古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

北吉見神明神社

 北吉見神明神社の創建は口碑によると、江戸時代初期に源氏一門新田一族の後裔であった旧大名の落人が当地を開発、住民らとともに氏神として祀ったことによるという。当社はもともと氏子総代が世襲であり、新井家を初めとする四軒の旧家が永く務めていた。この四軒は「旦那」と呼ばれ、古くから再建行事等の大きな負担のある時には多額の寄附を行って来た。また、総代の他に当番の役があり、氏子区域から家並み順に二名ずつ出て、注連繩などの祭典の準備に当たっているという。
 当社は、かつて氏子が病気の時には拝みに来て、絵馬や髪の毛を上げて願をかけ、全快するとお札参りを行ったという。現在も小絵馬が多数残されており、古くから信仰の盛んだった様子を伝えている。
        
            
・所在地 埼玉県比企郡吉見町北吉見2250
            
・ご祭神 天照大神
            
・社 格 旧柚沢村八反田鎮守
            
・例祭等 元旦祭 12日 春祭り 416日 例祭 710
                 
秋祭り 1016
 吉見町大字北吉見は、吉見丘陵の南西部に位置していて、地域内に古墳後期の吉見百穴横穴墓群(国史跡)や松山城跡(県史跡)があり、昔から開発の進んだ地域であった。
 不思議とこの地域周辺は、グーグルマップ等の地図を確認すると、やたらと飛び地が入り乱れている。嘗て柚沢・根小屋・土丸・流川・久米田村は古く一村であり、各村の境界は相混じり、当村は広さなども「定かに弁し難」かったと『新編武蔵風土記稿』にも記載されていて、現在でも北吉見や久米田・南吉見等の地域には異常に飛び地が多い場所でもある。
 途中までの経路は北吉見八坂神社を参照。南側に接している埼玉県道271号今泉東松山線を700m程東行し、「JA埼玉中央農協 西吉見支店」が右手に見える信号のある十字路を左折する。その後200m程進んだ路地を左折、「八反田集会所」を過ぎたあたりの正面やや左方向に北吉見神明神社の白い鳥居とその先にある社殿が小さいながらもハッキリと見えてくる。
 但し専用駐車場等なく、路上駐車したため、前後からくる車両が来たらひとたまりもなく、また見慣れない車が不自然な場所に駐車しているのは近郊に方々には不審に思われるため、急ぎ参拝を開始した。
        
                 北吉見神明神社参道
 この真っ直ぐに伸びていない参道と周囲の田畑風景、加えてその先に見える純白な鳥居が絶妙にマッチしている。遠くから見える社殿手前の石段の按配もまた良し。近隣の人々が大切に管理しているのが分かるように小高い地に南向きに鎮座しているその眺めもいう事ない。正直北吉見地域の中でも東北端部に位置し、目立たない地に鎮座しながらも、周囲一帯のどかな風景の中に溶け込み、それでいて存在感のある社。
 嵐山町の鎌形八幡神社熊谷市の板井に鎮座する出雲乃伊波比神社小江川地域の高根神社のように、筆者の心をくすぐる社の風景がそこにはあった。ともかく雰囲気が良いのだ。 
       
            正面から見た鳥居とその先に鎮座する社殿
『日本歴史地名大系』「柚沢(ゆさわ)村」の解説
 根小屋(ねごや)村の北方に位置したが、当村および根小屋・土丸・流川・久米田村は古く一村で、各村の境界は相混じり、当村は広さなども「定カニ弁シ難」かった(風土記稿)。大体は東は和名(わな)村、西は市野の川が流れる。また「古ハ温泉アリシヨリ湯沢ト唱ヘシヲ後ニ今ノ字ニ改メシ」と伝える(同書)。元禄郷帳では高四二四石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本竹田(武田)領。「風土記稿」成立時には旗本竹田家と大島家の二給。この二給で幕末に至ったと思われる(「郡村誌」など)。
        
                  参道周辺の様子
 当地は周囲が小高い丘となった小盆地状の地形であり、江戸時代に記された『新編武蔵風土記稿 柚沢村』にも記述されているように「用水は流川村の大溜井及天神溜井を引用ゆ、又村内にも二ヶ所の溜井あれど、もと水利不便な地なれば、やゝもすれば旱損すと云」と旱魃等の被害もあった地域でもある。
        
                 石段上に鎮座する拝殿
 神明神社  吉見町北吉見二二五〇(北吉見字三十八耕地)
 八反田の地は、もと旧柚沢村の小名の一つで、周囲が小高い丘となった小盆地状の中に民家が点在している。隣地の根古屋などとともに松山城跡地に当たり、正保から元禄期(一六四四〜一七〇四)にかけて久米田村から分村した。当社は、現在八反田の鎮守であり天照皇大神を祀る。その創祀由来は口碑によると、江戸時代初期の元和七年(一六二一)三月三日、新田義貞一族の後裔であった旧大名の落人が当地を開発し、住民らとともに氏神として祀ったことによると伝える。永く世襲で氏子総代を務める新井・松崎・西島・高橋の四家は、その開発に従事した人々の子孫とも考えられるが、また「天正庚寅松山合戦図」に見える新井・松崎各氏との関係もうかがわせる。
『風土記稿』柚沢村の項に、神明社のほか、稲荷社・天神社・八幡社・愛宕社があり、各社ともに「竜性院持」となっている。この竜性院は、真言宗の寺で旧御所村の息障院の末寺であったが、開山が不詳であり、中興開山は寛文二年(一六六二)と伝えている。恐らくは当社の創祀とあまり時をおかずして再興され、別当となっていったに違いない。
 当社には、現在境内社として天満宮・御嶽社・七鬼神社等が鎮座している。天満宮は、石碑によれば明治四十五年に合祀された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  社殿左側に祀られている石碑・石祠等            社殿右側にひっそりと祀られている
 左より享保〇年奉納碑・七鬼神社・辨才天・        天満宮の石碑
   大口真神の御符がおいてある御嶽社

 当地域の氏子は、当社のほかにも様々な神仏を信仰している。安産の祈願には川島町正直の観音様に行く。子供の夜泣きが激しい時には、鴻巣市三ツ木の山王様に参詣すると治るといい、受けてきた神札を座敷の壁に貼って守護してもらう。疣(いぼ)を取るには同じ北吉見の地内にある北向き地蔵に祈願し、線香をあげてその灰を疣につけると効くという。
 加えて、春の農耕を始める前には吉見観音から神札を受けてきて、竹につけて村境に立てて村内に悪霊が入って来るのを防ぐ。この日、氏子は禦(ふせぎ)正月と称して一日中休んだという。
        
              何度振り返り見入ってしまう里風景
     筆者の心を揺さぶる社が一社追加されたような心持ちとなった今回の参拝。
    改めてこのような社と出合えたことに対して、神様に心から感謝し手を合わせた。
               本日の青天の天候と相まって、充実した時間を過ごさせて頂いた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
              

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山ノ下稲荷神社


        
            ・所在地 埼玉県比企郡吉見町山ノ下830
            ・ご祭神 倉稲魂命 菅原道真公
            ・社 格 旧村社
            ・例祭等 不明
 山ノ下稲荷神社は、比企郡吉見町北部に位置する山ノ下地域に鎮座する社である。山ノ下稲荷神社は、松山城の攻防戦で果てた武士山崎直宗の子息山崎隼人が、当地を開発、屋敷傍に、「稲荷天神社」を氏神として永禄10年(1567)創建したという
        
                   田甲髙負彦根神社が鎮座する通称「ポンポン山」の岩礁面
                  因みにこの画像は202112月撮影時のもの
 田甲髙負彦根神社が鎮座する通称「ポンポン山」の岩礁面に沿って南北に通じる道があり、そこを南下すると、正面に山ノ下稲荷神社の社叢林が見えてくる。社の入口付近には駐車可能な路地面があり、車両の進行に支障のない場所に車を停めてから参拝を開始した。
        
                 
山ノ下稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「山野下村」の解説
 田甲(たこう)村の東にあり、村域は吉見丘陵の北東端部とその下の低地を占める。山(丘陵)の下に位置することが村名の由来という(風土記稿)。山下とも書いた。文明一三年(一四八一)の板碑がある。小田原衆所領役帳では松山衆の安宅七郎次郎の所領のうちに「吉見郡山下」一貫五〇〇文があった。田園簿では田高六〇石余・畑高八六石余、幕府領。日損場との注記がある。
『新編武蔵風土記稿 山野下村』
 田甲村を下り當村に至て、始て平衍の地なれば、直に村名とすといへり、民家二十五、(中略)吉見用水を引沃げども、しばヾ早損あり、永祿の頃は北條家の士、安宅七郎次郎が知行なる由【小田原役帳】に載たり、
稻荷社 鳩峰寺持、下同じ、
天神社
淺間社 村民持、
鳩峰寺 新義眞言宗、御所村息障院末、和光山と號す、本尊彌陀を安置す、 藥師堂
        
               風情ある
山ノ下稲荷神社の鳥居
        
                    拝 殿
 稲荷神社  吉見町山ノ下六五二(山ノ下字宮田)
 当社は、松山城の攻防戦で果てた武士、山崎直宗の子息隼人により建立された。
 天和元年(一六八一)十一月二十五日の「為取替申当村開発以来村系図并仕来儀定之事」(山崎家文書)によると、永禄九年(一五六六)北越の雄、上杉謙信の城攻めにより松山城守備の上田能登守朝直旗下にあった五人の武士が自害した。五人の子息である山崎隼人・小山兵庫・八木橋刑部・野沢図書・高橋采女は、遺言により当地に落ち、帰農して山ノ下村を開発した。
 この内、開発郷士筆頭である隼人は、永禄十年(一五六七)三月に屋敷そばに氏神である稲荷天神社を建立した。これが当社である。山崎家は、代々名主を務める家柄であったことから、当社もおのずから村の鎮守として祀られるようになった。また、小山兵庫は、永禄十年九月に屋敷そばへ石宮地社(石宮地稲荷社)を建立した。なお、これら五名は、永禄十一年(一五六八)三月に当社と石宮地社の別当である鳩峯寺を開基し、更に、元亀二年(一五七一)八月に当地と隣接する松崎村境に両村惣鎮守「正八幡宮」を建立した。
 なお、『風土記稿』には、当社の名が見えるが、小山家の石宮地社は同家の氏神であり続けたためか、その名が見当たらない。この石宮地社は、『明細帳』によれば明治四十年に当社に合祀されている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 上記の由緒に載せられている「山崎隼人」という人物は、山崎文書によると「松山城主上田能登守朝直入道・永禄九年四月北越へ城を渡す。菩提寺三道村常蓮寺に於て御年六十四歳に而御生害之節、山崎隼人父直宗六十一歳に而、一同伴切腹之節御遺言、依之十一月迠浪人す、十二月二日より当所に住す。慶長七年九月開発人郷士山崎隼人・高三十二石余・此地面六町四反余。天和元年、山崎隼人直成四代孫半兵衛」とあり、慶長七年九月年貢割付状では「開発人郷士頭役山崎隼人、居屋敷を除地となし、名主に任命す」と記されていて、実父の死(切腹)⇒浪人⇒当地に移住、と苦労をしながらも忍耐強く生を全うされた人物であったのであろう。
        
              拝殿の手前に祀られている境内社
  境内社中に石祠が三基祀られている。左より津島神社・富士浅間神社・富士浅間神社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」等
        

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小新井熊野神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町小新井98
             ・ご祭神 家津御子大神 熊野速玉大神 熊野夫須美大神
             ・社 格 旧小新井鎮守・旧村社
             ・例祭等 元旦祭 春日待 415日 夏祭り 715
 埼玉県比企郡吉見町内の北部に位置する小新井地域は、田畑が大部分を占めている長閑な田園地帯である。但し地域南部には、「吉見町ふれあい広場」「陸上競技場」といった施設が設けられているほか、埼玉県道271号今泉東松山線を挟んですぐ南側には、「フレサよしみ」や「吉見町町民体育館」等もあり、町政としても、これらの公共施設が集積している地を地域拠点の一つとして位置づけ、町民の日常生活の利便性や地域交流の活性化を目指しているという。
 この「吉見町ふれあい広場」から北側を100m程進むと、進行方向斜め左側にこんもりした森が見られ、その中に小新井熊野神社は静かに鎮座している。道も社の先で行き止まりとなり、また駐車スペースもないため、路駐にて急ぎ参拝を行う。
       
                 小新井熊野神社正面
『日本歴地地名大系』「小新井村」の解説
 旧荒川筋の河道跡を挟んで上細谷村の東に位置し、北は本沢村。集落は旧荒川の自然堤防上に発達する。古くは上細谷村と一村であったが、明暦年間(一六五五〜五八)に分村したといわれる(風土記稿)。元禄郷帳では高二〇一石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。宝暦一三年(一七六三)下総佐倉藩領となり、同藩領で幕末に至ったと考えられる(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集など)。
        
                       正面鳥居と境内の様子
『新編武蔵風土記稿 小新井村』
 小新井村は元上細谷村の内より分村すと云、村名正保の改には見えず、程なく分ちしと見えて、元祿の國圖及鄕帳に始て見えたり、(中略)又新田は東の方一里許荒川の邊にあり、民戸はなし、爰も寛文八年同人檢して高入となれり、
 熊野社 村の鎭守なり、相傳寺持、
 相傳寺 新義眞言宗、今泉村金剛院門徒、不動を本尊とす、村内名主喜右衛門の先祖開基すと云、觀音堂
        
                    拝 殿
 熊野神社  吉見町小新井一七〇-一(小新井字屋敷)
 荒川と市野川の間の低地帯に位置する小新井は、もと上細谷の一部であった。上細谷から分村した年代は明らかではないが、検地の記録からは正保から元禄にあけてのころ(一六四四-一七〇四)と考えられている。
 当社は小新井の名主を務めた金子家(当主は典彦)の中興の祖とされる金子和索が、天文元年(一五三二)に氏神として紀伊国(現和歌山県)の熊野那智神社から勧請したものと伝えられ、以後、金子家の氏神として祀ってきたという。当社の境内が金子家に隣接しているのは、こうした経緯によっており、鎮座地の字名を「屋敷」というのも、金子家の屋敷があることにちなんだものである。
 社蔵の文書によれば、慶長五年(一六〇〇)、小新井が上細谷から分村したのをきっかけに、当社は小新井の鎮守として祀られるようになったもので、またこの時、金子家はそれまで同家の私有地であった境内九八坪を当社に寄進し、社殿を造営して「村の鎮守様」としたと伝える。その後、江戸時代の後期に社殿の造改築を行い、明治四年に村社となった。なお、江戸時代、当社は金子家の先祖が開基した相伝寺の持ちであったが、相伝寺は神仏分離によって廃寺となり、その跡地は集会所となっている。また、当社ははじめ地内の芋島にあったが、いつのころか現在の社地に移されたとの言い伝えもある。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
            境内に設置されている「
御社殿造営記念碑」
 この
記念碑文には「當社は天文元年当時の名主金子家直が紀伊国熊野那智大社より勧請し慶長五年に小新井に寄進された 爾来字の鎮守として大切にされてきた」と載せている。「埼玉の神社」では天文元年に「金子和索」が社の創建に関わっていたとの記述であり、「金子家直」と名前が違っている。どちらかの記載ミス、または同一人物ではあるが、何時の頃か「改名」している可能性も捨てきれない。現状ではそれ以上の考察は難しかった。
 
  社殿左側に祀られている天満宮の石祠     境内右側隅には古く小さな石碑がある。

 この碑に刻まれている文字は古く見えづらい。但し所々「奉納」「敷石」「参」と見える事から、「埼玉の神社」に載せられている伊勢参宮記念敷石奉納碑であろうかと思われる。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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谷口稲荷神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町谷口99
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧谷口村鎮守
             
・例祭等 祈年祭 418日 夏祭り 710日 秋祭り 1015
「道の駅いちごの里よしみ」の駐車場沿いにある「下細谷」交差点を東行し、埼玉県道27号東松山鴻巣線を荒川右岸方向に進む。650m程先の信号のある交差点を左折、暫く道なりに進むと、進行方向左手に谷口稲荷神社の重厚ある古びた石の鳥居が見えてくる。
        
                                
谷口稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』「谷口村」の解説
 古名村・丸貫村の西に位置し、西は下細谷村。地内に天文一四年(一五四五)の板碑がある。田園簿では「矢口村」とみえ、田高一八〇石余・畑高四四石余、幕府領。日損水損場の注記がある。元禄郷帳では高三〇七石余。宝暦一三年(一七六三)下総国佐倉藩領となり、以降同藩領で幕末に至ったと思われる(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集など)。

『風土記稿 谷口村』の項には、「比企郡松山町より足立郡鴻巣宿への行路にかかれり」とあるように、谷口の集落は松山鴻巣道沿いにある。古くは「矢ノ口」と書き、更に当社の鎮座地付近を「矢筑(やづき 谷筑)と呼ぶことから、中世にはしばしば戦場となった所であったのではないかといわれている。
 一方、当社の南方一帯がかつて葦原であったことから、ここを「野の入口」あるいは「野の尽きる所」という意味で「やぐち」「やづき」と呼ぶようになったとも考えられている。
 
   歴史を感じる重厚な雰囲気が漂う鳥居     鳥居の社号額 「正一位稲荷大明神」
      この石製の社号額の額縁には、天空を舞う双竜が彫り込まれていて、
        この額を制作した職人のこだわりを感じる凝った造りである。
        
             長い参道の先で小塚上に社は鎮座している。
       
          石段付近に一際高く聳え立つイチョウの古木(写真左・右)
       
                                    拝 殿
 稲荷神社  吉見町谷口五六四(矢口字谷筑)
 谷口の集落の中ほどに位置する当社の参道入り口には、古びた石の鳥居が立っている。この石鳥居には「正一位稲荷大明神」と刻まれた石製の社号額が掛かっており、その額縁に彫り込まれた天空を舞う双竜には力強さが感じられる。そこから、長い参道を歩いて行くと、正面が小塚の上に築かれた社殿である。小塚の周りには、銀杏・欅・杉などの古木が茂っているが、長年の洪水と風雪に耐え抜いてきたこれらの樹木は、当社の歴史と共にあると言っても過言ではない。
 当社の創建については、社殿に貞和元年(一三四五)勧請とあるものの、それ以外は不明であり、一説によれば金子仁蔵家の氏神が後年村持ちになったものともいわれている。金子家の屋敷跡は当社の南側である。また、現在のところ、鎮座地の谷口村の開発についても史料等がなく、明らかではない。それは荒川の度々の氾濫によって史料が流出したり、近村同様に村が荒廃した時期があったためと思われる。
『風土記稿』でも、当社については「稲荷社 村内の鎮守なり、村持」とあるだけで、別当は置かれていなかったものか記載がない。しかし、一間社流造りの本殿には数か所「卍」の紋が取り付けられていることから、当社の近くにある真言宗妙蓮寺が当社の祭祀に関与していたと推測される。ちなみに、本殿については、正保年間(一六四四〜四八)及び貞亨年間(一六八四〜八八)の造営記録を伝えている。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
       
      石段下にある
阿夫利神社名の御神燈    塚上に祭られている石祠。詳細は不明。

 当社の祭典は、元旦祭・祈年祭(418日)・夏祭り(710日)・秋祭り(1015日)である。しかし祈年祭(通称春日待)と秋祭り(通称秋日待)は祭典と直会だけの祭りで、氏子を挙げて盛大に行うのは夏祭りである。
 夏祭りは、氏子の間では「芋っ葉灯籠」という。これは、当社の祭りの時期が近在よりも早く、まだ梅雨時期に当たる為雨天になる日が多く、祭りの前夜、氏子の誰もが里芋の葉を傘代わりに差して参詣に来ることからきた通称であるという。
 当日は祭典を執り行った後、集会所から万灯・獅子頭・お囃子連の順に列を組み、当社の入口に到着すると、獅子頭をかぶった者が「宮参り」と称して境内に摺りこみ、待ち受けた子供に対して囃し立てならが社前に至るという風習であるという。
        
                           
社殿側から見た境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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上銀谷神明社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町上銀谷2671
             
・ご祭神 天照皇大神
             
・社 格 旧上銀谷村鎮守
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 415日 秋祭り 1015
 大和田浅間神社参道入口がある道路を北西方向に450m程直進し、「東野第6公園」を過ぎた路地を左折、暫く進むと右手に上銀谷神明社の白い神明造りの鳥居と、その先に社叢林に囲まれて塚上に鎮座する上銀谷神明社が見えてくる。
        
                  
上銀谷神明社正面
『日本歴史地名大系』「上銀谷(かみしろがねや)村」の解説
 谷口村の東に位置し、東は大和田村。古くは南接する下銀谷村と一村で、銀谷村といい、銀屋とも記したが、貞享二年(一六八五)に二村となった。地内薬師堂には嘉暦三年(一三二八)・至徳三年(一三八六)の板碑がある。この薬師堂に安置する薬師如来石像の腹籠に納められている古杉薬師が「しろがね」であることが村名の起りという(以上「風土記稿」「吉見町史」など)。中世には大串郷のうちで推移した。永禄九年(一五六六)一〇月二四日、太田氏資は「大串之内銀屋不作、十七貫文之所」などを内山弥右衛門尉に与え(「太田氏資判物写」内山文書)、同一〇年一二月二三日には北条家が氏資の証文に任せて矢(弥)右衛門尉に同所などを安堵している(「北条家印判状写」同文書)。
        
              塚上に鎮座する
上銀谷神明社社殿
 地域名「銀谷」は、今では「ぎんや」と呼ばれているが、明治初年までは「しろがねや」と呼ばれ、その名は、当社の別当であった薬師寺の本尊に銀の胎内仏が納められていることに由来しているという。
 当社の境内は、上銀谷のほぼ中央にあり、社殿は塚上に建っている。荒川と市野川の間に位置するこの地域は、低地であるため、しばしば水害を被ってきたが、当社の社殿は塚の上にあるため大きな被害はなかった。それでも昭和13年の大水はすさまじく、氏子は自分の家の屋根を登って難を逃れた程であったが、この時は当社の社殿も半分くらいは水に漬かったという。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上銀谷村』
 上銀谷村は昔上下の別なかりしを、貞享二年分村せりと、民戸十七、(中略)
 神明社 藥師寺の預る所にして、村の鎭守なり、
 藥師堂 浄土宗、川越蓮馨寺の末、無量山と號し、不動を本尊とす、
 藥師堂 腹籠に、行基の作佛を置り、傳へ云、此像はもと古名村の民家の守護佛なりしが、夢の告によりて境内古杉の下に安置せり、依て古杉薬師と呼、其杉今も堂後にあり、幹の大さ三圍許、樹根より一丈ほど上にて、枝十二に分れて繁茂せり、

 神明社  吉見町上銀谷三三七-一(上銀谷字神明)
 社伝によれば、当社は、大同年間(八〇六〜一〇)に銀谷の村が始まって以来、その鎮守として崇敬されてきたという。また、氏子の間には、江綱の五太夫様の氏神を当地に勧請したものであるとの言い伝えもある。「五太夫様」という人物については、明らかではないが、戦国時代末期に江綱を開いた「江綱草分け七人衆」の一人、あるいは当時この地で活躍した伊勢の御師ではなかったかと考えられる。
 銀谷は、村の発展にともなって、貞享二年(一六八五)には上下二村に分かれたが、その際、当社は上銀谷の鎮守となり、下銀谷では稲荷社を鎮守として祀るようになった。『風土記稿』上銀谷村の項に「神明社 薬師堂の預かる所にして、村の鎮守なり」とあるのは、当時の状況を表したものである。なお、薬師堂は、霊亀年間(七一五〜一七)に行基が境内の古杉一幹を使ってその本尊を作ったことに始まると伝えられる浄土宗の寺院で、現在は薬師寺と称している。
 拝殿の前には、かつて大人ふた抱えほどもある黒松があり、当社の創建時からあるものといわれていた。この松は、古木である上に枝ぶりもよいので村人の自慢の一つとなっていたが、残念なことに松食い虫にやられてしまい、昭和五十年代にやむを得ず伐採してしまった。
 特に神木として注連縄を張ったり、特別な信仰があったわけではないが、長い間氏子に親しまれてきた樹木だけに惜しまれる。
                                  「埼玉の神社」より引用
*江綱草分け七人衆…江綱村の開発には「小高家文書」によると、永禄7年(1564)に小田原北条氏に敗れた太田氏や里見氏に与した野本兵庫吉久・山口七兵衛定重・斉藤市右衛門胤善・小倉主水秀陰・中村将監有文・神田左近林重・小高藤左衛門宣興の七名の武士が帰農し、当村を開拓する際に勧請したともいう。
 当社の祭礼に関して、415日の春祭りでは、嘗て大正時代には拝殿の前で、神職の竹井家の夫人が春神楽を奉納していたが、昭和に入り、祭典と直会だけの祭りになっている。また1015日の秋祭りには、氏子各戸で「お日待」と言って餅や赤飯を作って祝う行事であったが、今は祭典を行うようになっている。
        
               拝殿上部に掲げてある
奉納板
 拝殿正面には、当社の簡単な由緒と年中行事及び「敬神生活の綱領」を記した板が掲げてある。氏子のだれかが奉納したものではなかろうか。

 嘗て昭和三十年代までは、当社の本殿は茅葺きであったという。そのため、屋根が傷つくと、氏子総出で西吉見の安楽寺周辺に映えている山茅を刈りに行き、屋根を葺き替えたという。『風土記稿』には「民戸十七」と載せており、その少ない戸数と人員で、長い間社の管理を行って来た。社の維持管理は、村内の諸役の一つで慣例的なものであるとはいえ、屋根の葺き替え等の諸事を長い間行ってきたことは、氏子の方々の崇敬の念と日頃の共助の心がけが厚い証拠でもあろう。
 上銀谷の人々は、全戸が薬師寺の檀家というわけではないが、誰もが当社を村の鎮守として信仰するのと同じように、薬師寺を村の寺として厚く信仰しており、新生児の宮参りをはじめとする人生の節目の参詣や月参りなどは、当社だけでなく、薬師寺にも参っているという。
        
                           石段下に祀られている石祠二基
               
左から稲荷大明神 稲荷大神
        
                石段下から鳥居方向を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
                   
        

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