古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下細谷天神社


               
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町下細谷313-1
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 春祭 325日 例祭 75日 秋祭り 1017

 吉見町下細谷地域は地域中央部には吉見町役場があり、南側に接している久保田地域と共に町の市街地に当たる場所で、行政区域も町役場を中心に東西約1.3㎞、南北約1.2㎞のやや正方形に近い地域である。
 地域全体低地帯に属している。地域の平均標高は12m15m。標高が高い下細谷天神社でも16.3m程。東西にはそれぞれ台山排水路、横見川が南北に流れていて「新編武蔵風土記稿」にも「吉見用水を引けど、水不足なれば大里郡恩田村より出る清水、及び和田吉野川の水を引て沃(そそ)く」と記載され、嘗て水の被害が多かった場所である事も地形を確認すると分かる。
 下細谷天神社は吉見町役場から北側250m程の場所に鎮座する地域の鎮守様である。
               
                                    下細谷天神社正面

 下細谷天神社は埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線沿いにある吉見町役場を350m程北上し、変則的な十字路を左折し、暫く進むと進行方向左側で道路沿いに社は鎮座している。
 和名野芽神社からは一旦東方向に進路を取り、横見川沿いに進むとすぐ先に十字路が見えるので、そこを右折する。あたり一面長閑な田畑風景が広がる道を東行すること500m程で、またもや十字路に達し、左折し暫く進むと右側に下細谷天神社が見えてくる。
 社は道路沿いに鎮座し、社殿は東向き。鳥居のある正面周辺には駐車スペースはないが、西側社殿の奥に駐車可能な空間があり、そこに停めてから参拝を行う。
               
                社号標柱の先に鳥居が見える。
 
       下細谷天神社鳥居           鳥居の先には比較的長い参道が続く。
               
          境内は綺麗に整備されていて、手入れも行き届いている。
      また社殿の手前には広い空間があり、両脇には椅子も設置されている。
        吉見町唯一の「下細谷ささら獅子舞」が奉納される場であろう。

 下細谷ささら獅子舞  町指定無形民俗文化財
 通称「ささら獅子舞」と称する三頭の獅子による獅子舞で、このささら獅子舞は静岡県から東北地方にかけて広く分布している。県内では約200箇所で伝承されていることが確認されている。かつて吉見町内には下細谷・松崎・一ツ木に獅子舞があったが、後継者の問題などから、現在ではこの下細谷地区に伝わる獅子舞だけが残っている。
 下細谷ささら獅子舞は、今から400年前ほど前の江戸時代前期に東北地方から伝わったと言われている。吉見地域で飢饉があり、同様な飢饉に見舞われていた東北地方を視察に行った際に、疫病退散・豊作祈願の獅子舞があることを知り、習い伝えたのが始まりと言われている。かつては旧暦の72627日(現在の92627日)に行っていたが、現在では例年10月中旬の日曜日に行われている。
 獅子舞は獅子3頭(男獅子2頭・女獅子1頭)、花笠をかぶるザキッコ4人(小学生)、笛吹き10数人、山伏役1人(ホラ貝を吹きながら一人で行列の先頭に立つ。ホラ貝を吹くのは祭りの場を清める意味を持つ。)、棒使い16人で構成され、全員で40人ほどになる。
 古代、田植え行事には屋根に菖蒲を葺き、早乙女たちは身を清め忌みごもりして田に入り、神を祭る心で厳粛に田植えを行ったと言われている。平安時代になると、早乙女たちが苗を植える間、男たちは笛や鉦・太鼓を叩きササラを摺って田の神を祭る行事が営まれるようになった。これが田楽の起こりで、その後、田楽は神社の祭礼にも取り入れられるようになった。下細谷のササラ獅子舞もこの田楽の流れを汲むものである。
                                   「吉見町HP」
より引用
               
                                 拝 殿

 天神社 吉見町下細谷三一三-一
 社伝によると、当社の創建は寛文元年(一六六一)七月五日のことである。その後、天保十四年(一八四二)十一月に本殿を、嘉永四年(一八五一)三月に幣殿・拝殿をそれぞれ造営した。
 造営史料としては、本殿の石造台座に刻む銘文がある。これには「天保十四癸卯年十一月吉祥日」の年紀があり、別当照明寺をはじめ、同じ地内にある明王院の法印盛秀の名や世話人らの名が見える。現在の本殿はこの時のものと伝え、精緻な彫刻が施された秀逸な造りである。内陣に奉安する神牌には、中央に「十一面観世音菩薩」、その左右に「天満宮本地佛」「彌勒菩薩」と刻まれ、神仏習合の模様を伝えている。
『風土記稿』下細谷村の項には「天神社 村の鎮守なり、照明寺持」とある。この照明寺は幕末に火災に遭い廃寺になったと伝えられる。
 明治四年に村社に列し、同四十年には字東上の無格社熊野社を当社に合祀し、併せて字中の無格社愛宕社と字諏訪の無格社諏訪社を境内に移転した。
 なお、当社には、寺子屋教育の模様を描いた奉納額(天文元年・一八六四)があり、往時地内で寺子屋が行われていたことがわかる。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
拝殿に掲げてある扁額は「天神社」「諏訪神社」        本 殿
     の二社。不思議な配列だ。
               
             境内に設置された「天神社 改築記念碑」

 平成23年3月11日に発生した「東日本大震災」により、天神社の屋根が崩壊した。総代・氏子一同の話し合いにより、社殿を新しく建て替えることになったという。
 細谷天神社のみならず、多くの寺社が先の震災により被害を被り、未だに補修、改築されていない所もある。自然災害であるのでどうしようもないが、痛ましいことだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「吉見町HP」「埼玉の神社」等

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和名野芽神社

 カヤノヒメは、日本神話に登場する草の神である。 『古事記』では鹿屋野比売神、『日本書紀』では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ。草祖は草の祖神の意味)と表記し、『古事記』では別名が野椎神(のづちのかみ)であると記している。
 神産みにおいて伊邪那岐命 (いざなぎ)・伊邪那美命(いざなみ)の間によって風の神・木の神・山の神と共に生まれた野の神。またの名を野椎神という。 『古事記』においては、山の神である大山津見神との間に、48柱(天之狭土神・国之狭土神・天之狭霧神・国之狭霧神・天之闇戸神・国之闇戸神・大戸或子神・大戸或女神)の神を生んだ。
『日本書紀』五段本書には、「次に草の祖、草野姫を生む。亦は野槌と名す」とあり、神名の「カヤ」は萱のことである。萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、家の屋根の葺く草の霊として草の神の名前となった。
 別名の「ノヅチ(野槌)」は「野の精霊(野つ霊)」の意味である。
「八百万の神」を信奉する嘗ての日本人の自然に対する細やかな配慮を感じる「草の神」を祀る神社がこの和名
野芽神社である。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町和名464
             
・ご祭神 草野姫命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 春祭り 425日 例祭 1017日 秋祭り 1028

 久米田神社から北方向に1km程進んだ高台の一角に鎮座している和名野芽神社。進路途中「和名保育園」と「和名集会所」があるY字路の左斜め方向に進むとほぼ正面に社の社叢、及び鳥居が見える。後日地図を確認すると吉見町役場からでも北西に1㎞程の距離である。
 神社脇に駐車できる広い空間があり、そこの一角に停めてから参拝を行う。
               
                                  和名野芽神社正面
      周囲は民家も少なく、高台の一角にひっそりと鎮座しているという第一印象。
 
        石製の明神鳥居            鳥居上部に掲げる社号額
               
             参道の先には小さな拝殿が静かに鎮座する。
                                                        拝 殿

 野芽神社 吉見町和名四六四
 吉見丘陵の東端部一帯は、古くから谷田が開かれた所で、中世には、横見郷と呼ばれていた。当社の鎮座する和名は、この横見郷に属した村で、その地名は、『郡村誌』に「地味 真土三分 赤色埴土七分」とあるように、埴土の多い土地であるため、「埴」が転訛したものと考えられている。
 穂先にある剛毛である芒のことを意味している。『曾丹集』に「我守るなかての稲も芒は落ちてむらむら穂先出でにけらしも」という歌があるが、稲や麦の穂先に伸びる芒は豊かな実りをもたらすもの、すなわち穀霊が宿る依代に見立てられていたことは十分に推察できる。横見郷の総鎮守は、式内社の横見神社に比定されている飯玉氷川明神社(旧号)で、「飯玉」という社号が示すように稲に宿る穀霊を祀る社であることを考え合わせると、当社もまた、芒に宿る穀霊を祀った社であるということができよう。なお、『明細帳』によれば、祭神は草野姫命となっている。
 また、拝殿には、江戸時代に奉納された「正一位野(埜)芽大明神」という社号額が二枚掲げられており、そのうちの一枚の裏面には「享保十二未(一七二七)八月二日」の年紀が見えることから、このころ京都の吉田家から極位を受けたものと思われる。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
     拝殿に掲げてある扁額         社殿の左奥に鎮座する境内社・詳細不明


 和名野芽神社から西方向に進み、和名沼の西側端附近に「和名埴輪窯跡群」が嘗て存在していた。吉見町HPによると「古墳時代の遺物である埴輪は500℃以上の高温で焼くために、半地下式の登窯やトンネル等の施設が必要であった。和名埴輪窯跡群は、そうした登窯が集中しており和名沼の北側斜面一帯に広がっている。昭和49年に行われた発掘調査では、円筒埴輪・形象埴輪を伴って4基の登窯を検出しているが、この付近一帯にはさらに多くの窯跡が存在していると考えられる」と説明されている。県指定 重要遺跡に指定されている。
               
                           「 和名埴輪窯跡群」案内板

 和名埴輪窯跡群
 古くから、ここ和名沼の北側斜面一帯は、多くの埴輪が発見されることで知られていました。昭和四十九年に行われた発掘調査では四基の埴輪を焼いた登り窯の跡が見つかっています。昭和六十二年にはさらに一基の窯跡があることが確かめられ、そのままこの場所に遺されています。これら以外にもたくさんの登り窯跡があると考えられており、県内有数の埴輪窯跡群のひとつです。
 埴輪は、今からおよそ一六〇〇年前から一二〇〇年前頃まで続いた古墳時代の豪族の墓である古墳の廻りに設置されたものです。
 ここで焼かれた埴輪には、人物、馬などの形象埴輪や円筒埴輪があり、近くの久米田古墳群をはじめとする吉見丘陵や、岩鼻古墳群などの松山台地上に造られた多くの古墳に設置するために生産されたと考えられます。 吉見町教育委員会
                                      案内板より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「吉見町HP」Wikipedia

  

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久米田神社

「延喜式神名帳」に記載されている武蔵国の「式内社」は武蔵国 21 郡のうち15 郡である。
・荏原郡(2座)、都筑郡(1座)、多磨郡(8座)、足立郡(4座)、横見郡(3座)、入間郡(5座)、埼玉郡(4座)、男衾郡(3座)、播羅郡(4座)、賀美郡(4座)、秩父郡(2座)、兒玉郡(1座)、大里郡(1座)、比企郡(1座)、那珂郡(1座)。
しかも都筑郡 、児玉郡 、大里郡、比企郡、那珂郡の5郡は郡中に1座(社)しかない郡であり、新羅郡(新座郡)、高麗郡、豊島郡、久良郡、橘樹郡、榛沢郡の 6 郡に至っては、式内社すら存在しない。
 吉見町は町全体が元横見郡という。武蔵国造笠原直使主と笠原直小杵との争い(安閑天皇元年534年)に際して、ヤマト朝廷の支援を受けた武蔵国造笠原直使主がヤマト朝廷に献上した屯倉のうちの一つ横渟(ヨコヌ)に比定される地域で、早くより大和朝廷の直轄地として発展を遂げた地域である。この小さな郡に3座「式内社」が存在すること自体がその証ともいえよう。
「久米田神社」は式内社ではないが、倭文神を祀る倭文神社と称して和銅年間(708-715)に創建された古社で、『日本文徳天皇実録』の天安二年(八五七)九月条に武蔵国の「倭文一神」として従五位下に昇叙したことが載っている。
《卷九天安元年(八五七)九月庚戌【十六】》○庚戌。在武藏國正六位上倭文一神授從五位下
 天安2年(857)前には既に神階(神位)が「正六位上」であった事になり、朝廷側としてもそれなりの由来等の根拠なしで、爵位を授与するとは思えず、久米田神社の創建時期はかなり古いと思われる。
 祭神の建葉槌命は天羽槌雄命の別称で、天照大神が雨岩屋戸に隠れたときに文布を織った神で、飛鳥時代から白木綿の生産が盛んだった当地で機織りや、養蚕に関わる信仰が盛んだったという。
               
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町久米田132
             ・ご祭神 建葉槌命 菅原道眞公
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 例祭(夏祭) 724

 南吉見羽黒神社から東に進む道路を進む。市野川は市野川橋から荒川合流地点まで県主導による改修工事により真っ直ぐに南東方向に進み、道路はそれに対して離れるように東行するが、進行方向に対して右側・市野川左岸は長閑な田畑風景が広がり、道路左側は丘陵地面に民家が立ち並んでいて、北側には大沼、天神沼という灌漑用の溜池が設けられている。道路の両側の風景が違うのも地形上の理由からなのだろうと勝手に想像を膨らます時間を楽しみながら、参拝地に進んだ。
 東に進むこと1.2㎞程で、埼玉県道27号東松山桶川線に交わる「久米田」交差点に達する。そこを左折し、500m程進んだ先の十字路を左斜め方向に進路を変え、暫く進むと正面右手に久米田神社が見えてくる。

 駐車スペースは社の隣に「久米田自治会館集会所」があり、そこの駐車場をお借りしてから参拝を開始した。
               
                                    久米田神社正面

 吉見町久米田地域内には久米田神社を中心にして北側には4世紀前葉の築造と言われている「山の根古墳群」が、県道を挟んだ南側には縄文時代晩期(約2500年前)から古墳時代前期(3世紀代から4世紀前半)の前方後方形墳丘墓3基と方形周溝墓群(28)が検出されている「三ノ耕地遺跡」が存在し、朝廷の直轄地として発展を遂げる以前の遥か縄文時代から人々は定住し続け、また古墳時代には周辺に住む支配層による開発が進んでいた地域であることが分かる。
             
               歴史を感じさせる久米田神社社号標
               
                                     正面神明系鳥居

 倭文神社は機織の神である建葉槌命(タケハツチ。天羽雷命・天羽槌雄・武羽槌雄などとも)と棚機姫命(たなばたひめ。天之八千千比売・天衣織女などとも)を祀る神社で、建葉槌命を祖神とする倭文氏によって祀られたものである。因みに倭文と書いて「しとり、しずり、しどり、しとおり」と読む。その本源は奈良県葛城市の葛木倭文坐天羽雷命神社とされている。しかし、絹織物の技術は仁徳天皇により導入振興されたとされるものと、崇神天皇期(10代)にその創始を唱える倭文神社もあり、日本(倭)においていつ頃どこで絹織物が発達したかを考えるうえで、この神社のある場所や由緒は貴重な資料といえる。       
               
                  拝殿に通じる参道

 倭文氏(しとりうじ、しどりうじ、しずりうじ)は、「倭文」を氏の名とする氏族で、織物を生産する部民である倭文部(しとりべ)を率いた伴造氏族。倭文とはシズオリの意で、アサやカジノキなどの繊維で文様を織り出した日本古来の織物という。
 中央の一族は連の姓(カバネ)であり、その中の主流の一族は天武天皇13年(684年)に宿禰姓を賜った。地方の伴造には、連、臣、首などの姓がある。
『新撰姓氏録』(815年)によると、大和国と河内国に委文宿禰、摂津国に委文連の三氏を掲げている。出自としては、「大和国神別(天神)」の項に「委文宿禰 出自神魂命之後大味宿禰也」とあり、また「摂津国神別(天神)」の項に「委文連 角凝魂命男伊佐布魂命之後也」とある。機織の神である天羽槌雄神を祖神として奉斎し、全国に倭文神社が残る。
        
       参道左側に咲く梅。菅原道真公        参道左側に並ぶ石碑。
      (天神様)を配祀した関係であろう。 左側に「長乳歯大神」と刻印された石碑あり。

 茨城県那珂市に鎮座する「静神社(しづじんじゃ)」も同じく建葉槌命を祀り、創建の時期は不明であるが、『新編常陸国誌』では大同元年(806年)に創建されたという社伝を載せている。『常陸国風土記』久慈郡の条には「静織(しどり)の里」とあり、「上古の時、綾(しず)を織る機を、未だ知る人あらず。時に此の村にて初めて織る、因りて之を名づく」と見える。また、『和名類聚抄』には常陸国久慈郡に「倭文郷(しどりごう)」の記載があり、これらの「シドリ」が縮まり「静(しず)」の地名・社名となったと推測されている。現在鹿島神宮、香取神宮と共に古くは東国の三鎮護神と称され、また常陸国の一の宮鹿島神 宮に次いで二の宮といわれ、由緒の 古い神社である。
 また同じく茨城県日立市に鎮座する「大甕神社(おおみかじんじゃ)」の創建は、社伝によれば皇紀元年(紀元前660年)で、「静神社」より古社である。『日本書紀』神代に、下総国一宮である香取神宮の祭神経津主神と常陸国一宮である鹿島神宮の祭神武甕槌神の二柱の神が邪神をことごとく平定したが、星の神の香香背男だけは従わなかった。そこで倭文神建葉槌命が使わされ、これを服従させたと記されている。

 奈良県葛城市の二上山山麓に鎮座する「葛木倭文座天羽雷命神社」が日本各地にある倭文神社の根本の神社とされるが、資料等で、何か「倭文部」の集団が東行し、移住した文献はないだろうか。
               
                     石碑の並びに鎮座する境内社・稲荷神社だろうか。

 茨城県常陸太田市には長幡部神社(ながはたべじんじゃ)が鎮座する。この社のご祭神は綺日女命 (かむはたひめのみこと)、多弖命 (たてのみこと)。当社の創建について、『常陸国風土記』久慈郡条には「長幡部の社」に関する記事が載る。これによると、珠売美万命(すめみまのみこと)が天から降臨した際に綺日女命が従い、日向から美濃(三野)に至ったという。そして崇神天皇の御世に長幡部の遠祖・多弖命が美濃から久慈に遷り、機殿を建てて初めて織ったと伝えている。
〇常陸風土記久慈郡条
「郡の東七里、太田郷、長幡部の社。古老の曰ふ、珠売美万命、天より降ります時、御服を織る為に、従って降ります神の御名は綺日女命(かむはたひめのみこと)、本は筑紫国日向の二神の峰より三野国引津根の丘に至る。後に美麻貴天皇(崇神天皇)の世に及び、長幡部の遠祖・多弖命(たでのみこと)、三野より避けて、久慈に遷る。機殿を造り立て、初めて織る。其の織れる服は、自ら衣裳(みけし)と成る。更に裁ち縫ふこと無し。之を内幡と謂ふ。或は曰ふ、絁(あしぎぬ)を織る時に当って、輒(たやす)く人の見るが為に屋扉を閉ぢ内を闇くして織る。因りて鳥織と名づく。強兵利剣も、裁断するを得ず。今・年毎に、別に神調と為して、之を献納す」

また大日本地名辞書の武蔵国秩父郡には、

「知々夫彦命を国造とし、美濃国不破郡引常の丘より倭文部長幡部を率ゐ来り、民に養蚕を教へ大いに機織の術を開く、故に其名に因て秩父の国と称す、」

 という伝承が記されている。秩父の養蚕、織物の起源に関わる伝承である。古代の織物に携わった職業集団である倭文部(しとりべ)の長幡部氏の拠点であった美濃国引常の丘からの移住先として、一つは常陸国風土記に記す常陸国久慈郡、もう一つが武蔵国秩父郡なのであった。国造本紀には古代律令体制成立以前に武蔵地方を支配していた豪族として无邪志国造、胸刺国造、知々夫国造が記されており、秩父国については知々夫国造として知知夫彦命が任命されている。大日本地名辞書の記事は、その知知夫彦命が長幡部を引き連れて美濃国引常の丘から秩父国に移動してきたと記すのである。秩父と美濃国引常の深い繋がりを思わせる伝承である。
 
常陸国久慈郡は、嘗て「静神社」「大甕神社」を包括する地域であり、社伝には記されていない伝承系統を示す何かしらの根拠に当たるものではなかろうか。
*「秩父(知々夫)」の語源は、「千々布」であり、養蚕及び織工集団の名称の可能性あり。
 また千々は多くの幡。千々布(ちちぶ)は布(はた)の数が多いの意味で、八幡(やはた、はちまん)の八も多いの意味であり、同義でもある。故に千々布=秩父=八幡、ともいえよう。
               
                                   拝 殿

 久米田神社 吉見町久米田一三二
 久米田は流川の東方に位置し、吉見丘陵と平坦地にまたがり南北に長く広がっている。地内には弥生時代後期から古墳時代前期の久米田・山の上の両遺跡や古墳群があり、古くから開けた土地である。
 かつての久米田村は、根古屋・柚沢・土丸・流川・長谷を含む大村であったが、慶長年間(一五九六-一六一五)から徐々に分村し、正保年間(一六四四-四八)の改編で久米田が独立して一村となった。
 当社の創建は、口碑によれば和銅年間(七〇八一五)である。古くは倭文神社で、『日本文徳天皇実録』の天安二年(八五七)九月条に武蔵国の「倭文一神」として従五位下に昇叙したことが載る。寛文十二年(一六七二)十一月二十五日に、菅原道真公を配祀した。当時の神像と木札を現在も奉安している。社号も倭文天神社に改めていた。
 当地は古代から、白木綿の産地で、正倉院に残る白木綿に「横見郡御坂郷」と記され、しかもこれは飛鳥時代の遺物である。この機織の守護のため祀られたのが当社である。ゆかり深い白木綿は後世にも織られていたようで、明治三年、「養老の典」に浴した地内の内山塩(当時九一歳)による手織りの一反が、明治天皇が大宮氷川神社に行幸の折に献上された。
別当は梅松院であったが、維新の際に廃寺となり、現在は社務所になっている。明治四年に村社となり、同年七月に現社号に改称した。
                                  「埼玉の神社」より引用

               
                                参道からの一風景

  残念ながら武蔵国における「倭文部」等集団は上里、旧児玉町周辺から吉見町久米田地域への移動までは行きつくことができなかったが、『日本文徳天皇実録』の記載から、少なくとも9世紀には当地で祀られていたことは事実である。
 今後の検討課題としていきたい。



参考資料「日本文徳天皇実録」「常陸風土記久慈郡条」「新編武蔵風土記稿」「大日本地名辞書」
    「埼玉の神社」「吉見町埋蔵文化財センターHP」」「Wikipedia」等
           

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南吉見羽黒神社

 武州松山城は、荒川の支流・周囲は市野川が形成した広大な低湿地帯に囲まれていて、比企丘陵の西端に築かれており、ここから東部および南部一帯は関東平野となって一面の低地が続くところである。城下を流れる市野川は城の北側から西側を廻りこみ丘陵の裾を削り取っているため、標高59mの丘陵の裾に位置する松山城跡の北側と西側には断崖絶壁を形成する部分が見られる。三方を市野川によって囲まれ、「流川の城」と呼ばれる松山城は、戦国期に幾度もの攻防戦がおこなわれており、北武蔵地方で屈指の平山城であった。
 松山城の縄張りは、『天正庚寅松山合戦図』によって最終形の姿を知ることができる。これによると、城域は龍性院(吉見町北吉見)の南側の谷を北の境とし、大沼のある谷を東の境、羽黒神社(吉見町南吉見)の北裏の谷を南東の境とする東西700m、南北550mほどの大規模な城郭であったと考えられる。市野川に突き出た部分から笹曲輪、本丸(本曲輪)、二の丸(二ノ曲輪)、春日丸、三の丸(三ノ曲輪)、広沢曲輪と南西から北東に向かって連郭式に配置され、その両側に太鼓曲輪、兵糧倉(兵糧曲輪)、惣曲輪など、大小さまざまな曲輪や平場が存在する。一方、松山城跡の西方は外秩父山系の丘陵地帯であり、松山城跡とともに戦国期に築城された青鳥城跡・杉山城跡・小倉城跡・中城跡・腰越城跡・安戸城跡などの多くの城館跡が存在する。

 松山城の東側境に鎮座する南吉見羽黒神社は、松山城主難波田弾正入道善吟が松山城三の丸に天文年間(1532-1555)創建、天文15年(1546)河越夜戦の戦闘で敗れて難波田氏は扇谷上杉氏と共に滅亡したという。当社は慶長6年(1601)の廃城に至るまで城内に鎮座していたものの、その後村民により本丸の東方に当たる当地に鎮座、江戸期には流川・根小屋・柚澤・土丸・新宿の鎮守として祀られていた。明治4年村社に列格、大正元年に諸口琴平社・天神社・八幡社の無格社三社を合祀している。
               
            
・所在地 埼玉県比企郡吉見町南吉見257
            
・ご祭神 羽黒権現(推定)
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 不明 

 南吉見羽黒神社は国道407号線を東松山市街地方向に南下し、「百穴前」交差点を左折、道路は信号のあるT字路に達するため、そこを右折する。市野川に架かる市野川橋を越えると正面やや左側には「武州松山城」址の小高い山が目の前に広がり、山裾には「岩室観音堂」も見える。お堂の西側には「吉見百穴」もあり、歴史の息吹を感じさせてくれる場所でもある。この地域から南側には八王子街道や鎌倉に続く道があり、文字通り「交通の要衝の地」ともいえる。
               
                               道路からやや奥に見える鳥居

 市野川を越えて道なりに真っ直ぐ進む。松山城址先の丘上には「武蔵丘短期大学」が並び、そこを暫く進むと、左側に社の旗を掲げる1対のポールが見え、その下には鳥居も立っている。但し道路沿いで民家が立ち並ぶ中で、舗装されていない参道の奥に鳥居がポツンと立っていて、良く確認しないとそのまま通り過ぎてしまうような場所である。車のナビも周辺地域まで誘導してくれるのみ。周辺は交通量も多い場所でもあり、学校も隣接しているので、周囲の道路事情や、歩行者にも気を付けながら何とか到着できた。
               
                    一般道路から参道は伸びており、その先に鳥居がある。
           
               鳥居の手前右側に聳え立つご神木
               
                  南吉見羽黒神社鳥居

 交通量の多い道路から僅かしか離れていないにも関わらず、鳥居を越えて石段に入ると雰囲気が 急に変わる。なんとも言えない独特の雰囲気のある社。

〇新編武蔵風土記稿流川村条
 流川村は江戸より行程十四里、元来此所は松山城附にて、落城の後十一年を経て草創せり、始は比企郡に属して松山庄なりしが、正保四年村を二つに分ち、北の方を当郡に属し、南の方は比企郡たる事元の如しと云傳へり、されど既に久米田村の條に紀せし如く、当村正保改の頃までは、久米田村の内にして(中略)四隣東は久米田村に隣り南は市ノ川を隔て比企郡滝川・柏崎の二村に界ひ、西は同郡松山町の新川字新宿に續き、是も市ノ川を界とす、北は土丸村に接す、東西凡九町、南北六町許、水利不便にして早損がちの地なれば、村の中央に溜井を設て便とす、是当村及土村・根小屋・柚澤四ヶ村の大溜井なり
・市ノ川
 村の南西を流る、幅八間許、此川に口間許の石橋を架す
・羽黒社
 北の方なる山上にあり、當村及根小屋・柚澤・土丸の鎮守なり、社地に古松ありて、頗る佳景の地なり
・別當妙楽寺
 新義眞言宗、御所村息障院の末、松榮山と號す、本尊薬師を安ず
・首塚。社の傍にあり、松山落城の時、死者の遺骸を埋し塚と云
・諸口明神社
 金毘羅権現を相殿とす古兩頭の蛇を祀し故、諸口明神の號ありと云、これも長源寺の持
                               「新編武蔵風土記稿」より引用

 
  鳥居を過ぎると長い石段のスタートとなる。    石段の間には踊り場が何カ所かあり、最初
                        の踊り場で右側には石祠等が祀られている。
 
         筆者にとって直線的な石段は那須温泉神社境内社・愛宕神社以来である。
 
 南吉見羽黒神社が鎮座する地は標高47m程の丘である。鳥居付近が17mの標高であるので、実際は30m程しか標高差はないのだが、社殿まで一直線の石段が続き、200段程。勾配もかなりのもので、意外ときつく、途中踊り場で休憩をとりつつ、やっと社殿まで到着できた。
               
                                       拝 殿

 羽黒神社 吉見町南吉見五七
 大字北吉見にあった中世の山城である松山城は、県内の城館跡の中では最も多数の記録が残っており、幾多の合戦の舞台として登場してきた。
 当社は天文年間(一五三二-五五)に難波田弾正入道善吟によってこの松山城三の丸に祀られたことに始まると伝える。難波田弾正は扇谷上杉朝定に仕えた武将で、松山城を居城とし、その付近一帯を領した。天文六年(一五三七)に河越城主であった朝定が北条氏康に攻められ、松山城に逃れた時、難波田氏は朝定を守って戦った。しかし、河越城の奪回を目指した天文十五年(一五四六)の河越夜戦の戦闘で敗れ、難波田氏は主家の扇谷上杉氏と共に滅亡した。
その後も当社は慶長六年(一六〇一)の廃城に至るまで城内にあったが、その後村民により本丸の東方の現在地に移されたという。
 宝永六年(一七〇九)の棟札には「奉造営羽黒山大権現鎮座□五箇村氏子繁昌諸願成就所・別当明楽寺秀英」「武州横見郡下吉見領之内流川村・根小谷村・湯沢村・土丸村・新宿村」とあり、当時は五か村の総鎮守であったことがわかる。なお、これに見える別当明楽寺は真言宗の寺院で、当社参道入口の左手に堂を構えていた。
 明治四年に村社となり、同三十九年に本殿・拝殿を改築し、大正元年に諸口琴平社・天神社・八幡社の無格社三社を合祀した。
                                  「埼玉の神社」より引用
   
      拝殿に掲げてある扁額          社殿の左側に鎮座する境内社
                            三峯神社であろうか

 ところで南吉見羽黒神社は松山城主難波田弾正入道善吟が武州松山城三の丸に天文年間(1532-1555)創建したという。この難波田 隼人正(なんばだ はやとのしょう 生年不詳 -〜没年・天文6年(1537年))は、戦国時代扇谷上杉朝定に仕えた武将で、松山城を居城とし、その付近一帯を領した。
 難波田氏は平安時代の武士団「武蔵七党」のひとつ、村山党に属する金子小太郎高範を祖とし、鎌倉時代に難波田の地を与えられたことから難波田氏を名乗った。
 南北朝時代、足利尊氏と弟の直義が争った「観応の擾乱」では、難波田氏は直義側につき、難波田九郎三郎は観応21351)年1219日、羽祢蔵(志木市)で高麗経澄と戦い討ち取られたことが「高麗経澄軍柱状」に見える。
               
               帰路も下りの石段が待ち受ける。
          登りの時とは違う筋肉を使用するので、意外とつらい。

 戦国期には難波田氏は河越城を居城とする扇谷上杉氏に仕え、小田原城を本拠とする北条氏の武蔵侵攻に対峙した。天文61537)年427日、扇谷上杉朝興は河越城で死去、朝定が跡を継いだ。上杉朝定は難波田広宗に命じて深大寺城を整備するが、北条氏綱は直接河越城に進撃、三ツ木で朝定の叔父、朝成を破り、上杉軍は総崩れとなり、河越城を捨てて松山城に退却した。氏綱は松山城まで追撃戦を行い、平岩隼人正重吉が上杉朝成を生け捕るなどの戦功を挙げたが、城代を務めた難波田弾正憲重(善銀)らの奮戦で落城には至らなかった。
                  
 その後『快元僧都記』天文6722日条に「難波田弾正入道善銀甥同名隼人佐広儀并子息三人打死、都鄙惜之」と記述がされている。これは同年に上杉朝定が北条氏綱によって河越城を奪われた際に善銀(正直・憲重)の甥である隼人正および3人の息子が戦死したという
        
その9年後後河越城奪回を目論む扇谷上杉朝定は、山内上杉憲政、古河公方足利晴氏らと結んで、天文十四(1545)年、北条綱成の守る河越城を八万とも言われる大軍で包囲する。世に名高い「川越城の夜戦」である。翌天文151546)年420日の北条氏康の奇襲戦で敗北、扇谷上杉朝定は討ち死にし扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉憲政は上州平井城に落ち延びた(河越夜戦)。難波田弾正憲重も奮戦するが、古井戸に落ちて凄惨な討ち死にを遂げたという。

 難波田弾正憲重は扇谷上杉家中きっての文武兼ね備えた勇将で、扇谷上杉氏の柱石とも言える存在であった。北条氏綱に河越城を追われて追い詰められた若き主君、扇谷上杉朝定を守って闘った松山城攻防での「風流歌合戦」など、いかにも坂東武者らしいエピソードが残る。その難波田弾正も、扇谷上杉氏が滅亡し、関東管領上杉憲政が関東を追われるきっかけになった運命の「河越夜戦」で、古井戸に落ちて討ち死にするという、なんとも痛ましい最期を遂げている。滅びゆく関東の旧勢力に殉じて散っていった難波田弾正は「誇り高き最後の坂東武者」の一人だったかも知れない。
               
                          鳥居の先には市野川の土手が広がる。

 山岳修験の神である「羽黒」を冠しているが、地主神として本来は「別の神様」を祀る神社だったかもしれない。確認は取れていないが、吉見の昔ばなしでは、お羽黒さまは大麦の野毛(穂)で目を突いて、片目になってしまったので、周辺地区では大麦は禁忌作物とされているという。
 なかなか複雑な過程を経て、今の地に鎮座している社ではあるようだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「吉見の昔はなし⑥」「
Wikipedia」等
 
 

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長谷八幡神社

 吉見町長谷地域は町の西端部に位置し、比企丘陵地に属する。この丘陵地一帯は県立比企丘陵自然公園に指定されており、吉見百穴や八丁湖周辺に散在する黒岩横穴墓群等、古墳時代を代表する貴重な史跡が近隣に存在する。因みに「長谷」と書いて「ながやつ」と読む。
 長谷八幡神社は、下野守藤原秀郷が天慶年間(938-947)に応神天皇を祀って創建したと伝えられる。江戸期には村の鎮守として祀られ、八幡山と呼ばれる小丘に鎮座していたが、昭和40年代に関越自動車道建設のための採土により、境内地が崩壊してしまったため、昭和47年当地へ遷座したという。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町長谷11852
             
・ご祭神 誉田別尊
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 415日、例祭 724日、秋祭り 1015
                  *
かましめ頒布 1216

 長谷八幡神社は吉見町西部に位置し、近隣には東松山市東平地区の熊野神社が鎮座する。途中までの経路は東平熊野神社を参照。国道407号線を東松山市街地方向に進み、「東平」交差点を左折する。埼玉県道66号行田東松山線に合流後400m程先のコンビニエンスを越えたすぐ先の信号を右折し、道なりに直進する。暫く進んでいくと右側に「長谷工業団地」の工場が立ち並び、信号を過ぎたその先には「八幡公園」があり、その隣並びに長谷八幡神社が鎮座している。
 八幡公園には東側に駐車場があり、そこの駐車スペースを利用してから参拝を開始した。

かましめ(かまじめともいう)とは古来は竈〆と書き、年明けに新しい竃(かまど)の神様を迎えるために竃をしめ、一年働いた竃の神様を休ませるために行なっていたそうだが、現在は新年を迎えるためにお札や神棚周りを来年度のものに取り替える行事の事を指す。
 そこから、正月の歳神様(としがみさま)をお祀りするための神具一式を「かましめ」と呼ぶようになったという。
               
                                  長谷八幡神社正面

 社は道路に面しているが、道路から奥に入った場所に鎮座しており、鳥居手前左側には集会所もあって、そこには駐車スペースも若干確保されていた。
 但し参拝時間は丁度正午ごろで、鳥居に対して逆光状態となってしまった。
 
  鳥居を斜めから撮影。逆光状態は変わらず。   鳥居から参道を撮影。社殿は横を向いている。
        
 社殿は珍しく西向きである。境内は南北方向が長いため、鳥居を越えてから参道を進み、突き当たり付近を左方向直角に曲がると二の鳥居、社殿に到る。
               
                                鳥居から拝殿を望む。
               
                                 拝 殿

 八幡神社  吉見町長谷一二一二
 当社の創祀は古く、天慶年間(九三八-四七)に下野守藤原秀郷が村民らと共に応神天皇を祀って一社を建立したことに始まると伝えられている。
『風土記稿』には「八幡社 村の鎮守なり、長永寺の持、末社 稲荷社 諏訪社 浅間社」と載せている。これに見える長永寺は岩田山密教院と号する真言宗の寺院であったが、明治初年に廃寺となった。
 鎮座地は元来、八幡山と呼ぶ小高い山(標高七二メートル)の頂であった。参道は「男坂」と「女坂」があり、「男坂」が一一一段の石段を一直線に登り詰めるのに対し、「女坂」は緩やかな坂を登って行くものであった。
 しかし、昭和四十年代に入ると、関越自動車道久喜インター建設のための採土がこの山の周囲で行われたことから、参道の各所に崩れが生じ、参詣に支障を来すようになった。このために社殿等の移転を余儀なくされ、山麓に新たな社地を選定し、昭和四十七年四月十五日に遷座祭を執り行った。山頂にあった社殿をはじめ石造物などもすべて新たな社地にそのまま移し、更に参道の一一一段の石段は、神徳の更なる興隆を願って社殿の基礎に使用した。
 なお、かつての鎮座地である八幡山は既に跡形もなくなっている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
鳥居の手前左側に鎮座している境内社、詳細不明。 社殿右側端にある御嶽山座王権現の石祠
 
   社殿右側にある石祠、石神社か?      石祠の右側に並ぶ清瀧辨財天、御神
                              七鬼神の石祠
               
      社殿左側には多くの石祠、石碑、そして奥には不動明王像が無造作に並ぶ。
               
                          社殿から一の鳥居方向を撮影。

 長谷八幡神社は、下野守藤原秀郷が天慶年間(938-947)に応神天皇を祀って創建したと伝えられ、由緒ある古社である。創建当時は「八幡山」と呼ばれる小丘に鎮座していたが、昭和40年代の自動車道開発の為、当地に移されたがため、社本来の姿を見ることができないのは非常に残念なことだ。
 現在の社殿も新たに改築され、八幡山」と呼ばれる小丘をイメージした高台上に鎮座させ、境内社・石祠・石碑等はその当時の物を移築したのであろう。当然境内も綺麗に整備したはずである。境内も太陽の光を燦燦と浴び、まさに「明るい社」といえ、鳥居・社号標柱等を立てることにより、社としての体裁は整えられた。
 ただ筆者が思うに、一千年以上の歴史のある社としての風格、重みは歴然としているようにも感じられた。そして在りし日の社は如何なるお姿だったのだろうかと参拝途中ふと脳裏をよぎったことも事実だ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等
        


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