古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

鉢形八幡神社

 神社沿革
 名称  八幡神社
 祭神  誉田別命第十五代応神天皇
 勧請年 天長元甲辰八月(八二四年)
 当社は北関東の拠点として重要な役割を果たした鉢形城主北条氏邦に依って永禄年間(一五五八~)に再建された天正十八年鉢形城落城の際兵火にかかる。嘉永四年一月三日には寄居町の大火でも類焼したが、慶應二年拝殿を建つしかし大正二年十二月二日又も火災によって拝殿を焼失する。
 再三の火災にもめげず大正六年に奥社を八年に今に残る拝殿を建設した。以来八十有余年氏子の厚い崇敬を仰ぎ今日に至ったが近年老朽化著しく氏子各位から改修の声が上がり建設委員会を結成、平成十七年七月着工、宮司総代氏子奉賛者を始め多くの芳志により奥社拝殿参道等の整備完了同年十月二十三日落慶した。
 平成十七年十月(二〇〇五) 八幡神社建設委員会 翠城鳥塚義信書
                                境内「神社沿革」碑文を引用

        
            
・所在地 埼玉県大里郡寄居町鉢形1168
            
・ご祭神 誉田別命
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 祈年祭 43日 例祭 915日 新嘗祭 1123
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1096334,139.1991976,16z?hl=ja&entry=ttu
 寄居町鉢形地区に鎮座する鉢形八幡神社は、国道140号バイパスを寄居町方向に進み、玉淀大橋(北)交差点を左折、国道254号にて荒川を越えて、鉢形陸橋を越える手前のY字路を左に進み、東武東上線の踏切を越えて埼玉県道30号飯能寄居線との合流地点である信号のあるT字路を右折する。
 その後600m程県道を東行し、「鉢形小学校入口」の立看板があるT字路を左折、進行方向右側にその小学校、道路を挟んだ反対側には「鉢形公民館・鉢形コミュニティセンター」を見ながら暫く道なりに進むと、道路がやや右方向にカーブする地点左側に社の社号標柱が見えてくる。
 
 鉢形小学校の道路を挟んで200m程南側に社は鎮座している。稲乃比売神社から直線距離にして600m程北西方向にあり、市街地から離れた長閑な丘陵地面に社は位置している。社に通じる入口付近には社号標柱があり(写真左、右)、左折すると角度のある上り斜面の坂道が待ち受けていて、更に進むと参道手前の道路右側には車幅が広い路肩面があり、そこに駐車させ参拝を開始した。
 
 参道入口正面には1対の灯篭が設置されている。   燈篭を過ぎて暫く真っ直ぐな参道が続くが
                         途中から右方向に曲がる配置となっている。
        
               曲がった先には鳥居・拝殿がある。
                ひっそりと静まりかえった境内。
        
          鳥居を過ぎてすぐ左側に設置されている「神社沿革」碑
        
                     拝 殿
 八幡神社  寄居町鉢形一一六八
 自然の要害を利用した鉢形誠は、文明年間(一四六九-八七)に長尾景春によって修築され、後に北条氏邦の居域となり、天正十八年(一五九〇)の落城まで、北関東支配の拠点として重要な役割を果たしてきた。現在、寄居町の大字鉢形となっている地域は、この鉢形城の城下町として中世から栄えてきた所で、当時は鉢形町と呼ばれていた。
 当社は、この鉢形町の総鎮守として代々の領主の崇敬が厚く、永禄年間(一五五八-七〇)には時の城主北条氏邦によって再建されている。このように、鉢形域と深い関係があったことは、当社に多くの幸いをもたらしたが、同城の落城に際しては、当社もまた敵方の兵火に罹って烏有に帰するという不幸な出来事もあった。同域は、落城の後廃城となったが、当社の方は氏子の力によって再建され、本山派修験の千手寺が別当としてその祭祀に当たった。ただし、城下として繁栄を誇った鉢形町は、廃城と共に衰微し、江戸時代には木持出・白岩・内宿・天粕・関山・立原の六か村に分かれ、木持村は氷川神社(現稲乃比売神社)を、立原村は諏訪神社を鎮守として祀るようになった。
『風土記稿』に「八幡社 当村(白岩村)及内宿・天粕・関山四か村の鎮守なり、千手院持」とあるのは当時の状況を表したものである。
 嘉永四年(一八五一)一月三日、荒川対岸の寄居に発生した大火災は、折からの強風によって当地にまで飛び火し、民家七〇戸をはじめ地内の六か寺及び鎮守社を焼き尽くしたと記録されている。寄居町大火として知られるこの火災によって当社は再び全焼の憂き目に遭ったのである。その後、氏子は直ちに仮宮を設け、祭りを再開し、一五年後の慶応二年(一八六六)には立派な社殿が再建された。
 明治初年の神仏分離によって、別当千手寺の管理を離れた当社は、明治五年に村社になった。ところが、大正二年十二月二日にはまたもや火災によって本殿・拝殿を焼失するという事態が起こった。この時も氏子一同はすぐさま社殿再建の願いを起こし、同八年七月十二日には焼失前にも優る社殿が竣工した。これが現在の社殿であり、拝殿の屋根には、これを機に従来の草葺きに代わって瓦葺きが採用された。
 文禄年中(一五九二-九六)に千手寺の別当職に就いて以来、今日まで当社の祭祀を担ってきたのが、逸見家である。その祖先の義重は北条氏邦の侍大将を務めた武士であったが、落城に際し家臣離散の時にあって、城主が代々崇敬してきた八幡社を守るべく当地に土着し、更に孫の義貞が千手寺を復興し、その初代別当になったという。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  社殿の奥に鎮座している石祠。詳細不明。   社殿の右側に祀られている浅間大神の石碑
       
                        境内奥に聳え立つ大杉のご神木(写真左・右)

「埼玉の神社」には、鉢形八幡神社のご神職は代々「逸見氏」であったという。この逸見氏は『新編武蔵風土記稿』や『大里郡神社誌』にも以下の記載がある。
 〇新編武蔵風土記稿 末野村条
「古は鉢形の領内なり。氏邦の家臣逸見美作守領せし処とも云ふ」
 〇新編武蔵風土記稿 下日野澤村条
「高松城址 村の東にありて、登ること凡そ十町にして、山上平垣四十間四方許、所々掘切り等今猶有せり、鉢形北条氏邦の臣、逸見若狭守の城墟なり、若狭守子孫野巻村に蟄居し、今野巻村 の各主役を勤む」
 〇新編武蔵風土記稿 野巻村条
「四郎兵衛氏は逸見を称す、先祖は蔵人佐と號し、北條氏邦に属したる由にて(中略)以前は甲州武田家臣にて、信玄の下知にて当郡へ来り、日野澤の内高松城に住せしが、小田原北條に属し、夫より氏邦が旗下となれるとぞ、天正十八年御討入りの時より民間に蟄し、当村の里正とはなりし由」
 〇大里郡神社誌 鉢形神社
「本山修験白石山多賀院千手寺別当職たりしが、明治元辰九月二十七日逸見式部と改名、鎮将府傳達所にて復飾願済み、最初の神主となる。
逸見氏は清和源氏甲斐逸見の庶流にして、中宗の逸見若狭守義重、武蔵国男衾郡鉢形城主安房守北条氏邦に属し、秩父郡小柱村・野巻村・深澤村、榛沢郡飯塚村・末野村、男衾郡藤田村の六ヶ村にて永七百五十貫の高を領し、侍大将を勤めたりしが、天正十八年五月本城没落、家臣離散の時、当御鎮守八幡大神は城主代々尊敬の神社なればとて、義重・白岩村に土着致し、孫逸見与八郎義貞を以て文禄年中、本山派修験千手寺廃跡を再興せしむ。
是より正統二十三代別当職相勤め、逸見式部に至り復飾して神主となる」
        
          社殿右側で、浅間大神の奥に鎮座する境内社・合祀社。
      左より「御嶽神社・三峯神社・厳島神社・姥神社・琴平神社・雷電神社」

 
     境内に鎮座する境内社・古峰神社     古峰神社の北側に鎮座する境内社・八坂神社
   参道入口付近に鎮座する境内社・天手長男神社(写真左)とその内部(同右)

 鉢形八幡神社の創建年代等は不詳であるが、文明年間(14691487)に長尾景春が修築、後に北條氏邦が居城とした鉢形城の城下町鉢形町の鎮守として再建し、崇敬が厚く祀られたという。その後天正18年(1590)に鉢形城が落城した後は、鉢形町も6ヶ村に分かれ、当社は白岩・内宿・天粕・関山の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格している。
 当社の歴史は戦火や大火等による消失の連続だった。北條氏邦が居城とした鉢形城の城下町鉢形町の鎮守として祀られたが、天正18(1590)鉢形城落城の際には兵火にかかって消失、その後氏子の力によって再建された。また嘉永4(1851)には寄居町の大火でも類焼したが、慶応2(1866)拝殿を再建。しかし大正2年またも火災により拝殿を焼失。この時も氏子一同はすぐさま社殿再建の願いを起こし、同8712日には焼失前にも優る社殿が竣工した。これが現在の社殿であり、拝殿の屋根には、これを機に従来の草葺きに代わって瓦葺きが採用されたという。

 このように何度も社殿の消失に遭いながら、当地の氏子の方々はこの社を見捨てず、その都度再建した。決して楽ではなかったろうし、現実的にも莫大な資金も必要だった事であろう。当地の方々の熱意や崇敬の念があったからこそ、この社は守られてきた。現在でも境内も定期的に手入れも行っているのであろう。筆者としても、社と当地の人々の関係を深く知る良い機会となった参拝であった。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「境内神社沿革碑文」等
                   

拍手[1回]