古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

赤尾白山神社


        
              
・所在地 埼玉県坂戸市赤尾1688
              
・ご祭神 菊理媛命 伊奘諾尊 伊奘冉尊
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 

 島田天神社から一旦埼玉県道74号線日高川島線方向に進み、越辺川の土手に架かる橋の300m手前にある十字路を左折、その1km程先に赤尾白山神社は鎮座している。社に通じる道路が狭いが、鳥居脇に駐車スペースは確保されていて、そこの一角に止めてから参拝を行った。
 
社の北側で背後には越辺川の土手がすぐ目視でき、嘗て何度も水害等の被害を受けたそうであるが、実際に来てみると成程と頷ける。やはり自らの目で見て初めて分かるものもある、としみじみと感じた。
 今はそんな事は感じさせない位穏やかで長閑な風景が似合う社である。
        
                  赤尾白山神社正面
 島田地域に鎮座する島田天神社の北東方向に赤尾地域はある。この赤尾地域は坂戸市の最北端に位置し越辺川を境として、東松山市早俣、川島町長楽と接している。この地域は都幾川が越辺川に合流した下流に位置し、越辺川の流路が北東方向から北端で流れを南東に転じていて、堤防が切れやすく水害の常襲地帯でもあった。
 この赤尾白山神社は丁度北部付近で越辺川に都幾川が合流している地に鎮座している。
        
                            木製の朱がひときわ目立つ両部鳥居
『日本歴史地名大系 』には「赤尾村」の解説が紹介されている。
 赤尾村 [現在地名]坂戸市赤尾
 島田村の東にある。北西境を北東へ流れる越辺川が北端で流れを南東に転じ、東境を流れ下る。東は同川を隔て比企郡中山村(現川島町)、北は同川を境に同郡正代村(現東松山市)。承元四年(一二一〇)三月二九日の小代行平譲状(小代文書)には、行平から養子俊平へ譲られた小代郷(現同上)の村々のうちに「みなみあかをのむら」がある。
 現越生町最勝寺旧蔵の応永三年(一三九六)の大般若経奥書に「赤尾阿弥陀堂海禅」とある(武蔵史料銘記集)。
戦国期に当地に来住したと伝える安野・森田・林・池田・山崎・新井の六家が草分百姓とされる(元禄一二年「田畑町歩村高覚」森田家文書)。林家は信州諏訪地方から来住した土豪ともいわれている。近世には入間郡河越領に属した(風土記稿)。(以下略)
        
                     拝 殿
『鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料』には、『日本歴史地名大系 』と重複する内容も多いが、戦国時代での内容が細かく記されているので、そちらも紹介する。
坂戸市赤尾「六人の侍」
赤尾の森田家に伝わる「森田文書」には「天文七年、安野・森田・林・池田・山崎・新井の侍六人が石井の台地に住む。元亀三年、六人は石井の支配を逃れ、越辺の川端へ移り住み赤尾村と名をつける。赤尾村の古き家に安田・田中・浅黒、此外天正慶長の頃、大塚・兼子等、其外もあり。慶長十四年から元和元年までに浪人六人、岡野・水沢・大沢・坂巻・浅見・大久保十郎左衛門が所々から移住す」

但し赤尾村の名は、鎌倉時代初期の承元四年(1210)に書かれた「小代行平譲状」(永青文庫所蔵写による。)に、「みなみあかおのむら(南赤尾ノ村)」と載っているので、元亀三年(1572)に遡る362年前から、赤尾村の地名はあった。故にこの年に初めて地名が誕生したわけではない。
        
        境内に祀られている石祠。左より「○○○大権現」「一目連神社」
        
          境内に祀られている正面中央に梵字を配した特異な塔
        
 赤尾白山神社の左側には鳥居が並立し、その先には境内社・八坂神社 愛宕神社が鎮座している。

           境内社・八坂神社               境内社・愛宕神社 

(赤尾村)白山社
村の鎮守なり、本地佛は十一面観音にて銅の華曼に彫たる物なり、村内修験明王院の持、
                               「新編武蔵風土記稿」より引用


 白山神社 坂戸市赤尾一六六八
 当社は都幾川の合流する越辺川の南岸に鎮まる。村は低地のため古くから水害に見舞われ、社の壁面には水害の痕跡も残されている。
 創立について社記は文亀年間と伝え、『風土記稿』によると村の鎮守であり、本地仏は十一面観音を彫った銅の華鬘であった。ただしこれは現存していない。
 祭神は、菊理媛命・伊奘諾尊・伊奘冉尊の三柱である。
 別当は修験明王院であったが、これは本山派修験か当山派修験か明らかでない。しかし、村内にあって村人のために諸祈禱を修していたことは伝えられている。
 また、社記に「元禄水帳ニハ白山社免除地二反六畝壱歩福寿院支配」とあり、明和五年から白山諏訪明王供米として米七斗を領主から賜っている。これは天保年間からは米七升五合になり、明治四年まで続けられたとあるが、福寿院および諏訪明王について、現在では明らかにできない。
 本殿は一間社流造りである。覆屋及び拝殿の造営年代は安政五年と言われ往時幣殿はなく土間に踏み石を置いた形であった。
 明治初めの神仏分離により別当は廃され、明治五年には古くから村鎮守であったことにより村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料」等

                     

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