古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

女影霞野神社

 中先代の乱 (なかせんだいのらん)とは、1335年(建武27月北条高時の次男北条時行が建武政権に抗して起こした反乱である。当時執権北条氏を「先代」、室町幕府の足利氏を「当代」とよぶのに対し、その再興を図った時行を「中先代」と称された。この年6月、北条氏と親密であった公卿西園寺公宗の建武政権転覆の陰謀が発覚したが、公宗と呼応するはずであった時行は、旧北条氏御内人(みうちびと)諏訪頼重らに擁せられて信濃に挙兵し、武蔵に進んで女影原,小手指原,府中に足利軍を破った。直義は監禁中の護良(もりよし)親王を殺害したのち三河まで退去し、時行軍は鎌倉を占拠した。最終的にこの反乱は、東下した足利尊氏に討たれ、20日程鎌倉を占領しただけで敗走した。乱後、尊氏は朝廷からの帰京命令に従わず、関東にとどまり、南北朝内乱の端緒となった。
 日高市女影霞野神社境内には、嘗て鎌倉幕府復興のために信濃で挙兵した北条時行軍が、武蔵国へ入り、鎌倉将軍府軍と最初に戦った女影ヶ原古戦場跡碑がある。720日頃に女影ヶ原にて鎌倉将軍・成良親王の近衛組織である「関東廂番」の筆頭である渋川義季や関東廂番の二番頭人を務める岩松経家らが率いる鎌倉将軍府の軍を破り、両人はそれぞれ自害・打死をしている。この女影原の合戦の場となったのが、現在の女影霞野神社周辺と言われている。
        
             
・所在地 埼玉県日高市女影444
             
・ご祭神 建御名方命
                        
・社 格 旧女影村鎮守・旧村社
             
・例祭等 例祭 1010 
 鶴ヶ島市立中央図書館から国道407号線を南下し、2.5㎞程先にある「高萩北杉並木」交差点を日光脇往還(にっこうわきおうかん)道方向に進む。因みに、日高市から鶴ヶ島市にかけての国道407号線沿いには「日光街道杉並木」という名称で杉並木が今でも残っている場所がある。その後、JR川越線踏切を越えた「高萩」交差点を右折、同県道15号川越日高線に合流し、西行すること1㎞程先にある「女影」交差点を左折し、暫く道なりに進むと、女影霞野神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。 
        
                  女影霞野神社正面
 社が鎮座する地域名「女影」は「おなかげ」と読む。『新編武蔵風土記稿 女影村』によると、当地域の南西にある「
千丈ヶ池(現仙女ヶ池)」に投身して死んだ「せん」という女性の影が時として池に映ることから起こったという伝説じみた話を載せている。
新編武蔵風土記稿 女影村』
「村内に千丈ヶ池と云池ありて、往古せんと云ひし女此池に身を投げて死せしが、その後いう女性の影時として池中にあらはれしかば、土人これを女影と呼びしより、村名も起りしといへり、最妄誕のなることは齒牙を待ずして知られたり、千丈の名義據をしらず、この邊古戦場なれば、直ちに戦場ヶ池と號せしを、後世文字をかきかへしとみゆ、」
「千丈ヶ池 一に仙女ガ池とも云、西の方にあり、その名の起りは村名の條に辨ぜり、長六十間、幅四十間許、池中蓴菜を生ず、」
 また、
承久の乱の際、承久3年(1221)6月13日―14日の宇治橋合戦で死傷した幕府方の武士のうちに「女影四郎」・「女景太郎」の名がみえ(「吾妻鏡」同年六月一八日条)、ともに当地名を名乗る武士と推定されている。
「【東鏡】承久三年(一二二一)六月十四日、宇治橋合戦打死の中に、女影四郎と出し注に、武藏と書たり、是恐くは當所の人にて、在名を氏に名乗しならん又同時手負人の中に、女景太郎ありて假名をめかけと注せり、是恐らくは女影の誤寫にて、此人も四郎が一族なるべし、又女影原の事は【太平記】等にも載たれば、とにかく古き地名とみえたり、」
        
             歴史を感じながらも静かに鎮座する社
     100m程の参道の両側には大きな杉の木が立ち並ぶ。社殿は珍しい西向きである。
 社の入口には南北に走る道は「鎌倉街道上道」である。鎌倉街道には、信濃、越後方面を結ぶ「上道」、奥州方面を結ぶ「中道」、下総、常陸方面に向う「下道」の三本の幹線道路があり、日高市を通過している「上道」は狭山市柏原から入り、大谷沢、女影、駒寺野新田を経て毛呂山町大類へと向った。特にこの地は、周囲の展望が見渡せる交通の要地でもあった為、度々中世の合戦の舞台となった歴史ある道であった。
        
                   境内の様子
 もとは女影村鎮守社・諏訪神社であり、承久3(1221)年、信濃国諏訪頼重家臣の春日刑部正幸が兜の八幡座を祀り、その後、明治43年に中沢・女影地区の12社を合祀し霞野神社と称したという。「霞野」という社名は、「埼玉の神社」では、神社前面に広がる水田を霞野郷と称することによるといい、『風土記稿』には「霞郷 合村六、今栢原村の内霞ヶ関の名跡あり、これより起りし名なるべし、」と載せている。
 
 社殿に通じる石段の手前左側にある手水舎    参道右手に設置されている幾多の案内板
                        当地の歴史の深さを物語る案内板でもある。
        
                 石段上に鎮座する拝殿
『新編武蔵風土記稿 女影村』
 諏訪社 村の鎭守とす、例祭は七月廿七日、常光寺の持なり、下同、天神社 稻荷社
 八幡社 長楽寺持、下同じ、 辨天社 八幡社
 白鬚社 これも村の鎭守なり、清泉寺持なり、下同じ、八幡社
 天王社 夏福寺持、下同じ、雷電社
 荒神社 此社の後に槻一株あり、圍三丈九尺餘、神職鈴木土佐吉田家の配下なり
 愛宕社 村持、

 霞野神社(おすわさま)  日高町女影四四四(女影字諏訪山)
 鎮座地女影の地名は、地内の千丈ヶ池に投身した女「せん」の影が池中に現れたことに由来するという。鎌倉と奥州、上州との交通の要所にあり、展望のきく地であるため、しばしば合戦が行われた。主なものに建武二年七月の北条時行軍と足利直義軍の激突、観応三年の南朝・北朝の合戦などがある。
 社記によると、当社は、承久三年五月一〇日に信濃国諏訪頼重の家臣春日刑部真幸が宇治川の出陣に当たり、この地に来て、守り神である諏訪明神に武運長久を祈って兜の八幡座を祀り、武門の神として社を建立したことに始まり、その後、領主逸見光之丞が武運長久を祈り毎年供米一俵ずつ奉納した旨が記されている。
『風土記稿』には「諏訪社 村内の鎮守とす、例祭七月廿七日、常光寺の持なり」とある。
神仏分離により別当の天台宗常光寺住職貫如は復飾して松浦頼清と名乗り、神職となる。明治五年、旧来の産土神であることから村社となり、同四十三年に地内の神社一二社を合祀、社号を霞野神社に改めた。霞野の名は、神社前面に広がる水田を霞野郷と称することによる。
 主祭神は建御名方命である。内陣には、厨子内に岩山を模した神座を設けて銅製の神像(高さ二・一センチメートル)を祀るが、この神像は、普段は神職家で保管し、祭りの時だけ本殿に安置している。
                                  「埼玉の神社」より引用
 当地方一帯で養蚕が盛んであった戦前まで、当社は養蚕の守護倍盛の神として信仰され、その信仰圏は地元を中心として飯能の平松・川崎あたりまで及んだ。戦後、養蚕業は廃れてしまったが、代わって茶の栽培が盛んになったという。
       
         石段上で、社殿の両側に聳え立つ杉のご神木(写真左・右)
        
            拝殿に掲げられている「霞野神社」の扁額
        
            拝殿左側手前には、幾多の記念碑が建つ。
一番右側には「女影ヶ原一の宮霞野神社合祀記念碑」、その左並びには「伊勢講記念碑」が2基。
        
                 社殿左側にある宝物殿
 当地には獅子舞があり、415日の春祭りに奉納されたという。獅子頭が竜に似ているところから「竜頭舞」また、雨乞いの霊験から「雨乞い獅子」とも呼ばれている。獅子頭は太夫・男獅子・女獅子の三頭で、曲目は「太刀」「願獅子」「追獅子」などである。14日は「ブッソロイ」と称し、神職家が保管する神像を神社へ納めて一同で拝み、午後同家から行列を組んで神社に向かう。まず「宮回り」を行い、次に境内中央に移り、若手・隠居の顔でそれぞれ太刀を舞うとのことだ。
 現在、獅子舞は行われていないが、獅子頭、天狗面、オカメ面、ほら貝など使われていた諸道具が、氏子によりこの宝物殿に大切に保管されているのであろう。
        
                          社殿右側奥に祀られている境内社三社
               左から天神社・疫神社・御嶽社 
       
           境内社三社の右側にもご神木あり(写真左・右)
     またご神木の根元には「山〇〇」「雷神宮」と表記された石祠が祀られている。
   このご神木の奥にある「女影原古戦場碑」の撮影を忘れてしまったことが悔やまれる。
        
               境内より一の鳥居方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「日高市HP
    「改訂新版 世界大百科事典」「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等

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