古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

両神薄諏訪大明神

「両神薄」は「りょうがみすすき」と読む。変わった地名だが、この「薄」は「スズキ(鈴木)」の別名で、「薄」の佳字ともいう。薄(うす、うず)は渦(うず、うづ)の佳字にて、ススキに転訛し、最終的に「スズキ(鈴木)」に変わったという。
 この薄(すすき⇒うす)は、渦(うず、うづ)、巴(うず、うづ)の意味で、海洋民の集団を指していて、海岸部に多く、本来内陸部に少ない苗字だ。
『新編武蔵風土記稿』薄村条には「古へ薄(ススキ)多く茂れる村なれば、唱へしと云う」とも記載され、ススキが多く茂る風景を地名由来としている。
 秩父地方の神流川流域の児玉地方を本拠地とした武蔵七党の一つである「丹党」。第28代宣化天皇の子孫である多治比氏の後裔を称する武士団である。諏訪神社は全国規模で祀られているが、嘗て秩父の地の多くは中村氏、薄氏等、丹党一族の氏神として祀られた。鎌倉時代以前から室町時代後期の間、小鹿野町にある国民宿舎「両神庄」(秩父郡小鹿野町両神小森707)の地には、丹党薄氏の館があったと云い、備前国に移住した後は須々木に変えた。
=Wikipedia参照=
        
            
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄8240向い
            ・
ご祭神 建御名方神
            ・社 格 不明
            ・例 祭 不明
 両神薄諏訪大明神は小鹿野町両神薄地区に鎮座する。途中までの経路は小鹿神社を参照。小鹿神社からは國道299号を西方向に進み、「黒海土バイパス」交差点を左折し、埼玉県道37号皆野両神荒川線に合流し、暫く進む。赤平川等河川が合流する地点で右折し、埼玉県道279号両神小鹿野線を5㎞程進むと「両神薄ダリア園」が左側にあるが、その県道の反対側にひっそりと鎮座している。                                 
            
             道路沿いに鎮座している両神薄諏訪大明神
        
                                  拝 殿
 丹党薄氏は秩父郡薄村より起こっている。
 ・武蔵七党系図には「武経(領秩父郡)―武時―二大夫武平(又曰武峰、天慶年中、故ありて、武州に配流され、秩父郡、加美郡、一井、加世等を押領す。後免されて上洛)―薄二郎長房―四二郎能房―能行、能房の弟織原丹五郎泰房―薄小二郎能直―薄弥二郎能国―小五郎行貞(弟に四郎時国、五郎有能)―弥二郎行有、弟彦二郎宗行」
 ・秩父神社文書に「延慶四年三月三日、名字書立、井戸惣領弥九郎、薄四郎次郎、支恒惣領吉田五郎次郎、久永惣領小畠平太跡」
        
                         拝殿前に聳え立つ「夫婦杉」
 諏訪大明神の夫婦杉
 諏訪社(祭神・タケミナタカ)は、「狩猟の神」「農耕の神」「武の神」と言われ、全国に沢山あるが、秩父地方の多くは、中村氏、薄氏など、丹党一族の氏神として祀られた。
 鎌倉時代以前から室町時代後期にかけて、現在の国民宿舎両神荘の地には、丹党薄氏の館があった。日影地区も薄氏の勢力下にあり、この諏訪大明神もその関係で建立されたものと思われる。
 丹党·薄氏は、西暦一五二〇年頃にはこの地から転出するが、諏訪大明神や社殿前の夫婦杉(めおとすぎ)は、後継の一族や地域から大事にされ、今日に至っている。
 夫婦杉の樹高は、三六mと三一・五m。 胸高周囲は、四・三六mと三・四〇mであり、樹齢は五〇〇年を超えると推定される。
諏訪大明神 氏子中
                                      案内板より引用
 
      拝殿上部に掲げてある扁額              拝殿内部
                        本殿や境内社が並列して祀られている。

 拝殿内部の「再建寄附」奉納板を確認すると、氏子名で「黒沢・黒澤」姓が目立つ。
 黒沢・黒澤(くろさわ)
 現岩手県南東部と北西部を除く地域である陸中国磐井郡黒沢村が起源と謂われている説や、平姓・葛西氏流、安倍氏、清和源氏等の流派もある。関東では武蔵国秩父郡・上野国甘楽多野郡・信濃国佐久郡の三国の国境地帯及び常陸国にも多く、この両神地区にも多く存在する。
・新編武蔵風土記稿薄村
「旧家蔵之助、黒沢を氏とす。先祖を黒沢馬之助と云ふ、是れも鉢形の臣なるべし。古くより此の村に居ると云ふ。今多比良勘解由が屋敷は住居の地なりとぞ、彼が先祖丹波が為に居を今の所に移すと云へり。近き年まで文書などありしと云へど、丙丁の災に憚りしと云ふ」
謙信公御代御書集
「永禄十二年十一月二十九日、氏邦は、黒沢右馬助を代官として越後へ送り、輝虎に柳酒三十と五種を進献す」
寄居村正龍寺文書
「七月二十九日、明日朔日御出馬治定候、黒沢右馬助殿、氏邦花押」


 両神薄諏訪大明神のすぐ西側には「日影集会所」があるが、その右側には「青石板碑」と案内板に表記された石碑群が存在する。
        
                                 「青石板碑」石碑群
        
                                  「青石板碑」案内板 
 青石板碑(室町・南北朝時代)
 青石とは緑泥変岩のことである。
 板碑は中世特有の信仰・文化遺産であり、重要な文献資料でもある。 鎌倉時代初期から室町時代末期まで全国的に建立された。
 秩父産の青石板碑は、丹党・岩田氏の所領であった現在の長瀞町野上地区で生産・加工・搬出された。
 一三三六年、楠木正成らは、湊川の戦いで足利尊氏に敗れ、後醍醐天皇は吉野に南朝政権を開く。正成の一族には、両神薄へ落ちのびたものがおり、黒沢姓を名乗った。やがて、藤差(ふじさす)地区に移り住むが、家名を復活させるのは、ずっと後のことである。
 この板碑(塔婆・とうば)には、貞治五年(北朝の年号で一三六六年)と阿弥陀三尊を表す梵字が刻まれている。
 日影地区に建立されたこの青石板碑に込められた思いは何か。それについては、様々な推察が出来よう。諏訪大明神 氏子中
                                      案内板より引用


 楠(楠木・以後は楠木氏で統一)氏は謎が多い一族である。通説では河内国を中心に、南北朝時代に活躍した南朝方の武家であり、正成・正行親子は「大楠公・小楠公」とも尊称され、戦前の教科書では忠義の臣として明治
13年(1880年)には正一位を追贈された。また2人共に湊川神社の祭神(主祭神・配祭神)となっている。
 しかし冷静に考察すると楠木氏は日本各地に存在する苗字である事も確かで、珍しい名ではない。
 調べてみると、クスノキ(楠)は、クスノキ科ニッケイ属の常緑高木である。別名クス。暖地に生え、古くから各地の神社などにも植えられて巨木になる個体が多い。材から樟脳が採れる香木として知られ、飛鳥時代には仏像の材に使われた。台湾、中国、朝鮮の済州島、ベトナムといった暖地に分布し、それらの地域から日本に進出し、日本では、主に関東地方南部以西から本州の太平洋側、四国、九州・沖縄に広く見られるが、特に九州に多く、生息域は内陸部にまで広がっている。
 楠の材そのものに防虫作用があり、タンスを作ると防虫性が高いともいう。古代の丸木船の中には楠を使ったものがあるという。大型の丸木船を作るために大木が必要であったことと、腐りにくいことがあったのかも知れない。
 楠木という苗字はこの常緑高木である「クスノキ」と無関係ではあるまい。
        
                             両神薄諏訪大明神 遠景

 楠木正成は日本では大変著名な人物であるにも関わらず、出自不詳で、加えて自称は橘氏後裔という。通説では『太平記』巻第三「主上御夢の事 付けたり 楠が事」には、楠木正成は河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたというが、氏族として先祖代々からその地に住み着いていたかどうか、その文面を見る限り判明はしない。
 一説によれば、楠木氏は元々武蔵国御家人で北条氏の被官(御内人)であり、霜月騒動で安達氏の支配下にあった河内国観心寺は得宗領となり、得宗被官の楠木氏が代官として河内に移ったともいう。『吾妻鏡』には、楠木氏が玉井、忍(おし)、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党とならぶ将軍随兵と記されている。
 楠木正成を攻める鎌倉幕府の大軍が京都を埋めた元弘3年(正慶2年、1333年)閏2月の公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に「くすの木の ねはかまくらに成ものを 枝をきりにと 何の出るらん」という落首が記録されている、この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされる。
 はっきり言うと、これらの文献資料に登場している「楠木氏」が正成と同一氏族であるとする根拠はどこにも無いのだ。

 武蔵国郡村誌にも、「楠木氏は元黒沢氏を名乗り北条氏邦に仕えていた武士であったが、鉢形落城の時本村に移り天明のころ楠と改姓した。」と記載されているが、この楠木正成の子孫の話だかどうかの記述はなく、真相は不明だ。

 両神薄地区にある「青石板碑」に記載されている「楠木氏」は、正成の一族かどうかは分からない。ただ「楠木」姓の関東地区にいた御家人はかなりいたことも確かなようだ。
さて真相は如何に。
 

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