古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

秋山羽黒神社

 寄居町秋山地域に鎮座する秋山羽黒神社は『新編武蔵風土記稿』にて「本地仏大日を安ず」と記載されている。この「本地仏」とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神道の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えであり、本地垂迹(ほんじすいじゃく)ともいう。
「本地」とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹(あと)を垂れるという意味で、神仏が現れることを言う。究極の本地は、宇宙の真理そのものである法身であるとし、これを本地法身(ほんちほっしん)という。また権現の権とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が神の形を取って仮に現れたことを示す。
 日本では6世紀中頃に初めて仏教が伝えられたとき、これまでの神道信仰を守ろうとする人々との間で、争いが起こる。このときの戦いでは仏教信仰側の勝利となり、日本の古来の神道「八百万」(やおよろず)の神々は、仏の下に位置付けられることとなった。
 その後日本では、「本地垂迹」と言う思想が生まれ、インドの仏菩薩(本地)が、日本の実情に合わせて姿を変えて現れた(垂迹)という考えである。この思想は広く受け入れられ、八百万の神々と仏は、仏教主導のもとで融合し共存することとなった。
 神道信仰と仏教信仰との融合調和を「神仏習合」と呼ぶが、その後、この思想は、明治政府によって天皇を頂点とする「国家神道体制」を推進するにあたり、神仏を完全に分離させ(神仏分離令)、本地仏の多くは散逸してしまったという。
        
             
・所在地 埼玉県大里郡寄居町秋山743
             
・ご祭神 不明
             
・社 格 不明
             ・例祭等 不明 
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0981573,139.1741538,16z?hl=ja&entry=ttu
 鉢形城公園から埼玉県道294号坂本寄居線を東秩父村方向に西行する。2㎞程進むと「釜伏山参道」の標柱が進行方向に対して右側に見えるY字路に達する。県道は左方向にそれるように進行するが、そこは右斜め方向に進路を変更し、道幅の狭い道を進む。周囲には秩父外輪山の山脈が見え、民家も道路沿い以外には立ち並びそうもない静かな農村風景を見ながら600m程進むと、突如進行方向右側に秋山羽黒神社の木製の鳥居が見えてくる。
        
                                 秋山羽黒神社正面
 実はこの社から暫く進むと民家が数件あるが、行き止まりとなっている。周囲には鬱蒼とした森が続き、当然ながら参拝客もいない。当日の天候は雨交じりの曇りとも合わさって、寂しさも漂い、ひっそりと佇む社という第一印象。
 但しこのような場所柄であるにも関わらず、道路沿いには土砂崩れ防止の為か、石垣も組まれていて、社の入口にもしっかりと組まれていたのは意外であった。
 駐車スペースは見当たらないが、鳥居の向かい附近に駐車可能な路肩が僅かにあり、そこに停めてから参拝を開始した。
  
 鳥居前でお辞儀をしてから丘陵地を登る。予想外なことに、登った当初には全く石段がなく、細い山道のような上り坂を進む(写真左)。勾配もあるため、途中から息も上がるが、そこは辛抱。暫く進むとやっと石段らしき物体が見えてくる(同右)。こういう場所に参拝すると自分の日頃の運動不足を思い知ることができ、このような場所に巡り合うことができた感謝の言葉を心の中で呟きながら登らせて頂いた次第だ。
        
                      登りきった先にある境内の風景。
 社に到着するまでの石段があまりに粗末なものであったため、社自体にあまり期待していなかったので、山道を登りきった先にある境内、及び拝殿に通じるまでに何段もある石垣を見た時は正直驚きを禁じえなかった。
        
                              石製の二の鳥居

『新編武蔵風土記稿』巻之二百二十三 男衾郡之二 秋山村条
「正保の改には載せず、其後何の頃か、西之入村より分村して元禄の改には西之入村枝郷秋山村とあり、今は全く一村となって枝郷の唱へは用へず(中略)村内寄居より秩父への往環かゝれり」
「羽黒権現社 村の鎮守にて、 本地仏大日を安ず、
村持」

 寄居町にある鉢形城は、関東支配を確立した後北条氏の北武蔵から上野支配の拠点の城郭である。北条氏康四男氏邦が藤田康邦の娘婿として入城し、鉢形領支配を完成させた城郭として戦国史上極めて重要な位置づけがされている。
 ところで鉢形城時代の主たる交通路の中には「秩父道」といわれる「秩父往還」が既に存在していた。この「秩父往還」は近代まで主要な生活路として活用され続けている。
「秩父道」は皆野町三沢から釜伏峠を越え秩父へ至る裏道であり、当時は主要な交通路であった。熊谷や児玉方面からの道は寄居を通過し、「子持瀬渡」と言われる渡瀬で渡河した。「子持瀬渡」を渡らないで波久礼を通過する「川通り」は戦国時代当時交通の難所で、この「山通り」は重要なルートであった。
子持瀬の渡しは、『新編武蔵風土記稿 折原村条』に以下のように記されている。
 〇荒川
秩父郡風布金尾に村の界より当村へ入り、郡界を流れて末は立原村へ達す。是荒川当郡へ入始なり川幅百五十間許、冬より春までは假の芝橋を架して往来を便す、川を渡れば榛澤郡寄居村なり、渡口の邊に子持岩と唱ふる岩あるゆへ、土人子持瀬の渡と呼ぶ」
 
   鳥居に掲げてある石製の社号額       境内には社務所(?)らしき建物有り。
                       但し紙垂もあるので神楽殿の類かもしれない。
        
         何とも男性的で荒々しいという表現しか思い浮かばない石段、
 石垣上には女性的な拝殿が小じんまりと鎮座していて、石段・石垣とのアンバランス的な所が妙に心動かされる構図となっている。
 境内は拝殿を中心に横に広がりをみせ、石垣で補強されている。また周囲を確認すると、石垣は鳥居付近に1段あり、その後拝殿に通じるまでに2段が目視できる。更に拝殿部から奥にも切り崩した面もあるようだ。
       
           石段手前には杉の御神木が聳え立つ(写真左・右)
        
                     拝 殿
 羽黒神社 寄居町秋山743(秋山字羽黒山)
 〇歴史

 当社は秋山の中央にある羽黒山の山上に鎮まる。 創建については明らかでないが、『風土記稿』に「羽黒権現社 村の鎮守にて、本地仏大日を安ず、村持」とあり、化政期には村の鎮守であったことが知られる。 しかし、明治初年の『郡村誌』には若宮社・八坂社・白髭社の三社は載るが、羽黒神社の名は見えない。 また、明治生まれの氏子は、羽黒山には八坂神社を祀っていたと語っている。 何らかの理由で、明治初年に羽黒神社から八坂神社へ社名を改めたのであろう。
 明治四十年、折原の佐太彦神社に若宮社・八坂社・白髭社の三社を合祀した。 このため、羽黒山の八坂社の跡地に合祀記念碑が建てられ、遥拝所の形でその後も折々の参詣が続けられていた。 昭和三十年代に入ると、再び鎮守を守ろうとの気運が高まり、ついに昭和三十四年に八坂神社の跡地を社地として三社の神霊を迎え、再興を果たした。 社名は、鎮座地の羽黒山の名にちなみ、羽黒神社と号した。
                        「埼玉の神社 大里・北葛飾・比企」より引用
 
 正面の石段・石垣から拝殿に通じるルートの他にも、その右側端には別の石段もあり(写真左)、そこからのアプローチは勾配は緩やかで足腰の負担は少ない。思うに年配の方や、足腰の悪い方々には、そちらから進むように配慮された階段ともいえなくはない。またその石段を進むと、拝殿の右側に達するが、そこに祀られている石祠もあった(同右)。
        
 拝殿奥には小さな本殿部があり、その奥には丘陵地面を堀り、岩盤がむき出しになっている。境内は可能な限り平坦部を選んだのであろうが、それでも基礎工事を行い、山の丘陵地面をなだらかにするため、多くの人的な労働力を用いたのであろう。
 拝殿奥にはその時の削平した面が横一列に並べられた跡が今でも残されている。
       
 社殿奥には人工的な工事により岩盤が露わになった崖状の面があり、下部には石で補強されている所もある(写真左)。また「村社 八坂神社跡地 佐太彦神社に合祀」と彫られた石碑も設置されている(同右)。
        
                       拝殿手前の石垣より見る境内


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社 大里・北葛飾・比企」「Wikipedia」等

*追伸
 羽黒神社のご祭神は本来羽黒権現であるが、昭和34年に八坂神社の跡地を社地として三社の神霊を迎え、再興を果たしたのであれば「八坂社 素盞嗚命」・「若宮社 仁徳天皇」・「白髭社 天児屋根命」がご祭神となるが、確信がないため不明とした。
        
      



拍手[1回]