古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

御所横見神社

 伊波比神社は拝殿の位置が東側を向いていて、その丁度300m位正面に郷社、横見神社が鎮座している。地名の横見より興った神社であろう。地名は横見→吉見と変化した。
 創建は和銅年間(708-715)と伝えられている。
 狭山丘陵の東側の平地の中に鎮座している。この丘陵の東側を流れる荒川は、古代より常に氾濫をくり返し、その流れを変えてきた。当社は、荒川の氾濫によつてできたと考えられる平地の中にある。 
         
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町御所1 
              ・社 格 旧郷社 延喜式内社 武蔵国 横見郡鎮座
              ・祭 神 建速須佐之男命 櫛稻田比売命
              ・例祭等 例祭 1014    
 
  黒岩横穴墓群のある八丁湖から南東側へ下っていくと田畑に囲まれた横見神社がある。鳥居の左の林の中には御所稲荷塚古墳がある。黒岩の伊波比神社から車で2,3分。非常に近く、車のナビを使って最初に到着してしまった。吉見町の辺りは古くは横見郡といって、その名を社名としている当社が、この地域において相当に有力な社であったことはまず間違いないだろう。「御所」という大字にもその歴史の深さを感じさせてくれる。
  駐車場は神社の隣に駐車できる空間があり、そこに車を停めて参拝を行った。
              
                             御所横見神社正面 
          
             鳥居の右隣にある社号標      拝殿に臨む参道の風景     
             
                                                  拝  殿
〇新編武蔵風土記稿
横見郡 巻之ニ 上細谷村 附持添新田
飯玉氷川明神社
是延喜式神名帳ニ載ル横見ノ神社ニテ素盞鳴尊 稲倉玉命ナリト云傳レト□ナル據ルニハアラス 當村及下細谷 黒岩 御所 谷口 中新井 久保田 七ケ村ノ鎮守ナリ 社ノ後ニ神木トテ圍一丈五尺程ノ松アリ此下に石槨アリト云傳フ 古ハ社ニ金ノ幣束アリシカ中古洪水ノ時社共ニ久保田村ヘ流レ行テ今ハ失ヘリトソ 別當ハ下細谷村照明寺ナレト御所村ノ持ニシテ平日ハ黒岩村大寶院進退セリ

〇比企郡神社誌

横見神社
御鎮座地 吉見村大字御所
御祭神   建速須佐之男命 櫛稲田比売命
御由緒  
  創立年月未詳。当社は延喜式神名帳に載する横見神社是なり、中古本郡上細谷黒岩、御所、谷口、中新井、久保田、七ケ村の鎮守にして、飯田氷川大明神と称して後今の称に改め復せり~中略~この樹下に石堰の埋れたるあり 然るに明治五年六月二十六日風雨落雷の時土地崩れて石蓋を発顕す。その石蓋を開くに一物の有なし蓋し太古国造県主等の墳墓ならん。これを以って旧地旧社を表するに足れり、又考証土台に飯玉明神黒岩村と載たり、新編武蔵風土記を関するに本村御所村は正保の頃までは黒岩村の地なりしが、程なく別村せしと、元禄の改めには既に別てりとあり。又同書に飯玉氷川明神を上細谷の部に出して「別当は下細谷村照明寺なれど御所村の持にて云々」とあり、この近傍古へ御所郷と称し後黒岩郷と云ふ。その鎮守七ケ村なるを以って上細谷に属し或は黒岩村に属せしも知るべからず。現在は本村に属し明治七年郷社に列せらる。
              
                                                       本  殿
 本殿は小高い丘の上に建っていて、新編武蔵風土記稿に記載されている「石郭」との記述を考えあわせると、古墳であったろうというが、実際参拝した限りではまったく判らなかった。
              
                                                              社殿からの風景
 横見郡は『日本書紀』に出てくる「横渟屯倉」(よこゐみくら)の置かれた地域に比定されているらしいが、その根拠は一体なんであろうか「横渟屯倉」は武蔵国造の乱において出てくる4ヶ所の屯倉の一つとされている。が、あくまで語呂合わせの推定にしか過ぎず、真相は現段階では不明だ。


 御所横見神社の西側にはこんもりとした小高い森があり、道路沿いには朱の鳥居が見える。調べてみるとこれは「御所稲荷古墳」といい、御所横見神社の境内地内にあり、明治5年に古墳の一角に稲荷社が祀られたという。この古墳は古墳時代後期の築造と推定されているが、それ以外は全くの不明だ。
            
                  御所稲荷古墳の一角に鎮座する稲荷社(写真左・右)     


                           

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黒岩伊波比神社

  古代武蔵國の横見郡があったと推定される吉見町は、埼玉県比企郡にあり、東松山市によって東西に分断された比企郡の東部の北半を占めるところにある。比企丘陵の東端にあたる丘陵地で吉見丘陵と呼ばれている。標高は30mから80mで、地質は凝灰岩で、吉見百穴や黒岩横穴墓群などの横穴墓群が広がり、丘陵のあちこちには枝状の谷が発達しし、古くから人々が生活したあとがうかがえる。
 
横見郡は明治29年(1896)には比企郡に編入されたのだが、編入先の比企郡には延喜式内社が、伊古乃速御玉比売神社の1社しかない。横見郡が律令国家にとって重要な土地であったのか(屯倉(天皇の直轄地)だったとする説もある)、あるいは横見郡の郡域は比企郡や大里郡にまで入り込んでいて、実際はもっと広かったのかもしれない。
 それにしても、横見郡の延喜式内社3社が、非常に狭い範囲に集中して存在しているのは不思議なことである。

        
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町黒岩346
              ・ご祭神 天穗日尊 誉田別尊
              ・社 格 旧村社 延喜式内社 武蔵国 横見郡鎮座
              ・例祭等 例祭 1014       

 伊波比神社は比企郡吉見町黒岩の丘陵地の斜面に鎮座する。木々に埋もれるようにひっそりとした佇まいが非常に印象的で、社殿はこじんまりしていて新しそうだが、鳥居から社殿までのこの風景、景観はなかなかの歴史を感じる。 
 
現在の社殿の西方「八幡台」と呼ばれているところが旧境内で、応永年間(1394年頃)息障院が現地に移転したとき伊波比神社もこの地に遷ったと言われている。
 困ったことに駐車場が存在しない。そこで近くに鎮座する横見神社の駐車場を借用して参拝を行った。
伊波比神社の両部鳥居の先には風情のある佇まいの社殿が斜面にある。
            
                              黒岩伊波比神社正面       
 和銅年間(708-715)に創建された式内社で、喜祥2年(849)従五位下、貞観元年(859)には盤井神として官社に列格する。現在の社殿の西方にある「八幡台」と呼ばれているところが旧境内であるといわれている。(吉見町文化財整理室又は吉見町黒岩配水場のあたりか)応永初年(1394)ごろに現在地に移転した。
            
                         伊波比神社 正面参道
 伊波比神社に関して『新編武蔵風土記稿 黒岩村条』には次のように記されている。 
〇黒岩村 岩井神社 
 或は岩井八幡とも稱す、村の鎮守にて村民の持、祭神譽田別天皇天太玉命、今の神體馬上に弓箭をとる像なり、按に【延喜式】神名帳に、武蔵國横見郡伊波比神社と載せ、又【續日本後紀】に嘉祥二年三月庚寅、奉授式武蔵國伊波比神從五位下とあり、是當社のことなるべし、土人等は式内の社なること云も傳へざれど、社地のさま老松生ひしげり、いかにも古き社と見えたり
            
                                  殿 
            
                  伊波比神社左側に静かに鎮座する摂社岩崎神社
 
 『神名帳考証』、『神社覈録』、『神祇志料』は式内・伊波比神社を「黒岩村岩崎大明神」としている。また江戸時代は「岩崎大明神」「岩井神社」「岩井八幡」と称していたという。思うに摂社である岩崎神社のことではないか。鎌倉時代、源範頼(頼朝の弟)の所領がここにあり、子孫が吉見氏として四代続いていたということからも十分頷ける話と思う。

 また
伊波比神社は拝殿の位置が東側を向いている。その丁度300m位正面に郷社・横見神社が鎮座している。まるで高台から平野部に鎮座している大社を見守っているような、それか監視しているのか、ともかくこの位置関係は不思議である。
            
                        伊波比神社拝殿より鳥居を撮影
              ゆったりとした静かな時の流れがこの社一帯には確かに存在した。

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