古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

般若日本武神社

 兎角「般若」と聞くと、「般若の面」でも馴染の恐ろしい形相の鬼の面を思い浮かべる人が多いと思うが、本来の般若とは仏教用語で、全ての事物や道理を明らかに見抜く深い智慧のことという。
 仏教瞑想の文脈では、すべての物事の特性(三相、すなわち無常、苦、 無我)を理解する力であるとしている。大乗仏教においては、それは空(シューニヤ)の理解であるとしている。菩薩が悟りに達するために修める六波羅蜜のうち、般若波羅蜜は他の五波羅蜜を成り立たせる根拠として最も重要な位置を占める。(Wikipedia参照)
 今回参拝した社は「日本武神社」というが、その住所地は「般若」。「鎌倉雲頂庵文亀元年(1501)十一月二十七日文書」に「般若村」と記載があり、室町時代からある由緒ある地名でもあり、仏教色の強い秩父地域らしい名前である。同時に神仏習合の時代には、天台修験に関係した社でもあった。
        
             ・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町般若629-1 
             ・ご祭神 日本武尊・保食大神
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 例大祭 3月第2土曜日
 般若日本武神社は小鹿野町般若地区にあり、埼玉県道209号小鹿野影森停車場線沿いに鎮座する。
『新編武蔵風土記稿』般若村条において、「般若村」の名の由来として以下の記載がある。「般若村は郡の中央にあり、矢畑庄に属せり、或いは武光庄と今とらず(中略)村名の起り般若院十六善神より起こると云、又は札所三十二番の観音堂を、般若堂とよびしより起とも云、又は長留村の別郷にて、牛谷と云しより、寺を般若となづけたるなり。既に十六善神を安置したるより今其所を十六とよびて、小名となるがごとしと伝へり。土人の説かたがたをのすといへども、【園通傳】による時は、法性寺の観音堂へ異儈来て、大般若を書寫せしより、堂を観音堂と云、村をば般若村と云。般若守護の為に十六善神を安置せしとあれば、この説近からむか(以下略)

 この社は天台修験に関係した時代が長く、別當般若院所蔵の大般若経の守護神が十六善神であるところから、大般若十六善神社(十六様)と呼ばれていたという。
        
                       般若日本武神社正面
 
   重厚な雰囲気を醸し出す木製の鳥居         鳥居上部にある社号額
 
         参道右手には神楽殿           拝殿手前左側にある手水舎
 この神楽殿で、小鹿野町指定無形民族文化財の御神楽・奉納県指定文化財の小鹿野歌舞伎等が上演されるのだろう。
 十六様【神楽・歌舞伎】
・大般若経の十六善神を祭神にする日本武神社。3月の第二土曜日の例大祭には歌舞伎や神楽が奉演され、地元民の健康祈願も催される。歌舞伎奉演。
                                小鹿野町観光協会HPから引用

            
                御大典紀念社殿改修記念碑
 御大典紀念社殿改修記念碑  檀原神宮 司 廣瀨和俊篆額
 日本武神社は人皇第十二代景行天皇の御代第二皇子日本武尊が東夷平定後、御凱旋の砌当地を御通過あそばされた。その際、里人は御神徳を欽仰し、産土神として保食神並びに日本武尊を奉祀したのが起源となっている。
 当神社は天台修験に関係した時代が長く、別當般若院所蔵の大般若経の守護神が十六善神であるところから、大般若十六善神社(十六様)と呼ばれ、長い間地区民の心のよりどころとして崇敬されて来た。
 明治元年神佛分離令により社名も日本武神社と改め、旧長若村の村社として毎年春盛大に例大祭がとり行われて来た。御祭礼には小鹿野町指定無形民族文化財の御神楽の奉納県指定文化財の小鹿野歌舞伎等が上演され、由緒ある神社に彩りを添えると共に老若男女の大きな楽しみに もなっていた。
 しかしながらもとの神殿は百有余年の歳月を経て腐朽著しく、又狭小のため長年にわたり改築が検討されて來た。今回県道改修のため神楽殿の移転に伴い平成の御大典記念事業として、社殿及び神楽殿その他の移築造営が計画されるや神社の改築資金をもとに旧村 村外の氏子・崇敬者各位の御賛同を得て多額の浄財が奉納され、平成五年九月より四年六ヶ月を経て、宿願の社殿・神祭殿・社務所の造営を始め境内の整備を充実することが出来た。
 こゝに神明の御加護と氏子崇敬者並びに関係者各位の敬神崇祖の誠心が結集され、平成の大事業が竣工したことを心からの喜びとするものである(以下略)
                           記念碑文より引用(*句読点は筆者加筆)
        
                                       拝 殿
 日本では古来から森羅万象に神が宿ると信じられ、その対象物の一つに山もあり、山は神様の住むところ、または神様唯一と信じられてきた。俗にいう神道・別名惟神道(かんながらのみち)とは、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづくアニミズム的、祖霊崇拝的な民族宗教である。この神道の起源は非常に古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念とも言えよう。
 その神道的な面を含んだ山岳信仰と、後代に日本に渡ってきて発展した仏教が習合し、また道教・密教・陰陽道等の要素も含まれ確立したのが修験道という日本独特の宗教である。日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって超自然的な能力「験力(げんりき)」を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教と言われている。この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る」ことから「修験者」、または山に伏して修行する姿から「山伏」と呼んでいる。
 修験道の修行の場は、日本古来の山岳信仰の対象であった大峰山(奈良県)や白山(石川県)など、「霊山」とされた山々であるが、中でも聖地は紀州の熊野、葛城、大和の金峯山(きんぷせん)が中心で、熊野を中心として活動した天台系グループを本山派といい、金峯山を中心に活動した真言系グループを当山派と言う。この2派が主流で、地方的組織として出羽三山、日光ニ荒山等を始めとして、霊山と呼ばれている全国各所で修験道の各派が生まれている。
 
      拝殿上部に掲げてある扁額              本 殿
 ところで秩父盆地は三峰山・武甲山・宝登山・両神山等、多くの山岳信仰の対象となった山に囲まれている。『新編武蔵風土記稿』によれば近世末には本山派修験241、当山派修験148、羽黒修験39、合計428ヶ寺の修験寺院が存在していた。なかでも三峰神社は近世中期以降、江戸町人の豊かな経済力を背景とした三峰参詣の流行によって隆盛を極め、現在もなお広範囲な信仰圏を有しているという。
        
                             本殿に向かって右側に境内社が鎮座。
   左から御神社・神武社・愛宕社・稲荷神社・天満宮・八幡神社・産體神社・詳細不明。

 日本武尊の伝説は,三峰神社を初めとして,武州御嶽神社,宝登山神社などの縁起に共通してみられる。この共通性がどうして生じたのかについては、まだ解明させることは難しいが,『日本書記』の日本武尊に関する記述が参考となる。
「日本武尊が信濃の山中で道に迷ったとき、白い狗(狼)が現れ、その案内によって尊は事なく美濃の国に出ることができた」との記述である。
 硯在も秩父地域では、山犬(狼)の札や御脊属を、火難・盗難を防ぎ畑地や山地の猪等の四足獣を避け、さらに養蚕地帯では蚕の敵である鼠を退治してくれるものとして信仰する習俗が広く認められる。こうした日本武尊伝説や山犬信仰の起源や成立に関する明確な見解は今のところえられていないが、秩父地域において修験道が展開していく過程で成立していった可能性も一つとして推測される。
        
                           般若日本武神社  拝殿側から参道を撮影
 中世以来、秩父地域に定着し山岳霊場を拠点として勢力拡大を図った修験者が日本式尊の事蹟を説話化し、寺社の縁起に取り入れることによって山の霊験値をさらに高め、寺社の信仰的基盤を強化していったとの考察も出来るのではなかろうか
 そして地域社会に定着した修験者が、山そのものに対する在来信仰を基盤として新たな宗教要素を加えることにより、一般民衆の心理をつかみ、教化を進めていった結果と考えることもできよう。


(参考資料・新編武蔵風土記稿 Wikipedia等)

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