」とは原昌胤のことで、碗箱淵の案内板に登場する「原美濃守虎胤」とは苗字は同じでも虎胤は千葉氏一族であり、原昌胤は土岐源氏の庶流であるため、別系統と言われている。原昌胤は信玄の信用も高く、武田二十四将の一人にも挙げられるが、1575年(天正3年)の長篠の戦いにて戦死する。

「天正庚寅松山合戦図」の北曲輪の守備に原勘解由良房・原左馬祐良清の名が見え、恐らく松山落城により一ツ木村に土着帰農して草分け名主として開発に当たったものであろうと言われている。
 また余談ながら一ツ木氷川神社の北側200m程に鎮座する「荒神社」
の創建に関しても、「原氏」と関係していて、文禄年中(1592-1596)当所に土着した原家が、当地を開拓、原家の鬼門除けとして祀られたという。

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