古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

南吉見羽黒神社

 武州松山城は、荒川の支流・周囲は市野川が形成した広大な低湿地帯に囲まれていて、比企丘陵の西端に築かれており、ここから東部および南部一帯は関東平野となって一面の低地が続くところである。城下を流れる市野川は城の北側から西側を廻りこみ丘陵の裾を削り取っているため、標高59mの丘陵の裾に位置する松山城跡の北側と西側には断崖絶壁を形成する部分が見られる。三方を市野川によって囲まれ、「流川の城」と呼ばれる松山城は、戦国期に幾度もの攻防戦がおこなわれており、北武蔵地方で屈指の平山城であった。
 松山城の縄張りは、『天正庚寅松山合戦図』によって最終形の姿を知ることができる。これによると、城域は龍性院(吉見町北吉見)の南側の谷を北の境とし、大沼のある谷を東の境、羽黒神社(吉見町南吉見)の北裏の谷を南東の境とする東西700m、南北550mほどの大規模な城郭であったと考えられる。市野川に突き出た部分から笹曲輪、本丸(本曲輪)、二の丸(二ノ曲輪)、春日丸、三の丸(三ノ曲輪)、広沢曲輪と南西から北東に向かって連郭式に配置され、その両側に太鼓曲輪、兵糧倉(兵糧曲輪)、惣曲輪など、大小さまざまな曲輪や平場が存在する。一方、松山城跡の西方は外秩父山系の丘陵地帯であり、松山城跡とともに戦国期に築城された青鳥城跡・杉山城跡・小倉城跡・中城跡・腰越城跡・安戸城跡などの多くの城館跡が存在する。

 松山城の東側境に鎮座する南吉見羽黒神社は、松山城主難波田弾正入道善吟が松山城三の丸に天文年間(1532-1555)創建、天文15年(1546)河越夜戦の戦闘で敗れて難波田氏は扇谷上杉氏と共に滅亡したという。当社は慶長6年(1601)の廃城に至るまで城内に鎮座していたものの、その後村民により本丸の東方に当たる当地に鎮座、江戸期には流川・根小屋・柚澤・土丸・新宿の鎮守として祀られていた。明治4年村社に列格、大正元年に諸口琴平社・天神社・八幡社の無格社三社を合祀している。
               
            
・所在地 埼玉県比企郡吉見町南吉見257
            
・ご祭神 羽黒権現(推定)
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 不明 

 南吉見羽黒神社は国道407号線を東松山市街地方向に南下し、「百穴前」交差点を左折、道路は信号のあるT字路に達するため、そこを右折する。市野川に架かる市野川橋を越えると正面やや左側には「武州松山城」址の小高い山が目の前に広がり、山裾には「岩室観音堂」も見える。お堂の西側には「吉見百穴」もあり、歴史の息吹を感じさせてくれる場所でもある。この地域から南側には八王子街道や鎌倉に続く道があり、文字通り「交通の要衝の地」ともいえる。
               
                               道路からやや奥に見える鳥居

 市野川を越えて道なりに真っ直ぐ進む。松山城址先の丘上には「武蔵丘短期大学」が並び、そこを暫く進むと、左側に社の旗を掲げる1対のポールが見え、その下には鳥居も立っている。但し道路沿いで民家が立ち並ぶ中で、舗装されていない参道の奥に鳥居がポツンと立っていて、良く確認しないとそのまま通り過ぎてしまうような場所である。車のナビも周辺地域まで誘導してくれるのみ。周辺は交通量も多い場所でもあり、学校も隣接しているので、周囲の道路事情や、歩行者にも気を付けながら何とか到着できた。
               
                    一般道路から参道は伸びており、その先に鳥居がある。
           
               鳥居の手前右側に聳え立つご神木
               
                  南吉見羽黒神社鳥居

 交通量の多い道路から僅かしか離れていないにも関わらず、鳥居を越えて石段に入ると雰囲気が 急に変わる。なんとも言えない独特の雰囲気のある社。

〇新編武蔵風土記稿流川村条
 流川村は江戸より行程十四里、元来此所は松山城附にて、落城の後十一年を経て草創せり、始は比企郡に属して松山庄なりしが、正保四年村を二つに分ち、北の方を当郡に属し、南の方は比企郡たる事元の如しと云傳へり、されど既に久米田村の條に紀せし如く、当村正保改の頃までは、久米田村の内にして(中略)四隣東は久米田村に隣り南は市ノ川を隔て比企郡滝川・柏崎の二村に界ひ、西は同郡松山町の新川字新宿に續き、是も市ノ川を界とす、北は土丸村に接す、東西凡九町、南北六町許、水利不便にして早損がちの地なれば、村の中央に溜井を設て便とす、是当村及土村・根小屋・柚澤四ヶ村の大溜井なり
・市ノ川
 村の南西を流る、幅八間許、此川に口間許の石橋を架す
・羽黒社
 北の方なる山上にあり、當村及根小屋・柚澤・土丸の鎮守なり、社地に古松ありて、頗る佳景の地なり
・別當妙楽寺
 新義眞言宗、御所村息障院の末、松榮山と號す、本尊薬師を安ず
・首塚。社の傍にあり、松山落城の時、死者の遺骸を埋し塚と云
・諸口明神社
 金毘羅権現を相殿とす古兩頭の蛇を祀し故、諸口明神の號ありと云、これも長源寺の持
                               「新編武蔵風土記稿」より引用

 
  鳥居を過ぎると長い石段のスタートとなる。    石段の間には踊り場が何カ所かあり、最初
                        の踊り場で右側には石祠等が祀られている。
 
         筆者にとって直線的な石段は那須温泉神社境内社・愛宕神社以来である。
 
 南吉見羽黒神社が鎮座する地は標高47m程の丘である。鳥居付近が17mの標高であるので、実際は30m程しか標高差はないのだが、社殿まで一直線の石段が続き、200段程。勾配もかなりのもので、意外ときつく、途中踊り場で休憩をとりつつ、やっと社殿まで到着できた。
               
                                       拝 殿

 羽黒神社 吉見町南吉見五七
 大字北吉見にあった中世の山城である松山城は、県内の城館跡の中では最も多数の記録が残っており、幾多の合戦の舞台として登場してきた。
 当社は天文年間(一五三二-五五)に難波田弾正入道善吟によってこの松山城三の丸に祀られたことに始まると伝える。難波田弾正は扇谷上杉朝定に仕えた武将で、松山城を居城とし、その付近一帯を領した。天文六年(一五三七)に河越城主であった朝定が北条氏康に攻められ、松山城に逃れた時、難波田氏は朝定を守って戦った。しかし、河越城の奪回を目指した天文十五年(一五四六)の河越夜戦の戦闘で敗れ、難波田氏は主家の扇谷上杉氏と共に滅亡した。
その後も当社は慶長六年(一六〇一)の廃城に至るまで城内にあったが、その後村民により本丸の東方の現在地に移されたという。
 宝永六年(一七〇九)の棟札には「奉造営羽黒山大権現鎮座□五箇村氏子繁昌諸願成就所・別当明楽寺秀英」「武州横見郡下吉見領之内流川村・根小谷村・湯沢村・土丸村・新宿村」とあり、当時は五か村の総鎮守であったことがわかる。なお、これに見える別当明楽寺は真言宗の寺院で、当社参道入口の左手に堂を構えていた。
 明治四年に村社となり、同三十九年に本殿・拝殿を改築し、大正元年に諸口琴平社・天神社・八幡社の無格社三社を合祀した。
                                  「埼玉の神社」より引用
   
      拝殿に掲げてある扁額          社殿の左側に鎮座する境内社
                            三峯神社であろうか

 ところで南吉見羽黒神社は松山城主難波田弾正入道善吟が武州松山城三の丸に天文年間(1532-1555)創建したという。この難波田 隼人正(なんばだ はやとのしょう 生年不詳 -〜没年・天文6年(1537年))は、戦国時代扇谷上杉朝定に仕えた武将で、松山城を居城とし、その付近一帯を領した。
 難波田氏は平安時代の武士団「武蔵七党」のひとつ、村山党に属する金子小太郎高範を祖とし、鎌倉時代に難波田の地を与えられたことから難波田氏を名乗った。
 南北朝時代、足利尊氏と弟の直義が争った「観応の擾乱」では、難波田氏は直義側につき、難波田九郎三郎は観応21351)年1219日、羽祢蔵(志木市)で高麗経澄と戦い討ち取られたことが「高麗経澄軍柱状」に見える。
               
               帰路も下りの石段が待ち受ける。
          登りの時とは違う筋肉を使用するので、意外とつらい。

 戦国期には難波田氏は河越城を居城とする扇谷上杉氏に仕え、小田原城を本拠とする北条氏の武蔵侵攻に対峙した。天文61537)年427日、扇谷上杉朝興は河越城で死去、朝定が跡を継いだ。上杉朝定は難波田広宗に命じて深大寺城を整備するが、北条氏綱は直接河越城に進撃、三ツ木で朝定の叔父、朝成を破り、上杉軍は総崩れとなり、河越城を捨てて松山城に退却した。氏綱は松山城まで追撃戦を行い、平岩隼人正重吉が上杉朝成を生け捕るなどの戦功を挙げたが、城代を務めた難波田弾正憲重(善銀)らの奮戦で落城には至らなかった。
                  
 その後『快元僧都記』天文6722日条に「難波田弾正入道善銀甥同名隼人佐広儀并子息三人打死、都鄙惜之」と記述がされている。これは同年に上杉朝定が北条氏綱によって河越城を奪われた際に善銀(正直・憲重)の甥である隼人正および3人の息子が戦死したという
        
その9年後後河越城奪回を目論む扇谷上杉朝定は、山内上杉憲政、古河公方足利晴氏らと結んで、天文十四(1545)年、北条綱成の守る河越城を八万とも言われる大軍で包囲する。世に名高い「川越城の夜戦」である。翌天文151546)年420日の北条氏康の奇襲戦で敗北、扇谷上杉朝定は討ち死にし扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉憲政は上州平井城に落ち延びた(河越夜戦)。難波田弾正憲重も奮戦するが、古井戸に落ちて凄惨な討ち死にを遂げたという。

 難波田弾正憲重は扇谷上杉家中きっての文武兼ね備えた勇将で、扇谷上杉氏の柱石とも言える存在であった。北条氏綱に河越城を追われて追い詰められた若き主君、扇谷上杉朝定を守って闘った松山城攻防での「風流歌合戦」など、いかにも坂東武者らしいエピソードが残る。その難波田弾正も、扇谷上杉氏が滅亡し、関東管領上杉憲政が関東を追われるきっかけになった運命の「河越夜戦」で、古井戸に落ちて討ち死にするという、なんとも痛ましい最期を遂げている。滅びゆく関東の旧勢力に殉じて散っていった難波田弾正は「誇り高き最後の坂東武者」の一人だったかも知れない。
               
                          鳥居の先には市野川の土手が広がる。

 山岳修験の神である「羽黒」を冠しているが、地主神として本来は「別の神様」を祀る神社だったかもしれない。確認は取れていないが、吉見の昔ばなしでは、お羽黒さまは大麦の野毛(穂)で目を突いて、片目になってしまったので、周辺地区では大麦は禁忌作物とされているという。
 なかなか複雑な過程を経て、今の地に鎮座している社ではあるようだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「吉見の昔はなし⑥」「
Wikipedia」等
 
 

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長谷八幡神社

 吉見町長谷地域は町の西端部に位置し、比企丘陵地に属する。この丘陵地一帯は県立比企丘陵自然公園に指定されており、吉見百穴や八丁湖周辺に散在する黒岩横穴墓群等、古墳時代を代表する貴重な史跡が近隣に存在する。因みに「長谷」と書いて「ながやつ」と読む。
 長谷八幡神社は、下野守藤原秀郷が天慶年間(938-947)に応神天皇を祀って創建したと伝えられる。江戸期には村の鎮守として祀られ、八幡山と呼ばれる小丘に鎮座していたが、昭和40年代に関越自動車道建設のための採土により、境内地が崩壊してしまったため、昭和47年当地へ遷座したという。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町長谷11852
             
・ご祭神 誉田別尊
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 415日、例祭 724日、秋祭り 1015
                  *
かましめ頒布 1216

 長谷八幡神社は吉見町西部に位置し、近隣には東松山市東平地区の熊野神社が鎮座する。途中までの経路は東平熊野神社を参照。国道407号線を東松山市街地方向に進み、「東平」交差点を左折する。埼玉県道66号行田東松山線に合流後400m程先のコンビニエンスを越えたすぐ先の信号を右折し、道なりに直進する。暫く進んでいくと右側に「長谷工業団地」の工場が立ち並び、信号を過ぎたその先には「八幡公園」があり、その隣並びに長谷八幡神社が鎮座している。
 八幡公園には東側に駐車場があり、そこの駐車スペースを利用してから参拝を開始した。

かましめ(かまじめともいう)とは古来は竈〆と書き、年明けに新しい竃(かまど)の神様を迎えるために竃をしめ、一年働いた竃の神様を休ませるために行なっていたそうだが、現在は新年を迎えるためにお札や神棚周りを来年度のものに取り替える行事の事を指す。
 そこから、正月の歳神様(としがみさま)をお祀りするための神具一式を「かましめ」と呼ぶようになったという。
               
                                  長谷八幡神社正面

 社は道路に面しているが、道路から奥に入った場所に鎮座しており、鳥居手前左側には集会所もあって、そこには駐車スペースも若干確保されていた。
 但し参拝時間は丁度正午ごろで、鳥居に対して逆光状態となってしまった。
 
  鳥居を斜めから撮影。逆光状態は変わらず。   鳥居から参道を撮影。社殿は横を向いている。
        
 社殿は珍しく西向きである。境内は南北方向が長いため、鳥居を越えてから参道を進み、突き当たり付近を左方向直角に曲がると二の鳥居、社殿に到る。
               
                                鳥居から拝殿を望む。
               
                                 拝 殿

 八幡神社  吉見町長谷一二一二
 当社の創祀は古く、天慶年間(九三八-四七)に下野守藤原秀郷が村民らと共に応神天皇を祀って一社を建立したことに始まると伝えられている。
『風土記稿』には「八幡社 村の鎮守なり、長永寺の持、末社 稲荷社 諏訪社 浅間社」と載せている。これに見える長永寺は岩田山密教院と号する真言宗の寺院であったが、明治初年に廃寺となった。
 鎮座地は元来、八幡山と呼ぶ小高い山(標高七二メートル)の頂であった。参道は「男坂」と「女坂」があり、「男坂」が一一一段の石段を一直線に登り詰めるのに対し、「女坂」は緩やかな坂を登って行くものであった。
 しかし、昭和四十年代に入ると、関越自動車道久喜インター建設のための採土がこの山の周囲で行われたことから、参道の各所に崩れが生じ、参詣に支障を来すようになった。このために社殿等の移転を余儀なくされ、山麓に新たな社地を選定し、昭和四十七年四月十五日に遷座祭を執り行った。山頂にあった社殿をはじめ石造物などもすべて新たな社地にそのまま移し、更に参道の一一一段の石段は、神徳の更なる興隆を願って社殿の基礎に使用した。
 なお、かつての鎮座地である八幡山は既に跡形もなくなっている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
鳥居の手前左側に鎮座している境内社、詳細不明。 社殿右側端にある御嶽山座王権現の石祠
 
   社殿右側にある石祠、石神社か?      石祠の右側に並ぶ清瀧辨財天、御神
                              七鬼神の石祠
               
      社殿左側には多くの石祠、石碑、そして奥には不動明王像が無造作に並ぶ。
               
                          社殿から一の鳥居方向を撮影。

 長谷八幡神社は、下野守藤原秀郷が天慶年間(938-947)に応神天皇を祀って創建したと伝えられ、由緒ある古社である。創建当時は「八幡山」と呼ばれる小丘に鎮座していたが、昭和40年代の自動車道開発の為、当地に移されたがため、社本来の姿を見ることができないのは非常に残念なことだ。
 現在の社殿も新たに改築され、八幡山」と呼ばれる小丘をイメージした高台上に鎮座させ、境内社・石祠・石碑等はその当時の物を移築したのであろう。当然境内も綺麗に整備したはずである。境内も太陽の光を燦燦と浴び、まさに「明るい社」といえ、鳥居・社号標柱等を立てることにより、社としての体裁は整えられた。
 ただ筆者が思うに、一千年以上の歴史のある社としての風格、重みは歴然としているようにも感じられた。そして在りし日の社は如何なるお姿だったのだろうかと参拝途中ふと脳裏をよぎったことも事実だ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等
        


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北吉見八坂神社


           
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町北吉見1640
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 吉見町大字北吉見は、吉見丘陵の南西部に位置する地域で、八丁湖公園や吉見観音(岩殿山安楽寺)が近隣にあり、どちらかといえば、上記の公園やお寺から東松山市街地方向に進む際の通過地点として位の認識しかなかった地域である。
 北吉見八坂神社は、黒岩伊波比神社から一旦南下して埼玉県道271号今泉東松山線に合流後、東松山市方向に西行し1.8㎞程進むと、信号機のあるT字路の右側丘陵地端部に社の鳥居が見えてくる。
 規模は小さい社でもあり、隣接している社務所や駐車スペースはないため、社の境内の一角に停め、急ぎ参拝を行う。
               
                  北吉見八坂神社正面
                      県道沿いから仰ぎ見るような仰角で撮影。
 
 丘陵地の端部ゆえにやや勾配のある石段を上ると神明系の鳥居があり(写真左)、その先に拝殿が見える(同右)。社殿は最近改築されている。なんでも数年前に不審火による火災があり、木造平屋の社殿を全焼したらしい。
               
                                     拝 殿
 八坂神社 吉見町北吉見一六四〇
 大字北吉見は、吉見丘陵の南西部に位置し、地内に古墳後期の吉見百穴横穴墓群(国史跡)、新田義貞が築いたと伝える松山城跡(県史跡)があることで知られている。
 当社の鎮座地は、氏子集落から離れた北外れにあり、昔は大変に寂しい所であった。また、裏手の丘陵は天王山の地名で呼ばれている。
『明細帳』に「創立ハ長保年中(九九九-一〇〇四)ナリト云伝フ」とあるが、『郡村誌』には「長保三年(一〇〇一)に創建し、元民有地たりしを、延宝六年(一六七八)社地となす」と載せる。
 一方、口碑によれば、天王様は元は、大沢重夫家の屋敷の北側に祀られていたという。これは、本来当社が大沢家の氏神であったことを物語るもので、『郡村誌』に見える社地の変遷の記事は、同家の氏神から村の鎮守となった経緯を示すものと考えられる。ちなみに、同家は氏子集落の中央に居を構え、当主で一五代を数える旧家である。
 明治四年に村社となり、同四十年に字九ノ地の庚申社、字八ノ耕地の稲荷社、字五ノ耕地の愛宕社・春日社の無格社五社を合祀した。昭和六年の社殿再建に際し、参詣の便を図り集落の中央に遷座しようとの声も上がったが、実行に移されず現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
               
                           境内に鎮座する境内社
               
                                    境内の様子

 北吉見八坂神社前には「北向地蔵」といわれる寛政4年(1792)銘の地蔵尊があり、岩室観音・比企観音(岩殿観音正法寺)・吉見観音への道しるべを兼ねた地蔵尊である。
               
                  北向地蔵 案内板

 北向地蔵
 北向きに建っているので北向地蔵という名がある。
 光背型浮き彫りの立像で、台石裏面には「高野山山中嶌坊内良順建焉 寛政四壬子稔四月吉祥日」とある。
 また、台石左側面には「此方いわむろ山くわんおん道、弘法大師開基、松山へ行ぬそ」とある。
 台石右側面には「此方ひきくわんおん江」とあり正面には「此方よしみくわんおん道十二丁」とあり、道しるべにもなっている。
 むかしからこの土地の人々の信仰を集めているが、特に観音霊場めぐりの巡礼たちの信仰を集めてきた。
 今はこの地蔵を信仰すると占いがよく当たるというので、占師の信仰が厚いといわれている。
                                      案内板より引用



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等

 
    

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一ツ木荒神社

 奥津日子神と奥津比売命は大年神の御子神で、『古事記』によると、大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。
 奥津日子神、奥津比売命(大戸比売神)、大山咋神(山末之大主神・鳴鏑神)、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神(土之御祖神)
奥津日子神・奥津比売神は、日常の食べ物を煮炊きし、命をつなぐ大事な竈(カマド)を司る神である。 昔は朝廷にも篤く崇敬され、民間でも各家の台所()の守護神として大切に祀られていた。
 奥津日子神と奥津比売神は、薪を燃やして煮炊きする台所が主流だった時代にその台所で使う火に宿る神霊で、一般には「竈神」と知られている。
 竈神というのは大変に古い神で、我々の祖先が土間で火を使う生活を始めたときから信仰されてきた。 台所の火を司る竈神は、火を使って調理される食物を通して、家族の生活の全てを支配する力を発揮する存在だった。 だから、『火防せの神』としての機能は勿論のこと作神(豊穣神)、家族の守護神として信仰されたのである。
 奥津日子神、奥津比売神に関して神話には詳しい事績が記されていない。 おそらく朝廷から庶民までよく知られた神である竈神と同じ神霊だったから、今更説明する必要がなかったのかもしれない。 その一般に馴染みの竈神という点から見てみると、その性質は、穢れ(けがれ)に敏感で、人がその意に反した行いをすると激怒して恐ろしい祟りをなすと信じられている。 そういう性質から竈神は、『荒神』と呼ばれている場合も多い。 荒神というのは、火所を守護する神聖な神である三宝荒神のことだ。 三宝荒神は、主に修験道や日蓮宗が祀った神仏習合の神である。 ふつう如来荒神、鹿乱(カラン)荒神、忿怒(フンヌ)荒神のこととされ、この神は仏教信仰の柱である仏、仏・法・僧の「三宝」を守るのが役目である。
 三宝荒神も、清浄を尊び不浄を嫌うという非常に潔癖な性質とされている。 それが、古来、不浄を払うと信じられてきた火の機能と結びつき、日本古来の民間信仰である竈の神(火の神)と結合された。
 住居空間では竈は座敷などと比べて暗いイメージがあることから、影や裏側の領域、霊界(他界)と現世との境界を構成する場所とし、かまど神を両界の媒介、秩序の更新といった役割を持つ両義的な神とする考え方もある。また、性格の激しい神ともいわれ、この神は粗末に扱うと罰が当たる、かまどに乗ると怒るなど、人に祟りをおよぼすとの伝承もある
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町一ツ木236
             ・ご祭神 
火産霊神 澳津彦命 澳津姫命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 不明

 一ツ木氷川神社から北西方向に200m程先に位置し、荒川右岸の堤防を背にして鎮座している。丁度「吉見総合運動公園パークゴルフ場」のすぐ西側の場所に静かに佇む。社としてはそれ程大きな規模ではなく、角地にある小さな社という印象。
 創建は、原家の鬼門除けとして祀られたことに始まると伝えられる。
        
                                    一ツ木荒神社正面
            
                 
一ツ木荒神社社号標柱
 
      静かな境内の一風景           「荒神社改築記念碑」

 荒神社改築記念碑
 一ツ木氏子中は〇に、氷川神社の改築に奉仕し続けて唱和六十一年、荒神社の新築並びに境内の整備工事を献ず。
 而して一ツ木は昭和五十年代、農業改善に関連する、県営場整備事業が、企画されるや、率先之に参画し以って速やかな土地改良をみるに至れり、加えて部落宮川池の一部を、公共用水路として提供し代償として金五百六十八万八千円を取得す。
 是を以って全氏子賛同し、荒神社改築に充つ。
 即ち
 一 奥殿・幣殿・拝殿並びに向拝新築
 一 境内積土整備
 一 境界側壁工事
 合計 金四百七十六万三百六十円也。
*句読点等は筆者が加筆。
                                      案内板より引用
        
                                       拝 殿

 荒神社 吉見町一ツ木四八六
 当社は荒川堤防を背にして鎮座している。創建は、原家の鬼門除けとして祀られたことに始まると伝えられる。
 原家については、『風土記稿』一ツ木村の項に「旧家者徳太郎 当村草創の民なり、先祖勘解由良房は武田家人原隼人正が子孫なり、甲州没落の後、久しく当郡松山に住す、文禄年中(一五九二-九六)当所に土着して、民家に下る、其後良房慶長六年(一六〇一)七十一歳にして卒す、其子右馬祐良清は寛永十六年(一六三九)六十五歳にして卒す、墳墓竜ケ谷にあり、此正統は則徳太郎なり、良清が次男原五郎兵衛良親が子孫は、今名主作兵衛是なり」と記されている。また「天正庚寅松山合戦図」の北曲輪の守備に原勘解由良房・原左馬祐良清の名が見え、恐らく松山落城により一ツ木村に土着帰農して草分け名主として開発に当たったものであろう。
 その後、村の開発が進む中で、当社は村の鎮守として崇敬を集めるようになり、『風土記稿』には「是も(村の)鎮守なり、 長泉寺持」と載せられている。これに見える別当の長泉寺も原家の開基であり、万治年中(一六五八-六一)に創建されたと伝えられる。
 神仏分離により長泉寺の手を離れた当社は、明治四年六月に村社となった。

                                  「埼玉の神社」より引用
               
                               拝殿に掲げてある扁額

 原隼人佑昌胤(はらはやとのすけまさたね ?~天正3521日)は戦国時代、甲斐国武田晴信(信玄)・勝頼2代に仕えた武将で「武田二十四将」の1人。信虎に仕えた譜代家老原加賀守昌俊の子で、信玄に登用された。武田軍の陣立てなどを立案する陣場奉行を命じられ、信玄の側近、奉行としても活躍した。信玄の晩年には、山県昌景とともに、武田家の最高職である両職を担った。天正3年(1575年)長篠の合戦で戦死した。
 一ツ木氷川神社でも説明したが、この一ツ木地域は、武田氏滅亡後の文禄年中(1592-1596)当所に土着した原家が、一ツ木村に移り住み、当地を開拓、原家の鬼門除けとして祀られたという。武田信玄の家臣である原家にまつわる竜神伝承もある。
 
 拝殿の両側には幾多の石碑が並べて置かれており、右側(写真左)には「塞神」の祠が3基あり(右から2番目は詳細不明)、左側(同右)には、左より「〇〇大明神 稲荷大明神・八坂神社・九頭龍大権現」と記された祠が3基並んで置いてある。
       
                       道路沿いには巨木が聳え立つ。
         嘗てはこのような巨木・老木は道標となっていたであろう。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
   

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吉見町 明秋神社

 現在の吉見町大字明秋は、江戸時代には「横見郡須戸野谷新田」という地名であった。鴻巣宿の整備の過程で、宿場の経済的自立を助けるため、荒川の対岸の「須戸野谷」を、独立した村とはせずに、鴻巣宿の付属地とした。徳川家光公の事跡をたたえる「江戸図屏風」(江戸図屏風の複製が「ひなの里」にて展示中)には、徳川将軍が鷹狩りで逗留した「鸛巣(鴻巣)御殿」とともに、「洲渡谷(須戸野谷)」での猪狩りの様子が描かれている。
 明治維新の後の 1874(明治7)年、須戸野谷の人々は鴻巣宿からの独立・分村を願い出た。その名も「明治村」、独立の喜びと新村発足の気概を込めての申請である。しかし畏れ多いということで、季節が「秋」だったことから、明治の秋=「明秋村」と命名された。
 その後、町村制施行により「横見郡北吉見村大字明秋」となり、大正時代には横堤の構築が始まり、昭和の初めに、明秋集落は河川敷から横堤へと移転した。現在の地名は「比企郡吉見町大字明秋」、明秋神社は川幅日本一の河川敷のなかにあり、境内には、「鴻巣宿」と刻まれた石碑や、明秋村の独立・分村の事跡を伝える石碑が置かれている。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町明秋510
             ・ご祭神 天照大御神 豊受大御神
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 不明

 吉見町大字明秋地域は荒川を境にして鴻巣市糠田地域の南側にあり、荒川右岸の堤外地がほぼ地域全域を覆い、荒れ地以外そのほとんど畑として使用されていて、その中に湿地、桑畑が散在する。途中までの経路は糠田氷川神社を参照。糠田氷川神社から一旦埼玉県道76号鴻巣川島線を南下、「糠田橋」を通り越してから、荒川土手を抜け、最初の変則的なT字路を左折する。この道は荒川土手方向から河川敷に北上する道となっていて、突き当たりを左折すると一面広大な畑風景が広がる中ポツンと林に囲まれている場所があり、そこが明秋神社の社叢であることはいうまでもない。
 因みに「明秋」と書いて「めいしゅう」と読む。
               
                                       社号標柱
        
                   明秋神社正面

 須戸野谷新田は江戸よりの行程十二里餘、民戸十六、當所は東照宮御鹿狩ありし地にして、其時鴻巣驛より荒川へ舟橋を渡せし故、この地を鴻巣驛の傳馬役地に賜はりしより、今に至るまて鴻巣宿の持なり、後に原野を開墾して陸田とす、村の四境、東は荒川を隔て、足立郡瀧馬室・糠田の二村に界ひ、南は當郡の北下砂新田、北は今泉新田・上細谷新田、西は上細谷新田及び、一ツ木新田・丸貫新田・下砂新田・古名新田等の數村なり、村の廣さ東西八町許、南北二十町餘、水損の地なり、又村鴻巣驛より松山への往還あり、當村開闢より以来御料所にして今に替らす、撿地は享保十二年筧播磨守糺せり、
小名 立野 谷通
荒川 村の東を流る、川幅五十間
神明社 
 村の西の方にあり、村民の持、相傳ふ此地もと東照宮の御休所なりし故、後入當社を建立せしと云、土居なども存せしか、今は廃して圍み九尺許の柳の古樹あるのみ(
以下略)
                               「
新編武蔵風土記稿」より引用
 
         木製の鳥居              参道から社殿を望む。
        
                                        拝 殿
 御由緒
 当地は荒川右岸の低湿地に位置し、東は荒川を境に鴻巣市と接する。『風土記稿』に「須戸野谷新田」と見えるのが当地のことで、その開墾経緯については「東照宮御鹿狩ありし地にて、其時鴻巣駅より荒川へ船橋を渡せし故、この地を鴻巣駅の伝馬役地に賜はりしより、今に至まで鴻巣宿の持なり。後に原野を開墾して陸田とす」と記されている。
 また、当社は村の鎮守で「神明社」と載り、「相伝ふ此地もと東照宮の御休なりし故、後人当社を建立せしと云」と記されている。
 恐らく鴻巣宿の持添新田として当地が開かれた後、移住してきた人々によって耕地の安泰が祈られ奉斎されたものであろう。その年代は享保十二年の検地以降のことと考えられる。
 その後、文化年間(1804-18)から幕末までの間に、当社は村の西方の字吉見橋から中央の現在地に移された模様で、『郡村誌』に「昔時荒川の洪水の難を免れん為に伊勢両宮を遷座せしよし、古老の口碑に伝ふ」との記事がある。
 須戸野谷新田は、明治に入っても住民には所有地がなく、戸籍編成に差支えが生じたため、明治五年に鴻巣宿から分離独立し、同七年九月に明治の「明」と季節の「秋」を採って明秋村と改称した。大正元年には境内の稲荷社を本社に合祀し、社名を明秋神社と改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用

 河川の堤外地とは,堤防と堤防に挟まれた河川側の土地、つまり河川敷のことをいう。荒川の中流域は、洪水時に遊水地としての役割を果たすために堤外地が広くとられていて、最も広いのは糠田橋付近で、約2,500 mに達する。
 その南側に位置する明秋地区・古名新田集落は,元は荒川沿いの高水敷自然堤防上に立地していたが,河川改修事業後、多くの世帯が横堤上に列状の住居を構えた地区で、横堤上の県道
 271 号今泉東松山線(吉見町側)と県道 27 号東松山鴻巣線(吉見町と鴻巣市)に沿って直線状の集落を形成しているが、今日でも先祖から受け継いだ土地から離れることは容易なことではなく、まして付近に農地を持つ住民にとっては尚更で、旧荒川沿いの堤外地に居住する世帯もあるという。
 堤外地集落は,その立地上の特性から常に洪水の危険性が高い地域である。特に,集中豪雨や台風の多い夏には家屋や耕作地が被害を受けるだけでなく,人命にもかかわる大水害に見舞われることになる。
 
 長年の雨風の影響だろうか。色褪せた扁額。     社殿の右側にある石碑、石祠等

 境内には石塔が並び、写真右手前のものには「水屋幟竿置場」と明記されている。「水屋」とは屋敷内において日常生活空間の母屋より高く盛られた盛土及び,その上に建てられる上屋のことをいう。江戸時代の水屋は利根川水系の周辺で数多くつくられたらしい。

 近年,都市部では急速な都市化に伴い,各地で治水整備が進められているが,内水氾濫などの洪水被害が増大している.そのため,治水整備においては,行政に依存しない住民間での自助・共助の重要性が唱えられており,「水屋」「水塚」等の河川伝統技術の有用性が見直されている。

 これら水屋・水塚には,旧来から洪水を経験して得た先人の知恵が“カタチ”として表れており,水屋・水塚について着目し,研究を行うことは重要だと考える。
        
                         明秋神社のすぐ東側を通る高架橋

 荒川の改修工事によって,中流域でも洪水の発生頻度は減少したが,逆に一度の洪水で受ける被害は増大するようになったという。この荒川改修工事は下流域の治水には大きく貢献したが,中流域では広大な遊水機能をもつ堤外地が誕生し,この堤外地に多くの集落が取り残されることとなった。
 かつて頻発していた荒川の氾濫を制御し,下流に位置する首都東京を洪水から守るという国家的目的を実現するために行われた荒川の河川改修事業は,治水行政の所期の目的を達成したと見ることができる。しかし,本研究で見てきたように下流域の安全は,少なくとも中・上流域に暮らした多くの住民の生活を犠牲にして今日担保されたものであるという事実を忘れてはならない。
        

 荒川には河川敷に集落があるということは以前からこの県道を業務で往来もしていたし、近隣に吉見運動公園もあり、私的に利用してもいたので、当然認識していたが、このような歴史があるとは想像もしていなかった。
 荒川流域では、古い時代より洪水と折り合いをつけて暮らしが営まれてきたのだと思われるが、河川改修が進められる中にあって、先祖から受け継いだ土地から離れることは容易なことではなく、まして付近に農地を持つ住民の方々にとっては尚更であったろう。故に今もなお引き続き洪水と向き合う暮らしを選択されたと言うことなのだろうか。

 日頃、河川とは縁遠い暮らしを送っている者にとっては想像も及ばないが、河川敷に広大な農地が広がる荒川ならではのことなのかもしれない。

参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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