古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中尾雷電神社

比企丘陵地域における沼づくりは、古くは古墳時代に始まったと考えられ、616(推古天皇24)年の築造とされる日本最古の「狭山池(大阪狭山市)」で採用された大陸渡来の土木技術「敷葉(しきば)工法」が近隣の遺跡でも確認されていることなどから、当地の沼も狭山池とほぼ時を同じくして造られはじめた可能性が高いと言われている。
 古社の集成としての『延喜式神名帳』(延長5年(927年))内に、当時官に知られた全国の天神地祗総計3,132社が記載されている。その中に埼玉県内に関係ある古社は33座あり、その中の1社が当地域にある「伊古乃速御玉比売神社」となっている。
 この神社には雨乞いの儀式があり、谷津沼と神事を結びつける行事となっている。日照りの続く年は、二ノ宮山上で雨乞いを行い、雨乞いの時は、村人が当社に集まり、生きた「やまかがし」を入れた長さ5mあまりの藁蛇を作る。この蛇は、笛や太鼓の囃子で送り出され、伊古堰と新沼に入り揉まれ、次いで二ノ宮山頂に登り、山頂の松の御神木に縛りつけられ、蛇は天に昇って竜となり雨を降らせると言い伝えられているという。
 当地域には、雨乞いの儀式を執り行う「大雷」「雷電」と名の付く神社が多数あり、古いものでは1,000年前に創立されていて、谷津沼と共に発展し、栄えた当地域の独自の文化が多数現存している。中尾雷電神社もその伝統文化が存在する1社である。
  所在地   比企郡滑川町中尾293
  御祭神   別雷命
  社 挌   旧村社
  例 祭   例大祭1015日、春祭り315日、秋祭り1215
        
 中尾雷電神社は埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方向に進み、滑川町役場(北)交差点前の信号を右折、埼玉県道173号ときがわ熊谷線をときがわ町方向に進む。滑川に架かる橋を越えて、最初の交差点を左折し、暫く道なりに進み、5番目のT字路を右折。道幅の狭い道路ながらもそのまま進むと右側の斜面上に中尾雷電神社の鳥居が見えてくる。
 因みに参拝の際には事前にナビにて住所登録してから運転するが、今回住所を打ち込んでもなかなかたどり着けなくて困り、ナビ画面上で偶々映し出された雷電神社の表示を頼りになんとかたどり着けた。ナビは便利だが、ある程度自分でも行先は事前確認し、その上でナビを運用しなければいけないとつくづく感じた。
 神社周辺に適当な駐車場はなく、路上駐車にて急ぎ参拝を行った。
        
        丘陵地の斜面上に鎮座する社。自分としては意外と好きなアングル
        
      両部鳥居の朱の塗料が剥がれかけている所が、逆に歴史の深さを感じる。
 
 鳥居に掲げられている「雷電宮」の社号標      階段を上がる先に見えてくる拝殿
        
                     拝  殿
                
                     境内案内板
境内掲示による中尾雷電神社の由緒
・雷電神社 滑川町大字中尾
 ・祭神 別雷命
 ・由緒
 当社は応永九壬午(西暦一四○二)年、此の地方が大旱魃に襲われ作物が枯死寸前にあった時、里民挙って山城国加茂大神に雨を祈ったところ程なく豪雨があり郷民の苦難が救われたので里民その神徳の顕著であったことを尊崇し、加茂大神の神霊を当地に奉祀し雷電神社と称し鎮守の神として崇拝した。
 明治六年村社の格に列す。
 昭和四十一年二十六号台風のため社殿が全壊したので氏子関係者の協力によって翌四十二年十月現社殿を再建した。
 特殊神事として「雨乞祭」があり御神木の桧の頂上に旗を立てて祈念すれば必験ありと云う
 ・祭事
 新年祭 一月一日   春祭 三月十五日
 例大祭 十月十五日  秋祭 十二月十五日
                     
                              滑川町観光協会・滑川町教育委員会
        
「埼玉の神社」による中尾雷電神社の由緒
 雷電神社<滑川町中尾二九三(中尾字居山)>
 中尾は、水房村の枝郷の一つで、滑川町の西端に位置し、その西側は嵐山町に接する。当社は、この中尾の鎮守として奉斎されてきた社で『風土記稿』中尾村の項にも「村の鎮守」としてその名が見える。『明細帳』は、当社の由緒を次のように伝えている。応永九年(一四〇二)、この地方が大干ばつに見舞われて農作物が枯死寸前にあった時、里人こぞって山城国(現京都府)加茂大神に雨を祈ったところ、程なく豪雨があり、里人の苦難が救われたので、里人はその神徳の顕著であったことを尊崇し、加茂大神の神霊を当地に奉祀して雷電神社と称え、鎮守として崇拝した。その後も、干ばつの時には降雨を祈れば霊験の広大なること必ずであったという。中尾に限らず、この地域では地内に多くの溜池があることからわかるように、天水場であり、降雨を祈願する人々の切実な気持ちが由緒の上からも推察される。
 明治四十一年九月二十二日、政府の合祀政策に従い、字広瀬無格社三島神社、字清水無格社愛宕神社、字天俵無格社天神社、字谷無格社稲荷神社の四社を当社本殿に合祀した。しかし、これは書類上の合祀にとどまっており、三島神社・天神社・稲荷神社の三社では、現在もなお個々に祭日を定め、各々地元の組の人々によって祭事が行われている。また、当社の社殿は、昭和四十一年、台風二六号により全壊したが、氏子一同の協力によって翌四十二年十月に再建された。

 埼玉県は他県に比べて溜池(ためいけ、農業用水の水源)の総数は少ないというが、県の中央部から北部にかけての比企郡、大里郡、児玉郡に局所的に集中して、小規模な溜池が数多く分布している。なかでも比企郡は傑出しており、約600箇所もの溜池が存在し、これは埼玉県全体の約80%に相当する。
 滑川町は東西約
5㎞、南北約7㎞と南北に細長く、面積約29.7㎢で北武蔵丘陵の北端に位置しているが、町中に約200ものため池があり、この数は埼玉県の市町村では最も多く、埼玉県全体の1/4に相当するという。というのも滑川町は第三紀の地質からなる丘陵である比企丘陵地域に位置し、樹枝状の細かい谷で開析され、 大河川からの取水が困難なことが小規模なため池の多い理由であるという。
        
 比企丘陵の北側には大きな河川が存在していなく、そのようなこの地域においても先人たちは、米作りを行うべく努力を重ね、知恵を出してきた。中山間地域に位置づけられるこの地で作られたのが、山と山の間をせき止め、米作り用の水を確保する場所すなわち「谷津沼」と呼ばれている「ため池」で、丘陵地の谷津(やつ)と呼ばれる地形を活かして造られた沼は、今日までずっと、地域の暮らしを支えてきた伝統文化でもある。
 地域の方々の努力は「比企丘陵農業遺産推進協議会」などのホームページ等で理解しているつもりだが、自分自身も大切に守って頂きたいと思うと同時に、何かお手伝いできることがないかと散策中ふと感じた次第である。


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