古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上小川神社

 小川町は水の町である。当地は槻川・兜川流域の小川盆地に位置し、地内で両河川が合流する。古来、人々は槻川に対して支流の兜川を小川と呼んでいたのが地名に転化したと伝えられていて、川の成り立ちとまちの反映との親和性が非常に高い地域でもある。当地方は小川和紙で有名であるがその歴史は古く、『正倉院文書』の宝亀五年(七七四)に「武蔵国紙四百八十張」と載り、河川の利用と一帯に自生する楮を使用して、当地の産業として営まれていたと考えられる。
 小川町は嵐山町と並んで『武蔵の小京都』と謳われていて、歴史的価値のある寺社や仏閣、城跡などの名所旧跡が至るところに存在する。
 上小川神社は小川町市街地に鎮座する小さい社ではあるが、槻川の恩恵を受けて発展した『町の鎮守様』として長く町民の方々の崇拝を受けている「天王様」であり、定期的に開催された「市場の神」でもある。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町小川68
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 不明
             
・例 祭 春祭り 3月初午 例大祭(七夕祭り) 725日 
                  秋祭り 
1128
 角山八幡神社から一旦小川町市街地方向に南下し、国道254号線に合流後、小川警察署を目標に道なりに進む。その後警察著手前左側で、国道に面して「華屋与兵衛」と民家の間に上小川神社が静かに鎮座している。
 道路沿いに社号標柱が立っていて、その奥に車を駐車できそうなスペースはあるのだが、出来る限り、神聖な社の敷地内に車等の交通量の多い道路での出し入れの問題もあり、また警察著にも近いこと等慮って、近隣にあるコンビニエンスストアで買い物終了後、一時的に車は置かせていただき、社の参拝を行った。
               
                             国道254号線に面する上小川神社
           
       鳥居の前には桜が咲き始め、その奥にはご神木らしき巨木が聳え立つ。
               
                                 神明系の鳥居

「埼玉の神社」によれば、江戸幕府が開かれ寛永年間(一六二四-四四)以降、江戸が大消費都市となるに伴い、小川和紙の生産が大きく発展した。しかも、当地は江戸から秩父への往還の宿駅で、物資の集散地として毎月一・六日に市が立った。市が寛文二年(一六六二)に大塚村から移転し、同じころに東秩父村の身形神社の分霊を市神様として当社に勧請してからは、当社は商売繁昌の神として広く信仰を集めるようになった。なお、和紙は農家の副業として農閑期に営まれていたものであるため、当社は農民からの信仰も厚く、『風土記稿』は「天王社 村民持」と記している。
               
                     拝 殿

 上小川神社(小川六六)
 上小川神社は、市神すなわち小川の市の守り神として勧請された八雲神社(江戸時代には「天王社」と称した)に、大正四年九月十日に神明町の神明大神社と稲荷町の稲荷神社を合祀したことにより、社号を上小川神社と改めたものである。ちなみに、この杜号は、小川の総鎮守である下小川の八宮神社に対し、八雲神社が上手に位置することから付けられたものであるという。
 上小川神社の母体となった八雲神社の由緒については、東秩父村の身形神社の分霊を勧請して祀ったとか、大塚から小川に市が移つてきた際に、八雲大神の掛軸を市神として祀ったのが始まりであるなど諸説あるが、応永年間(一三九四-四二八)には現在の本町二丁目に石祠が建立されている。当初は往還の中央にあったこの石祠は、のちに新井屋瀬戸物店脇の道端に移して祀られていた。
 それが、大正四年に、神明大神社・稲荷神社との合併によって現在の境内に移ったのであった。現在の境内は、西光寺持ちの寺子屋があったところで、その後小川小学校の校舎が建てられていたが、同校が移転した跡地を利用して、神社の用地としたものである。
                            「小川町の歴史別編民俗編」より引用
               
                          幣殿・本殿。本殿は
土蔵造りでできている。
                 
 洪水対策であろうか、拝殿から本殿に至る下部には空洞となっていて、本殿は石を積み重ねて高くしている。「小川町 洪水ハザード」でも、この小川町中心街は
槻川と兜川の合流地点であり、町の形成にこの河川は欠かせない存在であったことは間違いないが、大きな水害が発生すると、この一帯は浸水等の被害もあったであろう。社の造り一つでもこのような歴史を架今着られるものだ。
 
  社殿左側奥にある「八意思兼命・手置帆負命・比古佐自命」と刻印された石碑(写真左)。また社殿の右側に鎮座する上小川神社境内社。三峰社だろうか(同右)。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「小川町の歴史別編民俗編」
    「小川町 ハザードマップ」等

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