古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

片柳飯盛神社

 鶴ヶ島市脚折地域に雷電池(かんだちがいけ)がある。現在は「雷電池(らいでんいけ)児童公園」と名称は変わったが、この公園内には「雷電神社」が鎮座している。この雷電池で4年に1回開催される、江戸時代から続く神事「脚折雨乞」が有名で、大きな龍神が街中を練り歩く地域伝統芸能「雨乞い祭り」がある。
「脚折雨乞」の由来として鶴ヶ島市HPには以下の伝承を載せている。
「昔から日照りのとき、脚折の雷電池(かんだちがいけ)のほとりにある脚折雷電社(らいでんしゃ)の前で雨乞いを祈願すると、必ず雨が降った。特に安永・天明(17721789)の頃には、その効験はあらたかで近隣の人の知るところであった。 しかし、天保(18301844)の頃には、いくら雨を祈ってもほとんどおしるしがなくなってしまった。
 それは、雷電池には昔、大蛇がすんでいたが、寛永(16241644)の頃、この池を縮めて田としたため、大蛇はいつしか上州板倉(群馬県板倉町)
にある雷電の池に移ってしまった。そのため雨乞いをしても、雨が降らなかった」
この雷電池(かんだちがいけ)等を水源(実は水源の本流は、関越自動車道・鶴ヶ島IC付近で二手に分かれる西側の上流部には池尻池ともいわれていて、雷電池同様に湧水となっている)とする飯盛川は、鶴ヶ島市と坂戸市との境界付近からほぼ一貫して北流し続けるのだが、飯盛神社北西地点付近で突然流れを直角に東へと変える。また水源から飯盛神社まで北方向に流れているのだが、そこまでは「山田川」。そこから東方向に進み、越辺川へと合流する4㎞程の流路が「飯盛川」といわれていた。
『新編武蔵風土記稿』「坂戸村」
「山田川 高麗郡臑折村内雷神池より流出、當村に入、隣村片柳へ沃げり」と記載があり、
山田川は飯盛川の旧名と思われる。現在はどちらも「飯盛川」で統一されているようだ。
        
              ・所在地 埼玉県坂戸市片柳1829
              ・ご祭神 豊保食姫命
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 祈年祭 226日 例大祭410日 秋祭り 1017日
                   勤労感謝祭 1126日 大祓い 1228日
 片柳飯盛神社は国道407号線を南下し、越辺川に架かる「高坂橋」を過ぎてから1㎞程先にある信号のある交差点を右折する。この交差点右側にはコンビニエンスもあるので分かりやすい。その後200m先の十字路を再度右折すると、正面に社叢林、及び境内の風景が見えてくる。
 南側正面には鳥居が立っており、そこから北方向に一色線の参道があり、その真ん中付近には「片柳第一集会所」がある。集会所近辺で参道を含む境内において、撮影に支障のきたさない場所に駐車させて頂き、その後参拝を開始した。
        
                  片柳飯盛神社正面
 
        正面石製の鳥居                鳥居の社号額
 いつものように『日本歴史地名大系』には「片柳村」の解説が以下のように載せられている。
 [現在地名]坂戸市片柳・芦山(あしやま)町・伊豆の山(いずのやま)町・末広町
 
坂戸村の北東にあり、北は北東流する越辺(おつぺ)川を隔て比企郡田木(たぎ)村(現東松山市)。飯盛(いいもり)川が北東へ流れる。中世には鎌倉街道が通っていた。承元四年(一二一〇)三月二九日の小代行平譲状(小代文書)には養子俊平へ譲られた小代(しようだい)郷(現東松山市)内「をつへの村」の南境として「かたやきのさかひ」がみえる。文明一九年(一四八七)二月甲斐国吉田(現山梨県富士吉田市)から武蔵国へ入った聖護院道興は「かた柳といへる所をとをるとて」として「一しほのみとりになひく糸ハけに春のくるてふかた柳かな」と詠じている(廻国雑記)。この「かた柳」を当地に比定して歌碑が建てられている。休台(きゆうたい)寺の過去帳に伝えられたという元亀二年(一五七一)九月二三日の紀年のある飯盛神社棟札銘写には「入西郡ノ内片柳郷長柳山妙慶寺」とある(風土記稿)。
承元四年小代文書「越辺村の四至、南はかたやきのさかひをかきる」
鎌倉光触寺文書 「貞治三年六月二十五日、成田下総守泰直と玉井蔵人入道覚道は、片楊長門入道の押領を退け、鎌倉大慈寺新釈迦堂領武蔵国横沼郷(坂戸市)の下地を寺家雑掌に打ち渡す」とあり、片柳「カタヤナギ」は、元は「片楊 カタヤギ」と呼んでいたようだ。
 
      鳥居の先に立つ社号標柱          静かで落ち着きのある境内
        
                 片柳飯盛神社由来の碑
 由来
 片柳の地は康安年間片柳長門入道の草蒼の土地なり。産土神として飯盛大明神を祀る。
 御魂は伊勢の國外宮豊保食姫命(保食神)なり伊勢の國外宮の地形に類似して西側に山田川北側に流るるを御神号を以って飯盛川と唱えり。
 元亀貳年當所の地頭岩槻城太田氏の被官にて恒岡入道大林軒道會日勢と片柳の長柳山妙慶寺創建開山の祖相州比企ヶ谷妙本寺住持本行院日慶上人を請じて社殿を建立し飯盛大明神、三十番神を併祀し神佛混淆の神社とす。爾来約参百有餘年を経て明治に入り混淆の制度廃止となり三十番神を正覺山休寺に遷座する。
 明治五年に村社に列せられる。後明治四拾年五月村の無格社、稲荷社、荒神社、熊野社、天神社、八坂社、白山社の六社を合祀し飯盛神社と號す。
 拜殿は安政貳年の再建である。
        
                     拝 殿
 飯盛神社 坂戸市片柳一八二九(片柳字宮の前)
 片柳の鎮守である当社は、通称飯盛様と呼ばれ、また神仏混淆時代に三十番神を祀っていた名残で番神堂ともいう。社殿の建築については棟札写しに「安政二年九月 大工棟梁武州高麗郡的場村柴原建五郎藤原規守」とある。
 伝承として康安年間に創立というが確たる資料はない。『風土記稿』に「飯盛明神社 当社は旧き鎮座の由伝へり、元亀年中三十番神を配すと云、休臺寺の持」とあり、更に休臺寺の項に「当寺に飯盛神社の古棟札を蔵せしが、何の頃か失へる由」と載せる。また、元亀二年、地頭岩槻城太田氏被官恒岡入道大林軒道会日勢という者が、片柳郷長柳山妙慶寺(現休台寺)の開祖、鎌倉比企谷妙本寺住持日慶上人に請て三十番神を勧請したとも伝える。恐らくは、農耕神として祀られていた神に三十番神を配したものであろう。
 主祭神は豊保食姫命で、伊勢の外宮と同じであると伝え、外宮の鎮座地である山田原にちなみ、当社近くの川を山田川と称している。
 明治初めの神仏分離により三十番神を休臺寺に遷座、明治五年に村社となり、同四〇年には熊野神社をはじめとする六社を合祀した。
                                   「埼玉の神社」を引用

 休臺寺
 日蓮宗、房州小湊誕生寺の末、正覺山と號す、本尊三寶祖師を安ず、開山日慶天正八年八月十三日示寂、中興開基横田次郎兵衛延寶七年正月廿三日卒す、法名正覺院一乗日臺居士と云、當寺飯盛神社の古棟札を蔵せしが、何の頃か失へる由、過去帳の端に寫を殘せり、其あらまし當所の地頭松山の旗下、恒岡入道大林軒道會日勢といへる人、三十番神を勧請せりと、又武州入西郡の内片柳郷長柳山妙慶寺日慶上人の勧請也、相州鎌倉比企ヶ谷妙本寺住本行院日慶、元亀二年辛未九月廿三日とあり、是をもて考れば往古は山號・寺號も今とは違ひしに、延寶年中中興開基横田氏の法謚を取て山號とし、其おりから寺號も改めしものなるべし、文中松山の旗下と記せるによれば、松山は則比企郡松山にて、彼恒岡大林軒と云人、もしくは松山城主上田氏の臣に恒岡氏ありてそれ等をさすにや、いまだつまびらかなるを知ず、
 祖師堂
 此堂は元毘沙門堂にて毘沙門を安ぜしに、近き頃傍に日蓮の像を並べ置しかば、今は祖師堂とのみ稱せり、堂の傍に元亀二年の古碑一基あり、
鍾樓。寶永五年十一月の銘を彫し鐘を掛たり。
                             『新編新編武蔵風土記稿』より引用
        
               拝殿向拝部の細やかな彫刻の細工。
         製作者は「武州高麗郡的場村柴原建五郎藤原規守」という。
 
     拝殿手前右手にある神楽殿       拝殿右隣に祀られている境内社・稲荷社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「鶴ヶ島市HP」
    「境内掲示板」等


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