島田天神社
・所在地 埼玉県坂戸市島田722-3
・ご祭神 菅原道真公
・社 格 旧村社
・例祭等 島田天神社祭 4月上旬 夏祭り 7月17日
勝呂神社と同様に国道407号線を熊谷市、東松山市を抜けて南下し、「関越自動車道 鶴ヶ島IC」方向に進路をとる。越辺川を超えた直後にある「高坂橋」交差点を左折し、1.5km先の十字路を左折し400m程進むと島田天神社に到着することができる。
越生町にある「臨済宗建長寺派・大慈山正法禅寺末寺」にあたる「天林山東蔵寺」が社に隣接しており、そこの専用駐車場をお借りしてから参拝を開始した。
島田天神社正面
坂戸市島田地域は越辺川に隣接した土地で、昔から越辺川が氾濫し水害に見舞われていた。残念ながら度重なる水害と大正時代の火災で古記録等は失ったが、坂戸市史の嶋田の天神社の項によれば、”『入間神社誌』に「元禄年間に西京北野社を分祀し。鎮守として尊崇した由、口碑に伝える」とある。はじめは天神社別当と称される人が祀職をしていたが、元和二年に越生町の臨済宗正法寺から丈雪という僧が来て一寺を開創し、天神山東蔵寺と号し明治五年まで別当寺をしていた。(坂戸市史 第2編 中世)”とあり、元々、島田村にあった天神社の境内に置かれる寺として開創され住職が神官より上の社僧として行事が行われていたようだ。
当日は雨交じりの中での参拝。木製の鳥居にも雨が滴り落ちているのがわかる。
この地域には雨や水・河川に纏わる伝承・伝説「島田のお諏訪さま」が今なお語り継がれている。今回の参拝も神様の思し召しといえようか。
○島田のお諏訪さま
赤尾のお諏訪さまと島田のお諏訪さまは夫婦であるといわれていた(姉弟であるとも)。また、島田のお諏訪さまは小沼の方を睨むように耕地の中に建っており、島田と小沼は仲が悪く、未だに縁組みをしてはならないともいう。それは次のような話があるからだ。
昔、越辺川が洪水となり、島田に大水が出そうになった時、島田のお諏訪さまと赤尾のお諏訪さまが竜神となって、小沼にある堤防を壊しに行った。または、二つのお諏訪さまから火の玉が上がり、小沼へと向かったともいう。
そうして下流部の小沼の堤が竜神に切られ決壊すると、上手の島田や赤尾の水は引いて水害は無くなるのだった。この際、小沼のお諏訪さまからも竜神が出て、これを防ごうと大変な争いになったという。だから、島田と小沼は仲が悪かったのだ。
島田の方のお諏訪さまは建前としては現在の島田の鎮守・天神社に合祀されているようだが、『新編武蔵風土記稿』著作時の文化・文政期(1804年~1829年)では諏訪明神が島田の鎮守となっていたようだ。
拝 殿
境内社 諏訪社・稲荷社・九頭龍社合祀社
天神社 坂戸市島田七二二(島田字本天神町)
当地は越辺川右岸の低地に位置する。口碑に「村の開拓は六軒百姓と呼ばれた時代にさかのぼる」という。古くから頻繁に大水に見舞われる所で、そのたびに大きな災害を被っている。特に、明治四三年秋の大水害の時には土地の様相が一変したという、
社伝によると当社の創祀は、草分けの六軒が入った永禄年中、度重なる災害を恐れた村人が、天神に祈り開拓の成就を願って京都の北野神社を勧請したという。
社記によると天正一八年火災により社殿を焼失する。この火災により古記録を失ったが、寛永一六年に旗本の知行地となった時の検地水帳に社地五畝十歩除地とあり、往時の社の状態が推察できる。
本社再建棟札に「元文二年正月 別当東蔵寺七世天叟宗領代」とある。東蔵寺は元和二年に越生町今市村正法寺四世大雪の開基した寺で天神山と号し、俗に“天神別当”と呼ばれていた。
明治五年に村社となり、同一九年に本殿・拝殿を再建する。同四一年には道免の神明社・勝呂の諏訪社・稲荷本町の稲荷社・町西の九頭竜社を合祀する。
一間社流造りの本殿内には、一〇センチメートルの天神座像があり「正徳五歳川越町法梁鑑全」の銘がある。
「埼玉の神社」より引用
社殿と境内社諏訪社・稲荷社・九頭龍社合祀社との間に祀られている
富士浅間大神等の石祠群。
ところで、この地域には昭和5年(1930年)頃に塚越から伝授されたという「島田ばやし」といわれる伝統芸能が存在していて、坂戸市の無形民俗文化財に指定されている。
○島田ばやし
・指定年月日:昭和52年2月23日
・日時:7月中旬
・場所:坂戸市大字島田 天神社
昭和5年(1930年)頃に塚越から伝授されたという。屋台に乗って演じられ、地域を巡回するという。大事な伝統芸能を大切に守って頂きたいものだ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「入間神社誌」「坂戸市HP」「大慈山 正法寺HP」等