古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中曽根八幡神社

 吉見町中曽根地区は、上砂地区の東側で、荒川右岸の標高1718mの沖積低地に位置する。古くは吉見郡に属し、「日本古語事典」によれば、ソネ(曽根)は、ス(石)ネ(根)の転呼。スはシ(石)の原語、ネは峯、畝などのように丘堆状の地形にも用いられる。つまり、石ころの多い丘堆状の土地との意味として説明していて、「熊谷市史」にも同様に、古い言葉で「埆」という字をあてている。川によってできた砂礫の多いやせた荒地として紹介している。
 
一方、松尾俊郎氏は曽根という地名は、低湿地帯などによくある自然堤防のような小高い所を指すとしている。県内に曽根地名は少なくない。加えて「日本地名学」では、それらはいずれも元荒川、古利根川などの河川の沿岸に多く見られ、「ソネ」地名の発生時代は15001700年と、地名由来における歴史の深さを物語っている。 
        
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町中曽根384 
             ・ご祭神 誉田別尊
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 旧暦915  
 中曽根八幡神社は、松崎八幡神社上砂氷川神社と同様に、大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進む。大里比企広域農道と埼玉県道307号福田鴻巣線、同66号行田東松山線が交差する「中曽根」交差点から1.5㎞程吉見町方向に進むと、左側にこんもりとした社叢が見える。残念ながら「みどりの道」から直接中曽根八幡神社正面に通じる道はなく、一旦通り過ぎてから左回りに進むしかないが、目印となる社叢は良く見えるので、間違えることはない。
 社の正面鳥居付近には、駐車スペースも確保されているので、その周辺に車を停めて、参拝を行った。
                 
                             中曽根八幡神社 社号標柱
        
                                     鳥居正面
 このアングルからだと鳥居が3基見える。正面鳥居の奥にあるのが八幡神社の二の鳥居で、右側にある鳥居は境内社のものという。実はもう一基鳥居が右側にあるのだが、それは3基ある鳥居に対して直角に位置し、その奥には天満宮の石碑が立っている。
 
  境内社鳥居の横で、直角に設置されている          二の鳥居                             
        天満宮及び鳥居
        
                     拝 殿
            水害対策であろう、基礎部分には盛り土がされ、川石で補強されている。
 八幡神社 吉見町中曾根二八五-一(中曾根字三角)
 現在の吉見町の全域にほぼ相当する旧横見郡内で、朱印地を徳川将軍家から受けている社寺は、『風土記稿』によれば、慶安元年(一六四八)に家光から二〇石を拝領した御所の息障院をはじめ八か所ある。これらのうち七か所は寺院や仏堂で、神社としては、当社が唯一慶安二年に八石を拝領しているに過ぎない。横見郡内には、当社のほかにも、式内社である横見神社の後身と伝える御所の飯玉氷川明神社や、同じく伊波比神社の後身である黒岩の岩井神社、高負比古神社である田甲の高負比古根神社など、古い歴史を持つ神社があるにもかかわらず、朱印地を拝領していないことから、当時、当社が強い勢力を持っていたことが推測される。
 一方、口碑によれば、当社は、氏子の長島家の先祖が嵐山町鎌形からこの地に移って来た際に、鎌形八幡神社の分霊を奉斎したものといわれ、長島家の墓碑にも延宝己未年(一六七九)に当社を祀った旨が刻まれている。この、「延宝己未年」を当社の創建の年とすると、八石の朱印地を拝領した時には、神社がなかったことになり、話が合わない。また『風土記稿』には、当社に式内社の横見神社の後身であるとの伝えがある旨が記されていることから、かなり古くから当社が存在したことがうかがわれる。したがって「延宝己未年」は、当社の再建か、鎌形八幡神社の分霊を新たに祀った年ではないかと思われる。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
   社殿手前左側に並んでいる石碑群     社殿右側に接するように鎮座する境内社
                          左から稲荷神社・諏訪神社 
        
                          日当たり良く、広々とした境内。
 嘗てこの中曽根地区から上砂地区にかけて、古い河川の流路跡が見つかっており、江戸時代に実施された「荒川の西遷」の土木事業前の、元荒川が旧入間川と繋がる以前に存在していた乱流状況が少しずつ判明してきた。
 荒川左岸では、前砂地区から明用を経て三丁免小谷へとS字カーブを描くように蛇行し、最終的には荒川に流入する古い蛇行河跡があることが分かったという。その蛇行河跡は自然堤防も伴ったのだろうが、不思議と現在も道路として残っている。一方荒川右岸では明用三島神社東側から存在した流路がそのまま中曽根地域に進んだかはしっかりと判明はしていないが、中曽根八幡神社の東側に流れていた蛇行河川が、上砂地区に入ると、流路が南方向から反転して、埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線上を北上するような経路ではなかったかと筆者は推測する。

 流路に関しては、細かい所は議論の余地はあるかもしれないが、この流路時期はまさに「さきたま古墳群」の形成・発展時期でもある56世紀ではなかろうか。中曽根地区の北側で、荒川左岸には明用三島神社古墳がある。径55mの古墳埋葬者は、大河川が結節する地点を監視できる場所に本拠地を構築し、川関所を兼ねた津を経営する権力・能力によって力を蓄えた首長の墓であった可能性が高い。河川管理も勿論できたであろうが、その時期の流路も絶妙なバランスで、最高な位置状況だったのだろう。そしてさきたま古墳群の主とも対等な立場で交渉等行っていたからこそ、かの地にこのような古墳が作られたものと考える。                    

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上砂氷川神社

        
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町上砂24
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 上砂氷川神社へのルートは途中まで松崎八幡神社と同じで、松崎八幡神社からほぼ北方300mくらいしか離れていない。大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進み、2㎞程進むと埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線と交わる交差点に到達するが、そこを左折し、100m進行するとほぼ目の前に上砂氷川神社の社叢が見えてくる。
 残念ながら地元の集会所や社務所などもないため、周辺に駐車スペースはなく、県道脇一般道の適当な路肩に停めて、急ぎ参拝を行った。
        
                                       鳥居正面
        鳥居は県道沿いにある為、周囲の交通状態を確認し撮影を行う。
       
                       鳥居横に聳え立つ巨木
       紙垂等はなかったが、一番目立つ木であるので敬意をこめて撮影。

 決して大きな社ではないが、こじんまりと纏まっている印象。手入れも行き届いていて、日々の氏子様方の思い入れに感謝の念を感じられずにはいられない。
 一の鳥居を越えるとすぐに二の鳥居があり、その鳥居には「氷川神社」と彫られた社号額がある。
        
                                 拝  殿
        
                      拝殿手前にある御社殿造営顕彰碑
 御社殿造営顕彰碑
 當社の御創建は不詳であるが寶永二年十月宗源宣旨により氷川大明神の神号を授かり翌三年御社殿が造営される等往古より郷人が厚き崇敬を集めていたことが窺える。昭和五十年には御本殿覆殿の改築をなす等その尊厳護持に万全を期して参りましたが近年老朽化が進み御造営やむなしと思われし折東京都北区滝野川鎮座八幡神社宮司青井哲水氏より堂地御在住の氏子にして當地上砂ご出身の山本うめ氏(旧姓稲原)御社殿造営費御奉納の御趣旨を賜り早速に御造営委員会を発足して御造営に着手今般荘厳なる御社殿が竣工なり氏子一同感激の極みであり今後更なる正心誠意を尽くし祭祀の厳修と御神徳の宣揚を約し両氏の赤誠の御功績を末長く顕彰するものである。平成十八年十二月吉日
                                     
境内石碑より引用

 氷川神社 吉見町上砂一七七(上砂字窪町)
 比企郡の東部に当たる荒川右岸の低地には、氷川神社が南北に帯状に分布する。当社はこのうちの一社であり、大字上砂の鎮守として祀られている。
 『風土記稿』上砂村の項に「氷川社二宇 村の鎮守なり、観音寺持」とあるように、元来、上砂には氷川社が二社あり、それぞれ本田・新田の鎮守として奉斎されていた。本田の氷川社は稲村家の氏神として祀られ、後に本田の鎮守となったと伝えられている。稲村家の初代新左衛門は明暦年間(一六五五-五八)に没していることから、それ以前に創建したものと考えられる。本田・新田の関係からみて、その後の新田開発に伴い、この本田の氷川社を新田に分祀したものであろう。ちなみに、新田の検地は寛文十二年(一六七二)に行われた。
 宝永二年(一七〇五)には、二社共に神祇管領から大明神号を拝受した。これにより名実共に二社が村の鎮守としての地位を確立したことは想像するに難くない。事実、明和四年(一七六七)の「上砂村青蓮山観音寺起立書」には「正一位氷川大明神 二社惣鎮守免田有之」と記している。
 明治初年の社格制定に際して、本田の氷川神社はもともと稲村家の氏神であったことを理由に旧に復し、新田の氷川神社が村社に列した。これが、現在の当社である。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
          社殿の左右に鎮座する境内社(写真左・右)詳細不明。

 上砂氷川神社が鎮座する「上砂」という地名に関して、上砂の「砂」は文字通り単なる砂で砂地の意味で、地形的に見ても、荒川沿岸の河川から生み出される大量の砂地であるのでこの名が生まれたのであろうと当初は簡単に考えた。
 但し「新編武蔵風土記稿・上砂村条」において「小田原役帳に松山衆知行役狩野介卅七貫文吉見郡上須奈(すな)乙卯儉見辻と載せたり」との記述があり、江戸時代までは「砂」ではなく「須奈」という何気に雅な名称であった。
        

 大里郡神社誌において「相上村吉見神社の旧神職は、祖祭豊木入日子命孫彦狭島王の子、御諸別王の末胤中臣磐麿なり。子孫後葉神主禰宜として奉仕せりと伝う、今尚存す。和銅六年五月禰宜従五位下中臣諸次撰上」とあり、その後寛永二年神主須長出羽守良重署名に「中臣磐渕卿勅使として下向あり、其子磐丸卿を止めて神事を執行せしむ、是家神主の先祖なり、後に神と崇む、今の東宮なり。其後数代を経て、中臣の春友卿と云人あり、京に上り、時の関白藤原武智麿公の智に成り藤原姓を賜はる。其後数代を過て藤原房顕卿と云しは、亀卜の道を学びて上洛し、卜部の職に任ぜらる、二男を出家せしめ華蔵院開基なり、当家代々の菩提寺となさる。それより遥の世を経て、須永上野大掾藤原長春と云人あり(中略)。風土記稿相上村条に「神明社の神主須永大内蔵」。中曽根村大日堂明和六年供養塔に相上村次長太郎兵衛。吉見神社寛政三年午頭天王碑に須長豊次郎・須長房吉、嘉永二年御神燈に須長忠右衛門、明治二十一年水神楽碑に須長弁三・須長藤吉・須長房吉。白川家門人帳に慶応四年相上村吉見大神宮祝須永筑前日奉連宣興。日奉連は、姓氏録・左京神別に「日奉連。高魂命の後也」と見える。

 つまり相上村吉見神社の神職「須長・須永」氏が存在していて、この須永は嘗て「須中・須長・砂永・砂賀」と表記されることもあり、上砂村の別名である「砂・須奈」とどことなく類似しているようにも見える。
 しかしこれ以上の考察は、却って筆者の自己都合の推論に陥る恐れもあり、今回は一応ここまでに留め、今後の宿題としたい。

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松崎八幡神社

               
               ・所在地 埼玉県比企郡吉見町松崎254
              
・ご祭神 誉田別尊
              
・社 格 旧山野下村 松崎村鎮守 旧村社
              
・例 祭 旧暦915日
 松崎八幡神社は、大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進み、2㎞程進むと埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線と交わる交差点に到達するが、その手間のT字路を右折する。県道との交点手前右手にはコンビニエンス(ローソン吉見松崎店)があり、その手前のT字路からも見えるので、右折するのに間違いは少ないと考える。右折後300m程進むと左側に松崎八幡神社が鎮座する地に到着する。
 松崎八幡神社から南に50mまで参道が続き、鳥居から北側に車両を駐車するスペースが確保されていて、そこに停めてから参拝を行った。
        
               綺麗に整備されている鳥居周辺
 写真を見ると地元の一般道路と並んで砂利がひかれた状態で参道は続いていて、通常は駐車場として使われることも多いようだ。
        
                                   鳥居正面
 
           長い参道の先に松崎八幡神社境内が見えてくる。 
       境内も手入れも行き渡っていて、こじんまりと纏まっている印象。      
 
○御社殿造営記念碑 八幡神社 略史 
 松崎八幡神社の御祭神は応神天皇 神名を誉田別尊と称せられる 神社の勧請に関する文書は存在しない そのため御創建の年代は詳でないが 一つの拠り所として樹齢七百年と言われた 欅の御神木から勘案して 十二世紀後半のころと推察される
 
享保二年十一月の古文書に 当八幡神社に対して 正一位八幡宮の極位を奉授した 神衹管領勾当長上卜部兼敬の 宗源宣旨 宗源祝詞は神社の重宝古文書として保存されている 明治四年神仏分離令以前 当神社の別当寺は八幡山千乗寺であった 同年六月入間県へ村社として届済 昭和二十八年四月宗教法人八幡神社として設立承認される
 
平成元年二月二十八日 不慮の災禍により社殿を全焼する そのため氏子の総意により平成二年三月 御社殿を再造営した
 
尚御神木の欅は 火災の折猛焔に煽られ 大焼損を受け 枯朽の愁いがあるため 可惜のうちに 止むを得ず伐採の憂目を迎えた
 
「知って信ずる」これは現代信仰の基礎論である 我々は八幡神社の氏子として 神社の歴史を熟知し 産土の神を精神的核として崇敬し ひたすら神社の興隆と 郷土の発展を祈念するものである(以下略)
                                      記念碑より引用

 御社殿造営記念碑に記載されている「宗源宣旨」とは
 室町後期以降,江戸時代を通じ,吉田神道(唯一宗源神道)を宣揚し,神社,神職を支配してきた吉田家が,諸国の神社に位階,神号などを授けた証状。宗源は唯一宗源の略称で,吉田家に唯一相承されてきた神道をあらわし,宗源神宣ともいった。祭神に魚を奉ること,大明神号を授けること,鳥居を建てること,神輿を動かすこと,などさまざまの許可,授与の文書が発行されたが,なかでも神に対して位を授けることがもっとも多くみられた。
 以後、これによって吉田家は全国の神職のほとんどを傘下に収め、絶大な勢力をもったが、明治維新に至り廃止されたという。
        
                                        拝 殿
 八幡神社<吉見町松崎六五二 松崎字宮ノ腰
 当社は大字松崎(旧松崎村)の鎮守として祀られているが、元来は松崎・山ノ下二か村の鎮守として奉斎していた。
 松崎に隣接する山ノ下は、松山城の帰農武士である山崎隼人・小山兵庫・八木橋刑部・野沢図書・高橋采女の五人によって開発された所であると伝える。
 山崎家文書の天和元年(一六八一)「為取替申当村開発以来村系図并仕来儀定之事」によれば、元亀二年(一五七一)八月に隼人・兵庫・刑部・図書・采女一同の心願により山ノ下・松崎両村の鎮守として正八幡社を村境に勧請した。これが当社の創建である。
 境内にある石鳥居には「享保五庚子天(一七二〇)十二月吉日・松崎村中同山野下村・再建文政四辛巳年(一八二一)四月吉祥日」と刻まれている。また、『風土記稿』山野下村の項は「八幡社 当村と松崎村との境にあり、両村の鎮守にて、松崎村千乗寺持」と記している。これに見える別当の千乗寺は、八幡山と号する真言宗の寺院で、当社創建よりもそれほど下らない時期の開基であろう。
 明治四年に村社となり、この時に松崎村一村の鎮守となった模様である。平成元年に火災により社殿が焼失したが、翌年に再建された。
 なお、享保二年(一七一七)十一月二十七日付で神祇管領から拝受した宗源宣旨と宗源祝詞が現存する。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
        拝殿に掲げている社号扁額          向拝に飾られる精巧な彫刻
 
       何気に木鼻部位にも細やかな細工を施した彫刻が飾られている。

 松崎八幡神社の北西500mにはポンポン山(玉鉾山:標高は約40m)がある。南側からの風景は、山というより、一面広がっている丘陵地の端部ではあるが、北側の河岸低地側から見ると、平均標高が15・6m程であるため、見た目断崖絶壁のように聳え立つような景観となる。
 丘陵頂部には高負比古根神社が鎮座するが、平安時代の延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている社で、吉見町に鎮座する延喜式式内社3社のうち最も古く、かつ最初に官社に列している。また玉鉾山(ポンポン山)北側には、嘗ては荒川が流れ、水運の要所だったと考えられ、海洋貿易を盛んに行っていた壬生吉志氏との関わりが推測されている。同時に高負比古根神社のご祭神は味鋤高彦根命以下出雲系の神々が祀られているが、この味鋤高彦根命のご神徳は鋤を神格化した農耕神と言われているが、同時に「鋤=古代金属の精錬」に関連する存在を思い浮かべてしまう。
   
     境内にある青面金剛石碑            境内末社 詳細不明            

 松崎という地名も、意味深い名前だ。「松」は「町」の佳字と言われ、天津一族である饒速日尊の子供は、古事記に宇麻志麻遅命(うましまちのみこと)、日本書紀に可美真手命(うましまでのみこと)、或は味島乳命(うましまちのみこと)、天孫本紀に宇摩志麻治命(うましまちのみこと)、と見える。ウマシは「立派な」の意味。麻遅(まち)、真手(まで)、麻治(まち、まぢ)、真治(まち、まぢ)等は、摩乳(まち)のことで鍛冶道具の鎚(つち)の意味にもとれ、鍛冶集団の首領をウマシマチと解釈できる。マチは古代鉱山鍛冶師のことで町(まち)・待(まち、まつ)の字を用いていて、その後「松」と佳字変更したものと思われる。
 また「崎」は「浦」の意味であり、河川交通の要衝地であったことを伺わせ、「松崎」とは鉱山鍛冶海洋民の集落と解釈できるのではなかろうか。
        
                     今は静かで長閑な松崎地区。社殿からの風景。

 松崎八幡神社の鎮座地である「松崎」地区は、9世紀以前に創設された横見郡の延喜式内社(延喜式神明帳に記載された古社)が近郊に3社あり、さらに黒岩横穴墓群(7世紀頃の横穴式墓が500基)などの古い史跡とも隣接しており、早い時期から開発されていた地区と考えられる。


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久保田横見神社

 吉見町は埼玉県中部、比企(ひき)郡にある町で、比企丘陵の東端吉見丘陵から荒川低地に位置し、北から東にかけて荒川、南に市野川が流れる穀倉地帯だ。この町は東西で地形上の区分がはっきりしていて、比企丘陵の東に位置する吉見丘陵地と、荒川沿いに発達する荒川低地に大きく区分される。
 特に田甲・黒岩・和名・久米田地区付近を境に、西部は山地・丘陵地、台地が発達し、東部側ははん濫平野、旧河道が多く見受けられ、旧河道に沿って自然堤防が発達していることがわかる。また、旧河道が自然堤防の間に認められ、荒川低地が荒川のはん濫などにより形成されたことがうかがえる。
 律令時代には横見郡があり、大略において現在の吉見町と同じ区域であったらしい。武蔵国にあっては早くから開発が進んでいた地域で、国指定史跡の吉見百穴(6世紀末〜7世紀の横穴墓群)や松山城跡、国指定天然記念物の吉見百穴ヒカリゴケ発生地、吉見観音(かんのん)として知られる安楽寺など史跡や文化財が多い.。 
                                   
                    ・所在地 埼玉県比企郡吉見町久保田117
                    ・ご祭神 素戔嗚尊 櫛稲田姫命 宇迦之御魂神
                    ・社 挌 旧村社
                    ・例祭等 例祭 109
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0354843,139.4456725,17z?hl=ja&entry=ttu                           

久保田横見神社は埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線を吉見町町役場方向に進み、町役場を越えて埼玉県道27号東松山鴻巣線と合流する吉見町役場前交差点を右折しそこから約400m位行った十字路を左折すると右側に社叢が見えてくる。
 久保田横見神社の東側と南側には現在ではコンクリート舗装された横見川が流れており、この社の四方半分が川岸近くにに建てられている地形となっている。社殿の石段の高さを見ると、コンクリート舗装されていなかった古代において、度々水害の被害を受けたであろうことは十分に推測でき、この久保田の地に延喜式内社であり、旧郷社である御所横見神社と同名の横見神社が鎮座する理由もまさにそこにある。
 ちなみに駐車スペースはどこを探しても見つからず、社殿北側の道路脇に路駐し急ぎ参拝を行った。
            
                             正面参道と一の鳥居
            
           参道始発点にある社号標・指定文化建造物「横見神社本殿」の碑(写真左)。
                 参道も比較的長く、途中振り返って撮影した(写真右)
     
 「新編武蔵風土記稿」によれば、横見神社は旧八ヶ村(久保田・上細谷・下細谷・御所・中新井・谷口・和名・小新井)の鎮守であった。また、慶長17年(1612年)夏の洪水で、吉見町大字御所地内の横見神社がこの地に流れた為に祀られたと伝えられている。 境内には稲荷社・八坂社・天神社・八幡社・熊野社があり、覆殿内にある本殿が、町指定の建造物である。
 但し1953年(昭和28年)に編纂された「武蔵国郡村誌」では建長年間(1249年~1255年)の洪水の際に漂流し本村に着いたと書かれている。「慶長」と「建長」は一字違いで、編集時のミスとも思ったが、「建長」の洪水は時期も「~年代」という曖昧な記述であり、まして「口碑」、つまり言い伝えという書き方になっているのに対して、「慶長」時の洪水は「~17年」、「夏」と年代も時期もハッキリと書かれている。結論から言うと洪水で御所横見神社は「建長」時と「慶長」時、少なくとも2回は押し流されたことになろう。
 吉見町は地形上、荒川中流域にあり、西側比企丘陵地を除く一帯は平野部が広がり、その東側に荒川が町の東側を南東方向に流れている。護岸工事が発達した現代と比べ、嘗ては荒川や吉見町の西側に流れる荒川支流の市野川の氾濫による水害は度々起こったであろう。昔の人々の苦労が偲ばれる。
                         
                                  拝 殿
 この久保田横見神社は元々「飯玉氷川明神社」といい、歴とした氷川系神社であり、祭神も氷川系の素戔嗚尊、櫛稲田姫命に飯玉神社系の宇迦之御魂神(保食神)の三柱が並立して祀られている。
 久保田村
 飯玉明神社
 當村及び上下細谷・御所・中新井・谷口・和名・小新井等の八村の鎮守なり、神體は石劔なり、當社は元御所村なりしが、水災に逢て漂着せしを、取上て爰に祀とて、此地そのかみ愛宕社地なりしが、今は衰て却て末社となれし、無量寺持、
 末社愛宕社

                                                              『新編武蔵風土記稿』より引用

             
                                    本 殿
                吉見町町指定文化財で安永五年(一七七六年)建立。
 横見神社本殿
『新編武蔵風土記稿』によれば、横見神社は旧八ヶ村(久保田・上細谷・下細谷・御所・中新井・谷口・和名・小新井)の鎮守であった。また、慶長17年(1612年)夏の洪水で、吉見町大字御所地内の横見神社がこの地に流れた為に祀られたと伝えられている。 境内には稲荷社・八坂社・天神社・八幡社・熊野社があり、覆殿(おおいでん)内にある本殿が、町指定の建造物である。本殿の大きさは表41寸、妻37寸、向拝45寸で、彫刻や飾り金具を多用して建立されている。
                                                     「吉見町公式HP」より引用

         
 社殿の左側並びには境内社が鎮座する。八幡神社、天神社合祀社(写真左側)。その右側にある八坂神社、稲荷神社(同右側)。
                                    境内に鎮座する愛宕神社(写真左・右)          
 社殿の右側にある一見古墳と思わせる高台の上に鎮座する愛宕神社。元々この久保田鎮守社であったというが、建長年間に御所横見神社のご神体である石剣がこの地に漂着したものを住民たちが祀り、愛宕神社は摂社として今に至っているという。

 

 

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田甲高負彦根神社

 高負彦根神社が鎮座する田甲の地は旧荒川の水利とともに交通の要所であり、そこに「玉鉾山が突きでており、その頂上に当社が鎮座している。
 周辺は「高負彦根神社周辺遺跡」として奈良時代の集落跡が残る。このあたりの丘陵と沼は「荒川」が作りだしたものであるとされ、このポンポン山の下もかつては「荒川」の流路であった。吉見丘陵東端には古墳群、そして式内社3社が存在していたことから、この地域が古くからの開発地域であったことがわかる。
 和同3年(710)創建と伝わる古社とされ、横見郡三座のうちでもっとも古く、近年に発見された宝亀3年(772)の太政官符によれば、「武蔵国幣帛ニ預カル社四処」の「横見郡高負比古乃神」と比定されている。                                                             
        
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町田甲1945
             ・ご祭神 味耜高彦根尊 大己貴尊
             ・社 格 旧村社 延喜式内社 武蔵国 横見郡鎮座
             ・例祭等 例祭 718 

   横見神社を東方向に進み、埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線を熊谷方面に北上し、松崎交差点を左折すると、正面にこんもりとした特徴のある岩山が見えてくる。これが通称「ポンポン山」である。このポンポン山を脇から登っていくと、山頂に式内社・高負彦根神社が岩山に鎮座している。
            
                           入り口付近にある案内板
                        
                                                   鳥居より社殿を望む                                             
             
                                 拝 殿
 
       拝殿上部に掲げている扁額             社殿の左側に鎮座する境内社 三峰神社
  この高負彦根神社の先は「ポンポン山」という岩山なのだが、鳥居の反対側は広い平地が広がる。どうやらこの岩山は丘陵地の先にあたるようだ。この響きには地下に洞穴(空洞)があるという説と、ローム層と砂岩の境界面で音波がはねかえるという2説があるという。                          
 しかしある意味絶景の要害の地であり、切り立った断崖は東側から押し寄せる敵軍には天然の要塞として機能したであろうと思った。
            
 さて社殿の奥に進むと、そこには「ポンポン山」(別名玉鉾山)と呼ばれる標高38mの岩山が聳え立つ。
             
                             「ポンポン山」案内板
   伝説では長者が高負彦神社の指示によりこの岩山に財宝を隠した。盗人がその財宝を盗もうとしたところ山がポンポンと鳴り出したため逃げ出したそうだ。いわゆる古代の警報システムというところか。

 ポンポンとなる原因は今でも不明で、このポンポン山一帯だけが付近から突出しており、しかも巨岩が露出しているところから得意な地盤であることは確かである。古代の人もその威容とポンポンとなる地盤に神が宿ると思ったのだろうか。古代遺跡が埋まっておりポンポンとなるのはその遺跡を守る装置なのかもしれない。
 
     ゴツゴツとした岩肌があらわでもあり(写真左・右)、その岩山の存在感には驚きを隠せない。 
            
                        ポンポン山から北側平野部を撮影。          
〇ポンポン山(高高負彦根神社)
 延喜式内社で昔は玉鉾氷川神社とも称した。祭神は、味耜高彦根尊・大己貴尊とされるが素盞鳴尊ともいわれる。
 社記によれば、和銅 2年(710)創建と伝えられる古社で宝亀 3年(772)12月19日の太政官符に「案内ヲ検スルニ、去ル、天平勝宝7年(755)11月 2日ノ符ニアグ。武蔵国幣帛ニ預ル社四処」として、その一つに「横見郡高負比古乃神」と記してある。
 社殿の後方の巨岩に近い地面を強く踏むとポンと音を発する。そこでこの山をポンポン山ともいう。巨岩の直下20mの平地は古代荒川の流路であった。
 吉見丘陵の東端をめぐった荒川流域に式内社3社が存在したのはこの地域が早くから開発が進んでいたことによるものと思われる。
平成10年 3月  吉見町・埼玉県                                    
社頭掲示板より引用

  高負彦根神社の「高負」はこの地の地名「田甲」に通じる。当社の鎮座する田甲集落は『倭名抄』に載る横見郡高生(タケフ)郷に比定されて、田甲(タコウ)はタケフがタキョウになり、タカオ、タコウと転訛していったものだろう。現在の社名は「タカオヒコネ神社」と読んでいるようだ。
 これは創建から時代が経ち元の祭神が忘れられた後に、祭神を社名から味?高彦根命に変えたからで、おそらく元は「タケフヒコ」の社であったものと想像される。この辺りの土地を拓いたのが「武」や「猛」に通ずる「タケフ」という名の男性首長で、祭神の御性格の激しさをそのまま神名とし、死後にこれを祀ったのが当社のはじまりではなかろうかと思う。

            
   横見郡三座のうちで創建がもっとも古く、社殿の後方に玉鉾石という磐倉のような巨岩をある意味祀っているような配置。 その歴史的な重み、それに加え神川町に鎮座する金讃神社のスケールをかなりコンパクトにしたような神秘的な雰囲気も整っており、なかなか見応えある社である。

                 
                                              高負彦根神社 東側からポンポン山を撮影
                 かなりユーモラスな名前だが実際はかなりの威容の岩。
             まさに見ての通り玉鉾石という名がピッタリな断崖絶壁の巨岩だ。

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