古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中新井神明神社

       
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町中新井892
              ・ご祭神 天照皇大神
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 71415日
 中新井神明神社は吉見町中新井地区北東部に鎮座し、旧中新井村鎮守。荒川右舷に位置する。大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進み、「ふれあい広場」交差点の次の十字路を左折し、300m程進むと右側の道路の角地に鎮座する。「中新井農業集落センター」が隣接しており、玉砂利が敷かれた駐車スペースにより、数台分駐車可能。
             
      社の規模は決して広大ではないが、こじんまりとして纏まっている印象。

中新井神明神社の創建年代等は不詳ながら、貞元年中(976-978)或は貞和元年(1345)の大地震によって石剣が出土、祠を建立し石剣を祀り、中新井村の鎮守としたと伝えられる。その後、大洪水により大洪水により土中に埋没してしまったものの、応永8年(1401)に再興したという。
            
                 皇上即位記念修廟之碑
 
社殿手前、左側に鎮座する境内社・頭殿大権現社  頭殿大権現社の奥に境内社・熊野社が鎮座  
   頭殿大権現社石碑の左側は三峰社か           手前の石祠は不明。
         
                                          拝 殿
 神明神社 吉見町中新井八五四(中新井字御造作)
『明細帳』並びに境内に建つ大正四年の「皇上即位記念修廟之碑」によれば、当社の由来を次のように記す。貞元年中(九七六-七八)の大地震の際、村の東南端にある林中の塚から石剣が出土したため、これを奉じて祠を建立し中新井村の鎮守とした。その後、大洪水によって土中に埋没したが、応永八年(一四〇一)に至り、この旧跡に天照皇大神と素盞嗚命を奉斎して再興を果たした。
 一方、氏子の間に伝わる口碑には次のようにある。貞和元年(一三四五)の大地震によって石剣が出土したことから、これを祠に祀り、中新井村の鎮守としたが、その後の大洪水により土中に埋没した。応永八年にこの地に天照大御神・吾我津比賣神・伊弉册尊の三柱を奉斎し、以来中新井村・御所村・今泉村の人々から崇敬されるようになり、江戸中期においては社殿の造営や祭事の再興が相次ぎ、天保二年(一八三一)には京都の八坂神社から八坂大神を勧請して配祀した。
 この二つの由来には、創祀年代と応永八年再興に奉斎した祭神について相違が見られるが、いずれが正史であるのかは明らかでない。
 明治四年に村社となり、同四十一年に字陣馬木の東天神社・熊野社・弁天社、字天神通の西天神社・頭殿社の五社の無格社を合祀した。
                                   
「埼玉の神社」より引用
 
          本 殿             社殿右側に鎮座する境内社・天神社
   

拍手[1回]


地頭方天神社

 嘗て日本の古代国家は、全国の土地と人民は天皇のものという「公地公民制」の原理で成り立っていた。この「公地公民」は、奈良時代の墾田永年私財法(743)・平安時代の荘園制度を通じて次第に骨抜きにされ、平安後期の武士の台頭により有名無実化する。
  1185年(文治元)鎌倉の頼朝は、逃亡した義経を探索するため、後白河法皇に迫って各国に「惣追捕使(そうついぶし)・地頭」を設置することを認可することに成功する。この制度が後の「守護・地頭」制度のベースとなっている。
 一般に地頭は、鎌倉幕府が平家方から没収した荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職として、武力に基づき軍事・警察・徴税権を担保しながら支配にあたるものとされている。そして、これらの地頭を国ごとに指揮する役職が、守護とされる軍事指揮官・行政官である。
 鎌倉幕府発足時の地頭の公認については当然ながら在地の荘園領主・国司からの反発があり、その設置範囲は平家没官領(平氏の旧所領)・謀叛人所領に限定されたが、その後承久の乱を経て、朝廷側の所領約3000箇所を没収し、その土地は西日本一帯であったため、新しい地頭として多くの御家人が西日本の没収領へ移住する。
                                  「Wikipedia」より引用 

        
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町地頭方526
              ・ご祭神 天照皇大神(推定)
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 夏祭 724
 地頭方天神社は大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進むのは、これまでアップした吉見町内の各社と同じであり、2㎞程進むと埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線と交わる交差点に到着する。周囲もほぼ田園地帯が広がり、時々住宅地が点在する長閑な農道を道なりに進むと道路は大きく右回りにカーブし、その回り終わった直後の最初の手押しボタンの交差点を左折すると右側に吉見町立北小学校が見える。その小学校を過ぎた最初の十字路を右折し、暫く進むと左側に地頭方天神社が鎮座する場所に到着する。
 
社務所等適当な駐車スペースはないため、北小学校の北側にある吉見町・北公民館に駐車してから参拝を行った。
        
                                     境内周辺の様子
 天神社の社殿は平成30年建立だそうで大変新しい。天神社が鎮座する「地頭方」。また一風変わった地域名だが、この地名由来としては、日本の中世における地頭側が支配した地が、現在にまでその名残として残されている。          
        
                                        鳥居正面
 鳥居の扁額は「天満宮」となっていて、ヤフーマップもグーグルマップでも「天満宮」と表示されている。
 
 地頭方天神社には鳥居が2基並列されていて、正面の鳥居が天神社、左側にあり、正面鳥居よりやや小ぶりの鳥居(写真左)は境内社頭殿神社(同右)のものと思われる。
 現在は地頭方天神社の中に遷座されているが、元々は五反田地区から移したのだという。
        
                                       拝 殿
 天神社 吉見町地頭方九九九(地頭方字矢島)
 地頭方は荒川右岸の低地に位置する。地名の由来は荘園の管理のために補任された地頭の存在に由来するという。
 『明細帳』によると、当社の創建は天明二年(一七八三)三月のことである。その後の事歴を境内の石造物から拾うと、まず寛文八年(一七九六)の「願主当村総氏子中・斎藤林右衛」による石灯籠の奉納、次いで翌九年の「当村惣氏子中」による石鳥居の建立、更に天保三年(一八三二)に再び「当村氏子中」による石灯籠の奉納があった。また嘉永七年(一八五四)には「地頭方邑氏子中・世話人脇屋平次郎(外三名)連経中」が手水鉢を寄進した。下って昭和九年の伊勢参宮記念碑には「吾々一同伊勢参宮記念トシテ土地ヲ買収シ表参道ヲ改築シ之ヲ奉献ス」と刻まれている。これらの奉納物は、当社が創建当初から村の鎮守として崇敬を集めてきたことを如実に物語る。
 『風土記稿』には「天神社 村の鎮守、法水寺の司る所なり」とある。これに見える法水寺は今泉村金剛院末の真言宗の寺院であるが、すでに廃寺となっている。
 明治四年六月に村社となった。その後、同二十六年十月に社殿が焼失したが、翌二十七年三月には再建を行った。
 なお、『明細帳』に大正元年に字西通の弁天社と字東通の稲荷社を当社に合祀した記事が載るが、二社共に今も旧地に鎮座している。
                                  「埼玉の神社」より引用
                       
                               境内社御嶽・八海・三笠山等

 鎌倉幕府の成立段階では、荘園領主・国司の権力は依然として強く、一方地頭に任命された武士は現地の事情と識字と行政に疎い東国出身者が多かった。このため、独力で遠隔地の荘園の経営に当たれる現地沙汰人を準備し、年貢運搬の準備、荘園領主側との交渉、年貢の決解・算用などの事務的能力を必要とした。また幕府が定めた法典御成敗式目には、荘園領主への年貢未納があった場合には地頭職を解任するといった条文もあり、地頭の力は単純に大きいものではなかったようだ。
 但し地頭の補任権・解任権は幕府だけが有しており、荘園領主・国司にはその権限がなく、地頭はその地位を背景に、勧農の実施などを通じて荘園・公領の管理支配権を徐々に奪っていった。具体的には、地頭は様々な理由をつけては荘園領主・国司への年貢を滞納・横領し、両者間に紛争が生じると、毎年一定額の年貢納入や荘園の管理を請け負う地頭請(じとううけ)を行うようになった。地頭請は、不作の年でも約束額を領主・国司へ納入するといったリスクを負ってはいたが、一定額の年貢の他は自由収入とすることができたため、地頭は無法な重税に因り多大な利益を搾取するケースが多かった。そして、この制度により地頭は荘園・公領を徐々に横領していった。

 それでも荘園領主・国司へ約束額を納入しない地頭がいたため、荘園・公領の領域自体を地頭と領主・国司で折半する中分(ちゅうぶん)が行われることもあった。中分には、両者の談合(和与)で決着する和与中分(わよちゅうぶん)や、荘園・公領に境界を引いて完全に分割する下地中分(したじちゅうぶん)があったという。
 下地中分は鎌倉幕府が仲介した日本人らしい方策の一つであり、荘園領主(領家)の土地の取り分に対する地頭の取り分が地頭方であるという。天神社が鎮座するこの「地頭方」という地名は嘗ての歴史的事実の名残りを示す貴重な歴史の証人ではなかろうか。
                                  

拍手[0回]


北下砂氷川神社及び丸貫熊野神社

北下砂氷川神社】
        
              
・所在地 埼玉県比企郡吉見町北下砂11
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 71415日
 大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進み、「ふれあい広場」の交差点を左折する。この交差点周辺は「吉見町 ふれあい広場」という広い競技場やイベントホールである「フレサ吉見」、道路の向かい側にはコンビニエンスもあり、分かりやすい。交差点を左折すると埼玉県道271号今泉東松山線に合流し、東行すると吉見運動公園に行きつくが、その手前で道路が上り坂になる手前の十字路を右折し、150m程進むと右側にこんもりとした社叢が見え、手前にある鳥居も目視できる。
 駐車スペースはない。周囲はほとんどが畑なので、進行車両等の邪魔にならないような場所に停めて急ぎ参拝を行った。
 
    参道正面(写真左)鳥居までの参道は、未舗装で、その先に鳥居がある(同右)
 北下砂氷川神社が鎮座する場所は竜渕寺という寺院の北側で、「新編武蔵風土記稿」ではこの社は竜渕寺持ちと記載されている。また地図で確認すると、鎮座地は、北下砂地区の最北部で、北側に位置する今泉地区とは社に接する東西に伸びた田畑の畔にて区切られているようだ。
        
                           鳥居の先の参道を撮影
 当社は、松山城落城後に当地に土着した関根兵部左衛門(慶長21597年没)が慶長2年(1597)に勧請、下砂村(現在の上下砂・古名・丸貫)の鎮守として崇敬されていたというが、見た目社も小規模で、境内周辺もこの時期でかなり草が生い茂げっていた為、やや寂れた印象はぬぐえない。
        
                                     拝 殿
 氷川神社 吉見町北下砂一一(北下砂字宮ノ町)
 北下砂の地は荒川と市野川の間の低地にある。もと下砂村の内であったが、正保から元禄年間(一六四四-一七〇四)に分村した。地名は北部にあることによって北の字を冠した。
 氏子の関根彰一郎家は、名主を務めた旧家で、松山城落城後に当地に土着したと伝えている。「天正庚寅松山合戦図」には、北曲輪の守備に関根将監・関根伝衛門の二人の名が見え、関根家とのかかわりをうかがわせる。
 また、関根家所蔵の「関根系記」によると、関根根元屋敷開祖兵部左衛門は慶長八年(一六〇三)に没し、金剛院に葬られた。
 一方、社伝によれば、当社は慶長二年(一五九七)に創建し、初めは下砂村(現在の上下砂・古名・丸貫の範囲)の鎮守として崇敬されていたが、分村後は北下砂村の鎮守になったという。当社の創建に関根兵部左衛門がかかわっていたことは想像するに難くない。
『風土記稿』北下砂村の項には「氷川社 村の鎮守なり、竜淵寺持」とある。これに見える竜淵寺は氷川山と号する真言宗の寺院で、開基はこちらも関根兵部左衛門であると伝えている。
 明治四年に村社となり、同四十五年には字大根町の無格社弁天社を合祀した。
                                  「埼玉の神社」より引用

 社殿は東向き。高台の上に鎮座している。盛り土か、古墳かは資料不足で不明。
 東側には標高22m程の微高地から下る位置に鎮座しており、鎮座地の標高は15mとやや低めだが、東側以外の周囲の田圃地域よりはいくらか高い場所にあると思われる。
        
                                北下砂氷川神社 遠景

北下砂氷川神社の創建に関わった「関根氏」に関しての資料を記載する。
・風土記稿北下砂村条
「龍淵寺の開基関根兵部左衛門は村民なり、慶長二年死す。村内に一族八人あり、祖先は松山の士なりと云ふ」との記載がある。
・龍淵寺
 暦応二年銘の板碑があり、
暦応年間(1338年~1342年)以前の関根氏開基であろうか。
関根氏系記
「関根根元屋敷開祖兵部左衛門・法名流光長秀信士・慶長八年七月十一日入墓所金剛院。二代目関根理右衛門」


丸貫熊野神社】
               
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町丸貫339
              ・ご祭神 熊野権現(推定)
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 丸貫熊野神社は北下砂氷川神社からの道路を南下して700m程進むと、右側に地域の火の見櫓や丸貫集会所と共に社の鳥居や広い境内が見える。旧丸貫村(吉見町丸貫)鎮守。社殿は北下砂氷川神社同様に東側の荒川土手を向いていて、荒川を祈りの対象としているような位置関係となっているようにも見える。
広大な境内で、駐車スペースは十分に確保されていて、集会所近郊に車を停めてから参拝を行う。

            
                丸貫熊野神社 社号標柱
 
         一の鳥居                二の鳥居
        
                                  参道先の境内を望む。
 鎮座地は盛り土によってか、自然堤防的なものによるものか、正面社殿及び右側の境内社・荒神社が鎮座するL字状の場所のみ高台となっている。
 丸貫熊野神社は広い境内であるのも関わらず、手入れが行き届いている。境内にはゲートボール場のような広場もあり、地域住民の方々がこの社をずっと大切に守ってきたことが分かる。
 
  社殿手前で右側に鎮座する境内社・荒神社(写真左)と、その左側にある石祠(同右)
        
                     拝 殿
熊野神社 吉見町丸貫三三九(丸貫字十二所)
 当社は、紀伊国に鎮座する熊野十二所権現(熊野大社)を勧請したことに始まると伝えられる。このため、鎮座地もこれにちなみ十二所という小名で呼ばれている。当地一帯は、「秋葉家文書」によると、元亀年間(一五七〇-七三)に秋葉新左衛門元矩により開発された。秋葉新左衛門元矩は、初め古河公方足利晴氏に仕えたが、弘治二年(一五五六)に晴氏が北条氏政に敗れたのを機に、北条氏の幕について当地を領した。当社は、戦国末期から江戸初期にかけて村の開発が秋葉家を中心に進められる中で、勧請された。
 別当は当社の南側にあった真言宗の雨竜山西蓮寺である。現在、寛永年間(一六二四-四四)をはじめとする同寺法印墓石が残る。西蓮寺は、当社勧請まもなく建立され、今泉村の金剛寺の末寺に加わった。
 江戸期の神社運営は、秋葉新左衛門元矩の裔が代々丸貫村の名主を務めたことから、この家を筆頭に村の重立の手により行われた。祭祀法楽は、西蓮寺住僧が行った。
 享和二年(一八〇二)の「熊埜三社大権現」社号額がある。揮毫は当地で生まれ、比企郡滑川村興長寺で得度し、加賀国大乗寺二十九世となり、名僧といわれた愚禅和尚である。
 明治期に入ると、別当西蓮寺は廃され、現在、往時の名残として辰堂と呼ばれる観音堂だけが残る。
                                  
「埼玉の神社」より引用

○愚禅和尚
比企郡羽尾村の須沢家の養子になり、近くの興長禅寺の癡天愚(ちてんぐ)和尚により剃髪後、延享3年(1746)長州功山寺に赴き修行。宝暦11年(1761)武州忍領龍光禅廓会首職、翌12年(1762)には村に戻り興長寺20世住職となる。寛政元年(1789)大乗寺43世貫主に推戴された後、文化5年(1808)熊谷宿原島の福王寺を開基し、「観音構式」の校訂や「仏道事引草序」の著述を行う。板石塔婆や石塔、山門碑など各地に多くの筆跡を残している。また、雨や水にかかわる数々の逸話が残されている。日照りが続き「雨乞い」の祈祷を頼みに来る者が多く、和尚が祈祷をするとたちまちに豪雨が降ってくるといわれる程霊験あらたかで、頼みに行く者は帰りに降られてもよいように雨具を用意するようになったといわれていた。また、「龍」の字を得意とし、この軸を掛けるとたちまち雨を呼ぶということから「雨乞いの龍」といわれ「火伏せのお守り」として掲げていた家もあり、現在も大切に残されている。文政123197歳で没す。
                  「熊谷デジタルミュージアム・熊谷の偉人の部屋」より引用 


 
 丸貫熊野神社境内にある観音堂(写真左)で、別名辰堂とも呼ばれている。元は熊野神社別当の真言宗雨竜山西連寺の堂であったが、明治維新の廃仏毀釈により廃寺になり堂のみが残ったと言う。観音堂の隣には立派な法印墓石群(同右)が並ぶ。

 丸貫熊野神社は、古河公方足利晴氏に仕えていた秋葉新左衛門元矩が、当地を元亀年間(1570-73)に開発、熊野十二所権現(熊野大社)を勧請したという。調べてみると「秋葉氏」は同じ「あきば」でも「秋庭」であったようだ。風土記稿丸貫村条には稲荷社に関する記述があり、そこには以下の事が記されている。
風土記稿丸貫村条
 「稲荷社、名主広助が持。広助・秋庭氏なり、故に秋庭稲荷と唱ふ」
他にも
秋庭文書
 「この村は往古ただ下砂村とのみ号せり。三ヶ村の郷長秋庭新左衛門元矩の草創なり、元矩は古河晴氏に仕へ則ち弘治二年古河破るゞに及び、北条氏政の幕下につき、田中左京亮縁者なるにより武州横見郷を領地し引退く]
秋庭家墓地
 「秋庭仲祖・慧勝院遠行善久居士・藤姓備中守元重嫡・俗名秋庭新左衛門尉元矩・寛永九年四月十八日、覚性院元寿妙政大姉・田中左京亮女・元和七年八月十七日」
        
                   
丸貫熊野神社境内南側にあるお地蔵様等も仲良く並ぶ。
       

拍手[1回]


中曽根八幡神社

 吉見町中曽根地区は、上砂地区の東側で、荒川右岸の標高1718mの沖積低地に位置する。古くは吉見郡に属し、「日本古語事典」によれば、ソネ(曽根)は、ス(石)ネ(根)の転呼。スはシ(石)の原語、ネは峯、畝などのように丘堆状の地形にも用いられる。つまり、石ころの多い丘堆状の土地との意味として説明していて、「熊谷市史」にも同様に、古い言葉で「埆」という字をあてている。川によってできた砂礫の多いやせた荒地として紹介している。
 
一方、松尾俊郎氏は曽根という地名は、低湿地帯などによくある自然堤防のような小高い所を指すとしている。県内に曽根地名は少なくない。加えて「日本地名学」では、それらはいずれも元荒川、古利根川などの河川の沿岸に多く見られ、「ソネ」地名の発生時代は15001700年と、地名由来における歴史の深さを物語っている。 
        
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町中曽根384 
             ・ご祭神 誉田別尊
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 旧暦915  
 中曽根八幡神社は、松崎八幡神社上砂氷川神社と同様に、大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進む。大里比企広域農道と埼玉県道307号福田鴻巣線、同66号行田東松山線が交差する「中曽根」交差点から1.5㎞程吉見町方向に進むと、左側にこんもりとした社叢が見える。残念ながら「みどりの道」から直接中曽根八幡神社正面に通じる道はなく、一旦通り過ぎてから左回りに進むしかないが、目印となる社叢は良く見えるので、間違えることはない。
 社の正面鳥居付近には、駐車スペースも確保されているので、その周辺に車を停めて、参拝を行った。
                 
                             中曽根八幡神社 社号標柱
        
                                     鳥居正面
 このアングルからだと鳥居が3基見える。正面鳥居の奥にあるのが八幡神社の二の鳥居で、右側にある鳥居は境内社のものという。実はもう一基鳥居が右側にあるのだが、それは3基ある鳥居に対して直角に位置し、その奥には天満宮の石碑が立っている。
 
  境内社鳥居の横で、直角に設置されている          二の鳥居                             
        天満宮及び鳥居
        
                     拝 殿
            水害対策であろう、基礎部分には盛り土がされ、川石で補強されている。
 八幡神社 吉見町中曾根二八五-一(中曾根字三角)
 現在の吉見町の全域にほぼ相当する旧横見郡内で、朱印地を徳川将軍家から受けている社寺は、『風土記稿』によれば、慶安元年(一六四八)に家光から二〇石を拝領した御所の息障院をはじめ八か所ある。これらのうち七か所は寺院や仏堂で、神社としては、当社が唯一慶安二年に八石を拝領しているに過ぎない。横見郡内には、当社のほかにも、式内社である横見神社の後身と伝える御所の飯玉氷川明神社や、同じく伊波比神社の後身である黒岩の岩井神社、高負比古神社である田甲の高負比古根神社など、古い歴史を持つ神社があるにもかかわらず、朱印地を拝領していないことから、当時、当社が強い勢力を持っていたことが推測される。
 一方、口碑によれば、当社は、氏子の長島家の先祖が嵐山町鎌形からこの地に移って来た際に、鎌形八幡神社の分霊を奉斎したものといわれ、長島家の墓碑にも延宝己未年(一六七九)に当社を祀った旨が刻まれている。この、「延宝己未年」を当社の創建の年とすると、八石の朱印地を拝領した時には、神社がなかったことになり、話が合わない。また『風土記稿』には、当社に式内社の横見神社の後身であるとの伝えがある旨が記されていることから、かなり古くから当社が存在したことがうかがわれる。したがって「延宝己未年」は、当社の再建か、鎌形八幡神社の分霊を新たに祀った年ではないかと思われる。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
   社殿手前左側に並んでいる石碑群     社殿右側に接するように鎮座する境内社
                          左から稲荷神社・諏訪神社 
        
                          日当たり良く、広々とした境内。
 嘗てこの中曽根地区から上砂地区にかけて、古い河川の流路跡が見つかっており、江戸時代に実施された「荒川の西遷」の土木事業前の、元荒川が旧入間川と繋がる以前に存在していた乱流状況が少しずつ判明してきた。
 荒川左岸では、前砂地区から明用を経て三丁免小谷へとS字カーブを描くように蛇行し、最終的には荒川に流入する古い蛇行河跡があることが分かったという。その蛇行河跡は自然堤防も伴ったのだろうが、不思議と現在も道路として残っている。一方荒川右岸では明用三島神社東側から存在した流路がそのまま中曽根地域に進んだかはしっかりと判明はしていないが、中曽根八幡神社の東側に流れていた蛇行河川が、上砂地区に入ると、流路が南方向から反転して、埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線上を北上するような経路ではなかったかと筆者は推測する。

 流路に関しては、細かい所は議論の余地はあるかもしれないが、この流路時期はまさに「さきたま古墳群」の形成・発展時期でもある56世紀ではなかろうか。中曽根地区の北側で、荒川左岸には明用三島神社古墳がある。径55mの古墳埋葬者は、大河川が結節する地点を監視できる場所に本拠地を構築し、川関所を兼ねた津を経営する権力・能力によって力を蓄えた首長の墓であった可能性が高い。河川管理も勿論できたであろうが、その時期の流路も絶妙なバランスで、最高な位置状況だったのだろう。そしてさきたま古墳群の主とも対等な立場で交渉等行っていたからこそ、かの地にこのような古墳が作られたものと考える。                    

拍手[1回]


上砂氷川神社

        
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町上砂24
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 上砂氷川神社へのルートは途中まで松崎八幡神社と同じで、松崎八幡神社からほぼ北方300mくらいしか離れていない。大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進み、2㎞程進むと埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線と交わる交差点に到達するが、そこを左折し、100m進行するとほぼ目の前に上砂氷川神社の社叢が見えてくる。
 残念ながら地元の集会所や社務所などもないため、周辺に駐車スペースはなく、県道脇一般道の適当な路肩に停めて、急ぎ参拝を行った。
        
                                       鳥居正面
        鳥居は県道沿いにある為、周囲の交通状態を確認し撮影を行う。
       
                       鳥居横に聳え立つ巨木
       紙垂等はなかったが、一番目立つ木であるので敬意をこめて撮影。

 決して大きな社ではないが、こじんまりと纏まっている印象。手入れも行き届いていて、日々の氏子様方の思い入れに感謝の念を感じられずにはいられない。
 一の鳥居を越えるとすぐに二の鳥居があり、その鳥居には「氷川神社」と彫られた社号額がある。
        
                                 拝  殿
        
                      拝殿手前にある御社殿造営顕彰碑
 御社殿造営顕彰碑
 當社の御創建は不詳であるが寶永二年十月宗源宣旨により氷川大明神の神号を授かり翌三年御社殿が造営される等往古より郷人が厚き崇敬を集めていたことが窺える。昭和五十年には御本殿覆殿の改築をなす等その尊厳護持に万全を期して参りましたが近年老朽化が進み御造営やむなしと思われし折東京都北区滝野川鎮座八幡神社宮司青井哲水氏より堂地御在住の氏子にして當地上砂ご出身の山本うめ氏(旧姓稲原)御社殿造営費御奉納の御趣旨を賜り早速に御造営委員会を発足して御造営に着手今般荘厳なる御社殿が竣工なり氏子一同感激の極みであり今後更なる正心誠意を尽くし祭祀の厳修と御神徳の宣揚を約し両氏の赤誠の御功績を末長く顕彰するものである。平成十八年十二月吉日
                                     
境内石碑より引用

 氷川神社 吉見町上砂一七七(上砂字窪町)
 比企郡の東部に当たる荒川右岸の低地には、氷川神社が南北に帯状に分布する。当社はこのうちの一社であり、大字上砂の鎮守として祀られている。
 『風土記稿』上砂村の項に「氷川社二宇 村の鎮守なり、観音寺持」とあるように、元来、上砂には氷川社が二社あり、それぞれ本田・新田の鎮守として奉斎されていた。本田の氷川社は稲村家の氏神として祀られ、後に本田の鎮守となったと伝えられている。稲村家の初代新左衛門は明暦年間(一六五五-五八)に没していることから、それ以前に創建したものと考えられる。本田・新田の関係からみて、その後の新田開発に伴い、この本田の氷川社を新田に分祀したものであろう。ちなみに、新田の検地は寛文十二年(一六七二)に行われた。
 宝永二年(一七〇五)には、二社共に神祇管領から大明神号を拝受した。これにより名実共に二社が村の鎮守としての地位を確立したことは想像するに難くない。事実、明和四年(一七六七)の「上砂村青蓮山観音寺起立書」には「正一位氷川大明神 二社惣鎮守免田有之」と記している。
 明治初年の社格制定に際して、本田の氷川神社はもともと稲村家の氏神であったことを理由に旧に復し、新田の氷川神社が村社に列した。これが、現在の当社である。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
          社殿の左右に鎮座する境内社(写真左・右)詳細不明。

 上砂氷川神社が鎮座する「上砂」という地名に関して、上砂の「砂」は文字通り単なる砂で砂地の意味で、地形的に見ても、荒川沿岸の河川から生み出される大量の砂地であるのでこの名が生まれたのであろうと当初は簡単に考えた。
 但し「新編武蔵風土記稿・上砂村条」において「小田原役帳に松山衆知行役狩野介卅七貫文吉見郡上須奈(すな)乙卯儉見辻と載せたり」との記述があり、江戸時代までは「砂」ではなく「須奈」という何気に雅な名称であった。
        

 大里郡神社誌において「相上村吉見神社の旧神職は、祖祭豊木入日子命孫彦狭島王の子、御諸別王の末胤中臣磐麿なり。子孫後葉神主禰宜として奉仕せりと伝う、今尚存す。和銅六年五月禰宜従五位下中臣諸次撰上」とあり、その後寛永二年神主須長出羽守良重署名に「中臣磐渕卿勅使として下向あり、其子磐丸卿を止めて神事を執行せしむ、是家神主の先祖なり、後に神と崇む、今の東宮なり。其後数代を経て、中臣の春友卿と云人あり、京に上り、時の関白藤原武智麿公の智に成り藤原姓を賜はる。其後数代を過て藤原房顕卿と云しは、亀卜の道を学びて上洛し、卜部の職に任ぜらる、二男を出家せしめ華蔵院開基なり、当家代々の菩提寺となさる。それより遥の世を経て、須永上野大掾藤原長春と云人あり(中略)。風土記稿相上村条に「神明社の神主須永大内蔵」。中曽根村大日堂明和六年供養塔に相上村次長太郎兵衛。吉見神社寛政三年午頭天王碑に須長豊次郎・須長房吉、嘉永二年御神燈に須長忠右衛門、明治二十一年水神楽碑に須長弁三・須長藤吉・須長房吉。白川家門人帳に慶応四年相上村吉見大神宮祝須永筑前日奉連宣興。日奉連は、姓氏録・左京神別に「日奉連。高魂命の後也」と見える。

 つまり相上村吉見神社の神職「須長・須永」氏が存在していて、この須永は嘗て「須中・須長・砂永・砂賀」と表記されることもあり、上砂村の別名である「砂・須奈」とどことなく類似しているようにも見える。
 しかしこれ以上の考察は、却って筆者の自己都合の推論に陥る恐れもあり、今回は一応ここまでに留め、今後の宿題としたい。

拍手[1回]