古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

正代御霊神社及び早俣小剣神社

  源義平は平安時代末期の武将で、源氏の棟梁である源義朝の長男であり、鎌倉幕府をつくりあげた源頼朝の兄にあたる。15歳の時(1155年)比企郡の大蔵合戦で叔父の義賢を殺して武名をあげ,鎌倉悪源太と称された。ちなみにこの「悪」は善悪の悪ではなく、「強い」「猛々しい」というほどの意味であり、「鎌倉の剛勇な源氏の長男」という意味である。
 1159年平治の乱で遠く関東にいた義平は、手勢を引き連れて京の父義朝のもとに参陣し、死闘を繰り広げる。特に六波羅の戦いでは平氏の嫡男平重盛の兵力500旗をわずか17旗にて打ち破っている。
 源義朝の長男でありながら生母の身分が低い故(「尊卑分脈」によると橋本の遊女とも)官位叙任は他の兄弟よりはるかに低く、その活躍時期も短いとはいえ、その知名度は保元の乱の源為朝に匹敵する程。その一生は短いながら、颯爽と時代を駆けのぼって昇華したイメージが強い。
 東松山市正代地区に鎮座する御霊神社は、その源義平を御祭神とする社である。
所在地   埼玉県東松山市正代841
御祭神   源義平
社  挌   旧村社
例  祭   7月25日に近い日曜日 正代の祭りばやし

         
 正代御霊神社は国道407号の宮鼻交差点を東方向に約1km位の場所に鎮座する。この正代地域は、北に都幾川、南に九十九川と越辺川が流れ、3つの河川が合流する手前の台地上という戦略上の要地に位置しており、平安時代後期から鎌倉時代にかけてこの地に在住していた小代氏の館跡とも言われている。
 小代氏は、武蔵七党(横山、猪俣、野与、村山、西、児玉、丹党)の児玉党の入西資行の次男遠弘が、小代郷に住して小代を名乗ったことに始まる。
            
                            正代御霊神社正面
 この正代地区は、小代の「岡の屋敷」と言われ、源義平が大蔵合戦当時、屋敷を造って住んでいた場所とも言われている。つまりこの正代の地は、義朝にとって武蔵国平定を阻む義賢の本拠地である比企郡大蔵に対しての前線基地であり、義朝の子供がその地に在住していたということは、この小代氏は義朝にとって信頼できる配下であったのだろう。
             
 小代行平は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて源頼朝に仕えた武将で、頼朝が治承4年(1180年)に挙兵した当時から参陣していて、一の谷合戦や奥州合戦に従軍し、本領武蔵国小代郷のほか越後国中河保,安芸国見布乃荘等の地頭職を与えられ,鎌倉御家人小代氏の基礎を築いた人物である。この行平は義平在住当時(1155年頃)からこの地にいたかどうかは不明だが、「小代行平置き文」と言われる小代八郎行平から数えて四代目の伊重が、八郎行平の行状を子孫のために書きとめた文章によると、義平を祀った経緯について以下の記述がされている。

 「小代ノ岡ノ屋敷ハ、源氏ノ大将軍左馬頭殿(源義朝)ノ御嫡子鎌倉ノ右大将(頼朝)ノ御兄悪源太殿(義平)伯父帯刀先生(たてわきせんじょう)殿(源義賢)討チ奉マツリ給フ時、御屋形ヲ作ク被レテ、其レ二御座(オワ)シマシテ、仍テ悪源太郎ヲ御霊(ゴリョウ)ト祝ヒ奉マツル。然レバ後々将来二至ルマデ、小代ヲ知行セン程ノ者ノ惣領主ト謂イ庶子ト謂イ、怠リ無ク信心致シテ、崇敬シ奉ル可(キ〕者也」

 源義平がこの正代岡の屋敷にいた当時、小代氏の当主は行平だった確証はない。先代の遠弘であった可能性が高いと思われるが、義平と同年齢だった可能性も無いわけではない。むしろ同じ時代に、共に同じ環境で過ごした時期が多ければ多いほど最後の一文「怠リ無ク信心教シテ、崇敬シ奉ル可・・・」の文章の重みを感じると思われる。あくまで想像だが。
                                    
 鳥居のすぐ先には樹齢約300年、幹周り約3m、樹高約23mの御霊神社のケヤキが聳え立っている。東松山市内一の高さを誇る赤ケヤキともいわれている。この大ケヤキは平成20年3月1日市の銘木として認定されている。
                        
                              拝    殿

       社殿の左手奥にあった境内社              本殿裏にある稲荷社と古い石祠
            
                     社殿の左側手前に合祀されている三社
 明治42年5月に置かれた。向かって左に弁天の市杵島神社、中央に東形の八坂神社、右手に田谷の稲荷神社を祀っている。
           

 正代の祭ばやし  昭和六十年七月十七日  市指定無形民俗文化財

 正代の祭ばやしは、七月二十五日(現在は七月二十五日に近い日曜日)の夏祭りに、鎮守五霊神社で、無病息災を祈願して、氏子の「正代はやし連」の人達によって奉納されます。御輿と屋台を連ねて、正代地区を一巡します。屋台の上では大太鼓一・小太鼓二・笛一・すり鉦一の五人構成で、これに踊りや芝居がつきます。
 現在のはやし連が出来たのは、昭和六年のことで、市内古凍から師匠を招き、また、坂戸市塚越にも出向いて習ったものです。「囃子連帳」には、このときの様子が「昭和六年農村ハ日毎経済ニ疲レ囃子ヲ頼ム経費スラ容易デナイ実情二ナリ此処二将来ヲ思ヒ村ノ経費ヲ幾分ナルトモ減少ショウト云フ意気二モエ心ヲ合セ囃子連ガ成立シマシタ」と記されています。(中略)
                                                             案内板より引用

 この正代御霊神社は主祭神は、旧来から鎌倉権五郎景正といわれてきた。本来の「御霊」信仰の対象だからだ。鎌倉悪源義平がこの正代地区に来る前の信仰がまさに「御霊」神、つまり、片目の鎌倉権五郎を祀っていた鍛冶採鉱の民がこの地にいたからだろう。小代氏の配下に置かれ、鋳物生産を行っていたのが、「小代鋳物師」がこの地域に嘗て存在していたという。


早俣子剣神社
 越辺川は東に流れ、そして都幾川に合流する。その合流地点近くの早俣地区の都幾川が形成した自然堤防の微高地に早俣子剣神社は鎮座する。
所在地    埼玉県東松山市早俣423-1
御祭神    日本武尊、剣根尊
社  挌    旧村社
例  祭    10月17日 秋祭り
           
 早俣小剣神社のご神体は日本武尊、剣根命。神社のご神体「小剣大明神像」は源頼朝の家臣、源森次が奉納したと伝えられる。当地の千代田竹雄家は、その子孫といわれ、旧4月10日先祖祭として森次ほか祖霊を祀っている。
           
                            正面一の鳥居
  
 社殿の手前、左右には石祠が対峙するようなかたちで祀られている。社殿の左側には天神社の石祠と幟織姫大神の石像(写真左)。この幟織姫大神は安政五年(1858)六月建立と刻まれている。また右側には稲荷社があり(同右)、その台座には弁財天の眷属である15人の童子がやはり浮き彫りにされている。
 この石像に彫られている幟織姫大神が持っているのは糸巻きで、この地域は嘗て養蚕が盛んだったということを調べてみて初めて知った。
                       
                              拝    殿
 都幾川と越辺川の合流地点近くに鎮座する社ゆえに、社殿の地盤基礎部分がやはり高くなっている。洪水対策であろう。

      拝殿の上部に掲げてある社号額                    拝殿内部
           
 すぐ近くには正代運動広場があるが、社の周囲は遊歩道はあるが、今では珍しい舗装されていない道ばかり。人里離れたこの地に鎮座する社を維持する氏子の皆さんの苦労がしのばれる。

 また社の南側には小剣樋管と言われる堤防を横断する水路があり、一の鳥居付近にはその水門を監視するカメラが設置されていて、一面長閑な風景の中に、世知辛い現実を見る思いで何となく違和感を感じた。     
                   

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