古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

万吉氷川神社

万吉氷川神社が鎮座する地域は「万吉」と書いて「まげち」という。一風変わった地名だが、「万吉」という地名は鎌倉時代には既にあったようだ。
『源平盛衰記』では、直実が戦いに備えるため権太という家来に命じ、名馬を求めさせるため、馬の産地奥隆国(青森・岩手県方面)へ捜しに行かせ、権太は奥隆国一ノ戸で名馬を見つけ、連れ帰った。その名馬は権太栗毛と名付け、源平の戦いにおもむいたという。しかし、乱戦の中、馬の腹を矢で射られ、馬は死んでしまい、これを憐れんで馬を祭った神社を権太の住む万吉郷の一角に建てたといい、これを「駒形」の場所としている。「○○郷」として記載されている所からも、それ以前から地域名として認識されていたと考えるほうが自然と考える。
 所在地    熊谷市万吉986
 御祭神    素戔嗚尊
 社 格  旧村社
 
例 
         
 
万吉氷川神社は埼玉県道81号熊谷寄居線を東側に進む。その県道起点である万吉橋交差点にて埼玉県道11号熊谷小川秩父線と交差し、右折するとすぐ右側に万吉氷川神社の鳥居が見える。
 鳥居の先で右側に万吉第二集会所があり、駐車スペースもある為、そこに駐車してから参拝を行う。
         
               東向きの参道。鳥居の手前には社号標
         
              鳥居の先には開放感のある空間が広がる。
    
 参道左側には小さいながらも車内案内板があり(写真左)、参道の先には拝殿が鎮座する(同右)

境内掲示板
 当社は、「新編武蔵風土記稿」万吉村の頃に、「氷川社 村の鎮守なり、土人一宮と唱ふ、社内に囲み一丈余の古松あり、見性院持」と記載されているように、創建は古い。「一宮」とは、武蔵国一の宮氷川神社を指すと思われ、当地の開拓に際し、氷川の神を氏神と祀る一族が当社を奉斎したものであろう。
 明治初年の神仏分離により、見性院の管理下を離れた当社は、村社となり明治四十二年に字前平塚の無格社八幡神社に移転し、地内にあった七社の無格社とともにハ幡神社を合祀。本殿、拝殿、幣殿を新改築したが、昭和二十年八月十四日夜の熊谷空襲により焼失。戦後の経済困難の中、氏子各位の篤い浄財により昭和二十三年に再建され、現在に至っている。三間二間の切妻造りで、一間の向排を持ち、向排屋上には一対の唐獅子の置物が置かれている。夏の八阪祭をはじめとする祭典には多くの老若男女が参詣に訪れ、年々賑わいを見せている。 平成三十年三月
万吉地区文化遺産保存事業推進委員会

         
                     拝  殿

         
                     本殿・覆屋
 「埼玉の神社」による万吉氷川神社の由緒
 氷川神社…熊谷市万吉九八六(万吉字前平塚)万吉は既に鎌倉期から見える郷名で、貞応三年(一二二四)正月二十九日の新田尼譲状に「春原庄内万吉郷間事」とある。地名の由来については、牧の当て字とするもの、条里制に基づく牧津里から起ったとするもの、荒川に沿った曲り地がなまったもの、更にはマゲチはケチの転訛で、マケチのケチは立ち入ると不祥事が起こるとされるとするものがある。
 『風土記稿』万吉村の項に、当社は「氷川社 村の鎮守なり、土人一宮と唱ふ、社内に囲み一丈余の古松あり、見性院持」と載る。これに見える「一宮」とは、武蔵国一の宮氷川神社を指すと思われ、当地の開拓に際し、氷川の神を氏神と祀る一族が当社を奉斎したものであろう。一の宮は、平安初期から鎌倉初期にかけて出現した一種の社格であることから、土人の伝えも当社の創建の古さを誇示するものと考えられる。別当見性院は天正年間(1573-92)の開山である。
明治初年の神仏分離により見性院の管理下を離れた当社は、村社となり、更に明治四十二年に字前平塚の無格社八幡神社に移転し、地内にあった七社の無格社と共に八幡神社を合祀し、現在に至っている。ちなみに移転前の社地は、字一本松と呼ばれる所で、その参道の入口は秩父・小川・熊谷線に面した友成士十家の前で、古くは幟立てがあり、ここから1㎞余りにわたって参道が延びていたという。
    
  拝殿左側に富士塚。傍らに祠もある。詳細不明。    社殿左側にはお狐様2体のみあり。
                               奥右側には三峰社か
 ところで冒頭にも記載したが、万吉氷川神社が鎮座している「万吉」という地域名は一風変わった名前だ。上記「埼玉の神社」による万吉氷川神社の由緒にもその由来が書かれているが、ホームページにて「万吉地区文化遺産保存事業 調査研究報告会 」や「埼玉県地名誌」等で紹介されている「万吉」の由来について幾つかあげられているので、ここに記載する。
1 マキ(牧)の当て字から、マキ(牧)→マキ(万吉)→マゲチ〔埼玉県地名誌から抜粋〕
2 条里制に基づく牧津里の遺名から。〔埼玉県地名誌〕
3 マゲチは“マケチ”の転化ではないかと思われる。“マケチ”の“ケチ”は、立入ると祟り があるとされたところで、“マ”は接頭語である。
4 曲地の意味。つまり、曲地(マガリチ)が北側にも鳥居。
         
    東側の正面鳥居より小型だが、朱の塗料の落ち具合が逆に歴史の趣きを感じさせてくれる。


 ところで万吉地区一帯は嘗て新田源氏岩松氏の所領であったという。
 群馬県世良田(現尾島町)に長楽寺という古刹があり、南北朝時代、南朝の功臣であった新田義貞をはじめとする、新田家の菩提寺でもある。本寺につたわる「長楽寺文書」と、新田家の一族である岩松家につたわる「正木文書」には、下野国足利氏の2代目当主・足利義兼には庶長子義純がいて、幼少期は父義兼と共に大伯父の新田義重に上野国の新田荘で養育されたという。義純は足利義兼の長男だが、母が遊女だったので庶子とされ、父は従兄弟に当たる新田義兼の娘のもとに義純を入り婿させ新しく一家を興させた。こうして、血統的には足利氏だった義純は、新田党の一員となり、「岩松次郎」を名乗ることになる。
 ところが、元久2年(1205)武蔵畠山の領主畠山重忠が北条義時に攻められ戦死すると、北条政子・義時の妹である故重忠の未亡人のもとに義純を再入婿させ畠山氏の名跡を継がせることとなる。義純は結局この提案を受け入れ、新田義兼の娘岩松女子と離婚し、重忠の未亡人と再婚し「畠山三郎」と名乗った。
 義純が新田義兼の娘岩松女子と離婚すると、岩松女子との間に生まれた長男時兼・次男時朝は生母岩松女子のもとに残されたため、岩松女子の母で新田義兼の未亡人だった新田尼は彼らを哀れみ新田荘内の諸郷を分け与えた。新田岩松家の始まりである。そして新田家の領地から菩提寺の長楽寺へ寄進されたうえ、岩松氏が重忠の旧領である当地へ派遣され、万吉内に在住していたことが記されている。
但し足利義純が先妻の子を義絶したのであれば、本来岩松氏は新田庄内の数郷の領主でしかないはずで、平姓畠山氏由来の所領が存在することはありうるのであろうか。疑問は残る)
         
                   静かな境内の様子
 岩松氏は母系である新田氏を以って祖と仰いできたが、同時に父系は足利氏を祖とし、室町時代には足利氏の天下となったことから新田の血筋を誇りとしながら、対外的には足利氏の一門としての格式を誇り、新田本宗家に対しある程度の自立性を持っていたようである。南北朝時代、新田氏宗家は義貞と共に足利尊氏と敵対し没落するが、新田岩松氏は時世を読みながら巧みに世の中を渡りきり、結果的には「新田氏」を存続させたともいえる。


         



 

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