古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

地頭方天神社

 嘗て日本の古代国家は、全国の土地と人民は天皇のものという「公地公民制」の原理で成り立っていた。この「公地公民」は、奈良時代の墾田永年私財法(743)・平安時代の荘園制度を通じて次第に骨抜きにされ、平安後期の武士の台頭により有名無実化する。
  1185年(文治元)鎌倉の頼朝は、逃亡した義経を探索するため、後白河法皇に迫って各国に「惣追捕使(そうついぶし)・地頭」を設置することを認可することに成功する。この制度が後の「守護・地頭」制度のベースとなっている。
 一般に地頭は、鎌倉幕府が平家方から没収した荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職として、武力に基づき軍事・警察・徴税権を担保しながら支配にあたるものとされている。そして、これらの地頭を国ごとに指揮する役職が、守護とされる軍事指揮官・行政官である。
 鎌倉幕府発足時の地頭の公認については当然ながら在地の荘園領主・国司からの反発があり、その設置範囲は平家没官領(平氏の旧所領)・謀叛人所領に限定されたが、その後承久の乱を経て、朝廷側の所領約3000箇所を没収し、その土地は西日本一帯であったため、新しい地頭として多くの御家人が西日本の没収領へ移住する。
                                  「Wikipedia」より引用 

        
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町地頭方526
              ・ご祭神 天照皇大神(推定)
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 夏祭 724
 地頭方天神社は大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進むのは、これまでアップした吉見町内の各社と同じであり、2㎞程進むと埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線と交わる交差点に到着する。周囲もほぼ田園地帯が広がり、時々住宅地が点在する長閑な農道を道なりに進むと道路は大きく右回りにカーブし、その回り終わった直後の最初の手押しボタンの交差点を左折すると右側に吉見町立北小学校が見える。その小学校を過ぎた最初の十字路を右折し、暫く進むと左側に地頭方天神社が鎮座する場所に到着する。
 
社務所等適当な駐車スペースはないため、北小学校の北側にある吉見町・北公民館に駐車してから参拝を行った。
        
                                     境内周辺の様子
 天神社の社殿は平成30年建立だそうで大変新しい。天神社が鎮座する「地頭方」。また一風変わった地域名だが、この地名由来としては、日本の中世における地頭側が支配した地が、現在にまでその名残として残されている。          
        
                                        鳥居正面
 鳥居の扁額は「天満宮」となっていて、ヤフーマップもグーグルマップでも「天満宮」と表示されている。
 
 地頭方天神社には鳥居が2基並列されていて、正面の鳥居が天神社、左側にあり、正面鳥居よりやや小ぶりの鳥居(写真左)は境内社頭殿神社(同右)のものと思われる。
 現在は地頭方天神社の中に遷座されているが、元々は五反田地区から移したのだという。
        
                                       拝 殿
 天神社 吉見町地頭方九九九(地頭方字矢島)
 地頭方は荒川右岸の低地に位置する。地名の由来は荘園の管理のために補任された地頭の存在に由来するという。
 『明細帳』によると、当社の創建は天明二年(一七八三)三月のことである。その後の事歴を境内の石造物から拾うと、まず寛文八年(一七九六)の「願主当村総氏子中・斎藤林右衛」による石灯籠の奉納、次いで翌九年の「当村惣氏子中」による石鳥居の建立、更に天保三年(一八三二)に再び「当村氏子中」による石灯籠の奉納があった。また嘉永七年(一八五四)には「地頭方邑氏子中・世話人脇屋平次郎(外三名)連経中」が手水鉢を寄進した。下って昭和九年の伊勢参宮記念碑には「吾々一同伊勢参宮記念トシテ土地ヲ買収シ表参道ヲ改築シ之ヲ奉献ス」と刻まれている。これらの奉納物は、当社が創建当初から村の鎮守として崇敬を集めてきたことを如実に物語る。
 『風土記稿』には「天神社 村の鎮守、法水寺の司る所なり」とある。これに見える法水寺は今泉村金剛院末の真言宗の寺院であるが、すでに廃寺となっている。
 明治四年六月に村社となった。その後、同二十六年十月に社殿が焼失したが、翌二十七年三月には再建を行った。
 なお、『明細帳』に大正元年に字西通の弁天社と字東通の稲荷社を当社に合祀した記事が載るが、二社共に今も旧地に鎮座している。
                                  「埼玉の神社」より引用
                       
                               境内社御嶽・八海・三笠山等

 鎌倉幕府の成立段階では、荘園領主・国司の権力は依然として強く、一方地頭に任命された武士は現地の事情と識字と行政に疎い東国出身者が多かった。このため、独力で遠隔地の荘園の経営に当たれる現地沙汰人を準備し、年貢運搬の準備、荘園領主側との交渉、年貢の決解・算用などの事務的能力を必要とした。また幕府が定めた法典御成敗式目には、荘園領主への年貢未納があった場合には地頭職を解任するといった条文もあり、地頭の力は単純に大きいものではなかったようだ。
 但し地頭の補任権・解任権は幕府だけが有しており、荘園領主・国司にはその権限がなく、地頭はその地位を背景に、勧農の実施などを通じて荘園・公領の管理支配権を徐々に奪っていった。具体的には、地頭は様々な理由をつけては荘園領主・国司への年貢を滞納・横領し、両者間に紛争が生じると、毎年一定額の年貢納入や荘園の管理を請け負う地頭請(じとううけ)を行うようになった。地頭請は、不作の年でも約束額を領主・国司へ納入するといったリスクを負ってはいたが、一定額の年貢の他は自由収入とすることができたため、地頭は無法な重税に因り多大な利益を搾取するケースが多かった。そして、この制度により地頭は荘園・公領を徐々に横領していった。

 それでも荘園領主・国司へ約束額を納入しない地頭がいたため、荘園・公領の領域自体を地頭と領主・国司で折半する中分(ちゅうぶん)が行われることもあった。中分には、両者の談合(和与)で決着する和与中分(わよちゅうぶん)や、荘園・公領に境界を引いて完全に分割する下地中分(したじちゅうぶん)があったという。
 下地中分は鎌倉幕府が仲介した日本人らしい方策の一つであり、荘園領主(領家)の土地の取り分に対する地頭の取り分が地頭方であるという。天神社が鎮座するこの「地頭方」という地名は嘗ての歴史的事実の名残りを示す貴重な歴史の証人ではなかろうか。
                                  

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